File009 〜記憶の焔〜
ラシュレイがオフィスに戻ってくると、ノールズは報告書を纏めるのに忙しそうだった。だが、ラシュレイが戻ってきたことに気づいて顔を上げると、パッと笑顔を見せる。
「おかえりラシュレイ! 実験どうだった?」
ラシュレイはさっきまで単体実験を行っていた。
単体実験とは、研究員がペアの博士から独立するために、一人で実験をすることや、報告書を書く練習をすることをひっくるめて言う言葉だ。
ラシュレイは星1から星3に飛び級したこともあって、他の研究員より多い単体実験の量をこなさなければならない。大変ではあるが、これをしなければ星4にはなれない。
ただ、ノールズ曰く、
「この見込みだと星4の試験までそう遠くないよ!」
らしく、単体実験ももう少しの辛抱のようだ。
「まあ、そんなに難しくありませんでしたかね」
ラシュレイはそう言ってオフィスに入り、自分の机に今日使用した資料やバインダーを置いた。
「さっすがは俺の助手〜!」
ノールズが腕組をしてうんうん、と頷いている。また調子に乗っているな、とラシュレイは心の中で呟き、何も言わないでおいた。
しかし彼は続ける。
「まあ、ラシュレイは優秀だしね。ちゃんと合格できると思うけど......そろそろ一人で実験することにも慣れて来たんじゃない?」
思えば、ラシュレイは今回の実験で、単体実験は五回目であった。ノールズの力を借りなくとも自分は少しずつ彼の元から離れていっている気がする。
「まあ、そうですかね」
ラシュレイが曖昧な返事を返すと、
「うわあー、寂しい!!! ラシュレイー、星4になっても俺と一緒に居てくれるよね!? 俺の助手のままで居てくれるよね!?」
ノールズが泣きついてきた。
「さあ、どうでしょうね」
「えええええっ!! そこは、勿論ですよ、って言うところでしょーがっ!!」
B.F.職員で星4になるということは、自立して活動する権利を得るということだ。つまりラシュレイはノールズとお別れすることが可能になる。
最悪それでもいいのだが、一人でいると実験で不利なこともあるので、ラシュレイは昇格しても彼から離れる気はなかった。伝えたら、彼が面倒になるのは察しがつくので何も言わないが。
ラシュレイが単体実験の報告書を書いていると、
「あ、そうだラシュレイ」
くるりと椅子を回転させて、ノールズが此方を向いたのが分かった。
「はい?」
ラシュレイはペンを止めずにその先を促す。
「新しい超常現象が見つかったんだけど、どう? 引き受けてみない? 単体実験の良い材料になるんじゃないかなあ、って思ったんだよねえ」
「はあ......」
ラシュレイはそこでペンを止めて振り返った。彼が持っている資料を受け取る。まだ実験も行われていないものだからか、情報量が少ない。
だが、単体実験の回数のことも考えたら、
「やります」
ラシュレイは頷いた。
*****
その超常現象というのは焔だった。
高さはラシュレイの膝の高さくらいまで。何も無いところでメラメラ燃えている。
まず可笑しいのはこの焔、木でも紙でも、燃やすものがないのに燃えている。
この超常現象が見つかったのは、とある火災現場らしい。その時には家が木造だったこともあって、火が燃え続けていたということにはラシュレイも納得がいく。
だが、今回のこの実験室には何にもないのだ。
実験室の床が耐熱なのかは知らないが、焔が燃え広がっていないことを考えれば、そう簡単に燃えるものでもないのだろう。
なら、何故この焔は永遠と燃え続けているのだろう?
二つ目に謎なのは、水をかけても消えないということだ。
バケツに水を汲んで焔にかけてみたが、焔の火は若干弱まったくらいで、数秒後には再び同じ膝の高さに戻っていた。小さい焔ならあの量で十分に鎮火に至るはずなのに、収まる気配も見せない。
ラシュレイが手を近づけてみるとしっかりと熱い。そこは普通の焔としての性質を持っているらしい。
ラシュレイは此処で思った。
この現象、普通に面倒だな、と。
何だか面倒なものを押し付けられた気しかしない。勿論、ノールズがそんな事をするような人では無いのは分かっている。だが、どう実験を進めていくか、悩む。
さて、どうしたものだろうか。
ラシュレイは考える。
ノールズならこの時、どうするのだろう、と。
もっとアクションを起こしてみるべきなのだろうか。
ラシュレイは焔ギリギリまで手を近づけてみた。熱いが、数秒なら耐えられなくもない。
何か飯を持ってきて焼こうか。それとも彼の報告書を_____いや、それは流石に怒られる。
そんな事を考えていた時だった。
ボアッ!
突然、焔が大きくなったかと思うと、ラシュレイの腕に絡み付いてきたのだ。
「!!?」
ラシュレイは腕を引き抜こうとするが、焔は人間の手のように彼を掴んで離さない。
焔はさっきと比べ物にならないほどに膨らみ上がると瞬く間にラシュレイの体を呑み込んだ。
「ノ、ルズ、さ_____」
*****
「わーい、カルボナーラだ〜」
ノールズは食堂にて、カルボナーラに大量のチーズを振りかけていた。そこにイザベルとキエラがやってくる。
イザベルは彼の皿の上にこんもりと山を作っている粉チーズを見て、顔を顰めた。
「かけすぎ」
「んもー、いーじゃん、いーじゃん! 粉チーズはかけ放題なんだよ!」
「ちゃんと他の人の分も残しておきなさいよ」
「わかってるって!」
ノールズの向かい側に座る、イザベルとキエラペア。キエラはさっきからキョロキョロと食堂を見回している。そして首を傾げた。
「あれ? ラシュレイさんは?」
「んー? あー、単体実験に行っちゃったんだよねー」
カルボナーラを頬張って、ノールズは幸せそうに天井を仰いだ。
「今回はどんな実験なの」
イザベルがサラダにドレッシングをかけながら問う。
「焔だってー」
「焔ですか? 何だか危険そうですね」
キエラが心配そうにそう言った。
「まあラシュレイだし? 大丈夫っしょ!」
ラシュレイが優秀な研究員であることは、イザベルもキエラも知っている。
星1から星3に飛び級したこともあって、そんな彼に心配なんかいらないだろう、とノールズは思っていた。
キエラがたしかに、と頷く隣でイザベルは良い顔をしなかった。
「あなたね、いくら彼が優秀だとしても助手なのよ? 何もかも自分で出来ると思ったら大間違いよ」
イザベルが厳しい声で続ける。
「彼、まだ星3でしょう? それに、B.F.での経験も周りの星3に比べて浅いのよ。支えてあげるのが貴方の役割なんじゃない?」
ノールズはイザベルの言葉に言い返せない。彼女の話は突っ込める場所がないくらい筋が通っている。
「ま、まあ、確かにラシュレイさんならケロッとした顔で帰ってきそうですけどね」
キエラがノールズに助け舟を出してくれた。
「そうそう、キエラの言う通り! それに、単体実験は一人でやるもんだよ!」
「それは_____そうかもしれないけれど......」
イザベルはまだ何か言いたげだったが、その先の言葉が続かず、食事を進めていた。
ノールズも食事に戻る。
ああは言ったけど、確かに焔の単体実験はどうなんだろう、と彼は自分に問う。
ラシュレイは飛び級をしたがために、周りの星3より実験回数は少ない。
B.F.ではいくら頭が良くても、報告書を書くのが速くても経験が無ければ仕事はできない。
ラシュレイは入社当時からああいう風だった。
だからか、ノールズは最近、自分はあまり彼を気にかけていなかったかもしれない、と思った。
冷静沈着な彼だからノールズは彼を優秀だと思い込んでいた。
しかし実は、まだ実験に関しては初心者なのかもしれない。
対象との向き合い方とか、対処の方法とか、まだ全然身についていないのかな? と、ノールズはカルボナーラを咀嚼しながら考えていた。
*****
目の前にぱちぱちと巨大な赤い化け物が天井を舐めるようにして佇んでいる。その様子を、ラシュレイは壁に背を預けるようにしてただぼんやり眺めていた。
大きな焔。真っ白な部屋。白衣を着た自分。
......あれ?
俺、こんなところで何してるんだ......?
てかまず......、
俺って誰だっけ_____?
*****
ある女性研究員が、先輩の研究員との実験が入っている実験室がなかなか開かないことに違和感を覚えた。
この実験室で今日の一時から実験だったが、もうそろそろ空いても良い頃のはずだ。
実験が長引いているにしても、ルールとして基本的に実験室は分単位で使用時間が区切られているので、中の人もそれをわかっているはずなのだ。
女性研究員は腕時計を確認する。やっぱり、どう考えても遅すぎる。彼女は意を決して、準備室へと続く扉を開いた。
鍵は開いているから、やはり人は中に居るようだ。
「失礼しまーす.....え......?」
準備室の向こうの実験室は、大きなガラスの窓がついているので中の様子を見られるようになっている。しかし、彼女はその中の光景を見て自分の目を疑った。
ガラスの向こうは火の海だった。
「か、火事......!?」
彼女は壁にかけてある固定電話に走る。
「電話を_____って、誰か居る!」
ガラスの窓の下に髪が見えた。あの高さで見えるということは床に座っているようだ。彼女が受話器に伸ばしていた手を引っ込めてガラスに張り付くようにその人を確認する。
「大変......!!!!」
*****
午後は実験も無いので、ノールズはイザベルとキエラと、のんびり談笑を楽しんでいた。
そろそろ、ラシュレイも実験が終わって此方に来る頃だろう。
終わったら、お疲れ様の意味も込めて、何か美味しいものでも奢ってあげよう、とノールズは考えていた。
「それで、この前ですね_____」
キエラが言いかけた時だった。
「ノールズ・ミラーさんはいらっしゃいますか!!」
楽しい昼休みがとある女性研究員の怒号のような呼び出しによって終わりを告げた。
「此処、だけど......」
ノールズが片手を挙げて彼女に自分の位置を示す。
「ラシュレイさんが倒れていますっ!!」
彼女の叫び声の意味が、ノールズには瞬時に理解できなかった。頭が真っ白になっていく。
「......え......?」
*****
実験室に走ると、そこには廊下に溢れる程の研究員が立っていた。その中に伝説の博士の姿もある。
「これはどういうことだ、ノールズ」
ブライスの厳しい声が彼の耳に届く。
ノールズは人混みで奥まで見えないのと、ラシュレイの無事を早く確かめたいという、逸る気持ちの中で泣きそうになりながら、
「ラシュレイの、実験材料にと思って_____」
と言葉を紡ぐ。
「その本人が、倒れている」
「っ......ラシュレイっ」
ノールズは居ても立ってもいられなくなり、人混みを掻き分けて準備室から実験室へと続く扉に走った。
「あ、おいっ」
ブライスの止める声を聞いたが、ノールズは構わずドアノブに手をかけた。
すると次の瞬間。
「ああっづあぁぁあ!!!??」
「話を最後まで聞け、馬鹿者っ!!」
片腕を勢いよく掴まれて、ノールズは思いっきり後ろに突き飛ばされるように扉から離された。ドアノブを掴んだ手の感覚がない。熱した鉄を掴んだような熱さに、ノールズは床に転がって手首を掴み、痛みに悶える。
ブライスはそんな彼を見下ろして冷たい声で問いただした。
「お前、この焔の性質を理解した上でラシュレイに実験を託したのか?」
「性、質......?」
「......ったく」
ブライスが大きくため息をつき、実験室の中で燃え盛る焔を指さした。
「あれはな、記憶を奪い取る焔だ。これに関与した消防士がすっかり記憶を無くしてしまったらしい。今のラシュレイは記憶が全て無い状態だ」
記憶が、無い_____。
彼の言葉を頭の中で反芻する。
実験室の中は火の海だ。あの中にラシュレイは居る。記憶のない状態で。
ノールズの頭に最悪の事態がよぎる。
自分の、せいだ。自分が、この超常現象の性質も調べず、無責任にラシュレイにこいつを押し付けたせいだ。
ノールズは床に座り込んだまま、ただ呆然と焔を見つめていた。
ラシュレイの声や顔が、頭にどんどん浮かんでくる。
ブライスは、そんなノールズに向かって口を開く。
「空間に入るのは難しい。今の通り_____」
説明を続けようとしたその時。
「っ!!」
ノールズが立ち上がったかと思うと、彼は扉に全力で体をぶつけた。すると、扉が開いて、彼はその中に吸い込まれるようにして消えていった。
扉は彼を呑み込むと他の誰かが入る隙も見せずに、ひとりでにバタン! と、勢いよく閉まった。
「馬鹿が......」
ブライスは閉じた扉に向かって短くそう呟いた。
*****
「うわっ!!」
扉は開いたが、その先は肌が焦げそうなほどの熱風が渦巻いていた。彼はガラス窓の下で、背中を壁に預けて座るラシュレイの姿を発見した。
「ラシュレイッ」
走り寄って彼の肩を掴み、大きく揺さぶる。
「ラシュレイ!? ラシュレイってば!!!」
ラシュレイはどれだけ揺すっても反応をしなかった。眠っているわけではない。ぼんやりと宙を見つめており、その目にはノールズの後ろで燃える焔が静かに映っていた。
「ねえってば!! 俺がわかる!?」
「......」
反応は無い。視界に入っているはずだ。なのに彼はぴくりともしなかった。
「くそっ......!!」
ノールズはラシュレイから目を逸らし、後ろを振り返った。そこには二人の背を優に超える焔が柱のように佇んでいる。
「記憶を、奪い取る焔_____」
ブライスの言葉を復唱する。空のバケツが床に転がっているのが視界に入った。水をかけて消そうとしたのかもしれない。だが、消えなかった。
「......なあ、ラシュレイ。ちょっとポケット見ていい?」
ノールズはラシュレイの白衣のポケットに手を突っ込んだ。彼の右側のポケットに手を入れた時、指先に硬い何かが触れた。取り出してみると、楕円形の機械だ。
危険な超常現象を実験する際に貸し出されるもので、これを持っていると自分の周りに耐熱性、耐寒性、衝撃を吸収してくれる薄型のバリアを張ることが出来る。
この機械で彼の体がこの空間でも守られてきたのだろう。でないと、こんなに熱い空間にずっと居座るなど不可能だ。
「これ、ちょっと借りてもいい?」
ノールズはラシュレイに聞く。勿論、返事などない。
それでもノールズは機械を纏った。ボタンを押すだけで彼の周りに透明なバリアが張られる。
ノールズは続いてラシュレイの白衣を脱がせ、前から彼にかけた。耐熱性のある白衣とは言え、早く戻って来なければ彼も危険だ。
「こんな俺でゴメンな。絶対に、絶対に記憶戻してやるからな。すぐ戻ってくる」
声が震えそうになるのを我慢して、ノールズは彼の腕もしっかり白衣の後ろに隠す。
「終わったら、食堂の飯奢るから」
これ以上話していたら泣いてしまいそうな気がして、ノールズは立ち上がった。ガラスの窓の向こうからブライスや他の研究員が此方を見ているのが見えた。ブライスはさっきと変わらない、厳しい顔をしてノールズを見ている。
ノールズは焔を振り返った。
「......やってみるか」
何としてでも、ラシュレイの記憶を取り戻さなければ。
ノールズは焔に飛び込んだ。
*****
記憶の焔。とある火災現場で見つかった超常現象だ。
消火活動を行っていた消防士の一人がその焔に襲われて、記憶を全て失った状態になった。仲間の消防士は、彼を助けに焔に飛び込んだ。
そしてその仲間は、焔の中で焔に襲われた消防士の記憶を全て見たという。
「記憶の本体」が燃やし尽くされる前に焔からそれを取り出したことで、記憶を失った消防士は記憶を取り戻したそうだ。
「ノールズ君......大丈夫かな」
ブライスの隣でドワイトが心配そうに、ノールズが飛び込んで行った焔を見つめている。
「......馬鹿は馬鹿なりの対処をするだろう」
ブライスは短く言った。
*****
一流メーカーの父親と、絵本作家の母親の間に生まれた彼の名前はラシュレイ・フェバリット(Lashley Favorite)という。
周りから過度の期待を背負わされて生きてきた彼は、厳しい父親から食事の仕方から大人との接し方まで細かく厳しく教え込まれた。
彼は父親が嫌いであった。何をしていても機嫌が悪く、唯一機嫌が良いのは大好きな酒を飲んでいる時だけだ。
一方母親は、父と違って優しく、温和な性格だった。
二人がどんな場所で出会って、どう恋に落ちたのか、そんなの知る由もない。興味など微塵もわかなかった。
ラシュレイが小学校に上がる時、父親の仕事が上手くいかなくなった。詳しくは分からないが、不調だったそうだ。
夜、周りの家が寝静まる頃、彼の家はとにかく騒がしかった。
泥酔して帰ってきた父親に母親がまず殴られる。ラシュレイは自室に籠ってとにかく寝ることに集中した。夢に入ってしまえば、後はこっちのもんだ、と。
しかし、最初の方は母親だけに留まっていた衝動が遂にラシュレイにまで回ってきた。母親が父親の足にしがみついてそれを止めようと必死になっていたが、父親に一度殴られると動かなくなった。
ああなれば朝まで起きない、とラシュレイは小学一年生ながら冷静に理解していた。
動かなくなった母親が憎いほど羨ましく思った。ああなってしまえば痛みも苦しみも何一つシャットダウンされる。痛覚だけでも無くなれば、楽なのに。
そういう彼も、気がついたら床に倒れて朝を迎えていた。
学年が上がるにつれ、彼は家に帰る日を減らしていった。学校が終わっても家に帰らず、図書館やカフェで勉強をして時間を潰した。
家に帰ったら殺される。
餓死する方がマシだ、と彼は黙々とペンを動かしていた。
学校生活も残り僅かとなってきたとき、彼はB.F.の存在を知った。寝床も仕事も提供されるなんて、行かずしてどうする、と彼はB.F.の入社試験を受けることを決めた。
そこからは早かった。とにかく死に物狂いでペンを動かして、ノートを文字や数字の羅列で埋めていった。ホテルや夜中までやっているカフェに泊まり、バイトで金も稼いで絶対に家に帰らなかった。
父親も母親もどうなったのか、彼にはもう分からなかった。
B.F.の試験会場には徒歩もバスも電車も全て使い、とにかく親に縋るようなことはしなかった。いつの間にか一人で生きていた。
合格発表に自分の番号があったときはただ、開放されるんだ、と思った。
体に出来た無数の傷。ほとんどは父親にやられたものだが、外で寝ていた時に不良に絡まれて出来た傷も少なくはない。
だが、もうそんな痛い思いはしなくていい。もう辛い思いをしなくてもいいのだ。
B.F.に入社すると、ラシュレイは早速仕事を教わるパートナーを探そうと必死になった。仕事を早く覚えて余計なことを考えないよう、仕事にのめり込みたかったのだ。
B.F.は入社すると外部との接触を厳しく遮断されることは入社試験の時点で知っていた。国家機密なのだから当たり前だが、あの忌々しい家族と再会することが永遠に無くなったと思うと嬉しいことこの上なかった。
ペアを組む研究員なんて誰でも良かった。仕事を教えてくれるのなら、殴ってきても蹴ってきても構わない。そんな暴力慣れている。
そしてラシュレイは見つけた。
施設内研修の時間に、ガラスの向こうで実験を行う比較的若い研究員。金髪が綺麗な、白衣が似合う男性だった。
彼は最終試験に向けての単体実験中らしい。難しい対象に対して四苦八苦しながらも一心に向き合うその姿は、誰よりも輝いていた。
ラシュレイはガラス窓の外から彼を見つめていた。
あれだけ輝いているものを自分は見た事がない。世界中のスポットライトを彼に当てたような_____いや、寧ろ彼自身が輝いているんじゃないかと思うほどに綺麗だった。
その男性の名前はノールズ・ミラー(Knolles Miller)と言った。星4の自立したばかりの研究員らしい。
研修が終わって、ラシュレイは夕食をとるために食堂へと向かった。
向かいながら、考える。助手志願する研究員はもうほとんど決めていた。
ノールズさん_____彼にしよう。
食堂の列に並んでいると、彼の後ろに並ぶ同期の研究員達が、志願を誰にするか楽しそうに話しているのが耳に入ってきた。
「誰に志願する!?」
「俺はノールズさんかなー」
「え、俺も俺も!!」
「かっこよかったもんな!」
どうやら彼は案外目立っていたようだ。確かに、あれだけキラキラしていたら人目も引く。自分でさえ見入ってしまう程だった。
これでは、志願へ行くのにはライバルが多すぎる。やはり諦めるべきか。
まだ一日目である。じっくり決めていけばいいだろう、とラシュレイは小さく息を吐いた。
*****
空いている席を何とか確保し、夕食を食べていると。
「お隣、いい?」
隣にカチャン、とプレートが置かれた。人と関わるのが好きではないラシュレイにとって、こんなに近くで他人とご飯を食べるなど真っ平御免だった。
断ろうと顔を上げ、そして目を疑った。
「え_____」
そこに居たのはノールズだった。そう言えば、知っているのは容姿だけで声は聞いたことがない。まさか、自分の隣に座ろうと言うのか。
ラシュレイはチラリと周りを見る。一見どこも満席で、たまたま自分の隣が空いていただけのようだ。
ラシュレイはノールズに視線を戻す。
弾むような声が耳に残っている。想像しろと言われれば容易い声をしていた。
彼の頬には実験で傷ついたのか湿布が貼られていた。
「いいかな?」
ノールズが椅子を引いている。断っても結局は座るだろう。断る理由などないのだが。
ラシュレイはこくん、と頷いた。ありがと、とノールズが微笑み、隣の椅子に腰掛けた。掛けた途端、思いもよらない事を言い出した。
「俺の実験、見に来てくれてたよね?」
ラシュレイは口に運びかけていたフォークを落としそうになった。思わず彼を見る。彼は特大バーガーを頬張っている。
「......見に来てくれる研究員って覚えているんですか?」
バーガーを飲み込むのに時間を掛け、彼は少しして頷いた。
「そりゃあ、嬉しいし。俺には第三の目が付いてるからね〜」
ニイッと彼は笑って、自分の後頭部を指さす。此処にある、と言いたいようだ。勿論、そんなこと冗談だと分かっているので、ラシュレイはそうですか、と適当に流す。
「なあ、どうだった? 俺かっこよく出来てたかな?」
随分喋るな、とラシュレイは心の中で呟きながら、
「まあ......分かんないですけど」
と、返す。
「えー、そこは褒めてよー! 俺褒められると伸びちゃうタイプなんだよ!」
「そうですか」
「なんか君冷たいね!?」
「はあ......生まれつきです」
何だか、久しぶりの感覚だ。
ノールズはよく分からないが、母親に似ている。淡々と言葉だけ並べていくラシュレイに対して母は様々なツッコミを入れていた。
まあ、それもいつの間にか無くなってしまったのだが。
あの忌々しい父親の存在のせいで。
「んー、やっぱバーガーも美味いなあ」
ノールズの幸せそうな声を聞いて、ラシュレイはハッと我に返った。
変なことを思い出してしまった。もう戻らない家に住む人間のことなど、どうして思い出しているのだろう。
「なあなあ!」
「何ですか」
「俺の助手になる!? 絶賛受付中なんだ!」
ボタッ。
ラシュレイは今度こそ口に運んでいた物を落とした。サラダのトマトだ。
「え、大丈夫?」
「はい......」
落ち着け、と飲み物に手を伸ばし、氷が入った水で頭を冷やしていく。助手になるか、と今確かに彼は自分に聞いた。まさか上から助手志願をしてくることがあるとは。
「......なんで、ですか?」
ラシュレイは彼の方を見ずに聞いた。
「んー」
ノールズの間延びした声が聞こえてくる。
やがて、
「一人だと寂しいし」
と、そんな答えが帰ってきた。
寂しい。
そう言えば、彼はペアの研究員が居ないのだろうか。
単体実験は一人で行うものなので、実験室に一人で居たのは納得が行く。
だが、食事も一人。
オフィスにペアの研究員が居ると考えられることも無いが、彼は今確かに「一人だと」と言った。
そして、ペアを組んでいる研究員など、基本助手は取らないだろう。
一人というのは寂しいものだろうか。
ラシュレイは心の中で首を捻る。
自分は家族から離れて一人で様々な場所で寝泊まりしてきた。あれは一人とは言わないのだろうか。
ああいう状況で寂しいと言えない自分は、普通では無いのだろうか。
「寂しい、ですか」
「そ、だから助手を早く取って、一人から抜け出したいんだー」
ノールズはバーガーの最後の一口を口に押し込むと、包んでいた紙をくしゃくしゃと丸めている。
ラシュレイも黙々と食事を進める。
「はー、美味しかった。それで? どうする?」
「......もう少し、考えさせてくれませんか」
「お、いいよ! あーでも俺人気だからさ、早く決めないと他の研究員に取られちゃうからねっ」
「じゃあ他の人にします」
「ええ......諦め早いねえ」
ラシュレイは食べ終わった食器を片付けるために席を立った。
「人と争って勝てるほど強くないので」
「やってみなきゃわかんないよー」
「俺はそういう人なんで」
ラシュレイはその場を離れた。
*****
自分は何をしているのだろう。何故、ああして誘いを断る方向に話を持って行ったのだろう。
いいや、あれはただ俺がふざけてああ言ったと思われているだけで、まだ彼は他の研究員を取らずに待っていてくれているのではないか?
だが、ラシュレイは廊下の椅子に座ってそこから動けなかった。
何だかどっと疲れが出てきたのだ。
久しぶりにあれだけ人と喋り、慣れない環境に一日身を置くことは、彼の精神をガンガン削り取っていった。
もともと話すのが得意でもないので、人と話すと高確率でこうなってしまうが、今日は一段と疲れが酷い。
ラシュレイは少しの間、目を瞑った。
ノールズは今頃何をしているだろうか。あの食堂の列で自分の後ろに並んでいた研究員たちに助手志願をされているだろうか。自分も本来その中に居たはずだ。なのに、何故か彼を自分から遠ざけてしまった。
分からない。彼を遠ざけたのも、此処までして彼に固執する理由も。
ノールズは母親にどこか似ている_____。
脳裏に母親の笑顔が思い浮かぶ。楽しそうに新作の絵本を作っている母の顔はとても柔らかく、暖かかった。時折彼女が作った本を、幼かったラシュレイは膝に乗せて読んでもらった。本の内容はほとんど覚えていないが、あの時の母親の体温や優しい声はまだしっかり思い出せる。
ノールズは彼女に似ている。柔らかい笑みも優しい声も、香りでさえ。小さい時の思い出が具現化して現れたかのような。自分が彼に固執する理由はきっとそこにあるのだ。
そしてもうひとつ。彼が寂しいと言っていたこと。自分は寂しいなんて気持ち、ほとんど感じない。一人に慣れてしまっただけかもしれない。
でも、同じ人間ならノールズだって寂しいという感覚に慣れるはずだ。だが彼は心の底から寂しいと感じているような声色であの台詞を吐いた。
もしかしたら、一人になってまだ日が浅いのかもしれない。彼とペアを組んで、一緒に時を過ごして別れた時、自分は寂しいという感覚に陥るのだろうか。単純な疑問だった。
ラシュレイはゆっくりと目を開き、手に持っていた資料に目を落とす。
やはり彼に志願したい。だがそれは他の人間と争うことになる。争いは時に痛みを伴う。
ラシュレイは体の所々がチクチクと傷んだ。
父親に付けられた傷だ。まだ治っていない所も少なくはない。頬には、刃物で傷つけられた痕が残っている。
もう痛くはないが、思い出すと皮膚を切り裂かれるあの感覚を体が思い出して痛みを伴う。今もそうだ。
ラシュレイは頬を撫でた。
母親の膝の上のような、安心できる場所が欲しい。こんな自分を受け入れてくれるような優しい場所が欲しい_____。
「傷、痛いの?」
「!」
ラシュレイは顔を上げた。まず目に入ったのは、自分に差し出されている三枚の絆創膏だった。そしてそれを差し出すのは_____、
「ノールズさん......」
心配そうに自分を見下ろすノールズだった。
「傷、大丈夫? 痛そうだね。これで足りるかな」
彼は隣に座った。ラシュレイは思わず受け取ってしまった絆創膏を見て、
「こんなん、慣れっこなんで」
と、無愛想に言った。
ノールズは「そう......」とそれだけ言うと空中を見つめている。ラシュレイは困って手の中の絆創膏をいじっていた。
「......B.F.って、いいところだよ」
ふと、ノールズが独り言のように呟いた。
「そりゃ、危険なことばっかで毎日ヒヤヒヤするけどさ」
ノールズは椅子に座り直し、続ける。
「皆で同じ対象を実験したり、同じ空間でご飯食べたり。家族みたいなものだよ。簡単に壊れない絆で結ばれている。いいや、家族以上かもね」
ラシュレイは絆創膏を見たまま顔を上げなかった。
家族、絆。
「一緒に泣いて笑い合える仲間が居る環境ほど最高なものって、この世にあるかな?」
ノールズはラシュレイの手の中から絆創膏を一枚引き抜いて、ペリペリとシールを剥がし始めた。
「無いと思うなあ」
ラシュレイは、彼の手の中にある絆創膏を目で追っていた。
「俺はそういう仲間が今すっごく欲しい。ラシュレイ」
「!」
ラシュレイはそこで初めて彼の目を見た。何処までも透き通るような黄色の目。彼の優しさを表したような色だ。目に吸い寄せられそうになっていると、頬に軽い衝撃を覚えた。ペタン、と絆創膏が貼られたのだ。
そこは一番酷い切り傷があった場所だ。
「俺の助手にならない?」
ニヤ、と笑う彼は子供のように無邪気だった。じんわりと、頬が暖かくなっていくのをラシュレイは感じた。
冷たかった場所から、暖かい場所へ。陽だまりのような温かさが胸に溢れていく。
「助手に、してください」
*****
「うあああっ!!!!!」
眩しすぎる世界で、ノールズはただ、闇雲に腕を突き出した。叫んでいないとやってられないくらいに熱くて、苦しくて、死が目の前に迫る世界。
しかし、彼を動かす何かが、まだ死ぬべきじゃないと、此処で負けてはならない、と強く、強く彼の背を押している。
この中に、何処かに、ラシュレイの記憶に結びつくものがあるはずだ。
それを燃やさせるわけにはいかない。
彼が身に纏うバリアがバキバキと音を立ててヒビを作り始める音が聞こえてきた。焔は、記憶の処理を妨害しようとしてくる邪魔者のノールズを排除しようと、襲いかかってくる。
だが、負けられない。大事な、かけがえのない助手の記憶だ。
ノールズは焔の中で叫んだ。
「返せっ!! ラシュレイの記憶、返せよっ!! 俺の、俺の大事な助手の記憶なんだぞ!! 絶対に......絶対に燃やさせねえからっ!!!!」
焔の奥の奥。縮れそうなくらいに彼が手を伸ばした時だった。
指先に、何かが触れた。
ノールズは反射的にそれを掴んだ。手のひらで揉みくちゃになろうと、とにかく離さない一心でそれを握った。
焔は遂に、今まで以上にノールズを殺そうと本気で襲ってきた。
バリアが剥がれてくる。
痛みと熱さで動きが鈍くなってきている体に鞭を打ち、彼は焔から飛び出した。
ガンッ!
吐き出されるように、突き飛ばされるように焔の外に転がった。床に体を打ち付け、一瞬だけ息が詰まる。
視界が落ち着くと、そこにはもう焔は無かった。ノールズは床に横になったまま、固く握られた右手をゆっくりと開いた。
「これ_____」
*****
焔の動きが弱まったのは誰の目にも明らかだった。ノールズが焔から突き飛ばされるように投げ出された瞬間、ブライスは直感的にやったか、と思った。準備室から声が上がる。
転がった彼の右手は強く強く握りしめられている。
ブライスは向きを変え、準備室の出口へと向かう。
ブライス、とドワイトが彼を呼んだが、彼は振り向かずにそのまま仕事へと戻って行った。
*****
熱い場所からひんやりとした場所へと戻ってきた。
何がと問われれば、答えに困る。とにかく、そんな気がしたのだ。
ラシュレイの目の前には、いつの間にかノールズが居た。瞬きをすると、顔を歪ませて泣きそうな顔をしていた。
ラシュレイは軽く首を浮かして、実験室の中を見回す。
自分は一体何をしているのだろう、と。
背中に感じる固いものは実験室の壁だ。
単体実験をしていたはずだ。
実験室の中の焔はいつの間にか消えていて、無機質な床に転がるバケツがノールズの後ろにあるくらいだった。
視界に入っている彼は何故かボロボロだ。火傷のような痕が顔や手など、白衣から見える場所殆どに出来ていた。
「ノー、ルズさん......」
彼を呼ぶ自分の声もボロボロであることに、ラシュレイは気づいた。聞き取りづらいだろうと思って、もう一度呼ぼうとすると、ノールズの口の方が先に動いた。
「おはよ、ラシュレイ」
彼はペリペリと絆創膏のシールを剥がしている。
「お前さあ」
彼の手が震えている。
「何でさあ」
彼の唇が震えている。
「こんなの持ってんだよお」
彼の手に大粒の涙が落ちて、弾ける。
「それ_____」
ノールズの手の中にあるそれは、入社当時にラシュレイが彼から貰った三枚の絆創膏のうちのひとつだった。
三枚などすぐに使い切ってしまう程に、当時のラシュレイは怪我まみれだった。
だが、全部使うことは出来なかった。
自分の中で唯一、自分とノールズを繋ぐものだったからだ。
お守りとしていつも肌身離さず持ち歩いているなんて、口が裂けても言えなかったのに。
彼に今、その事がバレてしまったのだ。
「それは_____」
子供のように泣き出す彼が纏うボロボロの白衣を見て、ラシュレイは何となく、何があったのかを察した。
彼は自分をあの超常現象から助けてくれたのだ。何故、彼の手に絆創膏があるのかはよく分からないが、自分はきっと、危険な状態だったんだろう。
彼は少しずつ頭の中で整理していく。
自分は、死ぬかもしれなかった。
単体実験ばかりしてきて最近、ノールズという存在が自分の中で小さくなっていた。一人で実験をするのだから、彼に頼るべきではない。そう勝手に思い込んでいた。
だが、違かった。
彼の存在は小さくなんてない。大きすぎる。
彼と離れて実験することが、どれだけ恐怖か。
ボロボロになってまで、自分の助手の大事なものを守り抜いてくれた彼が無事に生きていたことが、どれだけ安心して暖かいことなのか。
ラシュレイは、今、この瞬間知った。
「泣くなよ」
ノールズが鼻を赤くして、笑った。
「泣いて、ないっ、ですっ......」
「嘘だー。すごい泣いてんじゃん」
ノールズがラシュレイの頬にぺた、と絆創膏を貼っつけた。そして、
「まだ、もう少しだけ、かっこいい先輩面させてくれよな」
グッと彼を抱き寄せる。
懐かしい感覚だ。懐かしい温かさだ。
ラシュレイは思った。
いつかの母親の温もりを感じた。
安心しきったからだろうか。
ラシュレイは入社して始めて、唯一の自分の居場所で号泣したのだった。