安全第一
あるオフィスの扉を叩く者が居る。B.F.星5研究員のバレット・ルーカス(Barrett Lucas)だ。彼はノックをしていないもう一方の腕に、分厚い書類を持っていた。
今日の昼に会議があったが、カーラが実験室から急な呼び出しを受けたので、途中で席を外したのである。バレットはそれで、彼女が机に置いて行ったままだった資料を持ってきてあげたのだった。
ノックが済むと中から男の声がした。カーラには助手が居るのだ。扉を開くと、黒髪に赤いメッシュを入れた少年がバレットを出迎えた。
B.F.星1研究員のアドニス・エルガー(Adonis Elgar)だ。
「何すか」
「カーラに届け物〜......って、あれ? 居ないのか?」
オフィスには、どうやらアドニスしか居ないようだった。ああ、とアドニスはカーラのデスクを振り返る。そこには卓上カレンダーが置いてあり、事細かに予定が書き込まれていた。今日の日付のところに緑の丸が付いているのを、バレットは見た。
「ん!? ちょっと待て。カーラって今日......」
「外のお偉いさんのとこに行くって言ってました」
バレットの顔がサッと青ざめた。
「な、なあ、アドニス。カーラ今日、なにで出勤してた?」
変な質問をしてくる先輩に対し、アドニスは眉を顰めながら答えた。
「車っす」
ガタッ!
バレットはアドニスが半分塞いでいた扉を、全力で押してオフィスに無理やり入った。カーラのデスクに放るように資料を置くと、何故か壁にかけられた電話に向かって走っていく。
そして、受話器を取って次の質問をしてきた。
「何時頃!?」
「はい?」
「いつ頃出てった、このオフィス!!」
「えっと」
アドニスは時計を見る。もう少しで昼だ。
「五分前、くらいですかね」
突然顔を青ざめさせたり、先輩の交通手段を聞くや否やオフィスに飛び込んできたりするとは、一体何がしたいんだこの人、とアドニスは冷めた目で彼の姿を目で追う。
「おい、コナーさんのオフィスから例の超常現象の資料借りてきたぞ」
開け放たれたオフィスの扉から、青髪の男が顔を覗かせる。バレットの相棒エズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)だ。
バレットは既に受話器を取って、番号を打ち込もうとしているところだった。しかし相棒の声を聞いて、顔面蒼白で次のことを叫ぶ。
「エズラっ!! カーラ、カーラが車でお偉いさんのとこ行こうとしてるっ!!! まだ居るはずだから、止めてこいっ!!」
すると、エズラもまた、バレットそっくりに顔を真っ青にした。
「すぐ行く!!」
そして、稲妻の如き速さでオフィスを後にしたのだった。
一方でバレットは、ある相手に電話を繋げたらしい。
「あっ、もしもしラシュ_____っちっげー!! スカイラッ、今すぐ変われ!! ラシュレイに変われっ!!」
凄い剣幕で電話に向かって言うので、アドニスはもはや固唾を飲んで見守るしかない。
「あっ、もしもしラシュレイ!? お前って車出勤だよな!? 鍵あるかっ!? ちょっと頼みたいことあるけど、今良いかなっっ!?」
バレットは「うん、うんっ......!」と頷く。
「そうっ!! じゃあ、よろしくなっ!! 頼む、急いでくれっ!! 」
電話が置かれた。バレットは電話に手をかけたまま、肩で息をしている。
「......あの」
そんな先輩の背中にそっと声をかけるアドニス。さっきから疎外感が半端ない。
「あ、ああ、悪い......説明する......ちょっと、休ませて......」
バレットはそう言うと、カーラがいつも座っている椅子に腰を下ろした。アドニスがピクリと眉を動かしたことにすら気づかないほど、バレットは疲労困憊していた。
何なんだ、一体。
燃え尽きる赤髪と、顔面蒼白の青髪が出て行ったまま開けっ放しの扉を、アドニスは交互に見た。
*****
「す、すみません、ラシュレイさん。送って行ってもらってしまって......」
B.F.星4研究員のカーラ・コフィ(Carla Coffey)は、ラシュレイの車の助手席に居た。手には分厚い茶封筒。厳重に包まれて、物々しい雰囲気を醸している。
「いや」
星5のラシュレイ・フェバリット(Lashley Favorite)は、信号に止まってサイドブレーキをギッと引いた。
「大丈夫」
そして、チラリと彼女の腕の中の茶封筒を見やった。
「それ、本来ならビクターさんとケルシーさんが提出しに行くものなんじゃないのか?」
カーラが持っている茶封筒の中身は、定期的に国に提出する報告書である。本来ならばラシュレイやカーラと同じ中心メンバーのビクター・クレッグ(Victor Clegg)か、ケルシー・クレッグ(Kelsey Clegg)が提出するものである。
それを、どうしてカーラが持っていくのか。
「ビクターさんもケルシーさんも、とっても忙しそうで......コナーさんも、この前引き受けたお仕事がまだ終わっていないと会議で話していましたし......」
たしかに、クレッグ夫婦は多忙だ。国どころか、最近は地域住民にも仕事の視野を広げている。せっかく大量の新入社員を入社させたのに、人手がまた足りなくなってきている。
コナーは、まあ_____半分嘘だろう。彼は上手くサボるのが得意なのだと、バレットとエズラがよく話しているのを聞く。
「ラシュレイさんも、此処最近、会議が多そうでしたし......」
ラシュレイはサイドを降ろして発進させる。街の中心部の大道路なので、人も車もひっきりなしに動いている。
「まあ、たしかにな......」
会議の場数だけは、おそらく今までの実験数を超えただろうな、とラシュレイは思う。最近、何かと大小様々な会議に呼ばれるので、オフィスに居る時間も少ない。スカイラの不満も溜まっている。今日は朝イチからベッタリだったのだ。
「だから、私が_____ひゃっ!?」
突然、ぐんっ、と体が前に倒れそうになった。カーラは慌てて足で踏ん張り、資料が落ちないように胸にしっかり抱く。シートベルトが強く彼女の体をシートに固定した。
目の前に、パッと白いものが現れる。ラシュレイの左腕だった。
「......ごめん。大丈夫か?」
「は、はいっ」
カーラは頷いた。車は右に曲がろうとしていた。カーラは一瞬だが、目の前を横切る一台の自転車を見た。横断歩道は、既に信号機が赤に変わっていたが、自転車はそれを無視して交差点に入ってきたようだ。
「危ないな」
「ほ、本当ですね」
ラシュレイは車を動かす。再びまっすぐな道路に戻り、彼は止まっていた会話を続けた。
「それで?」
「えっと、それで......わ、私が行くことにしたんです」
「でも遠いだろ。車でもかなりかかるんだぞ」
「は、はい......あの、でも私......!」
カーラが資料を片腕に抱いて、空いたもう一方の腕を自分の顔の前に持ってきた。きゅ、と小さな拳を作る。
「運転免許、取りましたからっ......!!」
*****
「はあ、なるほど」
アドニスは目の前の二人を見た。呼吸が回復したバレットに対し、エズラは_____アドニスの椅子の上で、荒い呼吸を整えているところだった。全力疾走してきたらしい。
「つまり、運転が下手くそと」
「そういうこと」
*****
これは、つい二日前のことである。
「んげっ!!」
小ミーティングが終わって、バレットは何やらポケットの中を探っている。
「何だよ」
隣で席から立ち上がりかけていたエズラは、バレットを振り返る。
「く、車の鍵落としちゃった」
「はあ? 朝、デスク横の壁にぶら下げてたろ」
「飯食う前に一旦車に戻ったんだよ、忘れもんしたからっ!! その後......何処、やったんだろ......」
バレットは顎に手を当てて、グッと記憶を巡らせるが綺麗なほどそこの記憶が無い。そもそも簡単に忘れ物を見つけられたら、全人類もっとストレス無く生きられるのである。バレットは頭を抱えて「ああああっ!!」と立ち上がった。
「どうしよう、どうしようっ!! なあ、俺ら午後に外部調査一件あるよな!? 最寄りの駅から結構遠いところだったよなっ!?」
「そういや......じゃあ、尚更鍵見つけねえとやべえぞ」
エズラは言うが、腕時計を見る。もう時間は無さそうだ。
「仕方ねえな、ちょっと遅れるかもしれねえが、電車で......」
「あ、あのっ!」
ほとんど人が居なくなった会議室。唯一、二人の会話を聞いていた者が居る。それがカーラだった。何やら片腕を高々と挙げて、何か言いたげな様子で此方を見ている。よく見ると、その高々と挙げられた片腕の指先には、小さな鍵がぶら下がっていた。
「わ、私が運転しましょうか......」
*****
「いやあ、マジで助かったわあ」
バレットは白衣を着ながら、カーラの車の後部座席に乗り込んだ。その隣には同じく白衣を羽織ったエズラ。カーラは運転席に乗り込んだ。
「カーラが運転免許取っていたとは、知らなかったよ。なあ、エズラ!」
「そうだな。いつの間に通っていたんだ? 自動車学校」
「半年ほど前から、お仕事がお休みの日に......。でも、卒業したのは本当に最近なんです」
シートベルトを締めながら、カーラは言った。
「そうなんだ〜。これならビクターたちも、少しは負担減るかもなあ。俺らもこういう緊急事態の時はカーラを頼れるってことだろ!?」
「お前はまず、自分の物の危機管理を見直せ」
忘れ物をして後輩に仕事場への送り迎えを頼んでいるようでは、先輩として顔が無い。
カーラは後ろの会話は聞こえていないらしい。エンジンを作動させ、ミラーや椅子の位置をしっかりと確認し、まずは少し前へ、右左を見てゆっくりと車を発進させた。
「す、すみません。安全運転かもしれませんが、大丈夫ですか?」
「おう、大丈夫!! ちょっと遅れたって文句言えないからっ!!」
「バカ、プレッシャーになったらどうすんだ」
相棒の言葉に、エズラは口に人差し指を当てて小声で言う。が、やはり運転席の少女には聞こえていないようだ。駐車場から出た車は、大通りへと出た。
「それにしたって、最近は外部調査も増えたよなー」
バレットは頭の後ろで手を組んで、のっしりと後部座席のシートにもたれ掛かる。
「そうだな。まあ、仕方ないだろ。寧ろB.F.内で新しい超常現象見つける方が珍しいくらいになってきてるからな」
「本当だなあ......あ、カーラ、そこ右ね」
バレットは後ろから指示を出す。カーラは、「はい」と頷いてウインカーを出す。
「ま、でも、自由度も上がったと言えば上がったし、めちゃくちゃ楽しいから良いんだけど_____ぶおえっ!?」
突然、バレットの体が遠心力によって左に大きく傾いた。エズラの太ももに頭が乗るレベルである。エズラもエズラで、ガンッ!! と痛そうな音を出して横のガラスに頭を強打している。
エズラの太ももまで倒れたバレットの位置からは、ちょうどシートの隙間から直接カーラの姿が見えるのだった。物凄くハンドルを切っている。そりゃもう、物凄く。物凄いスピードで。
「えっ、えっ、ちょ、あの、カーラさん」
「す、すみませんっ!! 道、間違えましたかっ!?」
後部座席組の反応が変だと気づいたのだろう。カーラは慌てた様子で聞いてくる。
「いや、間違ってないけど......でも、あの、凄いスピードでハンドル切るね_____」
「カーラ!! 前っ!!」
「へっ!? わああっ!!」
ぎゅんっ!!
「ぼべっ!!」
「うぐっ」
エズラの太ももに倒れていたバレットは、助手席のシートの後面に顔をめり込ませた。同じくエズラも、顔を強打する。
「ひ、人を轢くところでした......」
「カーラ、落ち着いて!!」
「落ち着け、カーラ! 横断歩道に人、居ないか!?」
「は、はいっ!! 大丈夫です!!」
「よし、じゃあ、進もう!!」
「はいっ!!」
ギュイイイイン!!!!
「あああああああ!!! カーラ、カーラ!!!! それっ、アクセル全開!!!!」
「カーラアアアアッッ!!!!!」
その日、二人は二十分も早く外部調査先に着いたのだそうだ。
*****
「此処で大丈夫です!」
カーラはラシュレイに礼を言って、車から降りた。
「中まで着いていくか」
ラシュレイは、カーラが扉を閉める前に問うが、彼女は首を横に振った。
「今日は乗せて頂きましたし......これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきませんから......!」
カーラは微笑み、扉を閉めた。ラシュレイは頷き、車で待つことにした。
*****
「あの日の乗り心地と言ったら......。誘拐事件の時のコナーさんを彷彿とさせる運転だったな......」
「ああ、デジャブは感じた」
バレットとエズラはようやく疲れが取れたらしい。すっかり思い出話に変わっているので、アドニスは欠伸を噛み殺すのに必死であった。
取り敢えず、自分の先輩に運転技術が全くと言って良いほど見込めないことは分かった。これからの出勤は、彼女の安全のためにも電車かバスを進めた方が良さそうだ。
「なあ、アドニスー」
バレットが椅子の背もたれに顎を乗せて話しかけてくる。それはカーラの椅子だってのに_____と、彼を突き飛ばしたくなる心を抑えて、アドニスは「何です」と問う。
「お前、早めに免許取るんだぞー」
「はあ」
「これじゃあ、いつまで経っても外部調査は遅刻ギリギリになるか、寧ろめちゃくちゃ早く着くか、それか死ぬかだよ」
まあ、たしかに死人は出そうである。逆に今まで人を轢いていないことと、他の車にぶつかっていないことが奇跡に思えるほどだ。
「あ、それにねえ」
バレットがニヤニヤして立ち上がる。ちょいちょい、と手招きされたので、アドニスは怪訝に思って彼に近づいた。耳を貸せということらしい。アドニスは右耳を彼に貸す。
「お家行って送り迎えできるようになるんだぜ、先輩をさあ」
「.......」
アドニスはジトッとした顔をバレットに向ける。
「ま、それは後々カーラと話し合って決めるんだぞー」
行こうぜ、とバレットがエズラを連れてオフィスから出ていく。アドニスはオフィスの扉を閉めようとしたが、
「あっ、アドニス」
カーラが戻ってきた。手からは行きに持っていた茶封筒が無くなっている。
「ラシュレイさんに連れて行ってもらったんだ。帰りに少し寄り道してもらって、デザート買ってきちゃった。後で一緒に食べよう」
カーラは代わりに、ケーキ屋の箱を持っていた。アドニスの頭にはあの黒髪の研究員の姿が思い浮かぶ。
もし自分が免許を取っていれば_____今日はドライブデートの日だったってことなのか。
「アドニス?」
「......お前、明日から車じゃなくて、電車通勤にしろ」
「えっ!! どうして? 車の方が早いよ......」
「お前が無理やり早くしてんだろうが」
アドニスはカーラの手からひったくるようにしてケーキの箱を奪い取り、自分の席に持っていく。カーラは紅茶を用意しようとオフィスの奥へ向かった。
アドニスは自分のデスクの上にあるカレンダーを見た。もう少しで誕生日。誕生日が来て最初にすることは、自動車学校の入学手続きだ。
彼は真っ赤なボールペンで、自分の誕生日にグリグリと印をつけたのだった。




