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Black File  作者: 葱鮪命
165/193

File075 〜羽ばたく天文学的数字〜

「ふんふんふーん」


 ケルシー・クレッグ(Kelsey Clegg)は、夫が運転する車の助手席で上機嫌に鼻歌を歌っている。何か良いことでもあったのだろうか。彼女の手には、分厚くゴツゴツした茶封筒がある。


「よく上機嫌でいられるな」


 夫のビクター・クレッグ(Victor Clegg)の言葉である。ハンドルを握る彼の顔は、何処かげっそりしていた。


「逆にどうしてビクターは、そんなに楽しくなさそうなの?」

「今から報告書を提出に行くんだぞ」

「うん」

「気が重くならないのか?」

「うん!」

「......」


 今まで何百回と行った場所だが、ビクターは未だに苦手である。そもそもエスペラントに頭を空にされた彼らに、一から根気強くB.F.の再建の話をつけた時点で、ビクターの精神は削られすぎていた。

 何て頭の硬いやつらだろう。改めて伝説の博士の凄さを思い知るのだった。


「ビクターは真面目すぎるんだよー。あの人たちはちょっと気難しいだけで、根は優しいおじさんたちだよ!」

「俺にはそうは思えないんだけどな」

「私にはそう思えるよ!」


 どうも、彼女とは見えている景色が異なるようだ。

 たしかに、ビクターでは顔を顰めている彼らも、ケルシーの話になると素直に頷くのである。石からマシュマロに変わったように、顔が柔らかく変化するのである。


「ビクターは顔が怖いんだよ!! にっこり笑顔ー!」


 両頬に人差し指を立てて、フロントガラスに向かって笑みを作る妻。すると、


「あれ?」


 彼女は遥か前方に見えた景色に、首を傾げた。


「工事中かな」


 それは、長い車の列だった。大通りでは無いが、住宅街と商業施設が交じりあった、太い道路だ。いつもはすんなり通れる場所だが、今は沢山の車がずらりと並んでいた。


「......この忙しい時に」


 ビクターがため息をつく。ケルシーは「よーし!!」とカーラジオの設定をいじって、自分の携帯に繋ぎ始めた。


「この列だと結構かかるよね!? カラオケ大会しよう!!」

「するかよ。何処か抜け道......」


 ナビを触ろうとするビクターの手をケルシーが掴む。


「この列から逸れたらカラオケ大会できないんだよっ......!!?」

「するわけないだろ。そんなもん」

「ダメダメダメ!! 私、ビクターがこの渋滞から逸れたら、今日はもう車から降りないからね!!」


 それは困る。自分一人では到底お偉いの相手はできない。


 そのまま車は街の中心部へ進んで行く。車内の空気は、全く混じり合わない水と油のように、綺麗に別れているのだった。


 *****


「ミッション成功だね!」


 立体駐車場に停めた車の中に、クレッグ夫婦は戻って来た。


「何処が」


 行きよりもげっそりしているビクターが、ハンドルに頭をもたせて言った。


 報告書を無事に渡すことが出来たが、どうも相手方の機嫌が悪い。この前の報告書の不備が執拗に強い言葉で咎められた後、最近の外部調査の多さまで咎められた。


 B.F.内の調査等の決定に関して、彼らが口を出すことはほとんど無い。ブライスがそこはしっかりと線引きをし、よっぽどの事が無い限りB.F.内で事が済むようにしてくれた。

 しかし、調査料などの金を出すのは国であり、調査に無駄な時間をかけると、彼らの目はそれなりに尖ってくる。


 クレッグ夫婦が「申し訳ございません」と一言謝り、機転を効かせてケルシーが「いい報告」を並べた。「外部調査」のおかげで事件で外に出た超常現象が順調に施設に戻ってきていること、「外部調査」のおかげで、場数を踏んだ優秀な研究員が着々と育っていること。


 明るい声と優しい笑顔に乗せられた報告は、何とか相手方の態度を改める薬として働いてくれたそうだ。


 そして、ケルシーは最後にこんなことを言った。


「行きが混んでいて大変でしたよー」


 すると、相手の表情はふっと変わった。大きく首を縦に振ったかと思うと、捲し立てるように渋滞への文句を垂れ始めた。ビクターとケルシーが話した時間の合計を圧倒的に超えて、彼は唾を飛ばして激しく喋り続けた。


 彼がいつも以上にイライラしている原因はそれだったのだ。彼もまた、クレッグ夫婦と同じように、あの長い車の列に並んだのだ。


「何故にあんなことが起こるんだ。ただでさえ忙しいのに、あんなに酷い渋滞が起こるなんて」


 俺らに言うな、とビクターは心の中で悪態をつく。ケルシーは「本当ですよね!」と大きく首肯する。


「初めて経験しましたよ、あんな渋滞。工事をしているようでしたが......」


 渋滞は、ある場所から始まっていた。それは住宅街の終わりの交差点で、カラーコーンで封鎖されて別の大通りを通るように誘導されたのだった。


「何の工事かと思えば、地面の塗り直しだそうだ。またこんな忙しい時にどうして......」


 ビクターは、妻が隣で笑うのを堪えているのを見た。夫と全く同じ不満を呟くのが面白くて仕方がないらしい。せめて自分の内側に留めてくれよ、とビクターは祈った。


「車がたくさん通る大通りですし、地面も禿げてきていたんでしょうね」

「そうなんだろうが......前も同じようなことがあったんだ。全く、勘弁して欲しい」


 彼はそれからぶつくさ文句を言っていたが、腕時計にチラリと目をやると、夫婦に挨拶をして行ってしまったのだった。


 *****


「ただいまー」


 B.F.に戻ってきたクレッグ夫婦は、バレットたちのオフィスに向かった。


「おー、おかえり。どうだったー?」


 ちょうどおやつの時間だったようだ。食堂で買ってきたケーキを、二人は背中合わせでつついているところだった。


「大丈夫だったよー! いつもよりも怖かったけど、渋滞でイライラしていたみたい」

「うへー、そりゃ嫌だな」


 バレットが眉を顰める。


「そんで、ビクターはそんなに眉間に皺寄せてるのね」


 と、彼はケルシーの隣で暗黒オーラを放出するビクターを見やった。


「それだけじゃねえ」


 と、ビクター。彼はつかつかとバレットのデスクに歩いていき、だん、と薄っぺらな封筒を置いた。同じものがエズラのデスクにも置かれる。ケーキのメインであるイチゴを食べようとしていたエズラが、煩わしそうにビクターを見上げた。


「これは?」


 バレットはケーキを置いて封筒を拾う。


「今月のお前らの外部調査代」

「え、俺らそんなに外出てたか」

「お前が余計なもん拾ってくるから費用がかさんで俺らが怒られてるんだからな」

「ご、ごめん」


 バレットは封筒から出した紙を読んで、ぎょっとした。自分の想像を遥かに超える額が記載されているのだ。


「えっ、やば!!」

「これ、お前らだけでだぞ」

「いや......え? 何でだろ......」

「この前の外部調査、二人とも三泊四日だったでしょ?」


 ケルシーの問いに、エズラはイチゴを堪能し終えてようやく封筒を開きながら、「だな」と頷く。


「何処のホテル泊まったの?」

「......」


 バレットとエズラが、さっと明後日の方向を向いた。


「俺のところにフランプトンの領収書が届いたんだがな」

「......」

「随分豪勢なサービスを受けてきたみたいだな」

「......」

「こっち見ろ」

「.....はい」


 バレットとエズラは椅子に座り直す。ビクターから赤黒いオーラが出ている。


「いいか? 怒られるのは俺らだ。犠牲払った上で、お前らは外部調査を楽しんでいるんだ」

「......ごめんなさい」


 二人とも椅子に小さくなって座っている。


 フランプトンホテルは、ノースロップの中でトップレベルのホテルである。一ヶ月ほど前に、バレットとエズラが長期の外部調査を行うことになり、そこで三泊したのだ。


 バレットとエズラは、その外部調査の前にも、一度だけフランプトンに泊まったことがあった。


 それは、旧B.F.での外部調査の時である。ドワイト、ナッシュ、そして、先輩コナーの五人で外に出て仕事をしたのだ。


 当時は外部調査が珍しい頃だったため、ドワイトとナッシュの計らいで、ホテルを決めてくれたのだろう。普段は狭い部屋で寝起きする研究員にとって、その一夜は普通に泊まるより何十倍も楽しいものになったのだった。


 その経験が忘れられず、この前の外部調査は長期間ということで、二人はフランプトンに泊まることにしたのだった。


 それにしても、まさかそこまでの金額になっているとは。バレットは顔を青ざめさせて、領収書に書かれている数字を想像するのだった。


 これならば、国が怒るのも当然だ。ビクターたちは辛い役割を買って出てくれていて、自分たちはそれに甘んじていたのだ。


「反省したみたい」


 ケルシーが夫の耳に囁く。


「もう許してあげよう」

「......そうだな」


 ビクターもそこで、黒いオーラを収める。


「次は無いぞ。分かったな」

「はい......」

「ごめん......」


 *****


 さて、国に書類を届けに行ってから間もなくして、B.F.に新しい仕事が入ってきた。それは、とある生物の研究者からの依頼だった。対応したのはケルシーである。


「此方の席にどうぞ」


 ケルシーは、エントランスにて彼と会った。白髪の美しい、メガネをかけた老いた男だ。


「蝶専門家のエイルマー・ウィッテルです」

「B.F.星5研究員のケルシー・クレッグと申します。本日は宜しくお願い致します」


 ケルシーは微笑んで、エイルマーと握手を交わす。席に着いて、ケルシーは早速本題に入った。電話で先に貰った情報を、彼女は読み上げる。


「えっと、蝶々の研究をされているんですね」

「そうなんです」


 エイルマーが大きく頷いた。


「小さい頃から生き物が大好きで。特に蝶はフォルムも模様も、何もかも完璧で美しいんです。図鑑で眺めていたものが目の前を羽ばたいている瞬間は、感動して泣いてしまいます」


 彼はうっとりした顔で続けた。


「生きているうちになるべく多くの種類を見てみたくて、今度世界一周をする予定ですよ」


「すごい、蝶を探す世界一周......夢があって素敵ですね」


 ケルシーはそう言って、次の情報を読み上げた。


「それで......えっと、とある蝶を探しているそうですね」


 B.F.に依頼されたのは、次のようなものだった。


 昔見た大きな蝶を探してください__。


 それは、目の前の彼が幼い頃に一度だけ見たことがある蝶なのだと言う。どの図鑑にも載っておらず、小さい頃なので現実の出来事だったのかも定かではない。

 だが、彼はその出来事がきっかけで蝶が大好きになったのだという。


「どうしてB.F.に調査依頼を?」


 蝶の専門家は、エイルマーの他にも居るはずだ。蝶に限らず、沢山の虫を研究している者だって居るだろう。しかし、彼はこの依頼をB.F.に送ってきたのだ。


 ケルシーの問いに対して、エイルマーは恥ずかしそうに微笑んだ。


「いえ、たくさんの研究者にも話はしたんです。でも、誰も信じてくれなくて。現実的ではない蝶なんです」

「現実的ではない......」


 興味深い言葉に、ケルシーのペンが動く。


「蝶の特徴を、詳しくお話頂いても?」


 彼女の問いにエイルマーは「もちろんです」と話した後、


「私の研究室に模型があるんです。そちらをまずは見て頂きたいのです」


 と、そう言った。


 *****


 エイルマーは、隣の市で大学の教授をしていた。ケルシーはビクターと共に彼の研究室を見ることにした。


「きっと驚きますよ。正直、鼻で笑われてしまうような気がしています。みんなそうでしたから」


 エイルマーは、自分の部屋に行くまでソワソワしていた。


「あの蝶は、私の脳に強く刻みついたんです。模型だって、記憶の中の蝶を思い出せる限り具現化した結果です」


 ある扉の前で、彼は歩みを止めた。扉横には「エイルマー・ウィッテル」と名前が入ったパネルがかかっている。此処が彼の部屋のようだ。彼は解錠して、扉を開いた。


「わあっ」


 ケルシーは思わず声が出た。それは、小さな部屋でありながら、多様な色彩で溢れていた。壁に無数の平たい箱がかけられている。その中には、大小様々な蝶の標本がびっしりと並んでいる。


「綺麗」

「私が今まで採取してきた子達です」


 エイルマーもうっとりとしている。


「美しいでしょう」

「本当に! 綺麗だねビクター」

「そうだな」


 三人は部屋に入った。壁は全て標本で埋まっていた。標本の邪魔にならないよう、低い位置に家具は配置されている。本棚には蝶の図鑑や専門書、そして蝶を標本にするための道具が綺麗に収納されていた。


「これが、その模型です」


 彼は、さらに部屋の奥にある扉を開いた。準備室か倉庫なのだろうが、その部屋には何も無かった。その蝶を除いて。


 ケルシーもビクターも、それを見て息を飲んだ。


 それは、天井から透明な糸でぶら下がっていた。純白の羽、胴体、そして、


「大きい」


 蝶はケルシーが腕を広げても全長が収まらないほどに、巨大だった。鳥よりも大きい蝶だ。


「これが、私が見た蝶です」


 エイルマーは、やはりうっとりしていた。感動のためか、声も震えていた。


「これが空を舞っていた時、私は夢を見ているのだと思いました。まるで天使に見えました。これは、蝶の姿をした天使なんです」


 エイルマーの説明を聞きながら、ケルシーはビクターと共に、蝶の周りを一周した。よくできた模型だった。どんな材料を使って表現しているのかは分からないが、羽の鱗粉も手足の節も、よくできている。


「羽の模様はさすがに私のオリジナルです。でも、大きさと色は上手く表現出来たと思います」


 一周回って、ケルシーは「なるほど」と頷く。


 専門家たちが彼を相手にしないのも頷ける。この蝶の模型を見た時、真っ先に彼らが疑うのは、この巨大さだ。こんなものが飛んでいたら、誰だって気づいて写真や絵に収めるだろう。

 突然変異だとしても、これだけの巨大さはありえない。


 彼がこの蝶の異質性を認めて、B.F.に話を持ってきたのだ。


「たしかに、これは少し大きすぎますね」


 ケルシーはエイルマーを見た。彼は「そうなんです」と頷く。


「世界最大の蝶というものも居ますが、それにしたってこの大きさはありません。世界最大の蛾だってね」

「じゃあ、やっぱり超常現象なのかな」

 ケルシーはビクターを見る。


「この大きさの鳥という可能性は」


 ビクターはエイルマーに聞いた。エイルマーは首を横に振る。


「飛び方が異なります。蝶の飛び方でしたからね。鳥ではあの飛び方はできません」


「どの辺りで目撃したかは分かりますか?」


「ええっと......」


 エイルマーが目を閉じる。記憶を追っているようだ。


「かなり前でしたからねえ。でも、時間帯は覚えているんですよ。夜でした」


「夜かあ」

「夜行性の蝶なのかもな」

「夜に咲く花の蜜を吸うのかも」


 二人が考察している間、エイルマーは一つ前の部屋に戻って、本棚から図鑑を引っ張り出していた。


「白い蝶というのは、一通り調べてみたのですが......どの蝶も小さいサイズですし、夜に活動するというのもねえ。蛾ならばいくらでも居ますが、やっぱりサイズ感は劣ります」


「そうですか......」


 ケルシーはもう一度模型を見た。このサイズ感は、エイルマーが記憶の中から鮮明に取り出したもののようだし、そこを自負するのならば疑いの余地は無い。


 普通の専門家ではありえない事象も、B.F.ならばありえなくない。


「もう少し調べてみましょう。模型の写真を撮らせていただいても?」

「ええ、構いません」


 ケルシーはビクターに頼んで、カメラを持ってきてもらった。撮影をしながら、ケルシーはその蝶の美しさに不思議な感覚を覚える。これだけ美しいが、何処か不気味さを覚えるのは、やはり大きさが関係しているのだろう。こんなものが前から迫ってきたら、恐怖を感じる。


 だが、美しいのだ。エイルマーが蝶の存在を意識し始める出来事だったのだから、強く心に残っているという点からして、この蝶の存在が記憶の中で誇張されたという見方も可能だが_____案外、不思議な存在は実在するものなのである。


 *****


「蝶、蝶かあ」


 B.F.に戻ってきて、予定していた会議を一通り終えたケルシーは、会議室に残って、写真を眺めていた。まずどんなアプローチが必要なのかを考える必要がありそうだ。


 エイルマーが、蝶を目撃した場所は曖昧だったと言っている点から、場所からの特定は難しそうだと判断した。続いて目をつけたのが、蝶の活動時間。大抵の蝶は昼に活動するが、夜になれば活動する蝶だって居る。しかし、それは少数であり、その中にあの模型のような蝶は居ない。


「夜に咲く花、夜に咲く花......」


 ケルシーは続いて、夜に咲く花について調べた。夜に活動するとなれば、夜に開く花に彼らは誘われてやって来るに違いない。


 夜に咲く花もいくつかあるが、それが特定の蝶を呼ぶなどは分からなかった。


「うう〜ん」


 ケルシーが資料に顔を突っ伏していると、


「大丈夫ですか?」


 声をかけてくる研究員が居る。星4のカーラ・コフィ(Carla Coffey)であった。ケルシーは顔を上げて、「カーラ」と微笑む。


「大丈夫だよー。ちょっと難しい依頼を貰ってね、何か打開策は無いかなあって考えていたところだよ」

「蝶々?」


 カーラはケルシーの資料を見て、首を傾げる。


「そうなの。凄く大きな蝶なんだよ」

「わ、ほんとだ」


 カーラは、写真を何枚か見比べて、その中から一枚を引っ張ってきた。対象物が無いと分かりづらいが、模型の隣にケルシーが並ぶ写真があったのだ。彼女と比べると、その模型の巨大さがよくわかる。


「超常現象かなあ」

「この大きさだと......そうかもしれませんね」

「やっぱりそうだよねえ」


 返された写真を見て、ケルシーは首を捻る。


「うーん......」

「カーラ、オフィスに帰るぞ」


 それは、ラシュレイの声だった。カーラと共にオフィスに戻る予定だったようだ。「はい」とカーラ。ケルシーはそれを眺めていたが、ハッと立ち上がる。


「ラシュレイ、待って!!」


 ケルシーの呼び掛けに、部屋から出ようとしたラシュレイが戻ってくる。


「どうしましたか」

「この蝶、見た事ある!?」


 ケルシーは、近づいてきたラシュレイの鼻先に写真を突きつけた。ラシュレイは写真を見て、「いえ」と首を横に振る。


「じゃ、じゃあさ、夜に活動する蝶は知らない?」

「蝶ですか......」


 ラシュレイは一時期野宿をしていたそうなので、夜の生き物には詳しいと思ったのだ。

 しかし、彼は「わからないです」と写真を返す。


「綺麗な色ですね」

「そうなのー......綺麗なのー......」


 期待した答えが得られず、ケルシーはずるずると椅子に座り込んだ。


「うう、分からないなあ。写真だけ存在すると、どうしてもそこからしかアプローチできないなあ」


 ケルシーが言うと、ラシュレイが「俺は役に立てませんでしたけど、」と口を開く。


「俺よりも外に居た期間が長いのは、バドさんじゃないですかね」


 *****


「いらっしゃーい!!」


 B.F.特殊研究員のジェイス・クレイトン(Jace Clayton)は、両腕をめいっぱい広げてクレッグ夫婦を迎えてくれた。


 此処は実験室の一室。ジェイスとその助手であるバド・バンクス(Bud Bankes)は、ある事情により普通のオフィスではなく、この実験室がオフィスなのである。


「バドに用事があるんだって?」

「そうなんです!!」


 ケルシーが頷いて、エイルマーの研究室で撮影した写真を取り出している間、バドがやって来た。大きな背丈は人間離れしており、頭には街灯の頭頂部が付いている。彼は腰を屈め、ケルシーが両手で掲げる写真を見た。


「大きな蝶々ですね」

「そうなんです。依頼者さんが、この蝶々を探しているみたいで。でも、過去に一度見たっきりで......」


 ラシュレイがバドの名前を出したのは、バドが長い間外に居たからだ。バドは、ジェイスがB.F.の外で働いている際、噂になっている街灯の超常現象の調査を頼まれて、この施設に連れて来られたのである。


 バドはモーペスブリッジという大きな橋の上に固定されている存在だったが、夜の一定の時間だけは自由に歩き回れるようになっていた。


 エイルマーが探している白い蝶は、おそらく夜行性。そうなれば、夜誰も居ない時間帯に外を歩いているバドならば、目にする機会があったのではないか。


 また、彼は街灯である。頭部に光を灯すことができるとなれば、蝶も寄ってくるかもしれない。


 ケルシーが見せてきた写真を見て、ふむ、とバドは首を傾げた。


「いつ見たものだったの?」

 とジェイス。


「エイルマーさんは、幼い頃に見たと......かなりお年を召した方だったし、何十年も前だとは思うんですけれど......」

「なるほど、そっかあ。バドが外に居たのは今年の初めの方からだからなあ......」


 ケルシーはバドを見上げた。彼はまだ蝶の写真を見つめている。


「この蝶かは分かりませんが、西区を歩いていた時に遠くの方でチラチラと何かが動いているのを見たことがあります。飛び方が鳥には見えませんでしたし、蛾か何かだろうと判断しましたが......距離を考えると、実物大はこれに近いものだった気がします」


「そ、それ本当ですかっ!?」


 ケルシーが顔を輝かせると、バドが「ええ」と頷く。


「どのくらい前でした」


 ビクターはメモ帳にペンを走らせて問う。


「この体になった最初の頃でしたね。まだこの体にも慣れていない時期でしたし、自分の気持ちの整理もついていない頃でしたから、そういう不思議なものを見ても強い衝撃は受けなかったのかもしれませんね」


「なるほど」


 バドはそれから、蝶を見たという大体の場所を地図で示してくれた。都心から離れてはいるが、住宅地である。ケルシーとビクターが国に文書を提出しに行く際によく通る道だ。


「此処の近くを調べてみよう。蝶が住んでいるかもしれない」

「近隣住民に話も聞かないとならないな」


 ビクターとケルシーは、バドたちに礼を言うと、すぐにオフィスを後にした。


 *****


 さて、バドの話によって大きなヒントを得た二人は、早速予定を合わせて例の場所にやって来た。近くに車を停めて、ケルシーはバドが蝶を目撃した場所を探索することにし、ビクターは近隣の住人に話を聞くことにした。


 現場にやって来たケルシーは、地図を片手に草むらや小さな林に目を走らせる。既に日が傾いている夕刻なので、夜行性ならばこの時間帯から活発に活動を始めるだろう。


 肩には虫かご、手には虫編みという夏休みを全力で楽しむ虫取り少年のような格好をして、彼女は蝶を探し回った。


 しかし、どれだけ探してもそれらしいものは見つからない。蝶は何匹か見つかるのだが、色も大きさも全く違うのだ。


 捕まえたモンキチョウをそっと花の上に離してやったケルシーは、腕時計を確認した。ちょうどビクターと別れて二時間は経過したくらいだろう。もう日没時間を過ぎている。彼と合流して、情報を聞くのが良さそうだ。


 そう思っていると、彼女のポケットで携帯が震えた。出てみると、それはエイルマーからだった。


『あ、ケルシーさんですか?』


 エイルマーの声が弾んでいる。ケルシーは「何か見つかりました!?」と嬉々として彼の言葉を待つ。はいっ、と嬉しそうな返事があった。


『実は、私が小学生の頃に描いた水彩画が見つかったんですっ!』


 *****


 ケルシーはビクターと合流した後、近くのレストランにてエイルマーと落ち合った。エイルマーは小脇に丸めた模造紙を挟んで現れた。はにかみながら、その模造紙をクレッグ夫婦に差し出してくる。


「小学生の頃に、絵のコンクールに応募した作品です。模写だけは上手かったもんで、先生が推薦してくださったんです」


 ケルシーは模造紙を開いた。黒い背景に浮び上がる、一頭の蝶が居る。夜の空気感の中を軽やかに飛び回る蝶の動きが、水彩画の温かみによく表現されていた。


「すごい......」


 背景には、白い点々が散りばめられている。星空なのだろう。絵の具がうっすら乗った空。そして、模造紙の下の方にはビル群の明かりが見えた。ノースロップの中心部だとすれば、バドが目撃した場所と一致している。


「やっぱり、居るんだ」

 ケルシーはビクターを見た。彼も確信したようだ。


「ある研究員が、今年の初めにこの蝶を目撃しているようです」

「ええっ!!」


 ビクターの言葉に、エイルマーは堪らず立ち上がった。周りの客の視線が彼に集まる。


「そそそ、それは......本当ですか!?」


 彼の頬は林檎のように真っ赤だった。きっと、あの蝶を見た時も同じような顔をしていたのだろう。


「ええ。場所ですが、この模造紙に描かれているビル群から考えて、おそらくは西区かと。近くは住宅街でしたか?」

「ああ、そういえば......そんな気がします。この絵を見つけた時、色々と記憶が蘇ったんです。描いていた当時は、まだこの子に関する記憶も新しかったですからね」


 エイルマーは席に座り、愛おしげに絵を見つめた。


「そう、そうです。あれはたしか、西区に住んでいた祖父母の家を訪ねた帰りでした。父と手を繋いで帰っていた時に見た光景だったんです」


「その時の状況を、もう少し詳しく教えてください」


 ビクターがメモ帳を取り出す。既に残りが少ないメモ帳だ。エイルマーは「はい」と遠くに目をやる。


「えっと......星が美しかったんです。ビル群からは離れたところだったから、よく見えました。蝶は道路の向こうからヒラヒラとやって来たんです。だんだん高度を上げて行って、目で追えなくなるまでずっと見つめていたんです」


 エイルマーの言葉を拾い上げて、ビクターはメモを始める。


「小学生ということは、何年前ですか?」

「五十年以上前ですね......五十年も探し続けて来たのに、どうして見つからなかったのでしょう......」

「この辺りで特殊に生き続けている蝶々なのかな」

「それならとっても面白いです。何か体が大きくなる理由があるのかもしれませんからね。是非もう一度あの蝶々を見てみたい」


 エイルマーの声がうっとりしたものに変わった。ケルシーは再度水彩画を眺める。神々しい蝶は今にも飛び出して来そうだ。


「そう言えばビクター、近隣の人達にお話聞いてきたんだよね。何か言ってた?」


 メモをしていたビクターが「ああ」とメモ帳を数ページ前に戻した。


 *****


 ビクターは、バドが蝶を目撃したという場所の周辺の家を尋ねていた。


「このような蝶を探しているのですが、この辺りで見かけたことはありますか?」


 何軒かにその質問を投げるが、皆「さあ」と首を横に振るのだった。しかし、最後の家を尋ねた時だった。


 その家は他の家よりも庭を美しく保っており、沢山の花を植えていた。そして、出てきたのは身重の女性で、彼女は腹を支えて立っていた。


 ビクターが写真を見せると、彼女は「そう言えば」と首を傾げる。


「結構前だけれど、見たことがある気がするわ。夜、外をパタパタ飛んでいく蝶々」


 彼女はその時の様子を詳しく話した。夜中に目を覚まし、リビングでお茶でも飲もうかと思って、寝室を出たそうだ。


「リビングの床にチラチラと浮かぶ影があったの」


 それは、蝶の形をしていた。不思議だった。街灯からは離れているので、満月でもない限り、そうくっきりと影は浮かばないはずなのだ。さらに不思議なことに、その日は新月だった。


 彼女は怪訝に思って窓から外を覗いた。すると、陽の光のように眩しい白色の蝶が、庭の上を通り過ぎようとしているところだったのだ。その蝶は、見知った大きさではなかった。鳥より大きく、遠近法だとしても違和感のある大きさなのだ。


「あの時は寝ぼけていたんだと思ったんだけれど......ベッドに入ってから、なかなか寝付けなかったの。誰かが玩具でも飛ばしていたのかと思ったくらいに、現実味の無い蝶々だったわ」


 ビクターはそれから彼女の家に入り、蝶が見えたという位置から写真を撮らせてもらった。


「お庭、綺麗ですね」


 ビクターがカメラ越しに庭を見て言うと、彼女は「ええ」とはにかんだ。


「花が好きなんです」


 *****


「へえ、それってもしかしたら、バドさんが見た蝶かもしれないね」

「かもしれないな」


 ケルシーとビクターが頷きあっている間も、エイルマーは恍惚とした表情を見せて座っている。


「やっぱり、居るんです」


 彼はケルシーの手の中の模造紙をチラリと見た。


「私の記憶の中で生まれた幻想ではなかったということですね」

「ええ、きっとそうですね」


 ケルシーは微笑み、でも、と自分の足元に置かれた虫かごと虫取り網を見た。


 その蝶は、どうやったら見られるのだろう。


 *****


 蝶の存在が確かなものになってから、クレッグ夫婦は、蝶を捕まえるために次のステップに移った。まずは、蝶が過去に通ったであろう経路に専門のカメラを設置し、B.F.に居ながら動きを見られるようにした。


 続いて、なるべくノースロップ中の防犯カメラの協力を得て、広い範囲でも蝶を追えるようにしたのだ。


 既にこの時点で初めてエイルマーと会った日から一ヶ月は経過していた。なかなかの長期捜査に、他の研究員は二人の結果に注目し始めた。


「でっかい蝶ねえ。ノースロップに住んでてそんなの一回も見たことないけど」


 会議の終わり、バレットはデスクでぐうたらしながら、ケルシーとビクターに言った。


「私達も無いよ。でも、エイルマーさんが蝶の虜になった原因の蝶だって聞いたら、ちょっとでも良いから見てみたいんだ。模造紙に描かれていたのも、模型で表現されていたのも、本当に綺麗だったんだから! ねえ、ビクター」


 ビクターは隣でパソコンを叩いていた。この会議室では、もう残りの会議は行われないので、団欒したり仕事をしたりするにはちょうど良いのだ。


「私も見てみたいです、その蝶々」


 カーラが模造紙を撮影した写真を覗き込んで言った。


「捕まえても、収容できるところはあるのか? そのエイルマーさんって人の話を聞く限り、かなり高い場所を飛ぶ蝶だぞ。そんなに天井の高い収容室、此処に無いだろ」


 と、バレットを迎えに来たエズラは、ついでに食堂で買ってきたパンプキンカップケーキを片手に、ケルシーを見る。


「バドさんと、妊婦さんの話から想像出来る範囲では、害のある超常現象じゃなさそうだし......本当に、私たちが見たいだけ」


 ケルシーはペロリと舌を出した。いつの間にか、蝶を追う理由はそれになっていた。


 *****


 しかし、それから半月経っても、一ヶ月経っても、仕掛けた防犯カメラには何も映らなかった。協力願を出していた場所の防犯カメラにも、例の蝶は映っていない。


 ケルシーが経過報告をエイルマーにすると、彼は「いつまでも待ってますから」と電話越しに優しく言う。彼も彼で、全国を旅して文献や資料を手当り次第に探しているという。


『寧ろ、私にとって最高の冒険が始まったんです。いると分かっただけ、大きな前進ですよ、ケルシーさん。私は、まだ冒険を終わらせたくありませんからね』


 それを聞くと、ケルシーはホッとした。そして、更に情報を集めようと奮闘するのだった。


 しかし、情報は面白いほどに入ってこない。妊婦が見た、という情報が現時点では最も新しい情報であり、それを更新することは無かった。


 クレッグ夫婦は他に入ってくるB.F.の仕事を片付ける傍らで、蝶探しをしなければならなかった。少しずつケルシーの表情が暗くなっていくので、見かねたジェイスが声をかけてきた。


「何か違う方法でアプローチしてみるのはどうかな」


 日曜会議の終わり、ジェイスはあるメモ用紙を見せてくれた。それは、一つの超常現象に対して、沢山のアプローチ方法を生むために考案したメモだった。


「例えば、卵を探すのはどう? 成体よりも見つけるのは難しいかもしれないけれど、サナギや卵なら一つの場所から動かないし、カメラには映らないよ」


「卵、サナギ......」


 そうか、とケルシー。ビクターも隣で「なるほど」と眉を顰める。


「蝶ってなると、どうしても飛んでる成体の方に目を向けがちですけど、まだ生まれていない可能性もあるんですか」


「バドが目撃したのは、かなり寒い頃だったし、そもそも時期が異なるのかもしれない。今は眠ってるのかもよ」


「さ、探してみよう、ビクター!! 卵と、サナギ!!」


「分かった」


 ビクターは頷き、すぐに動き始める。ケルシーも椅子にかけていたカーディガンを掴んで、走ってオフィスを出て行った。その様子を、残された研究員たちは見守る。


「見つかりますかね」


 ラシュレイが言った。


「超常現象ってのは、意地悪だからなあ。でも、俺が見てきた限りでは、きちんとその人の気持ちに答えてくれるものの方が多いんだよ」


 ジェイスは微笑んで答えた。


 *****


 成体ではなく、卵とサナギ探しに移ったクレッグ夫婦は、フィールドワークを中心に蝶を探した。エイルマーは長旅から戻ってきたようだが、有力な情報は得られなかったらしい。がっくりと肩を落として戻ってきたが、クレッグ夫婦が卵とサナギ探しの段階に移ったことを言うと、嬉しそうな顔をして、調査に参加を始めた。


「なるほど、たしかに成体に限りませんよね。あの大きさに育つともなれば、卵もサナギもそれなりの大きさのはずです」


 エイルマーは、蝶の大きさから推定されるサナギの大きさの寸法を出してくれた。それは、驚くべき大きさのサナギだった。


「最低でも、3メートル、ですか?」


 ケルシーは顎が外れるかと思った。ビクターも隣で、メモをする手が止まっている。


「私も驚いています。ですが、模型から考えるに、それくらいが妥当です。卵も、それなりに大きいとは思います。サッカーボールだと思って、子供に蹴られてもおかしくはないくらいでしょう。そんな貴重なもので遊ばれるのはごめんですがね」


 ケルシーはもう一度注意深く防犯カメラの様子を見てみた。が、それらしいものは全くもって見つからない。3メートルもの大きさの物体が転がっていれば、警察に通報が行くだろうか。危険物だと判断するならば、一般人はそうするだろう。


「私、警察の人に話を聞いてみるよ」

「分かった」


 ケルシーが離れて行き、ビクターはエイルマーに更に詳しい情報を求めた。


「仮にサナギから羽化したとして、羽を乾かすとなれば時間はかかるものですか?」

「そうですね......正直、断言できませんが、それなりにはかかると思います......それも調べて見たいですね」


 エイルマーはソワソワしていた。3メートルと言って二人が驚いたので、自信が萎み始めているのだろう。今までほとんどの人間に信じてこられなかったのだ。やっと真摯に向き合ってくれる者たちに会うことができたのだ。


 驚異の大きさではあるものの、ビクターもケルシーも、模型から考えれば通常のサナギや卵のサイズでは無いと考えていた。寧ろ、通常サイズだと考える方がおかしいのだ。


「卵を産むとなれば、大抵葉の裏側でしょうか」

「そうなりますね。ただ」

「葉の裏に、サッカーボールがついているのは......」

「少々、葉が可哀想です」


 エイルマーは笑った。なら、また違うものに卵を産み付けるのだろう。


「ある程度の高さはあると思います。少なくとも、雨で流れないような場所には産むはずですから......」


 そこで、ケルシーが戻ってきた。しょんぼりと肩を落としている当たり、良い情報は得られなかったと見える。


 新しい情報は、サナギが最低でも3メートルあるということくらいだった。


 *****


「あれ、ビクターとケルシーは?」


 クレッグ夫婦のオフィスに鍵が掛かっていることに気がついたバレットは、隣の相棒を見た。


「ああ、何かケルシーも疲れてたし、ビクターが外で息抜きするって。公園にでも行ったんじゃねえの」


「そうかあ。まあ、此処最近頑張ってたしなあ、あの二人」


 バレットは扉から離れ、エズラと共に食堂に向かった。


 一方その頃、クレッグ夫婦はと言うと、西区のカフェに向かっていた。エズラから聞いたところ、新たにできた場所が美味しかったとのことだった。


「もう三ヶ月になるよ」


 ケルシーはビクターの隣で小さなため息をついた。皆の前で元気に振る舞う彼女も、夫であるビクターの前では少しだけ自分を見せるのだ。


 調査が難航していることは誰がどう見たって明らかだ。蝶の依頼にだけ集中するというわけにはいかない。中心メンバーである自分たちが受け持つ仕事は多いのだ。


 顔に影が差す妻の隣で、ビクターは空を見上げた。夜が近い。目が勝手に、ヒラヒラ動く影を探している。


「パッと現れて、パッと消える超常現象かな」

「有り得ない話じゃないな。此処まで探して見つからないんだから」


 冷たい風が吹いて、ビクターは自分の首からマフラーを取った。妻に巻いてあげると、彼女は「ありがとう」と微笑む。


「私も蝶々、見てみたいんだ」


 ケルシーはマフラーに口を埋めた。


「きっと、人を魅了する力がある超常現象なんだよ。エイルマーさんの人生を決めちゃった蝶だもん」

「そうかもな」


 再び強い風が吹いた時、通りかかった家の庭に咲いていた花が散った。白い花弁だったので、一瞬ビクターもケルシーも目を見張った。が、それはただの花弁であって、蝶ではない。


 ケルシーはビクターの手を掴んだ。


「もうちょっと調べてみる。エイルマーさんの運命の蝶々」

「俺も探す。きっと見つかるよ」


 温かい光が道路に溢れる。カフェの前に来ていた。花弁は、迫る暗闇の中に風と共に吸い込まれて行った。


 *****


 カフェから出た二人は、オフィスで飲むコーヒーの豆を切らしていたので、近くのスーパーで買うことにした。来た時と同じように手を繋いで歩いていると、ケルシーは「見て、お星様」と空を指さす。


 カフェで頼んだガトーショコラに降り掛かっていた粉砂糖が、ちょうどこんな夜空のようだった。ケルシーはあのほろ苦い味が口に蘇るのを感じて、幸せな気分になっていた。気分転換は上手く出来たようだ。


 横断歩道の前で止まった二人は、信号が変わるまで星空を眺めていた。


「流れ星流れないかな」

「そうそうないだろ」

「そうかなあ。私はいつだったか忘れたけど、何気なく空を眺めてたら星が流れたこと、あったよ」


 信号が変わり、二人は視線を戻して歩き始める。ケルシーは横断歩道の白い部分だけを踏んで歩き、ビクターはそんな妻に半ば引っ張られるようにして歩いていた。


「見て、此処だけ色が違う」


 ケルシーがおかしそうに笑った。横断歩道のちょうど真ん中の線が、他に比べて白いのだ。ビクターも「そうだな」と頷き、二人は横断歩道を渡り終えた。目当てのスーパーはもうすぐそこである。


 そういえば、家にパスタがなかったな、とビクターは他に買うべきものも思い出していた。家の中の引き出しを頭の中で片っ端から開けている時、ぐっと片腕が引っ張られた。


 前を歩いていた妻が、いつの間にか後方に居るのだ。


「ケルシー?」


 ビクターは振り返った。ケルシーは後ろを向いていた。渡ったばかりの横断歩道をじっと見つめているのだ。何か落ちているのか、とビクターは妻の視線を追うが、そこには何も無い。


「どうしたんだ」

「ねえ、ビクター」


 ケルシーが手を離した。完全に横断歩道に向きを変える。


「私たちが探してる蝶々のサナギ、何メートルだっけ」

「は?」


 ケルシーの目はまだ横断歩道を見ている。

 エイルマーが言ったのは「3メートル」だ。サナギどころか、何の昆虫にしても有り得ない大きさだが_____。


「まさか、此処から生まれてるって言いたいのか」


 ビクターは妻の顔を覗き込んだ。真剣に頷く彼女に、ビクターはもう一度横断歩道を見た。


「ねえ、覚えてる? あの日、二人で外部調査に行った日だよ」


 ケルシーが抑揚のない声で言った。それは、頭の中でひとつずつものを整理する時に彼女が見せる特徴なのだ。


 彼女は閃いたのである。


「此処の道路、通れなかったでしょ」

「そうだったな。塗り替えしてるとかって......」


 ビクターの目は、横断歩道の中央の線_____塗り替えられた新しい一本を捉えた。


「あれか」

「うん、でも変な話だよ。交通量が多いから塗装が禿げるんだよね? じゃあさ、他の場所も同様に禿げてないと変だよ。全部塗り替えないとおかしい」


 それに、とケルシーの頬は紅潮している。推理が終わろうとしていた。


「車が通るところ、考えてみて。横断歩道の真ん中なんて、よっぽどの事ないと車が通らないでしょ。じゃあやっぱり、変だ」


 横断歩道がまた青に変わった。ケルシーは歩き始める。二人は横断歩道の真ん中にやって来た。


「うん、やっぱり新しい」


 ケルシーが写真を撮って、反対側に渡った。


「警察に行こう。此処のこと、知ってるはずだから」

「分かった」


 走り出す妻の背中を、ビクターは追いかける。本当に、不思議なところから超常現象は顔を出すのだ。


 *****


「一夜にして、横断歩道の線が一本消えてしまったと」


 エイルマーは眉を顰めて、クレッグ夫婦の話を聞いていた。


「はい。イタズラとして警察は処理したそうですが......何か蝶と関係があるんじゃないかと思って......」


 警察に話を聞けば、あの渋滞の原因は一人の一般人からの通報だったそうだ。横断歩道の線が一本消えている。コンクリートにシールを貼り付けていたように、削った跡すらなく、忽然と消えてしまっていたのだとか。


 仮にイタズラだったとしても、こういう不思議な現象についてはB.F.に一言話をしてください、とビクターが担当の警察官に軽い説教をしたことは置いておいて、一つ大きく事が進んだ。


 ケルシーが偶然にも見つけた、横断歩道の中央の線。それは、今探している蝶のサナギの憶測の全長と同じである。これだけならば、まだ弱い情報なのだが_____、


「あの線が消えたのって、その前にも何度かありませんでしたか?」


 ケルシーは警察に迫った。それは、少し前にクレッグ夫婦が大渋滞に巻き込まれた時のこと。大渋滞の原因は、地面の塗り直し。例の横断歩道の線を描いていたのだ。


 そして、その大渋滞に巻き込まれた仲間である、国の官吏_____クレッグ夫婦に大渋滞の愚痴を吐いていたあの男が言っていた言葉がある。


『前も同じようなことがあったんだ。全く、勘弁して欲しい』


 前も同じことがあった。


「ありました......今からだいたい一年前です」


 警察の答えを聞いて、クレッグ夫婦はピンと来た。一年前。それは、バドが外で蝶を見た時期であり、そしてあの妊婦が家の中から蝶を見た時期なのだ。


「道路の塗り直しの記録を見せてください」


 ビクターが情報を求めると、警察は奇妙なものでも見るようにしながらも、奥から資料を持ってきた。その資料のコピーが、今エイルマーの手にある。三人は、西区にある公園のベンチに座っていた。


「今まで地面の塗り直しは何度かあったそうです。ただそれは......一本だけ塗り直すということではなく、道路全体を塗り直すという、風化による自然な工事です」


 ですが、とケルシーはコピーした資料の、ある部分を示した。そこには、赤いマーカーが引いてある。


「54年前、横断歩道を一本だけ塗り直したという記録がありました」


 エイルマーが目を見開いた。


「54年前......それって」


 ビクターが「そうです」と頷く。彼は鞄からファイルを取り出した。エイルマーが持ってきた模造紙のコピーがある。あの蝶の水彩画だ。


「これを描いたのは、小学生の時ですよね」

「じゃあ、あの横断歩道の線が、蝶の正体、と」

「そうなります」


 エイルマーはポカンとしている。想像を遥かに超える答えが現れたのだ。


「ただ、偶然現象が一致しただけかもしれません。まだ分からないのは、一本の平面の線がどうやって立体物の蝶になるか、というところです」


 蝶の正体は、横断歩道の中央の一本線である。しかし、あれは平面であって、立体では無い。どうすれば、あれが蝶の形になるのか。あとはそれを明らかにするだけだ。


「なるほど」


 エイルマーは、ふう、と小さく息を吐いた。ベンチの背もたれに深く腰をかけて、空を仰ぐ。街灯の光に眩しそうに目を細めた。


「そりゃ、どこを探しても見つからないわけです。横断歩道から生まれる蝶......なるほど、なるほど。興味深いです」


 ケルシーはチラリとビクターを見た。ビクターは肩を竦める。


「......信じられますか?」


 ケルシーは不安だった。超常現象と分かっていながら、その異質性と現実味の無さに、エイルマーが馬鹿らしく思ってしまったかもしれない。


「もちろん、信じます。私の人生の答えが、もう間近に迫っているんです」


 エイルマーは体を起こした。


「面白そうじゃないですか。平面から生まれる蝶。是非、その奇跡的な瞬間をこの目で見たい。私の人生を最高に狂わせてくれた蝶ですよ。行ってみましょう、その横断歩道に!」


 彼は立ち上がった。顔が輝いている。ケルシーはホッとした。


「行きましょう」


 もう少しだ。もう少しで、答えが分かるのだ。


 *****


「ラシュレイ、帰ろー」


 ラシュレイが帰る用意をしていると、部屋にジェイスが入ってきた。ラシュレイとは途中まで帰る方向が一緒なので、彼は時々オフィスに誘いに来るのだ。ラシュレイが車出勤の時は、ジェイスを家まで送り届けることもあった。


「あ、ジェイスさんっ!! ダメです!! 今日という今日は絶対にダメです!!」


 当然の事ながら、スカイラが間に割り込んでくる。ラシュレイは涼しい顔でそれをスルーし、部屋を出るのだった。


「イザベル顔負けのスルースキルを取得したんだなあ」


 ジェイスが苦笑し、ラシュレイとスカイラを交互に見る。スカイラが二人の間に無理やり体をねじ込んだところで、オフィスの電話が鳴った。


「あ、僕が出ます!」


 と、スカイラが電話に走って行く。


「良い助手じゃん」

 ジェイスがラシュレイの耳元で言った。


 素早く動いてくれるという点では良い助手なのだ。しかし、


「僕とラシュレイさんの愛の巣に、お電話ありがとうございます!!」

「おお、斬新な出方」

「やめるように何度も伝えたんですけどね」


「ふんふん......人手が足りないので、手伝って欲しいということですね! 任せてください!!」


 スカイラはそこで電話を切った。


「何だった?」

「ビクターさんとケルシーさんが、実験のお手伝いをお願いしたいとの事でした!! 西区の公園に集まって欲しいと!」

「西区?」

「蝶の依頼ですかね」

「あれか!! 遂に動いたんだね! よし、行こう!!」


 ジェイスが顔を輝かせて、一番に走って行く。ラシュレイとスカイラもその後に続いた。


 *****


 西区に着くと、道路が封鎖されていた。ビクターとケルシーが実験を始めるようだ。ラシュレイは車の中から、警察にB.F.のカードを見せて通してもらった。


「ど、どうして道路が通れないんですか?」

「道路に原因を見つけたのかもね? あ、居た」


 ジェイスが指さした前方向に、ビクターとケルシーが居た。二人の他にもう一人白髪の男が居る。三人とも公園の前に立っていた。ラシュレイはその近くに車を停めた。


「来てくれてありがとう、ラシュレイ、スカイラ!」

「ジェイスさんもありがとうございます」

「良いの良いの、こういう時は先輩をじゃんじゃか頼りなさい!!」


 ジェイスがドン、と胸を叩き、辺りを見回した。聞いていた蝶やサナギ、卵が見当たらない。封鎖されている範囲は、一つの交差点だけという僅かなものだった。


 ビクターは三脚にカメラをセットしている。ラシュレイはすぐにそれを手伝いに向かった。


「実は、横断歩道から蝶が生まれる可能性を考えたんです」

「横断歩道?」


 はい、とケルシー。彼女は自分たちの考察をジェイスたちに話した。


 蝶は横断歩道から生まれるということ。それに必要な条件は、恐らく「新月」であること。


「エイルマーさんの水彩画には月が描かれていませんでしたし、話を聞いた妊婦さんも、蝶を見た時に月は出ていなかったと言っていました」


「なるほどね。バドは月に関して話をしていなかったけど、印象が薄かったってことは月が出ていなかったってことで良いのかな」


 ジェイスは空を見上げた。星が綺麗で、月は何処にも見当たらなかった。新月だ。条件を揃えるには、今日しか無いと考えて良いだろう。


「考えつく限りの条件は試してみるつもりです。明朝までに」


 と、ビクター。


「うん、分かった。片っ端からやってみよっか」


 *****


 蝶が現れる条件を、クレッグ夫婦とエイルマーは沢山用意していた。


 まず、横断歩道が赤から青へ変わった時、人が一人だけ歩くというもの。ケルシーが対岸に一人で渡ったが、蝶は現れなかった。


 続いて、二人で渡った時。クレッグ夫婦が二人で渡ったが、蝶は現れない。


 その後も、三人目、四人目と人数を増やしたが、全員で渡っても蝶が現れることはなかった。


「人数が原因ではなさそうだね」


 バインダーにペンを走らせていたジェイスが言うと、ケルシーは素早く次の方法に取り掛かった。それは、一時間、誰一人として横断しないというもの。


「普段は交通量が多い道路ですから、低い確率で一時間、誰も通らなければ、蝶が生まれるんじゃないかと思って考えたんです」


 ケルシーの仮説立証のため、皆、歩道に留まって一時間待った。夜とはいえ、この道路は交通量が多い。ノースロップの中心部へ続く道路であり、夜はトラックなどの大型の運搬車が通ることがあるのだ。車が通らない条件というのがつく場合、それが適うのは低い確率だろう。しかし、今は100パーセント車が通らない。道路は封鎖されているのだ。


 一時間後、何の変化も無い光景が広がっていた。


「ダメか。時間も無いし、他のものを考えよう」


 ビクターが、続いて考えた案を持ってきた。次は、横断歩道を赤信号を無視して渡るというもの。夜、誰も見ていないとなれば、信号を無視する者も居るだろう。


 これも失敗。


「じゃあ、転ぶ」


 ジェイスが対岸に向かう最中、わざと転んだ。青信号の場合と赤信号の場合、両方試したが、蝶は現れない。


「うーん、現れませんね」


 スカイラがフワッと欠伸をした。この時点で夜中の一時を回っていた。


「俺らはもう少しやりますが、ジェイスさんたちは帰って頂いても......」

「呼んでおいてなんですが、いつ結果が出るかもわかりませんし......」


 クレッグ夫婦が申し訳なさそうに言うと、ジェイスも、そしてラシュレイも首を横に振った。


 この夫婦が、何ヶ月も懸命に追ってきた蝶なのだ。その蝶を見ることが目標になったのは、エイルマーやクレッグ夫婦だけではなかった。


「俺らも一緒に見届けたいよ。ね、ラシュレイ」

「はい」

「僕は眠いです......」


 ラシュレイの肩にもたれて、スカイラはウトウト始めた。


「ありがとうございます」

「ありがとうございます」


 クレッグ夫婦に遅れて、エイルマーがそう言った。彼も眠たげだったが、誰よりも強い意思が瞳に燃えているのだ。彼がこの中で最も蝶を見たがっていた。


「じゃあ、次の仮説ですが......」


 *****


 東の空が白みかかってきた。歩道の縁石に座り込んで、五人の研究員と一人の生物学者は、じっと横断歩道を見ていた。


 考えつく限り全てのものは試した。しかし、蝶はいつまで経っても現れなかった。


 もし、ケルシーが仮説した、定められた時間内、車や人が一つも通らないことが条件だとすれば、その実験は今日中には出来ない。


 また一ヶ月後、新月になるのを待つしかない。もし、「秋」や「冬」であることが条件だとすれば、一年後に実験は行われることになるだろう。


 新月が原因ではなかった?

 そもそも、横断歩道から生まれる仮説は間違っていた?


 横断歩道の塗装が消えるのは、また違う超常現象なのか。


 ケルシーは膝に顔を埋めた。疲労と眠気に加えて、朝方まで実験に付き合わせてしまった他の研究員に申し訳なさが募る。彼女には珍しく、酷くネガティブな気持ちが生まれていた。


「まあ、結果は得られなかったけど......」


 ジェイスがポツリと呟いた。


「綺麗な空を見るっていうご褒美は待ってたね」


 彼は明るい声でそう言って、ケルシーを元気づけた。しかし、彼女の気持ちはなかなか戻らない。ビクターが妻の手に自分の手を重ねながら、手元のバインダーにメモをしている時だった。


 強い風が吹いて、彼のバインダーからメモが外れた。「あっ」と皆がその紙を目で追う。


「俺、取ってきます」


 と、ラシュレイ。肩に寄りかかって寝ていたスカイラが、「んがっ」と目を覚ます。

 隣の存在がいつの間にか消えていたことに気がついて「あれっ!?」と立ち上がった。


「紙、取りに行ってくれたんです」

 と、エイルマーが微笑む。彼の目の下にはくまができていた。


「皆さん、すみません......」


 ケルシーが膝に顔を埋めたまま謝った。


「謝らなくても良いんですよ、ケルシーさん。まだ見られないと決まったわけではないんです。楽しみが先に伸びたと考えることが出来ます」


 エイルマーが優しく言った、その時だった。


「あれって!」


 スカイラが叫んだ。皆の目が瞬時に横断歩道に向かう。が、そこには風で飛ばされてきた白い花弁が舞うだけだった。いつかのクレッグ夫婦が、一瞬目を奪われたあの現象だ。


「花びらだよ」

 とジェイスが苦笑した。


 花弁が横断歩道の真ん中の線に落ちた。すると、ムクリと地面が膨れ上がり、うねった。思わず全員が目を見張る。全員が全員、寝不足による見間違いだと思ったのだ。


 しかし、それは見間違いなどではなかった。


 白い花弁が付いた例の白線が、だんだん膨れ上がっているのだ。ぷっくりと、空気が入ったように。そのうち節ができて、頭が尖り、その立体物は皆がよく知る形になった。


「サナギ」


 ケルシーの口からその単語が零れる。


 ラシュレイが紙を片手に戻ってきた。彼もまた、サナギを凝視していた。


「ビクター、カメラ動いてる!?」

 ジェイスがビクターを振り返る。ビクターはカメラに走り寄り、「大丈夫です」と頷く。


 サナギは数分もしないうちに、背中が割れた。エイルマーが「あっ」と小さな声を出した。


 純白の羽が、徐々にサナギから現れ始めたのだ。それはあまりにも美しい光景だった。誰もが瞬きを忘れ、口を半ば開けたまま、その光景を眺めていた。


 サナギから現れたのは、巨大な蝶だった。それは殻の上に凛々しく立ち上がり、羽をピンと張った。模型と全く同じものだと、クレッグ夫婦は思った。


「飛びますよ!」


 スカイラが言うと、蝶は殻の上から飛び立った。まだ黒い空に純白の花弁は吸い込まれていく。高く高く、それは星空の一部になるかの如く、ノースロップの上空を飛んで行く。


「追いかけよ!」


 と、走り出そうとする彼女の腕を、エイルマーが掴んだ。


「今日はもう、お開きにしましょう」

「どうしてですか? あの蝶が何処に行くのか、きちんと確かめないと......」

「今は皆さんの健康の方が大事です」


 エイルマーは、皆の顔を見回した。皆、寝不足故に酷い顔をしていた。彼は柔らかく微笑んだ。


「あの蝶の行先なら、何となく分かります」

「どこですか?」


 ケルシーが問うと、彼は徐ろに空を見上げた。蝶は、既に小さな点のようになっていた。


「誰かの夢の、入口の扉です」


 *****


 それから、五人の研究員と一人の生物学者は、B.F.に戻って仮眠室で死んだように眠った。目を覚ます頃には、太陽が高く昇っていた。


 サナギは、蝶に目を奪われているうちに消えてしまっていた。当然、白線も一本消えていた。クレッグ夫婦の仮説は、合っていたのだ。


 遅めの朝食をとった後、研究員たちはエントランスでエイルマーと別れた。彼は眠たげだったが、その目には輝きが点っている。


「ビクターさん、後で写真を送ってください。出来れば、ビデオも!! 早く確認したいんです!! あの模型も作り直さないとなりませんからねっ!」


 エイルマーの口は素早く動いた。ビクターが分かりました、と頷く。続いて、エイルマーは皆に向き直った。


「皆さん、長い間お世話になりました。とても楽しい実験でした」

「こちらこそ、貴重な超常現象を発見して頂き、感謝しています」


 エイルマーはクレッグ夫婦と握手を交わし、ジェイスとラシュレイ、スカイラとも握手を交わした。


 最後に彼はケルシーを抱きしめた。


「良いですか、ケルシーさん」

「はい」

「私に夢を持ってきてくれたように、あの蝶は貴方にきっと何か素敵な贈り物をするはずです。何を貰ったか、いつか私に教えてくださいね」


 ケルシーは「はい」と笑った。その表情は、いつもの彼女だった。エイルマーはそれを正面からしっかりと見て、「それでは、私はこれで」とエントランスから出て行った。


「楽しい実験だったね」


 ジェイスはエイルマーの背中を見届けて、そう言った。


「はい」


 ケルシーは目を閉じた。瞼の裏に、白い蝶がチラチラと舞っている。長期の実験の結果は、美しい光景だった。


 *****


 それから一ヶ月後。エイルマーは、あの蝶に関するレポートを書き終えたようで、クレッグ夫婦の元にそれを送ってくれた。相変わらず他の学者は相手にしてくれないようだが、あれは頑張った自分たちだけが見られる特権として、心の中に留めておくのが最善だと、彼は思ったらしい。レポートの最後には、そう書いてあった。


 それから、エイルマーは蝶を求めて世界一周の旅に出るそうだ。あの蝶に勝る蝶がまだ居るかもしれない、と彼は意気込んでいた。


 ビクターは家のリビングで、そのレポートを読んでいた。あの実験の夜、「百歳を超えても蝶の研究をしていたいんです!!」と語っていたが、彼なら何歳になっても蝶を追いかけ続けるだろう。


 ビクターはレポートを置いて、ノートパソコンを立ち上げた。長期の実験だったがために、此方はまだ資料や報告書が出来上がっていないのだ。

 ケルシーの提案で、本来は外部に漏らすことは無いのだが、エイルマーには特別に、資料や報告書をコピーして送ることにしたのだった。


 書きかけの報告書をファイルから引っ張り出している時だった。


「ビクターッ!! ちょっとちょっとちょっとおっ!!」


 二階から転げ落ちるようにして降りてくる妻。いつものことなのだ。虫が居たから外に出してあげたら、運悪く鳥に食べられただとか、ベッドメイキングしたらベッドの下からお菓子の空袋が見つかったとか、何かと大袈裟に報告してくるのだ。


「ビクター、ビクター!!」


 彼女はノートパソコンを見つめる夫の視界に無理やり入って来た。


「邪魔」

「ちょっと、ちょっと、凄いんだよ!! 見てこれ!!」


 ビクターは、妻に何かを渡された。それは、


「......これ」

「妊娠してるっ!!!!」


 妊娠検査薬だった。ビクターが「......は?」と妻の顔を見る。


「子供だよ!! 私たちの!!」


 彼女が言った次の瞬間、ビクターは彼女を持ち上げていた。腕の中でキャッキャと笑う彼女は、幸せそうだ。


「病院行くぞ、今すぐ」

「あれ、今日は仕事でしょ?」

「してる場合か、準備しろっ」


 ビクターが妻を下ろし、二階に駆け登っていく。その途中で派手に転んだ音がした。


 ケルシーは、夫の変わりように笑いを零しながら、テーブルに放置されたノートパソコンを覗いた。文書作成ソフトの、新しいページを立ち上げた。


『お疲れ様です、エイルマーさん! 蝶探し世界一周の旅は順調ですか? 戻ってきたら、沢山のお話を聞かせてくださいね! 私達も報告したいことがあるんです!! あの日、あの蝶が私たちに何をもたらしてくれたか、お伝えしますね!! きっと驚きますよ!!


 ケルシー・クレッグより』


 ケルシーは、少し考えて、文章を付け足した。


『あの蝶ですが、エイルマーさんが仰っていたのは正しかったですよ!!』


 彼女は微笑み、送信ボタンを押した。


『私達も、あの蝶が天使だと思います!』

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