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Black File  作者: 葱鮪命
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File080 〜腹痛がトラウマの紙袋〜 後編

「美味い......美味い......」


 食堂にてキエラは、エズラにケーキを食べさせてあげていた。エズラは何度も礼を言い、時々涙を零しながらフォークを動かし続けている。

 甘いものを前にすると此処まで変わるものか、とキエラは自分が頼んだワッフルを咀嚼しながら思っていた。オフィスから持ってきたタンブラーに珈琲を入れて、それを喉に流し込む。


「それで、あの悲惨なエントランスはどうなったわけ?」


 バレットがスパゲティをフォークに巻きながら聞いてくる。エントランスはまだ散らかったままだ。研究員たちはあれが片付くまで、大半の聞取り席を使うことが出来ない。皆、エントランスの片隅で迷惑そうにしている。


「まだもう少しかかりそうなんです......紙袋とブックカバーは、同じ超常現象の可能性が高くて」

「うんうん。ビクターが言ってた。中身を消すっていう、同じ性質を持ってるんだよな」


 バレットが頷いてその先を促す。


「それで、現象発生の条件は、もともと食べ物が入っていたり、包まれていたりした袋類だったという仮説が立ったんです」

「最初はお菓子だと思ってたけど、それ以外の食い物の袋も、同じ現象が起こったんだっけか」

「はい......」


 そこからどうしたら良いのか、キエラは分からなかった。お菓子の袋だけに見られるという仮説ならば、もう既に解決している調査だろうに、食べ物という大きな範囲に調査対象が広がると、先が見えないトンネルに迷い込んだような感じがする。


「でも、全ての食べ物の袋で、その現象が起こるわけではないんです。同じお菓子屋さんの包装紙を使って作られたブックカバーは、ひとつでは現象が起きていましたが、もうひとつでは現象が起きていませんでした」

「そりゃまた複雑な枝分かれだなあ。本の内容に起因するとか?」


 バレットも眉を顰めている。


「そうなると、あの積み上がった本を全部分析しないとならないぞ」


 エズラがロールケーキを紅茶で流し込んで、そう言った。キエラはワッフルが喉に詰まりそうになってしまった。一体何日かかる調査になるのだろう。


「他の人にも頼んでみたら? 人数が必要な調査って、B.F.じゃ結構多いんだしさ。みんな協力してくれるよ」


 キエラは「そうですね」と頷く。そして、「でも」と続けるのだった。


「あと一日だけ頑張ってみます。せっかく僕が受け持った仕事ですし、限界まで一人でやってみたいんです」


 *****


 研究室に、エントランスで放置されていたあの大量の紙袋とブックカバー、そして本を運び込んだキエラは、夜遅くまで本の中身の選別を始めた。

 どの本にどのブックカバーがついていて、その本の中身が消えているか、消えていないか。単純でありながら気の遠くなる作業で、キエラは気がついたら、スイッチが切れた機械のようにぼんやりと研究室に座っていた。


 ふと、目に付いた表紙の本を拾い上げる。街の一角にひっそりと佇む喫茶店が舞台の小説らしかった。


 そう言えば、今日は自分の店の営業日だったな、とそれを見て思い出す。結局、一日閉めたままにしてしまった。営業を開始してから、突然の休業日を作るのは初めてかもしれない。


 キエラは自分の足元に置いておいたタンブラーを手にして、中身を一口飲んだ。冷めた珈琲だ。あのカフェで買った珈琲豆を使ったのだが、冷めてしまうとやはり味は落ちる。


 腕時計に目をやると、もう夜の九時になっていた。まだ分析が終わっていない本は沢山残っている。

 周囲を見回してそれを確認した時、彼はふと、言いようのない感覚に襲われた。


 自分は一体何と戦っているのだろう。


 誰かに手伝って欲しいと簡単に言える性格のはずだった。

 しかし、今日一日、不自然にそれを避けていたのだ。自分でも不思議に思っていた。

 本を手の中でパラパラ捲りながら、その理由を考えてみた。そうだ、と手が止まる。


 今まで、これだけ多くの仕事を一人でいっぺんに片付ける機会というものが、自分にはなかったのだ。

 たった一人でオフィスを持ち、研究員だけじゃなく、カフェのマスターをしている自分に、与えられる仕事量はいつだって少なかった。


 今日、皆が率先して声をかけてきた理由が分かった。自分は一人では抱えきれない仕事を、一心に抱えようとしていた。周りはそれを分かっていたのだ。キャパシティを超えた仕事を抱える人間を放っておけるわけがない。しかし、当の本人はキャパオーバーに気がついていないのだ。自分が、まだやれると思っている。


 自分は、そう言えば独立した研究員だったのだと、彼は今になって気がついた。

「独立」という呪いが、自分の弱音を心の奥に押し固めてしまっている。「寂しい」という言葉を言わせてくれない。「忙しい」とか「大変」だとかいう言葉は、一人ならば当然であるという理由で片付けられてしまうのだ。


 一人を選んだ自分は、一人で居なければならない。


 凝り固まった思想が、彼を内側から支配していた。


「......」


 それからどれくらい時間が経ったのか分からない。椅子に座ったまま、紙ものと本の海の中で、キエラはじっと押し黙っていた。


 さあ、どうしようかと自分に聞いても、もう一人の自分はこう答えるのだ。自分で何とかしろ。一人ならば、一人で解決するしかない。


 廊下で誰かが歩く音がする。扉がコンコンと叩かれる。キエラは疲れきった頭をもたげて、其方を見た。扉がゆっくりと開く。その向こうに見える廊下は真っ暗だった。いつの間にか消灯時間になったらしい。

 鮮やかな黄色の光が、壁を照らした。キエラはそれが、自分のかつての先輩の優しい色に見えるのだった。


「......イザベルさん」


 部屋に入って来たのは、街灯頭の超常現象、バド・バンクス(Bud Bankes)だった。


「おや、まだ実験をしていらしたんですね」


 彼は、腰を屈めて部屋の中に入ってくる。彼の人知を超えた身長では、屈まなければ頭を天井にぶつけてしまうのだ。


「バドさん......こんばんは」

「こんばんは、キエラさん。そろそろ実験を終わりにしませんか? 皆さん、もう帰ってしまいましたから......」

「......」


 その言葉を聞いた時、青年の目から堰を切ったように涙が溢れ出した。言葉が心の傷をピリピリと押し広げてくる。


 誰も声をかけに来ないのは当たり前だった。独立している研究員は、一人で仕事時間を決め、一人で仕事を切り上げることになっている。今までそうだった。今日もそうなのだ。明日も明後日も、独立している研究員は、いつまで経っても誰も迎えには来ないのだ。


 バドは、キエラの前にゆっくりと跪いた。柔らかな光が近づいてくる。光は温かい。彼の体温は、光となってキエラに降り注いでいた。


 バドはこの研究所で、夜の番している。相棒のジェイスが家に帰ると、彼は研究所の施錠のチェックをするのだ。眠る必要が無い彼にしか頼めない、彼専門の仕事なのである。


 泣き出してしまったキエラに何を言うこともなく、バドはその場に座ったままだった。紙袋とブックカバーと、本の海。その中で疲れた顔をして一人座っている研究員の心境を、彼はきっと汲み取ったのだろう。


 キエラの膝に、美しい真っ白なハンカチが置かれた。皺も何も無い、清潔な匂いのするハンカチである。


「お力になれるか分かりませんが、今夜は、私が助手になってみてもよろしいですか?」


 キエラはゆっくりと顔を上げた。光は眩しさを感じさせない、花のような柔らかさだ。


「......良いんですか?」


 バドは穏やかな声で「はい」と答えた。人間の手が、胸に添えられる。キエラはその時、自分がまるで迷子になってしまった幼子のように感じた。親が迎えに来ない子供のような、寂しさの塊のような存在に思えた。


 バドの背中についていきながら、彼は思った。バド・バンクス_____またの名を、「常夜迷子灯」。自分は今、かつての迷子に手引かれて、研究室を出たのだ。今夜限りの助手だった。


 *****


「全ての発端は、この紙袋と、ブックカバーでしたか」


 バドは足を折りたたんで、オフィスの中でキエラの手の中にある二つの超常現象を見比べた。


 昨日の朝に男が持ってきた紙袋と、その後に女が持ってきたブックカバーだ。今回の超常現象が確認された最初の二つ。バドはそれを手に取って見比べて、ふむ、と唸った。


 キエラはそれを待っている間、不思議な感覚だった。自分のオフィスに、自分以外の者が居る。もちろん、今日も昨日も、このオフィスに他の研究員が顔を出すことはあった。


 だが、目の前の彼は、今夜限り自分と同じ背丈でものを考えるために、此処に居てくれている。助手なのだ。


 初めて、助手という存在を持った。周りで当たり前のようになっていた助手持ちの気持ちは、きっとこんな感じなのだ。何て温かで、賑やかなのだろう。


「そうですね......たしかに、一見して普通の紙ものにしか見えないです。でも、これも超常現象......不思議です」


 バドのコメントはあっさりしていた。彼はキエラより何倍も長く生きている。だが、研究員人生に関しては自分よりもはるかに短い時間しか経験がないのだ。キエラはいつの間にか、バドに頼りきりになろうとしていた自分に気がついて、慌てて頭を振った。


「そうなんです。不思議な現象ですよね。それで、あるところまで仮説を出したんですが、そこからなかなか進まなくて......」


 キエラは、昨日の朝から今日までに進んだ調査の結果を、バドに伝えた。バドは最後まで頷きながら聞いていた。


「なるほど。それはなかなか大変な作業ですね」


 そして、彼は手の中にある紙袋と、ブックカバーを見た。


「私も昔はよく本を読んだものです。この姿になってから、機会はめっきり減ってしまったんですがね。本の内容に合わせて、ブックカバーを作るというのは面白そうですね。包装紙は種類が豊富で、柄も面白いものが多いです。お気に入りの本にお気に入りの包装紙で作ったブックカバーを付けたら、きっと最高の一冊になりますね。私も、素敵なブックカバーが欲しいです」


「えっと......」


 キエラは頷いていたが、やはり助手は助手なのかもしれない、と思うのだった。

 話し相手には持ってこいだが、経験の不足で、調査を前に進める糸口はなかなか出てこない。


 自分は頼りすぎなのかもしれない。バドは、まだ星2の研究員だ。


 自分が助手だった時、イザベルもきっと、歯がゆい思いを沢山したはずだ。助手が居ることで、実験が進まないこと、なかなか実験の結果にたどり着かないこと。自分は、彼女にどれくらい貢献できていただろうか。


 彼女はいつも何をしていただろう。実験が思うように進まない時、何をしただろう。思い出せ、彼女の行動を。難しい実験における、彼女のプロトコル。


「......ブックカバー、作ってみようかな」


 キエラは、ぽつりと言った。バドの光が少しだけ眩しくなった。


「良いですね。キエラさんが手作りしたブックカバーでは、果たして同じ結果を得られるんでしょうか?」


 彼の声は弾んだ。ワクワクしているらしい。好奇心旺盛な研究員であることは、ジェイスから聞いていた。ジェイス自身が好奇心旺盛であるから、助手のバドも自然とその性質に寄ってきたのかもしれない。


 キエラは、自分のアイデアに感心した。どうして今までやってこなかったのだろう。自分でブックカバーを作る。集めた資料だけを見ていたって仕方がない。同じ状況を作り出さなくてどうするのだ。


 キエラは周りを見回した。そして、エズラに頼まれて今朝買ってきたロールケーキの紙袋が、まだ壁に掛けられているのを発見した。中身は食べ物だった。条件の中には入っている。


 キエラはそれを手に取り、デスクに急いで戻った。そして、ペン立てからハサミを取り出す。

 バドにお願いして、最初の依頼者が持ってきた絵本のブックカバーを、折り目を戻して展開させた。作り方の参考にするのである。


 紙袋をハサミで広げて、適当な本を棚から引き抜いた。広げた紙袋に本を合わせて、余分な部分を切っていく。


「こういったオリジナルのものって、素材の味を活かせるかが重要ですよね」


 バドが、キエラの横で作業を見守りながら、そう言った。キエラは手を止めて彼を見上げる。


「素材の味、ですか?」

「はい。例えば、このブックカバー」


 バドは、キエラが参考としてデスクに置いた、絵本に装着されていたブックカバーを指さす。


「お菓子の包装紙が素材だったんですよね。柄も素敵ですが、原材料名や、栄養成分表示、内容量や、保存方法が書かれた部分も、ブックカバーの一部になるように工夫して切り取られています」


 キエラはその時初めて気がついた。バドの言う通りだった。


 ブックカバー制作というのは、きっと、その包装紙の柄が第一になる。このブックカバーの場合、中身がテディベア型のフィナンシェだったらしく、可愛らしいクマの絵がたくさんプリントされている。絵本のブックカバーには持ってこいの模様だ。きっと、子供にも好評だろう。


 しかし、一方で絵本の裏表紙に当たる部分には、そのブックカバーがもともとはお菓子の包装紙であったことを彷彿とさせる情報が載っている。

 薄ピンク色の生地とクマの模様が、真っ白な枠の中には一切無い。お菓子に入っている成分、原材料名、消費期限、保存方法_____メルヘンな柄とは対照的に、現実的な文字と数字の羅列が白いラベルに並んでいる。


 柄を重視してブックカバーを作ることは当然だが、それがもともと食べ物の包装紙だったことを示すことで、ユニークさを伝えられる。敢えて情報を残して、柄以外のところに発見の楽しさをプラスしているのだ。


 キエラの頭の中で、何かが弾ける音がした。


「バ、バドさん!!」


 ガタッと椅子を蹴って立ち上がる。


「実験室に置いてきた大量のブックカバー、それと適当な本を数冊、此処に持ってきてくださいませんか!?」

「本とブックカバーですね。分かりました」


 バドは頷いて、廊下へ出ていく。キエラは椅子に戻り、再び手を動かした。


 ブックカバーを作る時に切り取ってしまいそうな成分表示などの現実的な情報_____かつて食べ物を包んでいるものだったならば、必ず袋の何処かにそれが記載されている。迂闊だった。


 バドのあの一言が、彼の頭の電球に光を灯したのだ。アホ毛は活発的に動き始めた。


 *****


「持ってきました」

「ありがとうございます」


 五分後、バドは両手に大量のブックカバーを抱えて戻ってきた。キエラはそれをテーブルの上に置かせた。


 さっきまで、それぞれのブックカバーが覆っていた本の中身に関係があるのではないかという、気の遠くなるような分類をしていたのだが_____あれは、もうする必要がないだろう。


「実験の続きを行うんですね」


 バドの声は相変わらず弾んでいる。キエラは頷いて、


「でもまず、これを見てください」


 自分がたった今作り終えた手作りブックカバーを、バドに見せた。今日、昨日と通ったカフェの紙袋で作ったものである。今日のはロールケーキが入っていたので、保存用の紙袋として少し特殊な形をしていた。彼はそれを切り開き、余分な部分を切り取ってブックカバーを作ったのだ。


「わ、素敵なブックカバーです」


 バドはそれを受け取って、表と裏を確認した。


「僕、もともとの素材が食べ物に関係していたという点では共通なのに、本の中身が消えてしまうブックカバーと、そうではないブックカバーがあると話しましたよね」


「ええ。現象が発生するものと、発生しないものの条件がまだ不明と仰っていました」


「それって多分、ブックカバーに内容表示のラベルがあるか無いかの違いだと思っているんです」


 キエラお手製のブックカバーには、成分や消費期限が書かれたラベルがあった。ロールケーキに関するものだ。生もの専用の紙袋ならば、これがついているはずである。


「なるほど。それで、今からこの大量のブックカバーを、表示ラベルがあるものと無いものに分類するということなんですね」


「そうです」


 キエラは大きく頷いた。バドは手渡された本を開いてみる。しかし、中身は消えていない。


「中身はまだ無事のようですが......いずれ消えてしまうんでしょうか......?」

「少し時間がかかると思います。もともとの依頼者さんは、一時間に一ページのペースで消えたと言っていましたから」

「なるほど。では、分類をしながら待つとしましょう」


 *****


 キエラとバドは、黙々とブックカバーを分類した。内容表示ラベルがあるものと、そうでないもの。やはり、見栄えの関係で切り取られているものもある。しかし、それらは少数だった。


 ラベルがあった方が、もともとの素材の味を活かせると考えた者が大半なのである。

 そして、そういう意図して作られたブックカバーにしか、この超常現象は現れないのである。


「できた......!」


 二人は仕分けを終えた。テーブルに乗った大量のブックカバーは、綺麗に二つの山に分かれている。一方は大きな山で、一方は小さな丘だ。


「此処からどうしますか?」

「まず、僕が作ったブックカバーをつけた本の中身を確認しましょう。そろそろ字が消えているかもしれません!」


 キエラは椅子の上に避けていた、お手製のブックカバー付きの本を手に取る。バドにも見えるように、本の一ページ目を捲った。


 最初のページはまっさらな状態だった。キエラはバドを見上げる。バドの頭が揺れた。頷いている。


 次のページを見ると、最初の行が消えようとしているところだった。インクがゆっくりと、吸い出されるように薄く細くなっていく。そして、とうとう見えなくなった。


「やっぱり......」


 自分が作ったブックカバーでも、同じことは起こる。そして、キエラは時計を見やった。夜の十一時を少し過ぎたくらいだ。


「成分表示ラベルで、時間を示すもの_____」


 キエラは本を閉じて、裏表紙を確認した。ラベルが来るようにした場所だ。


「消費期限が、今日の......夜十一時までです」


 キエラはぽつりと呟いた。バドをもう一度見上げる。彼もキエラを見つめているようだった。


「......ビンゴ?」

「ええ、そのようですね」


 キエラはホッと息をついた。それと同時に、全身の力が抜けた。バドが咄嗟に支えてくれなければ、頭から床に倒れて怪我をしていただろう。


「お疲れ様でした、キエラさん」


 キエラは、デスクの上にある大量のブックカバーを見やった。

 消費期限がある本と、そうでない本たち。中身を腐らせてしまう力を宿したブックカバー。文字の消費者たちが、腐った文字を目にしないために、現象は起こっていたのだ。


 *****


 次の日、キエラは仮眠室にてカーラに起こされた。何やら、B.F.前に長い行列ができているとのこと。キエラはすぐに飛んで行って、一人一人に対策の説明をした。


「中身が消えるのは、それを包んでいるブックカバーや紙袋に、賞味期限が書いてあるからです。ブックカバーはすぐに外して、紙袋に入っている物はすぐに袋から出すようにしてください」


 キエラの指示に人々は従い始める。中身が消えた本や、大事な書類はB.F.で預かることになったため、キエラはまた一日中動き回ることになった。


「お疲れ様です、キエラさん」

「バドさん!」


 その日の夕方、キエラがオフィスで資料を作っていると、顔を出したのはジェイスとバドだった。


「昨日から家に帰ってないんでしょ? 仮眠室で寝たってバドから聞いたよ」

 ジェイスは心配げな顔で言って、食堂で買ってきてくれたらしいサンドイッチを渡してきた。


「今日で終わりそうですから」


 キエラは微笑んで、サンドイッチを袋から出した。


「それにしても、二つの超常現象をよく一人で同時に片付けたね。ケルシーもビクターも、バレットたちだってビックリしてたよ」


 キエラはサンドイッチを咀嚼しながら、ちらりとバドを見やる。彼の表情は分からないが、光は今日も柔らかかった。


「実は皆さんに助けてもらったんです。僕一人じゃ出来なかったと思います」


 サンドイッチを飲み込んで、キエラは言った。


 実験の進め方を簡単に決めてくれたのはクレッグ夫婦だ。それに沿って実験を進め、途中でバレット達が助け舟を出してくれた。エズラがロールケーキを食べたいと言わなければ、消費期限のある紙袋が手元に残ることは無かった。


 そして、バドが居た。彼が最後の一押しをくれた。彼がポロリと言った表示ラベルの存在が、全ての現象の原因だったのである。


 一人でならば、この答えに辿り着くまでにどれほどの時間がかかっただろうか。表示ラベルなど気にもしていなかった。何気ない会話の中に、超常現象はヒントを隠す。


 キエラは「あの、ジェイスさん」と顔を上げた。


「僕、助手が欲しいです」


「......え?」


「助手です。僕、今回で分かりました。助手が居ないと、対象を別角度から見られないって。バドさんが手伝ってくれて、凄く助かったんです。それに......」


 恥ずかしかったが、これも言ってしまおうと思った。正直に言うことの必要性を、彼は今回の調査で痛感したのだ。


「寂しかったんです。一人で、全部やるのが。誰かに傍に居て欲しかったんです。周りを見ると、みんな誰かが傍に居る状況が出来ていて......助手や、相棒と相談しながら、仕事をしていて_____」


 キエラは頬を掻いた。


「そういう存在が、僕も欲しいです......」


 ジェイスはぽかんと口を開けている。バドを見上げて、そしてその顔をキエラに戻す時、彼の顔には満面の笑みが浮かんでいた。


「良いじゃん、助手。キエラと一緒にお仕事したい人、きっと現れるんじゃないかな。ね、バド?」


「はい」


 バドが頷いた。


「素敵なコンビが生まれることを、祈っています」


 キエラはホッとした。一人で居なくても良いことを、周りに認めてもらえた気がした。このオフィスに、誰かが来てくれる。一緒にものを考え、一緒にものを進めてくれる誰かが。自分が、あの日彼女の背中に声をかけたように。誰かが、自分の背中に声をかけてくれる。


 *****


 キエラはいつもの日常に戻った。例の超常現象の資料をまとめ終わるまでは変則的だったカフェの営業時間が、やっと本来の時間に戻った。助手をとるとなれば、カフェの営業時間はまた変則的になるだろう。


 彼は今日も、あの真っ白なシャツにベスト、胸にループタイという格好でカウンターの向こうに居た。客である研究員たちは彼の淹れる珈琲を、仕事のお供にする。または、カフェ自体を仕事の合間の癒しにする。


 客が帰り、カフェの中はしんと静かになった。キエラはラテアートの練習に戻った。最近、習得しようと始めたことのひとつである。失敗したものは無料で次の客に提供されるので、客からすればラッキーなのだが、キエラにすれば店の大損害になりかねないので、常に集中して作業をする必要があった。


「うーん......」


 あまり上手くいっていないらしい。キエラは新しいカップを用意し、そこに珈琲を注ぎながら壁の時計を見た。そろそろ閉店時間だ。


 今日の客たちの会話は、ほとんどが例のイベントについてだった。今日、明日、そして明後日と、B.F.では職業体験のイベントが行われているのである。このイベントはジェイスが日曜会議で提案したもので、彼の自由奔放ぶりに周りの中心メンバーが頭を抱える羽目になった。


 が、案外応募数があったらしく、これを機にB.F.の仕事を知ってもらおうと、今度はケルシーが鼻息を荒くする事態となった。応募数を拡大し、日数を増やすことで、ニュースにも取り上げられる大騒ぎになったのである。


 キエラは第一日目である今日は参加しないが、明日と明後日は、参加者の誘導や実験見学の担当になっている。カンニングペーパーは昨日完成させたが、今日は家に帰ってあれを暗記する作業が待っている。ドヨン、と空気が沈む。珈琲によって解れていた緊張が、再び蘇ってきた。


 参加者は幅広い年齢層に別れているらしい。小さな子供は、エントランスで簡単な実験をしたり、安全な超常現象と触れ合ったりすることができる。小学生から中学生までは施設内見学、高校生と大人は実験や調査を含めた丸一日体験が用意されている。さらに熱意のある参加者は、実際の外部調査に同行するなど、なかなかにぶっ飛んだ企画なのだ。


 企画段階では可愛らしいものだったが、今では中央メンバーに限らずB.F.全体を血眼にさせる、超一大プロジェクトになってしまった。


 故に珈琲に癒しを求める者が多い。キエラは、今日、何度カップを洗ったか分からない。明日は我が身だ。小さなため息が漏れる。


「あ、可愛い」


 無意識に、ラテアートが完成されてしまったようだ。意識して描いた時よりも上手くできている。ハートのラテアートだ。


「これは大切に飲もうっと」


 彼は背中で結ばれていたエプロンの紐を解いて、肩の紐に手をかけた。すると、


 カランコロン......。


 扉が開く音がして、ハッと顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 入ってきたのは疲れた顔をした研究員たち。キエラは、表の看板をひっくり返すのを忘れていたことを思い出した。慌ててエプロンを付け直す。


「宜しければ、此方お飲みください」


 キエラは今出来上がったばかりのラテアート珈琲を研究員たちの前に置いた。瞬く間に顔を輝かせる研究員たちを見て、キエラも胸を撫で下ろす。

 そして、今夜はもう少し開けておこうと思った。迷子は、いつ訪れるか分からないのだ。

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― 新着の感想 ―
久々に読み進めております。 ひとりで頑張るキエラと眠らない研究員バドが今回だけとはいえコンビを組んで超常現象解明にあたる姿に胸を打たれました。助手っていいな、誰かと組むって大事だなと思わせる出来事で…
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