ジェイスの提案
「じゃ、お疲れっした」
「うん、またね、コナー」
B.F.に戻ってきた。流石に電気は消えているが、中に入ることは出来る。ジェイスは仮眠室で朝まで過ごそうとしていたが、ラシュレイが家まで送ると言うと「じゃあ、お言葉に甘えて!」と車に向かった。
「それにしても驚いたなー。コナーがまさかあんなにも自堕落な生活を送っていたとは......一緒に働いていても気が付かないもんだねー」
「そうですね」
車を発進させ、もう車通りもほとんど無くなったノースロップの街を走る。助手席に座るジェイスはコナーについて一通り語った。
「時々、本当に様子を見に行かないとなあ」
お人好しのジェイスなのだから、本当にそうするのだろう。
ラシュレイはハンドルを切りながら、あの話をしようか悩んでいた。あの話とは勿論、文書の話である。
コナーはたまたまラシュレイに見られて、それを嫌がっていた。ジェイスを家に置いてコインランドリーに出かける時は、論文が散乱する本棚に毛布をかけるように言われたのだ。ジェイスとラシュレイが部屋の掃除をする時も、ずっと本棚を隠すように立っていた。
そこまでして見られたくないとなると、言うのはまずいだろう。
「めちゃくちゃ必死になってんな、コナー」
「必死?」
「うん」
信号機で止まった。ラシュレイはジェイスを見る。彼は窓の外を見ていた。
「空白の一日。ラシュレイも見た?」
「......」
「あの論文、書いたの誰だと思う?」
ジェイスは此方を振り返った。いつもの明るい顔ではなかったが、彼は笑っている。寂しげで、愛おしいものでも見るような顔だった。
「ナッシュさんだよ」
「......ナッシュさん」
「論文の終わりにイニシャル入れてた。あの量からして、相当長い間追ってたみたいだなあ」
あの長い美しい髪が脳裏に蘇る。雪のように繊細で、触れたら溶けてしまうような人だと、前にカーラが言っていた。彼女が初めて彼を見た時、そんな印象を覚えたという。確かに、彼は何だか掴みどころのない人間で、伝説の博士の中でも謎は多かった方だ。
そんな彼が、空白の一日を追っていたというのか。論文まで書いて。
「どうしてナッシュさんが?」
「さあ、俺もそれはなあ。一緒に仕事してた頃は、空白の一日なんて、研究員の間で話題になるのは試験の時くらいだったし。それ以外でナッシュさんが口にしてるのなんて、ほとんど見たことが無いよ。ドワイトさんとブライスさんも、何処まで知ってたか......」
信号が変わったので、ラシュレイは車を動かした。
ナッシュが書いた論文を、コナーは解読しようとしているようだ。あの論文を、彼は一体何処で見つけてきたのだろう。あの日にB.F.から持ち出したものの中に入っていたのかもしれない。
ビクターやケルシーには話をしてあるのだろうか?
文書に関する資料は、国も大きく関わる国家機密だ。それが、コナーの手で会社の外に持ち出されるのは好ましいことではない。
「分かるけどね、コナーの気持ち」
ジェイスは正面を向いたまま独り言のように言った。
「死んだ人ともう一度会いたいって、気持ち。散々経験するからさ、俺ら研究員は」
「......」
また信号だ。黄色だったので、ラシュレイはすぐにアクセルを緩めた。
「コナーって、失っているものが多いんだよ。ペアになる予定だったミゲルでしょ。そんで、心の支えになってたドワイトさんと、ナッシュさん」
「......コナーさんが言ってました。ずっと心が空っぽだって」
「......そっか」
次の信号は長かった。
ラシュレイは青に変わるのを待ちながら、今日の一連のジェイスの行動を思い返していた。ジェイスはコナーをもともと気にかけていたのだ。家はその人の心の内を表すと言っても過言では無い。何となく、コナーの心を覗くつもりで行ったのだ。心配していたのだろう。彼がずっと、独りであることを。
「俺らは心の支えを見つけたけどさ、コナーはまだ、何も無いじゃんね」
「......はい」
「唯一、ナッシュさんが残したものに縋ってんだよ。俺はあんまりよく思えないなあ。あれじゃあまるで......」
ジェイスはそこで口を閉じた。言うのを憚っているようだった。ラシュレイは、彼が言わんとしていることを何となく理解した。
空白の一日を追う理由は、大抵同じなのだ。ブライスたちのように研究員として純粋に追っている者もいれば、そうではない者も居る。
果たして、ナッシュは何のためにあの論文を残したのだろう。あの長い研究成果の末、彼は何を望んでいたのだろう。
コナーはそんな論文を読み解いてどうするつもりだろう。
謎は深まるばかりだ。雨が、強く降っている。
*****
「此処で」
ジェイスはマンションの前で降りた。
「ゆっくり休みなよ。今日の実験、疲れたっしょ」
「はい。ジェイスさんも」
「俺はまだまだ元気だけどね! 今から階段で自分の部屋まで戻るつもり!!」
ジェイスは明るく言って、自分の部屋があるだろう辺りを見上げた。「......冗談だけどね」と弱々しく付け足している。
「ところで、あの象B.F.に持って帰ったとしてどうするんですか」
「ああ、あの子?」
ジェイスはニヤニヤ笑っている。
「まあ、任せておきなさい! 俺が責任持って何とかしますよ!!」
彼はそう言い残して、エントランスに消えた。
*****
外の明かりは、カーテンの隙間から部屋に入り込んでいる。青白い光は正面のコインランドリーである。いつも思う。無機質な洗濯機が並ぶ空間は、生き物の領域ではないと。あの機械が支配する空間は、生き物を拒む強い力が存在しているように感じる。
紙を捲る音がする。ペンが走り、止まり、時々回った。
「難儀な言葉並べやがって」
苛立つ男の声がする。
またペンが動く。たまに殴るように文字が線でぐちゃぐちゃに潰される。時々彼は手を止めて、視線を窓辺にやった。コインランドリーの光に照らされた、艶のある緑色が見える。
彼はそれをじっと見た後、上半身を捻って腕を前へ突き出した。その手でジョウロを掴み、辛い体制のまま水遣りをした。
「水、やりすぎかな」
彼はそう言って、葉の一枚を指で弾いた。水の玉が空中に弾けた。
*****
放課のチャイムが鳴れば、生徒は各々のサークル場所へ向かう。ロッカーに全ての荷物を預ければ、あとはどこへ行こうが自由なのだ。
ある高校の廊下である。明日からは12月。来たるクリスマスに向けてなのか、廊下の掲示板は教師の手によってクリスマス色に塗り替えられていく。
ボランティアが作ったサンタの装飾、壁を伝うモール、そしてクリスマスツリー。
それに伴って、掲示板の内容も新年に向けた新しいものに変わっていく。ボランティア募集のポスター、大企業の就職試験の案内、アルバイトの案内。
四隅の画鋲もしっかりクリスマスカラーだ。
そんな教師の仕事を、背後でじっと見ている人物が居た。緑色の髪を後ろで束ね、余った髪は横に垂らしている。赤いマフラーと黒のコート。マフラーは従兄弟のお下がりだ。
水をやった植物のように潤いのある目に、掲示物の一部が映っていた。
「やあ、ルネ。そこに立っているということは、手伝ってくれるということかな」
新しい掲示物を手にした教師が振り返る。ルネと呼ばれた生徒は目を丸くして彼を見た。
「えっと、その......そこにある、ポスターをもっとよく見たいのですが」
「クリスマス点灯式についてのものかな」
「いえ、その上です」
「サンタクロースのアルバイトかい?」
「その右です」
「Black Fileの、職業体験か?」
「はい」
教師の目は意外そうにルネを見た。ルネは彼の視線を気にもせず、ポスターに釘付けになっている。
「それ、いつですか?」
「年明けだ。でもお前は就職時期じゃないか」
「はい、でも」
ルネはマフラーに口を埋めた。
「僕、そこに行きたいです」
「植物園は良いのか? 君はアボット先生の授業をとっていたじゃないか」
「はい。でも、僕......そこが良いです」
教師は何度もポスターと少年の顔を見比べた。ルネは自分の足元を見つめながら、アボットの授業を思い出していた。長く植物園に勤めていた彼は、ルネに植物の育て方を教えてくれた。図鑑を貸してくれたのも、教室の植物にやるアンプル剤をくれたのも彼である。
彼はすっかりルネを気に入っていた。授業態度が他生徒に比べて良いので、優秀な生徒として何度も名前を挙げてくれるのだ。
だが、自分は今新しい方向へ行こうとしているのだ。教師の思わぬ方向へ。
「......良いのか? アボット先生が、知り合いの植物学者に君のことを随分良く喋っていたんだが」
「そう、ですか。でも僕、植物の名前と性質は知っているけど、育てたことなんてほとんどない子ばかりだし......」
「成績も優秀だから、何処か植物に関する大企業にも入れるだろうと見込んでいたが......」
「大企業は、ちょっと怖いかな。僕、人が多いと緊張しちゃうし......」
小さくなっていくルネの声に、教師のボーナムは「ふむ」と眉を顰める。その時、廊下の奥から此方へ近づいてくる足音があった。
「あー、ボーナム先生。またルネをいじめてるんですか」
ルネは突然、肩にのしかかってきた腕に驚いて顔を上げた。幼なじみのハドリーである。
「聞こえの悪い。お前がいつもいじめている側だろうに」
「それも聞こえが悪いぜ先生。なあ、ルネ」
「え、ええっと」
「ルネがしたいことをさせてやりゃ良いんじゃないの、先生。生徒の芽を引っこ抜くのが趣味なら止めないけどさ」
「お前は本当に......」
「説教だ! ルネ、行くぞ!!」
腕を引かれてルネは訳も分からず廊下を走り出す羽目になった。ドタドタと煩わしい足音が去っていって、ボーナムはため息をつく。そして、改めて貼られたポスターに目をやった。
「国家研究員か」
*****
「では最後に、ジェイスさんからお話があるそうなので......ジェイス・クレイトンさん。どうぞ」
「はーい!!」
日曜会議の最後、司会のビクター・クレッグ(Victor Clegg)はジェイスにマイクを手渡した。ジェイスは元気よく立ち上がり、皆の顔をぐるりと見回す。そして、
「年明けに、B.F.で地元の子供たち向けに職業体験を行うことが決定しましたー!!」
「......はあ?」
対岸から声がした。声の主はコナー・フォレット(Connor Follett)だ。
「人数は二十人! ポスター掲示が昨日からなんだけど、なんと!! 既に満員です!! パチパチパチー!!」
「待てよ、ビクター。聞いてねえぞ」
「俺も初耳なので」
「はあ???」
「秘密裏に行っていたので、知っている研究員はケルシーくらいかな?」
ケルシーは通院のためにこの場に居ない。ひとつ空いている席に、彼女の愉快そうな顔が見えた。
「え、でも......具体的にどういうことをするおつもりで」
「それを今から決めていくんだよ!!」
「対象年齢は何歳に設定しました?」
「五歳から十八歳だけど?」
「振れ幅でっっか」
「無理だろ」
研究員の大半が頭を抱える。新しい仕事が増えたのである。
「まあまあ、そりゃ年齢ごとに制限は設けるさ! ラシュレイ!」
「はい」
対岸でメモを取っていたラシュレイが顔を上げる。
「あの象、エントランスに置いたから!!」
「聞いてません」
「勝手に業者にお願いした!! 五歳児の参加者は、あの象が彼処で担当してくれるからね!!」
そういうことだったのかとラシュレイ、そしてコナーは頭を抱える。彼が嬉しそうな顔をして調査についてくるわけである。一体いつから計画されていたことなのか。
「研究員の皆さん!!」
ジェイスは宝石のような顔で皆を見回す。
「俺らの将来を明るくするためにも!! そして、才能ある素晴らしい人材を引き入れるためにも!! みんなでこの企画を盛り上げていきましょう!!」
何とかなるだろう、と苦笑するものや、何とかせねばと頭を抱えるもの。ラシュレイもコナーも、そしてビクターも後者である。
ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)が飛び入り参加で調査に入ると、その次の会議は嵐と化す。後にこれは、B.F.で有名なジンクスとなったそうな。