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Black File  作者: 葱鮪命
159/193

File073 〜常夜迷子灯〜 前編

「ご苦労さまー」


 夕方、事務所から作業員たちが出て行く。今日も朝から現場でせっせと働いたので、皆すぐに家に帰っていく。


 ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)もその波に乗ろうとして、


「ジェイス君」


 その背中に声をかけられた。


「はい」


 ジェイスは扉に手をかけていたが、その手を引っ込めて振り返る。呼び止めたのはジェイスが今働く工事現場の監督を務めている男だった。名前はバーナビー・コニック(Barnaby Connick)。


「ちょっと時間良いかい。君に尋ねたいことがあるんだ」

「ええ」


 ジェイスは何だろう、と眉を顰めて、指定された席に腰を下ろした。小さな事務所にはパイプ椅子と机、書類棚くらいしかない。細々とした作業道具は離れた場所に倉庫があるので、そこから現場へと持ち出すことになっている。


 バーナビーは深刻な顔をしているわけではなかった。隠し事はしない、柔らかい人だ。しかし、呼び止められる理由がジェイスにはあまり想像できないのだった。


 真正面に座ると、彼は肘を机に立て指を組み、「この前の」と切り出した。


「現場員の一人が熱中症で倒れた事件があっただろう」


 ジェイスは「ええ」と頷く。顔には出さないが、内心ドキリとした。それは、自分が勝手に解決した事件だ。


 数週間前、真冬にも関わらず現場のプレハブ小屋で一人の男性工事員が熱中症で倒れるということがあった。

 真冬なので小屋には暖房がつけてあったということから、部屋の温度が高すぎたことによる熱中症だということで全ては片付いた。


 しかし、ジェイスは違和感を感じて、誰も居なくなった工事現場に一人忍び込んだ。すると、暖房が全て切られているはずのプレハブ小屋が高温状態になっていたのだ。


 これはおかしなことだ、と一人探索したところ、原因と思われる壁のポスターが見つかった。それは、部屋を常夏のように高音高湿に変えてしまう、危険な超常現象だった。


 自分が元B.F.職員であることは、この職場の仲間には明かしていない。唯一、バーナビーを除いて。


 ジェイスはポスターをこっそりと持ち出し、B.F.に行ってビクターに届けたのだった。


 誰にも頼まれていないが、私的な外部調査が成立した瞬間だった。外で超常現象というものに遭遇した、ジェイスにとって初めての出来事だった。


「冬だというのに熱中症の患者が出るのが不思議って、皆言っていたんだ」


 バーナビーが微笑む。


 この会社に来る時、彼にだけは履歴書を渡すために前の職場が何処であったかを話さなければならなかった。

 あの事件であの場に居たこと、かけがえのない仲間たちと超常現象についての調査・実験をしていたこと。


 バーナビーは深く追求することなく、働きたいという意志があれば誰でも受け入れてくれた。


「色々事が終わって、警備の人が言っていたんだけどね」


 ジェイスの表情が硬いことに彼は気づいたようである。


「一人の職員が、人目を忍んで例のプレハブ小屋に向かっていったって」

「......」

「どうも変だ。次の日から、あのプレハブは涼しくなったんだよね。他のプレハブよりも暖かくて、みんなが休憩するにはちょうど良い温度だったんだろう。ズル休みにもうってつけだ」


 全てバレている。ジェイスは小さな息を吐いた。


「すみません。俺がやりました。あのプレハブ小屋で、その......少し変わったものを見つけまして」

「それが超常現象なんだね?」


 バーナビーは顔を輝かせて、体を前のめりにした。ジェイスは苦笑して頷く。


「俺が回収してB.F.に持っていったんです」

「そうなんだね。君が気づいてくれたおかげで、同じ悲劇が起こらずに済んだよ。ありがとう」

「そんな」


 ジェイスは目を伏せる。


 此処まで来たら、もう話してしまおうか、と思った。しかし、どうも言い出しづらい。これだけ良くしてもらって、自分が今からするのは裏切り行為なのではないか、という罪悪感が心を蝕んでいく。


 ジェイスが黙っていると、バーナビーが柔らかい表情で次のことを言う。


「君は、あの日あの現場に居たんだね」


 ジェイスは伏せていた目を上げる。


 あの日。あの現場。


 何のことを言っているのかはすぐに分かった。あの炎燃え盛る研究所の話をしているのだ。大好きな場所が一瞬で崩れ落ちたあの日の話だ。


「何人かが、君に似た人をテレビで見たと言っていた」


 ジェイスは頷く。


 似たような人ではない。それは正しく自分だ。


 あの日、あの作戦に協力したのだから。


「あの日、君は仕事を休んでいたからね」

「......はい」


 ブライスが電話をくれた時から、あの日まで、エスペラントがいつ攻めてくるのか分からないということで、ジェイスは有給を全て昇華する思いで自宅で待機していた。


 自分の部屋でニュースをじっと見て、それから電話を見て、時計を見た。いつ助けを求められるか、いつ作戦が中止になったと連絡が来るか____。


 電話を寄越したのはベティだった。彼女の声の暗さから、すぐに自分の思い通りの未来にはならなかったことを知った。あの施設の未来が決まった瞬間だった。


「まるで夢のような景色でした。もちろん、良い夢ではないんですけれど」


 ジェイスは小さく笑って、再び目線を下に落とした。


「本当は、ずっと前からあの施設が気になってました。一生帰らないと思って出てきたのに、凄く恋しくなって、どうしようもなく辛かったんです。あの日から、俺はずっと我慢してます」


 エスペラントの誘拐事件で、助手をまた抱きしめることができたが、運転席の上司に、戻りたいと言えなかった。


 そして、何も前に進めないままあの日を迎えた。


 当然後悔が残った。


 もし、俺もあの場に居たら。


 頭を振る。


 何も出来ない。あんな勇敢な人達を前にして、きっとまた逃げ出すに違いない。だが____。


 死ぬ間際の助手を、せめて抱きしめたかった。

 いや、絶対に死なせるもんかと、背中に背負いたかった。

 他の仲間も、誰一人残すことなく地上に連れて行きたかった。


 あんな悲しい結末を迎えると最初から知っていたら......。


「ジェイス君」


 柔らかい声が、ジェイスの顔を上げさせる。


「戻っても良いんじゃないかな」


 ジェイスは小さく目を見開いた。


「あの日、君が置いてきたものがそこにあるんだろう」


 ジェイスの脳裏に、玄関を開けたあの日の景色が浮かぶ。ベティの召集を受け、家を出てからあの手紙を開くまで____空白の数時間があった。誰かがジェイスの家の扉を開けて、置いてくれた荷物があった。


 その荷物の中身は、研究員として自分をもう一度B.F.に戻してくれる切符だった。


 ノールズが昇格試験を受けている時に詰め込んだ荷物の中に、白衣もゴーグルも、研究員カードも入れなかった。自室のゴミ箱の、底の底に押し付けた。もう戻らないと誓った。全て置いていこうと決めた。


 その後、誰かがそれらをゴミ箱から拾い上げた。誰かは分からない。ああ、きっと_____ノールズだ。彼しか居ないのだ。


「私は君の背中を押すよ」

「バーナビーさん......」


 ただし、と彼は微笑む。


「一つだけ条件をつけさせてくれ」


 *****


 それは、ノースロップ・シティ(Northrop City)の中心部と、住宅地を繋ぐ大きな橋の上に現れるのだと言う。


 モーペスブリッジ、八番目の街灯の噂。


 それは、人々の間で囁かれる有名な都市伝説である。


 夜中の二時、その橋を渡ると、あるはずの街灯が一本消えてしまっている。光が消えているということではない。等間隔に並んでいる街灯たちだが、歯抜けのように一箇所妙な隙間ができるのだ。


 しかし、不思議なことにそれは朝になればいつも通りになっている。


 消えると言われているのは八番目の街灯だ。ノースロップの中心地から橋に上がり、八番目の街灯。


 では、その街灯は何処へ行くというのか。


 これもまた妙な噂だ。

 その街灯は、夜中になると足が生え、手が生え、あろうことか頭だけが街灯の形をした人型の化け物に姿を変えるのだという。


 そして、その体で街を歩き回る。故にこの化け物の目撃情報の方が多く、都市伝説は今日も着々と人から人へ凄まじいスピードで伝達されていくのであった。


 ジェイスはバーナビーから初めてその話を聞いた。


 どうも、バーナビーも気になっているらしい。息子が通う小学校ではあまりにも話題になり、子供たちが夜中に橋へ向かう計画を立てているために教師や親が頭を悩ませているらしい。


 たしかに、夜中の二時に家から出て行くなど、寝不足どころか犯罪に巻き込まれる可能性だって考えられる。


「うちの子も今夜こそ、って言って聞かなくてね。奇妙な噂の真相を確かめて、是非教えて欲しいんだ。本当に街灯人間は居るのかどうか」


 真剣な顔で迫られて、ジェイスは頷くしかなかった。そして、家に帰ってから久々に白衣をまとってみた。形だけでも、と思ってみたが、さすがにないな、と玄関で脱いだ。


 夜中二時、彼は家を出た。


 都市伝説ともなれば、その真相を確かめるためにもB.F.が動く可能性がある。有名なものならば、彼らの耳にだって入っているだろう。既に解決されているかもしれない。


 ジェイスは歩きながら白い息を吐いた。夜は冷える。橋の上にもなれば凍えるように寒いに違いない。


 ジェイスはコートの襟を手繰り寄せた。


 *****


 橋に着くまでの間、ジェイスはその噂について携帯で調べた。たしかにネット記事にも載っている。等間隔に並べられた街灯が、一箇所だけ奇妙に空いている画像が沢山出てきた。さらには、ノースロップの街を徘徊する、街灯の化け物の動画も出てきた。


 スーツを着た高身長のその化け物は、頭が街灯の頭部と同じ形をしているのだ。ガラスがはめ込まれた化け物の頭は、顔が無く、代わりにガラスの中にぼんやりと灯りが灯っているのが見える。


 人間離れしている見た目だというのに、その化け物が徘徊する動画を見ると、動きは人間らしさがある。立ち止まって何かを考える様子や、ぼんやりと風景を見る様子や、店先のメニュー板を見つめる様子。一つ一つが人間らしい。


 CGや作り物の映像と言われればそれまでだが、これだけ世間を騒がせているし、それ以上にB.F.復帰のチャンスのかかったこの仕事を中途半端に投げ出すことは許されない。


 ジェイスは携帯から顔を上げて空を見上げる。明るいノースロップでは星が見えない。仮施設の周辺は星が綺麗だった。


 こんなチャンスを与えられて、初めて足が動いた。まだ何処か、あの世界に完全に戻っていくことを躊躇している自分が居たのだ。


 自分は、誰かに目を見て許して欲しかったのかもしれない。例えそれが、B.F.の仕事とは一切関係ない会社の上司だとしても。


 ジェイスの足は、橋にかかった。


 ぼんやりとしていて、慌てて焦点を合わせた。大きな橋だ。車も人も通れる橋なのだ。少し曲線を描いているので、中心が膨らんで向こう側は橋の入口からは見えない。だが、確かに等間隔に街灯が並んでいる。


「八番目、って話だよな」


 街灯は橋の両方についている。右か左か、ジェイスは分からない。取り敢えず数えながら歩いてみることにした。


 それにしても寒い。予想はしていたが、水の上だからか、冷たい風がビュンビュンと吹き付けてくる。時折通る車の風もまた冷たかった。


 ジェイスはコートのポケットに手を突っ込んで端を歩く。一本目の街灯を通り過ぎ、二本目に向かう。


 あの化け物の頭部と同じ街灯だ。寒いので虫も集まらない。ただ冷たい光が星の代わりに落ちてくるだけだ。


 三本目、四本目と過ぎると、ジェイスは視界に段々と橋の入口からは見えなかった光景が浮かび上がってくることに気づいた。


 橋の中央までやって来たのだ。ジェイスが今歩いているのは向かって右の歩道。左右の歩道は、本数削減のためか、街灯が段違いに並んでいるので、ジェイスの居る歩道で次の街灯に向かうとなると、それなりの距離を歩くことになるのだった。


 あとは下るだけ。ジェイスは一度足を止めて、これから先に見えるだろう景色を、先に見ることにした。


 目を凝らす。


 五本目が少し離れた場所で道を寂しく照らしている。六本目もまた然り。七本目もきちんとある。


 八本目は_____、


「無い......」


 歯抜けのように、ぽっかりと空間がある。ジェイスは足を早めた。三本の街灯を通り過ぎ、八本目の街灯があるであろう場所に走り寄った。


 九本目は少し離れた場所にある。いや、あれが八本目の可能性もあるが_____対岸の街灯の距離と考えて、変だ。此処だけ異様に暗いのだから。これでは役場に、車の運転者から前が見えないとクレームが来る。


 ジェイスは、その異様な街灯一本分の空間をただぼんやりと見つめていた。


 さあ、来たからには何かしらしなければならない。現象は既に起こっているのだ。


 ジェイスは周りを見回した。噂の通りで行けば、この「八番目」は今、街を彷徨いていると考えるのが良いのだろう。此処に来るまで散々見てきた、あの動画の内容がこの街の何処かで、現在進行形で起こっていることになる。


 ジェイスは携帯を取り出してその動画をもう一度見る。見た感じでは、ノースロップの西部での目撃情報が多いようだ。マンションの多い区である。


 ジェイスは自分が車も自転車も持っていないことを後悔した。


 この足で動くしかないだろう。今、自分は何処にも属していない研究員。上司が運転する車が迎えに来てくれることも無ければ、誰かに指示を仰ぐこともない。全て自分で考え、行動しなければならない。


 ジェイスは走り始めた。


 *****


 西区は静まり返っていた。夜中の二時にもなれば、マンションが多い地区では大半が夢の中だ。店は中央区に寄っているので、街灯の光くらいしかない。車もほとんど通らないので、通りはしんとしている。


 ジェイスは歩きながら、何処から回ろうか、と通りを挟む背の高い黒い影を見上げていた。西区は広い。ノースロップは広い街なのだ。そこで働く多くの人間が帰る場所が、この西区なのである。


 ジェイスは再び携帯を取り出した。動画を開き、どの辺りが最も出現率が高いのか知る必要があった。しかし、どの場所もバラバラだ。挙句には西区ではない、東区や南区、北区までもが目撃場所となっていることを知った。


 本当に見つかるのだろうか、とジェイスがため息混じりに顔を上げた時、


「......!」


 彼は何ブロックも先の曲がり角がぼんやりと光っているのが見えた。あの光り方は街灯ではない。いや、探しているのは街灯だが_____常識的な街灯は勝手に歩いたりしない。


 その光は歩いていた。曲がり角の先へ、光は吸い込まれていくように消えていく。


 ジェイスはポカンと口を開けていたが、その光を追わなければならないということに気づいて、慌てて走り出した。


 彼の走る音は、マンションの壁から壁へ跳ね返って、何重にもなって響いた。街が彼の音を吸い込んでいく。ジェイスは夢中で光を追いかけた。


 曲がり角を曲がった時、そこには何も居なかった。歩く街灯など以ての外、光るものも無く、生き物の気配すら無い。


 ジェイスは上がった息で呆然と通りを一瞥し、最後に大きく息を吐いた。


 やはり、自分では見つけられない。

 研究員の頃ならば、現象を逃がすことなどしなかっただろうに_____。


「お探し物は私でよろしかったでしょうか」


 ジェイスは飛び上がる程に驚いた。声は後ろから聞こえてきた。体を捻って振り返ると、狭い路地の間からぬっと何かが出てきた。


 ぼんやりとした光が、真っ暗だった通りを柔らかく照らす。ジェイスの背を遥かに超えるその長身の先っぽに、その特徴的な頭部は付いていた。不透明なガラスの中に閉じ込められた明かり。あのモーペスブリッジに置いてある街灯と全く同じものだ。


 違うのは、それを頭部として、その下に人間の体が付いているということ。ただし、ジェイスが見知っている人間の背の高さではない。2mは優に超えるだろう、ジェイスが首を痛めるほどに見上げなければならない長身だ。


「随分必死で探しておられましたので......ただ、追いかけられるのは慣れていませんから、隠れてしまったのです。お許しください」


 それは優しい男の声だった。その声は街灯の形をした頭部から流れてくるのだ。人間の口から出される発音だ。舌の動きをしっかりと感じられる言葉たちだ。しかし、目の前の化け物の頭部に口は無い。目も、鼻も耳だって。


「追いかけても面白がったりするつもりは無かったんです。驚かせようとする気も。ただ......」


 ジェイスは何を言ったら良いのか分からなかった。研究員として、貴方を知りたいのだと言うのは間違っているだろうか。変だろうか。B.F.という存在を、この化け物はそもそも知っているだろうか。


 化け物は何も言わなかった。ジェイスを見下ろしているのだろう、頭部を少し前に傾けていたが、やがて背を伸ばして歩き始めた。


「今、何時でしょう」


 彼が問う。ジェイスは慌てて携帯を取り出す。三時を過ぎたくらいだ。伝えると、「そうですか」と彼は静かに言う。


「橋に戻らなければ。お話はまた今度でも宜しいですか?」


 化け物の声は何処か寂しげだった。ジェイスは何故か追いかける気が起きなかった。歩き出す彼の背中をただじっと見つめるしかできなかった。


「また、見つかりませんでした」


 小さな声が聞こえた。それは、確かにあの化け物の言葉であった。


 *****


「なるほど。じゃあ、やはり噂は本当だったと」


 バーナビーは興味深そうに言う。携帯で流れているネット上の動画を見ながら、ジェイスからの説明を聞いたのだった。


「ええ、確かにこの見た目です。人の言葉も喋り、意思疎通も可能でした」


 ジェイスも自身の携帯に目を落として頷く。動画の中の化け物は、昨日のような寂しげな背中を見せていた。


「これをさらに調べることはできないのかい?」


 バーナビーが携帯の画面を指さして、尋ねる。ジェイスは肩を竦める。


「もう一度橋に行ってみるのが良いと思います。彼の行動時間は夜中の二時からです。つまり、その前に橋に行けば、まだ街灯として橋の上に刺さっている彼が見られるかと」


「なるほど。良いね」


 バーナビーは頷く。そして、次にポケットから携帯を取りだした。


「ジェイス君はこの仕事に集中して。夜中に歩き回るとなれば、朝から出勤するのは辛いだろう」

「えっ......」


 ジェイスは目を丸くして動画から顔を上げた。バーナビーは自分の携帯を操作していた。指の動きから見るに、文字を入力しているようだ。


「君には君にしか出来ない仕事をしてもらわないと。私は、もっと生き生きしている君を見たいな」


 バーナビーはそう言って携帯から顔を上げる。その顔には柔らかい笑みが浮かんでいた。ジェイスは小さく頷く。携帯を引き寄せ、動画を止める指が震えている。


 嬉しかった。


 *****


 その日の夜、ジェイスは再びモーペスブリッジに向かった。少し湿った夜だ。分厚い雲が夕方に空を覆い始めてから、今にも降り出しそうな天気だった。


 ジェイスは仮眠を挟んだので、体がホカホカと暖かかった。バーナビーはジェイスがこの仕事に集中できるよう、勤務時間を短くしてくれた。それと同時に、給料も少しだけ上げると言った。これは上司である私が勝手に頼んでいることだから、と。


 ジェイスは橋に足を踏み入れた。真夜中の橋には、やはり人気が無い。噂の真相を確かめようとする人も、枕に頭を預ける方が今日は賢いを思ったらしい。雨が一粒、ジェイスの鼻頭に落ちてきた。


「あった......!!」


 ジェイスは上がった息で、嬉々として言った。今日は歯抜けではない。昨日は無かった八番目が、きちんとそこに埋まっているのだ。


 ジェイスは走り寄って、街灯を見上げる。他の街灯と変わらない、普通の見た目だ。人間の体など何処にも生えていない。喋る気配すら感じさせないほど、無機物さを醸している。


「あの」


 ジェイスは軽く街灯を叩いてみた。返事は無い。携帯を見ると、二時になるまで五分ある。


 どうしようか、とジェイスは辺りを見回す。もしかしたら、ずっと見ていても擬人化しない可能性がある。カメラを構えていて、その決定的な瞬間を収めたいところだが、目撃情報の中でこの街灯の姿から化け物の姿に変わる瞬間を捉えたものは無かった。情報の数の多さから、その瞬間のものが無いのは違和感がある。おそらくそういうことなのだろう。


 ジェイスは少し離れた場所で待つことにした。橋の欄干に腕を置いて、街灯に背を向ける。はるか下から水の流れる音がした。大きな川が流れているのだ。


 突然、空が思い出したように雨を降らせ始めた。ジェイスは驚いて上を見上げる。あまり長居はしていられない。雨具を持ってきていないのだ。


 携帯を見ると、ちょうど二時だ。ジェイスはパッと振り返った。遠くで光がゆらりと動いた。無機物に命が宿った瞬間だった。


 ジェイスはすぐに彼に近づいた。


「貴方ですか」


 声が言う。見上げると、無数の水滴が顔に降り掛かってきた。


「こんな雨の日に傘も持たず私を待つなんて......のっぴきならない事情があるのだと推測します」


「俺、研究員なんです。貴方について是非知りたくて」


 ジェイスはなるべく明るい声で言った。雨音にかき消されないように、長身の彼の頭部に声が届くように。


「今夜の散歩は、俺もご一緒して宜しいでしょうか?」


 人間に喋りかけるように、ジェイスは問う。寧ろ此処まで違和感なく喋れるのは、この化け物が人間らしい受け答えをしてくれるからなのだ。


 化け物はじっとジェイスを見つめていた。正確に言えば、街灯が少し傾いて彼の方向を向いているだけなのだが____。


「今日はまた西区に行こうと思っているのです」


 化け物は静かに言った。足が前に進み始める。ジェイスも隣にピタリとつく。


「一つでも思い出すために」


 雨粒の中に、その二つの影は消えていった。こうして橋には、今夜もまた一本分の空白が生まれた。

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