File074 〜囀るガラス〜
「復っっ活ーー!!」
ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)は両腕を天井に突き刺す勢いで、そう言った。
「ジェイスさん、うるさいっすよ」
B.F.星5研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)は手元のバインダーに書き物をしながら言った。
「そう硬いこと言わないで、コナー! だんだんナッシュさんに似てきたんじゃね?」
「マジでやめてくださいっす」
此処はB.F.のエントランス。他にも人は居るが、特にこの三人が賑やかである。
一人はジェイス・クレイトン。七、八年という長い年月を経て、再びB.F.に戻ってきた研究員である。
もう一人はコナー・フォレット。ジェイスがまだB.F.に居た頃、既に星2だったが、今ではB.F.をまとめる星5へと昇格している。
最後の人物は人とカウントするべきか分からないが、一応オーダーメイドの巨大な白衣は着ている。
彼の名前はバド・バンクス(Bud Bankes)。人間離れしているのは身長だけではない。顔が街灯の頭部に置き換えられているのだ。彼はジェイスの初の外部調査で出会った、街灯と一体化した成人男性だ。定期的に記憶を無くすという性質を持っていたが、ジェイスが与えた強い衝撃によってその性質は失われ、今は異形頭と超身長いう性質だけが残っている。
さて、今日はジェイスが心待ちにしていた日だ。前述の通り、ジェイスは少し前まではただの一般人だった。しかし、今はタンクトップの上に白衣を着ているのだ。胸にはギラギラと光るチェーンのネックレスがぶら下がり、耳のピアスは一般人時代よりも数個増えている。これが研究員としての彼である。
彼は今日からまたB.F.研究員なのである。
「なあ、俺らどっから回るの!? やっぱ実験室!? 俺のオフィス何処っ!?」
「うるさいです。子供なんすか。落ち着いてください」
コナーはため息をついた。
つい一週間前まであった暗さは何処へ行ったのだろう。たしかにこんな人だった。まさか、此処まで綺麗に戻るとは。恐ろしいものである。
さて、コナーは自分のオフィスの仕事がちょうど片付き、今日はこの二人の新入社員に施設内研修を行うのが仕事である。
クレッグ夫婦やバレットとエズラに任せたいところだが、バレットたちはちょうど大きな外部調査に出かけており、クレッグ夫婦は国に重要書類を届けに外へ出た。ラシュレイとカーラは助手育成に力を入れてもらう必要があるので、最も暇な人物が自分となる。
心外である。どうしてデカい仕事を片付けた直後は、毎度新しい仕事が舞い込んでくるのだろう。
そりゃ、ジェイスが戻ってきてくれることが嬉しくないわけではないが......こんなテンションの人間と一日中一緒に居るのは拷問である。
コナーはバインダーから顔を上げて、ジェイスの隣でさっきから突っ立っているバドを見た。周りの目は気になるが、そのうち慣れるだろう。彼も特に気にしている素振りは見せない。
実は、彼はジェイスとは違ってこの施設が既に家になっていた。彼が元々居たモーペスブリッジの八番目の街灯の位置は、既に新しいものが置かれているので、彼は帰る家が無くなったのである。
バドがジェイスを連れてB.F.にやって来た後、コナーたちはバドをB.F.のセーフティールームに移動させたのだった。天井が高い部屋がちょうど空いていたのだ。彼はそこが自室となった。つまり、一週間前から彼はこの施設に居た。しかし、きちんと施設内を見て回るのは初めてのはずだ。
「そんじゃ、まあ最初は......」
コナーは目をバインダーに戻した。視界の端に真夏の太陽よりも眩しいジェイスの顔がチラチラ映るのが非常に鬱陶しい。
「試験、受けてもらいます」
「......ほえ」
*****
「ジェイスさん、30パーセントの正答率。バドさんは、80パーセントですね。バドさん、合格おめでとうございま_____」
「待って待って待って!!!」
三人は会議室に移っていた。それも小さな部屋ではなく、バドが頭をぶつけないように天井が高い会議室だ。なので、広い会議室を三人だけで使用することになった。
コナーの淡々とした合格発表に、ジェイスは納得が行っていない様子である。
「俺、この問題解いたのもう十年も前なんだけど!!」
「問題集、事前に配ってましたよね」
「読んでない!」
「じゃあ自業自得っすよ」
机に突っ伏して絶望するジェイスを置いて、コナーはバドに解答用紙を返却した。
「少し難しかったです」
バドはまじまじと解答用紙を見つめてそう言った。
「そこまで意地悪な問題は出てないっすよ。それくらい出来ていれば上出来っす。あとは研究員生活の中で知っていくことでしょうし。実際に見てみないと解答に書いた超常現象が存在する実感も湧かないですしね」
コナーは肩を竦め、ジェイスにも解答用紙を返した。
「うう、俺が居ない間に問題めちゃくちゃ難しくなってるじゃん......」
「変わってないです」
「コナーは当時星2だったから分かんないんだよ! 俺の世代の星5の試験、ナッシュさんが作成者だからね!? 超激ムズ問題続きで、合格率10パーセントだよ!!」
「それ合格出来たのに、これ解けないんすか」
「十年前だもん!!」
再び机に突っ伏したジェイスを見ながら、コナーは、そりゃそうだよな、と思うのだった。自分も十年前の試験内容を覚えているかと問われれば首を傾げる。だが、試験内容を網羅した問題集は配っていたのだ。これはきちんと目を通して来なかったジェイスにも問題がありそうだ。
「俺、B.F.研究員に戻れないのかな」
ジェイスは今にも泣きそうな顔をしている。バドがそれを慰めていた。どっちが先輩なんだか、これではさっぱり分からない。
コナーは、バインダーに挟んでいた二枚のカードを手に取った。紐がついたカードである。コナーはそれを二人にそれぞれ差し出した。
「はい、これが研究員カードです」
「えっ!?」
「ありがとうございます」
目を丸くしてカードを受け取るジェイスと、礼儀正しく両手で受け取るバド。ジェイスは自分の顔を指さした。
「俺、合格で良いの!?」
「まあ、最初から合格っすよ。つか、何を今更言ってるんっすか。星1からやり直すつもりっすか?」
ジェイスはポカンとコナーを見上げていたが、ゆっくりとカードに目を落とした。
「ジェイス・クレイトン......B.F.特殊級研究員......?」
ジェイスは自分のカードに書かれていることを読み上げた。聞き慣れない単語に彼は首を傾げる。自分が居ない間に階級制度も変わってしまったのだろうか。
すると、コナーが肩を竦める。
「正直、一回外に出て行った研究員ってどう扱ったら良いのか分からないんですよね。まあ、ジェイスさんは星5までの資格は一応持っているわけですし、試験全部クリアしたことにして、最初から星5と同じ扱いを受けることを可能にしたんです」
コナーはバインダーに目を戻す。「カードを配る」の欄にチェックを入れた。一つ目のタスクはクリアである。元から試験なんて無い。これは意地悪なコナーの咄嗟の思いつきだったのであった。
「お望みなら今年の星5昇格用に用意した試験がありますけど、ジェイスさんならそこまで難しく思えないでしょうし、飛ばしても良いって話になったんすよ」
コナーが顔を上げた時、ガタッと大きな音がした。ジェイスが机に乗り上げる勢いで、その向こうに居るコナーに抱きついたのだった。
「うわあああん!!! コナー、ありがとうううっ!!!」
「苦しいっす」
コナーは、ジェイスの肩越しに見えるバドの光がさっきから柔らかいことに気がついた。微笑んでいるらしい。微笑ましい光景なのだろうか。自分としては苦しいだけである。
それにしても、とコナーは思う。
本当にノールズそっくりだ。いや、彼がジェイスに似たのだ。
彼はぼんやりと、あの柔らかい金色の髪を思い出していた。
*****
「会議室は階を跨いであります。フロア全体が会議室になっているのが25階です。新入社員研修会の会場はそこです。あとは、日曜会議とかっすね」
「なっつかしい」
ジェイスはコナーの後ろをバドと一緒に歩いていた。バドは背が高いので、腰を少し曲げて歩くことになる。ジェイスは彼が頭をぶつけないように、周りに注意を払う必要があった。
「特殊級研究員ってことは、日曜会議にも参加できるってこと!?」
「そうっすね。扱いは星5なんで」
「やったー!!」
ジェイスはさっきからワクワクが止まらない。配られたカードは、早速首から下げられていた。
「このビルは、会議室の他に食事処とオフィスが主に入ってます。てか、まあ、ジェイスさんはB.F.を新しく作った時に一度目は通しているはずですから」
「いやいや、それももうずっと前じゃん!! みんなが過ごすことで少しずつ変わっているだろうし、なんか新鮮だよ!!」
「そんなもんっすかね」
コナーは淡々と歩いて行く。ジェイスはバドを見る。彼の頭の向きでどちらを向いているのかが分かるが、彼はさっきからキョロキョロとしている。
「どう? 面白いでしょ」
「はい。私が居るのはセーフティールームという場所ですから......こんなに広い会社なんですね」
バドがそう言った時だった。前から歩いてくる二人の研究員が居る。一人は黒髪、一人は青髪の研究員である。
「あー!! ラシュレイー!!」
ジェイスが腕を広げて彼に近づいて行く。その間にすかさず青髪の研究員が割り込もうとするが間に合わず。
「俺戻ってきたよー!!! これからよろしくなー!!」
「はい」
「ちょっとコナーさん、誰ですか、この礼儀知らずの方は!!」
「ジェイスさん。星5の研究員」
「どうしてこんなに馴れ馴れしいんですー!?」
スカイラはジェイスをラシュレイから引き離そうと奮闘している。
「ほえー、この子が助手?」
「はい。スカイラ・ブレッシンです」
「僕がラシュレイさんの正当なる助手です!! ラシュレイさんを独り占めする権利を持つのは僕だけです!!」
「そんな権利無い」
賑やかな三人を傍らに、バドはコナーと並んで立っていた。
「ジェイスさんは慕われているのですね」
「まあ、一応。一緒に仕事をした期間はあんまり無いけど、マジであんな感じっすね」
「良いですね」
顔が分からないが、声色は何だか寂しそうである。
「私が知らないジェイスさんの一面がまだまだ沢山ありそうです」
「......そうですね」
コナーはジェイスの名前を呼んだ。タスクはまだまだあるのだ。
*****
「ほえー。此処がセーフティールームね」
三人は、地下の通路を通って、実験場の方へやって来ていた。郊外まで続く通路もまた研究員のオフィスが連なっており、ジェイスのオフィスはこの辺りにある、とコナーは言った。
「残念ですけど、あの事件の前に居た超常現象たちは、まだ完全な回収に至っていません。特に大きいところだと、少女Aとかっすかね」
「ああ、あの子......」
ジェイスが懐かしそうに目を細める。少女Aは旧B.F.でセーフティールームに一番初めにやって来た超常現象だ。幼い少女の姿をしている彼女の性質は、全ての超常現象を無力化するというもの。B.F.ではとても重要視されていた存在だが、どうやら爆発事故の中で何処かへ行ってしまったらしい。
「まあ、あの子の場合、よっぽどの事がないと危害は加えてこないから大丈夫だとは思うけど」
「そうっすね。でも居ないのも居ないで困るんですよね。新しい超常現象が出てくると、対処しきれないものも増えていきますから」
「そうだね」
ジェイスは頷き、「あっ」と声を上げた。何やら小走りになって、そこに近づいていく。
「これ、囀るガラス?」
ジェイスが指さしたのは、ある扉だ。その向こうに居る超常現象の名前は、扉の横のプレートに書いてある。そこには「囀るガラス」と記載されていた。
「そっすね。知ってるんですか」
「知ってるも何も、俺の昇格試験の実技はこの子だったからねえ。入ってみても良い?」
「良いですけど、パンくず持ってきてませんよ」
「見るだけ見るだけ」
ジェイスはゆっくりと扉を開く。そこは準備室として、部屋が設けられている。その向こうが本当の収容場所だ。天井の高いその部屋には、止まり木があり、そこを横切る何かが光を歪めているのが確認できた。見えづらいが、あれが囀るガラスだ。101羽のガラス製の小鳥の群れである。
「これは、超常現象なんですか」
バドはじっと小鳥立ちを見つめている。
「そうだよ。ご飯を上げると体に色がつくんだ」
ジェイスが説明した。
「面白いですね。こんなものが存在するなんて......」
「バドさんが言うんすか、それ」
コナーはチラリとジェイスを見る。彼は口を閉じていた。目だけは輝かせているが、その表情に何処か切なさを感じる。
*****
「それでは、該当する番号の部屋に入るように」
B.F.星5研究員、ナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)は、そう言って研究員たちをそれぞれの部屋に分けて誘導した。研究員たちは緊張した面持ちで部屋の中に入って行く。ジェイス・クレイトンもまたその一人。隣には相棒のハンフリー・プレスコット(Humphrey Prescott)が居る。
「うう、緊張するー」
「そうだな」
いつもは冷静沈着なハンフリーも、今日は何処か顔が強ばっている。
無理もなかった。今日は星5へ昇格するための試験日である。今から始まるのは実技試験。与えられた課題を適切にこなしていくことが出来れば、合格への扉は開かれるのだ。
研究員たちは、それぞれ数人のグループになって部屋に入れられる。部屋の中には課題の超常現象が居り、それを観察し、特性を見極めるというのが与えられた主な課題。グループの仲間同士で情報を共有することも可能だが、それぞれが与えられた課題は細かい点で異なる。
ジェイスの手元のバインダーに記された課題は、「超常現象の特性を読み取り、それが役立つ可能性について考えて記せ。」というもの。
B.F.の会社の方針は、見つかった超常現象を地球の未来に役立てること。全てが全て、地球にとってメリットのある超常現象ではないが、時には行き詰まった実験や調査の打開策となってくれるものだって存在する。間接的に役立つものだってあるのだ。
「え、居る?」
実験準備室に入った研究員たちは、首を傾げる。実験室に中には何も居なかった。どんな恐ろしい見た目のものが待っているのだろうと身構えていた彼らだったが、実験室の中にはそれらしいものがあるわけではない。
「ナッシュさんの手違いか?」
「なわけ......」
「だとしても、何も無いのは変だろ」
研究員たちは皆混乱して、部屋の中を見回す。すると、一人の研究員が、「ああっ!」と声を上げた。
「何だよポット」
「見ろ、何かあるぞ!」
彼は机の下を覗き込んでいた。ジェイスとハンフリーも彼に倣って机を覗き込む。
「なにこれ」
「さあ......パンくず?」
机の裏面に、ビニール袋が貼り付けられている。中には白い細かな砂のようなものが入っているが、袋の上から触れると柔らかく、知っている感触だった。それは、パンくずだったのだ。
「こりゃ......忘れ物ってわけじゃなさそう」
「俺らもう試されてるんだよ。これ使ってどうにかしろってことだと思うんだよね」
「パンくず必要な超常現象なんて居たか?」
彼らは星4だ。まだ最高ランクに達していないとは言え、それなりの経験を積んできた者たちである。担当した超常現象だって人の数だけある。
が、今までパンくずを必要とした実験など無い。
「もう面倒くさいし、入っちゃおうよ」
ジェイスが実験室の扉に手をかける。「待て」とハンフリー。
「これは星5の試験だ。危険な超常現象かもしれないだろ」
「試験だからって安全なもの選んでるに決まってるじゃん!」
「安易に考えるな。わからないだろ」
相棒に言われ、ジェイスは口を尖らせて扉から離れる。実験室には相も変わらず何も居ないが、透明な姿をした危険な超常現象である可能性も否めない。
「パンくずが必要......鳥か?」
一人の研究員が早速、課題のシートにペンを走らせ始める。彼の課題は、もう始められるようなものなのだろう。
「パンくずを与えたらどうなるか、ってところか」
「見えないよな、姿。じゃあ、姿を現すとかじゃね」
「そんな単純なもんか? 攻撃してくるとかだったらどうするんだよ」
「そもそも個体数は? 鳥だとしたら鳥かごに入っているんじゃないかな」
「たしかに。こんな広い実験室に入れられているってなれば、一羽だけじゃないかもな」
「パンくずあげたら、姿を現す......概念なのか?」
一人は凄い勢いでペンを走らせる。ジェイスもメモをとるが、自分の課題を解くためにはまだもう少し情報が必要だった。
「まあ、性質としては透明。用意されたパンくずは、餌用だとすれば、おそらく鳥......視覚でおおよそ分かるのはそんなものだな」
ハンフリーがペンをポケットに戻した。
「扉、開けてみようか」
ジェイスは皆の顔を見回す。
対象の確認方法。かつて昇格試験で何度も試験問題になったのだ。五感を使って感じ、それぞれの特徴を掴むのが大切。視覚は終えた。次は、聴覚。
ジェイスの問いに皆が頷く。
「もし死にそうだったら、電話な」
一人の研究員が、壁にかかっている内線の傍に立った。ジェイスは「うん」と頷き、ドアノブを捻る。消毒臭さが鼻腔をつく。その時、全員の耳にある音が飛び込んだ。
「ガラス?」
それは想像すらしていない音だった。清涼感のあるガラス音。カチャカチャと、グラスをぶつけたような音が、いくつも重なって聞こえてくる。
「ちょっと待って、どういうこと?」
ジェイスは困惑して一度扉を閉めた。皆も同じ顔をしている。
「分からん、ガラスの性質を持つ超常現象なのか?」
「ガラスの......鳥ってことか?」
「本当に鳥なのか?」
その時、廊下に続く扉から音が聞こえた。タイマーの音だ。それに続くナッシュの声。
「残り二十分」
与えられた時間は三十分。その間にシートに記せる情報は集めなければならない。皆の顔に一気に焦りの色が浮かんだ。
「もう入ろう」
「まだダメだ。情報が足りなすぎる」
「いや、もう充分だって!! 俺ら、結構考察したもん!!」
ジェイスは扉を開いた。ガラスの音が聞こえてくる。
「俺行くからな! 課題終わらないし!」
「おい、待てって」
「お、俺も行く!! 悪いな、ハンフリー!」
「こらっ」
ハンフリーの静止を振り切って、皆実験室に入った。
ガラスの音が鮮明に聞こえる。それは、姿は見えずとも動いていた。研究員たちの、遥か上空を。
「うわっ!!」
ジェイスの耳元を、ガラスの音が掠めた。
「やっぱり鳥だ!」
「でも何も見えないよ!?」
「ポット、袋開けろ!」
ポットと呼ばれた研究員は、慌てて袋の口を開いた。すると、
「!」
全員の目は彼に集まった。ポットの姿が一瞬で霞んだ。たちまち彼の姿が歪んで、そして七色に光った。七色の霧が彼を包んだ。
それは、透明な鳥の群れだった。パンくずを啄んだ瞬間に、色付いたのだ。赤く、黄色く、緑や、藍色に。
「......綺麗」
自然と口から出てきたのは、そんな言葉だった。皆も、ぽかんと口を開けたまま、その光景を見ていた。
鳥は実験室の中を縦横無尽に飛び回った。パンくずは凄い勢いで減っていく。ポットも、袋の口を開いたまま呆然と立ち尽くしていた。
ガラスの音が激しくなっていく。
「残り五分」
いつまでそうしていたのか、ジェイスはよく分からない。遠くから微かに聞こえたナッシュの声にハッとして、慌てて脇に挟んでいたバインダーをその手に掴む。
「ど、ど、どうしよ。課題終わんない!!」
「一文字でも良いから書け!!」
「ええっと、えっと......」
ジェイスは焦りで言葉が出てこない。
性質は分かった。食べものをその口に入れると色つきガラスのようになるのだ。体の大きさは雀くらいだろうか。小鳥の部類だろう。
性質を書き込んだ時点で、もう三分を切っていた。他の研究員は書き終えたらしい。あとはジェイスを待つのみである。
「落ち着け、焦ると余計書けないぞ」
ハンフリーが言うが、ジェイスは何も出てこない。
残る課題。
「それが役立つ可能性について......可能性、可能性......」
ジェイスはペン先を紙につける。下書きをしている余裕なんて無い。思いついた文章をそのまま書き記していくしかないだろう。
「残り十秒」
周りが心配そうに見守るのを、ジェイスは視界の端に映していた。
「残り五秒」
ナッシュの声が一秒ごとにカウントを刻み始めた。
「終了。全員、実験室から速やかに出るように」
*****
三人は少しの間、小鳥たちを見つめていた。耳を澄ますとカチャカチャと清涼感のあるガラスの音が聞こえる。
「そろそろ行きますか。ジェイスさんたちのオフィス、用意できているんで」
コナーが言うと、バドは「はい」と頷いた。しかし、ジェイスだけはぼんやりとガラスの小鳥を見つめている。
「ジェイスさん、行くっすよ」
「......」
「ジェイスさん」
「ん!?」
二度目の呼び掛けで、彼はやっと反応をした。
「ごめん、ぼーっとしてた」
「大丈夫っすか」
「うん! 大丈夫!」
ジェイスは元気に頷き、バドと隣り合わせで歩きはじめた。
「大丈夫ですか」
バドがジェイスに問う。
「バドまで! ちょっと色々思い出してただけだって! 大丈夫、めちゃくちゃ元気!」
ジェイスはそう言って大袈裟に腕を振って歩き始めたが、バドは「そうですか」と元気が無い。
「ジェイスさん」
「ん?」
「私、本当に貴方とペアを組んでも良いのですか?」
バドはジェイスとペアを組むことが当たり前のように決められていた。もちろん、嫌では無いが、バドは不思議だった。何故自分が選ばれるのだろう、と。
廊下ですれ違う研究員たちのペアは、誰も片割れが超常現象であるという特殊性が無い。普通の人間のペアである。自分が居て、ジェイスは変な目で見られないだろうか。
「今更何言ってんだよ」
ジェイスが笑った。もう湿っぽい顔はしていなかった。真夏のカラッとした太陽のような笑みだった。
「バドの呪いも解けるように、俺が専属の研究員ってことでね」
ジェイスはそう言って笑った。バドは微笑んだ。光が柔らかくジェイスの顔を照らす。「それに」と、彼が続けた。
「俺な、バド」
ジェイスは、自分の首からぶら下がっていた研究員カードを摘んだ。それをプラプラと振りながら、前を見た。コナーの背中がずんずん行ってしまう。
「自分に嘘つかないように決めてんだ。感情出したい時は、ちゃんと出すようにするって。だから、大丈夫。もう、大丈夫」
*****
「ここが俺らのオフィス?」
「そうです」
ジェイスとバドに与えられたのは、広い実験室だった。部屋の真ん中にデスクが二つ、向かい合うようにして置かれている。
「バドさんの身長じゃ、普通のオフィスの天井ぶち抜かないとならないっすからね」
コナーが言う。ジェイスは笑った。
「たしかに! バド、やったね!」
「はい。でも、よろしいのですか? 貴重な実験室を......」
「こうするしかないっすもん。落ち着かないならオーダーメイドでオフィス作りますけど......時間もかかりますからね。とりあえず、仮オフィスってことで」
コナーは二人を部屋に残したまま、背を向けた。
「じゃ、仕事用のファイルはデスクの上に置いておいたんで。俺の仕事は此処までっす」
「ありがとう、コナー!」
「いえ」
コナーは部屋を出た。
バドは部屋を見回す。実験室は広い。デスクは明らかにその広さに合っていない。
「この広さだったら、デスクワークも実験も同じ部屋でできるんじゃね!?」
ジェイスははしゃいでデスクに走っていく。バドもその後ろをついていった。
部屋の中央に置かれたデスクは、一つが明らかに大きかった。
「オーダーメイドのデスクだね。バド、座ってみなよ!」
「え、ええ」
バドはおずおず椅子に腰掛けた。この体になってから、人間用の家具には窮屈な思いをしていた。しかし、この椅子はちょうど良い。足を無理に折りたたまなくても座れるし、デスクもまたそうだ。バドはあまりの快適さに感動を覚えた。
「嬉しい?」
「はいっ、凄く座りやすいです! これならジェイスさんと一緒にデスクワークができます!」
「そりゃあ良かった」
ジェイスはニッと笑って、自分のデスクに向かう。彼は一瞬動きを止めた。顔にぱっと光が集まる。
「俺の、研究員ファイルっ!!!」
バドは気づいた。自分のデスクに置かれているファイルより、ジェイスのデスクに置かれているファイルの方が古く、そして分厚いのだ。それは中に入った資料が原因らしかった。妙に黄ばんだ紙類が中に挟まれているのだ。
ジェイスはそれを掴んでパラパラと捲っている。目が潤んでいる。バドは微笑んで眺めていた。
「俺の......これ、俺の、前に使ってたファイルっ......!!」
言葉が上手く出てこないのか、ジェイスは身振り手振りで、必死にそんな説明をしている。バドは「良かったですね」と微笑んだ。
「うん、うんっ......!!」
ジェイスは頷く。そして、居てもたっても居られなくなったのだろうか、弾かれたようにして実験室を飛び出して行った。廊下から「コナァァア"〜〜ッ!!!」と彼の声が聞こえて来た。
バドは立ち上がった。彼のデスクに放置されたファイルを手に取る。ずっしりと重いのは、彼の研究員としての時間の長さを示していた。
「囀るガラス......」
それは、先程連れて行かれたセーフティールームの中に居た超常現象に関するページだった。しかし、聞いていた超常現象の報告書の形式とは異なる紙が挟まれている。よく読んでみると、昇格試験の解答用紙であることが分かった。
『超常現象の特性を読み取り、それが役立つ可能性について考えて記せ。』
『ガラスで出来た小鳥の大群。特性は、パンくずをあげると体が鮮やかに色づき、羽ばたく音がガラスを軽くぶつけたときの、あの清涼感のある音であること。』
『役立つ可能性。この超常現象が地球の未来に役立つ可能性は_____(二重線)』
『すません(脱字)、正直に書かせてもらいます』
『綺麗だった。これしか書けません。ただただ綺麗でした。私は自分の感情に正直に生きています。きっと、この美しさは、たくさんの人の心を奪って、そして素敵な思い出の1ページになると思う。そのような役立ち方をすると思う。』
その上には赤い文字が書かれている。
『正直過ぎて呆れたよ。そのバカ正直な感性に免じて。』
採点用紙には、大きな丸がついていた。