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Black File  作者: 葱鮪命
158/193

File072 〜水底バスルーム〜

「お疲れ様でした」


 リース・ティペット(Rhys Tippett)は会社を出た。外に出るとすっかり日は落ちていたが、車のライトや街灯でまた別に明るい世界が出来上がっていた。


 帰りの駅に寄る途中で、今日の夕飯を買うためにスーパーに入った。買い物カートを押しながら、適当な惣菜をかごに放り込んでいく。

 入ったついでに、夕飯の他にも買い物を済ませようと他のコーナーも見ることにした。


 週末は外に出るよりも家でゆったりしたい派である。


 さあ家に何が足りなかっただろうか、と思い出すが憎いほどに何も思い浮かばない。商品を見たら思い出すだろうと思ってみたが、そんな気配は微塵もなく、最後のコーナーまで来た。


 此処はシャンプーやリンスなど風呂に関するものが置いてあるコーナーである。特にそこでも気に留めるものがない。


 リースは諦めてカートを押し続けた。これで家に帰れば、あれが無かった、これが無かったなどと思い出して後悔するのだろう。


 ため息と共にコーナーを出ようとした時、彼は初めて足を止めた。


 それは、コーナーの終わりに置かれていた。金属のかごに無造作に放り込まれた小さな袋たち。あまりにも売れないのか、安いという言葉が連続してポップに書かれていた。


 それは、入浴剤だった。


 リースは一つを手に取って見てみる。風呂嫌いの子供をどうにか風呂場まで誘導するためのものなのだろう。香りはベリー、色は鮮やかな青である。


 リースは少しの間その入浴剤を見つめていた。


 最近はシャワーだけで済ませていたが、家には無駄に立派な浴槽がある。疲れも上手く取れないし、たまにはゆっくり湯船に浸かるのも良いのかもしれない。助手をとってからと言うのも、体にも心にもコツコツと疲労が溜まっている気がするのだ。


 リースはその入浴剤を一つ、買い物かごに放り込んだ。


 *****


 浴槽に湯を張って、リースはその入浴剤を放り込んだ。


 入浴剤は地球のように青く丸い。鼻を近づけてみると、たしかにベリーの香りだ。しかし、何のベリーかと問われても、リースには分からなかった。


 その後で服を脱ぎ、どれくらい青色になっているのだろうと扉を開けた彼は絶句した。


 湯は想像通りの青色に染められていた。香りも甘ったるいベリー臭だ。


 しかし、それだけではなかった。


 湯船から立つ湯気の中で、何かが動いている。それは誰がどう見ても魚である。黒い平たい体を縦にして、円柱を描くようにスイスイと泳いでいる。三角形に足をつけたような体をしており、柄は白と黒の縞模様だ。


「エンゼルフィッシュだ......」


 もちろん、リースはこんなものを浴槽で飼うようなことをしない。ましてや湯気の中を泳ぐ魚など見たことは無い。普通、魚とは水の中を泳ぐものである。


 リースは一度扉を閉めて、捨てたばかりの入浴剤の袋をゴミ箱から取り出した。どんなに面白い仕掛けがあろうと、湯気の中に魚の幻想を見せる入浴剤などあるわけがない。


 何度も袋の説明書きに目を通したが、それらしい事も書いてない。


 リースは袋を置いて、もう一度扉を開く。やはり、エンゼルフィッシュは湯気の中を泳いでいた。


 実体があるのだろうか。


 リースはそっと手を伸ばしてみた。すると、エンゼルフィッシュはリースの手から逃げるようにして湯気の中を泳ぎ回った。


 手を素早く動かすと、それらしい感覚があった。リースは思わず手を引っこめる。


「......くっしゅ!」


 裸で立っていると、いよいよ風邪を引きそうである。リースは意を決して完全に浴室に入る。


 扉を閉めて、シャワーを出した。悪い気はしたが、そのシャワーのお湯をゆうゆうと泳ぐ彼らに向けてみる。彼らはシャワーを避けるようにして泳いだ。


 入浴剤が原因の何かである。


 リースは眉を顰めて、彼らに向けていたシャワーを自分に向けた。


 超常現象だろうか。何の前触れも無く目の前に現れるのはやめて欲しいものだ。心臓に悪いどころの話では無い。常人が見たら失神ものだ。


 シャンプーで髪を洗い、リースはシャワを止めた。顔を垂れる雫を手のひらで避けて、もう一度例のものを見た。やはりそこにはゆうゆうと泳ぐエンゼルフィッシュたちが居る。


 考えたが、せっかく湯を張ったのだから仕方ない。


 リースは湯船にそっと体を沈めた。エンゼルフィッシュはリースが襲ってくるのではないかと激しく泳ぎ回ったが、やがて彼が浴槽に座ったことで再び優雅に泳ぎ始めた。


 甘ったるい香りの中で、リースはぼんやりと考えていた。


 ビクターやバレットなどに報告するのが良いのだろうが、今の疲労感ではその報告すらいらないような気がした。特に害のある超常現象にも思えない。


 寧ろ、優雅に空を泳ぐ姿は見ていてとても癒される。これが本当の姿なのかは分からないが、可愛い生き物である。


 見上げているうちに彼はウトウトとしてきた。湯船に浸かったのはいつぶりだろうか。風呂にお湯を張るなど、水の無駄であると考えるようになった。一人暮らしでは出費もなるべく抑えたい。


 瞳を閉じると、浮かび上がるのは厄介にも会社のことである。こういうゆったりとしたい時には、もっと柔らかな風景があって欲しいものだ。一日中オフィスに籠っていたので仕方がないとは言え。


 あろうことか幻聴まで聞こえてくる。それは、助手の声だ。よく出来た助手ではあるのだが、時々見え隠れする暗い部分が恐ろしく思えて仕方がない。どうも彼には、想像の絶するような闇があるような気がする。顔や仕事の効率によってそれが上手く抑えられているだけであって、本当はもっと恐ろしい人間なのでは____。


 リースは首を横に振った。そういう考えを上司がして良いものではない。上司になったのだから、部下のもっと明るい部分を見ていかねば。


 助手のことから離れるために、リースは目を開いた。


 エンゼルフィッシュはまだそこに居た。黒と白のシンプルな色の縞模様。ヒラヒラと動く尾びれ。魚は魚でも、こんな複雑な形のものも居るのだな、とぼんやり考えてみる。


 いつの間にか湯が冷めていた。上がるのも面倒だが、此処で上がらなければ眠ってしまいそうだ。


 リースは体を湯船から上げた。エンゼルフィッシュは再び驚いたように激しく泳ぎ回る。


「悪いけど」


 リースは言って、風呂の栓を抜いた。すると、彼らは湯気の中に溶けていった。手を伸ばすもそれらしい感覚も無い。やはり超常現象か、とリースは風呂場から出た。


 *****


「おや」


 今日は実験である。リースがバインダーに実験記録を記していると、助手の声がしたので顔を上げる。目の前には、リースの助手である星1研究員、ウィル・ドイル(Will Doyle)が立っていた。


「甘い香りがしますね」

「ああ」


 昨日の入浴剤だろう。細かいことを話すのは面倒なので、リースは「新しい入浴剤を試したんです」とだけ言ってバインダーに戻った。


「へえ。良い香りですね。ベリー系でしょうか」

「よくわかりましたね」

「わかりますよ」


 顔を上げると、柔らかい笑みが浮かんでいる。何だか気恥ずかしくなってリースはまた顔を下げた。


 *****


 その日の帰り、リースは再び同じスーパーへ向かっていた。週末買いに出かけないようにという昨日の自分の考えに蓋をするような行為に思わず苦笑が漏れる。悔しいが、あれはリピートしたくなる品である。


 相変わらず同じ場所で同じポップを掲げて、それらは乱雑にカゴに収められていた。一つどころではなく、三つ、四つと入れていく。こんなにも売れていないのは、やはり子供向けすぎると思われているのだろうか。しかし、見た目は普通の入浴剤だ。問題は、このいかにも売れていないことを示唆するポップなのではないか、という気がする。


 結局五つも買ってしまった。店員に不思議な目を向けられるのも癪なので、適当なものも放り込んだ。数の多さが、今日の目的が何なのかを静かに示しているが、目を瞑ることにした。


 スーパーから出て早足に家に帰る。


 予め湯船は貯めておいた。初めて使う機能だったが、上手く作動しているだろうか。まさか、あんな機械を使ってまでこの入浴剤に魅せられるとは。何が起きるか分からないものである。


 家に入って早速風呂場を確認すると、湿った空気が脱衣所に流れ込んできた。ほっとして扉を閉め、早速服を脱ぐ。五つの中から一つを選んで、袋から出した状態で風呂場に入る。


 昨日は、あの魚たちが宙に現れる瞬間を見ることができなかった。研究員精神なるものなのか、実際にこの目で見てみたくなる。いわば実験だ。


 青色のボムを湯船にドボンと落とす。瞬く間に白い泡が出てきて、湯気が濃くなった。甘い香りが鼻腔をつく。


 リースは魚を求めて、深い白色の中に手を伸ばした。すると、


「......!」


 小さな何かが手に触れた。あのエンゼルフィッシュとは明らかに違う何かが居る。


 目を凝らすと、見えてきたのは白とオレンジの不思議な模様だ。尾びれや背びれを縁取るような黒も見える。


「今日はクマノミか......」


 リースはぼそっと呟いた。「今日は」などと言ってみたが、全く想像もしていない事態だった。このバスボムから出てくる魚は、皆エンゼルフィッシュだと思っていたのだ。


 一度閉めた扉を開いて、リースは脱衣所に放置されたスーパーの袋を見やった。


 あの入浴剤は、もしかして全て違う魚が出てくるのだろうか。


 全部入れてみたいところだが、それではこの香りで鼻が壊れてしまうだろう。下の住人からも香りが酷いと苦情が来そうだ。明日の魚は何だろう、という楽しみができたのだから、勿体ないことはしないでおこう。


 リースはいつものように髪や体を洗った。シャンプーを泡立てながら、彼の目は湯気の中を漂うクマノミに向けられる。


 昨日のエンゼルフィッシュは二匹だったのに対し、今日は四匹のクマノミだ。サイズの問題か、それとも日を追う事に現れる魚が倍に増えていくのか。


 此処は実験室でもないのに、頭にはそんなことばかり浮かんでしまう。白衣もB.Fのオフィスに置いてきたままだ。


 泡を洗い流して、湯船に体を沈める。今日はウトウトせず、じっと彼らを見つめていた。


 エンゼルフィッシュとは違い、幾分か動きが活発である。


 気になったリースは昨夜調べたのだが、エンゼルフィッシュは淡水魚だ。アクアリウムを趣味とする人のブログでは、美しい水槽の中をゆうゆうと泳ぐ彼らの姿が写真に収められて貼られていた。


 対して、クマノミは海水魚である。イソギンチャクを住処にしているイメージがある。


 この調子では、明日は一体何が出てくるというのだろう。


 魚ではないが、鯨ならば大変だ。こんな小さな浴室に体が収まるサイズのものでなければ困る。サメなどが現れたら、食われてしまうのだろうか。さっきの感じでは、クマノミを触った時の感触があったので、もしそうならば自分の命もそう長くはないかもしれない。


 リースが思っていると、脱衣所の方で袋のガサガサという音がした。中に入れていたものが崩れたらしい。その音を合図に、リースは湯から上がった。今日は湯を落とさず、そのままの状態にすることにした。


 次の日、出勤前にリースが浴室を開けると、湯気も魚も居なくなっていた。冷たくなった青色の水だけが残っていた。リースは栓を抜いて出勤した。


 *****


 リースは三つ目の入浴剤を手に取る。いよいよこれが毎日の楽しみになってしまった。今日は何だろう、と想像しながら早く家に帰るのだ。


 スーパーの袋から出されて洗面所の棚に特設コーナーを設けられた入浴剤。そこから一つ取り出して、風呂にドボンと沈める。その間に服を脱いだ。扉を開けると同時に魚の姿を確認する方がワクワクすると気づいたのだ。


 この入浴剤にとことん嵌められている気がするが、楽しいものは楽しいので仕方がない。


 相変わらずビクターやウィルには何も相談しなかった。害のない超常現象である上、たまには一人の人間だけが知っているようなものがあったって良いだろう。この世界には、そんな超常現象と人間の関係もあるのかもしれない。


 さあ、とリースは扉を開いた。何が来るか、と目を見張る。


 それは、エンゼルフィッシュやクマノミのような華やかさは無かった。ただ一匹、どっしりとした体つきで湯気の中を占領していた。


 黒々とした皮膚は岩のようである。群青の光を点した頭部の突起が揺れる。ぱっかりと開いた口から無数の鋭い歯が覗いた。


 チョウチンアンコウというものを、リースその時初めて見た。エンゼルフィッシュもクマノミも、水族館などでは見かけたことがある。しかし、これは無い。


 理解するのに数秒の時間を要した。今までの華やかな魚たちとは異なり、目の前に現れた不気味なフォルムの深海魚に開いた口が塞がらない。


 浴室に入るのも憚って、扉を開けた状態のまま固まっていた。


 まさか、深海魚を地上で、いやそれどころか、自分の家の浴室で見ることがあるとは。その上水中ではない。クマノミとエンゼルフィッシュ同様、湯気の中を漂っているのだ。


 リースは意を決して、浴室の中に足を踏み入れる。チョウチンアンコウの動きはゆったりとしていた。


 少し怖かったが、気になった。電気を消そう、と浴室の外のスイッチをオフにした。真っ暗闇が訪れて、アンコウの頭部の突起の光がぼんやりと闇に浮かぶ。


 リースはその光の位置を頼りに、シャワーで髪と体を洗う。終えてから、床に座ったまま彼を見あげていた。さすがに入る気は起きなかった。目に焼きつけるだけで十分だと思った。


「チョウチンアンコウか......」


 最初はエンゼルフィッシュだった。続いてクマノミ。三回目にチョウチンアンコウ。何か法則性があるのだろうか。超常現象は気分屋なものも多い。これといった法則性が最初から無いこともざらだ。


 床に座っているうちに寒くなってきてしまった。チョウチンアンコウに気をつけて湯に体を沈めた。


 今度、どんな魚が出てきても良いように餌付け用の小エビでも買ってきてやろうか。超常現象ともなれば、流石に食べないだろうか。


 腹を空かせているのか分からないが、チョウチンアンコウはしきりに青い光を揺らしていた。


 *****


 その後も様々な魚がリースの浴室には現れ続けた。買い込んだ入浴剤も最後の一つとなった。


 エンゼルフィッシュから始まり、クマノミ、チョウチンアンコウ、グッピー、ミノカサゴ____。


 グッピーで淡水魚にまた戻り、ミノカサゴで再び海水魚になった。チョウチンアンコウの時は浴槽に身を沈めることは可能だったが、ミノカサゴの時は風呂場に入ることすら躊躇われた。というのも、ミノカサゴはその体に毒針を持つのだ。遠くから眺め、満足したらくしゃみをしながら栓を抜いた。


 そして、残る最後がこの入浴剤。風呂などシャワーで済ませる身なので、今月は水道代が怖い。ミノカサゴのときのように、風呂にお湯だけ張って入りもせずにお湯を落とすということをすると、あまりにも勿体ない。


 今日で最後にしよう。


 開いた扉の隙間から、リースは入浴剤をお湯に投げ入れた。


 シュワシュワと泡の弾ける音を聴きながら、服を脱いでいく。最後までビクターやウィルには黙っていた。チョウチンアンコウを見た時は、あまりの衝撃に言うか迷ったが、秘密裏に行われる実験もまたワクワクするものであった。


 リースは風呂場に続く扉に手をかける。恐らくだが、今回の私的な実験で分かったことが一つ。


 最初に出てきたのはエンゼルフィッシュ。次にクマノミ。そしてチョウチンアンコウ。


 続いて、グッピー、次いでミノカサゴだ。


 これはサイクルだ。


 エンゼルフィッシュは淡水魚、次のクマノミは海水魚。チョウチンアンコウも海水魚だが、住まう水域がクマノミとは異なる。彼は深海魚に分類されるのだ。


 続いて、グッピーは淡水魚だ。一旦水域がエンゼルフィッシュと同じ場所に戻る。しかし、次いで出てきたミノカサゴで、また海へ。


 次に出てくるのは、恐らく深海魚。


 こんなに安易な考え方もどうかとは思うが、何が起こったって不思議では無いのが超常現象。これ以上に信じられないような結果が待っていることだってある。


「さ、実験の終わりだ」


 リースは扉を開いた。


 細長いものが宙を漂っている。リースはその見た目がチョウチンアンコウに似たグロテスクなものであると判断した。


 口より遥か先に出た鼻、ベリーのような、黒曜石のような瞳、口から覗く無数の細かい歯、首の隙間一つ一つから覗くルビーのような赤色。


 リースは目を見張る。


 それは、この浴室では狭いのだろう、何度もぐるぐると旋回を繰り返している。黒い目にリースを映しながら。


「......」


 リースは我も忘れてその魚を見ていた。名前は知らない魚だった。だが、チョウチンアンコウと同じ鋭く細かい歯でピンとくる。深海魚の特徴の一つとして、鋭い歯を持っていること。つまりこの魚も深海魚なのだ。


 チョウチンアンコウはまだキャラクター化される見た目をしている。頭部からぶら下がる光が綺麗で、深海魚でも名の知れた魚である。


 しかし、今目の前を漂う魚は分からない。こんなにグロテスクな見た目をしているのであれば、忌み嫌われるような存在にも思える。


 呼吸をしているのか、エラが開閉を繰り返す。そこから見える赤色は、そのボディに対して不気味な程に鮮やかだ。


 リースは体を洗うのも忘れて、その魚に手を伸ばした。リースの手から逃れるような仕草を見せたが、巨大魚には狭いので上手く逃げられないようだ。


 ゴムのような質感が指を跳ね返す。


 リースは肩を竦めて手を引っ込めた。そのまま風呂に体を沈めた。下から見上げるその魚は圧巻だった。魚はリースのことなど気にも留めずに泳いでいる。ゆったりと、輪を描くように。


「狭くてごめんな」


 リースは話しかけてみた。返事などあるはずもない。何処かの階からか、シャワーを流す音が聞こえてくる。


「今日で入浴剤も最後だ。今月の水代、バカになんないだろうな」


 独り言のように呟いて、リースは体をズルズルと下にずらす。口までお湯に漬かって、目を閉じた。


 悪い経験では無かった気がする。囁かな楽しみができたのは、心の癒しにはなった。水代と引き換えに、得たものは大きい。


「あーあ」


 瞼の裏に、溜まった報告書の数が浮かび上がる。旧B.F.に比べればストレスは減った。が、やはり仕事は一人でするのが身に合っている気がするのだ。


「消えないかな」


 口にした時だった。突然、冷たいものが体にまとわりついた。驚くよりも早く、胸が押し潰れるように苦しくなった。口や鼻から絶え間なく何かが体の内側に流れ込んできた。耐えようのない塩味だった。


 息が苦しい。


 リースは今まで溺れるはずもない浴槽に座っていたはずなのだ。なのに、今は尻の下にその感覚が無かった。


 空気を求めて腕を伸ばす。目を開こうと目に力を入れる。水の中特有のぼんやりとした視界だ。その視界に、リースはあの深海魚の黒々とした瞳を見た。その魚の大きく口が開く。白いノコギリのような牙がはっきりと見えた。


 ああ、死ぬ。


 次の瞬間、視界が真っ白になるほどの水泡が激しく顔の前に降ってきた。


 *****


 激しい咳をしながら、リースは腹の底から飲み込んだ海水を吐いた。潰れそうな胸が形を取り戻していく感覚がある。あれは、肺が潰れるという感覚だった。


 浴槽の外に弾き出された彼は、床に倒れて苦しんだ。口の中がまだあの味を保っている。どうしようもないほどしょっぱい。


「全て吐き出してしまった方が良いです。その方が体に良いでしょう」


 背中を撫でてくれるのは、彼の助手だった。この家に何故彼が居るのか、リースは全くもって理解できない。


 今は水を吐く苦しみでそれどころではなかった。


 少しして、もうほとんど出てくるものが無くなるとリースは深呼吸を繰り返した。涙で霞んだ視界に、水の入ったペットボトルを持った助手が居る。


「口をゆすいだ方が良いかと」


 リースはペットボトルに手を伸ばして、何度か口をゆすぐ。気づけば、腰から下にバスタオルがかけられていた。助手が用意してくれたのだろう。


「な、なんで此処に」

「先輩が苦しんでいるときに助けない助手が居ましょうか」


 だとしてもだ。


 リースは口から水をぺっと出した。そして、恐る恐る湯気の中に目を懲らす。そこにはもうあの大魚は居なかった。


 一体何だったのか。何か気に触ることを言ってしまったのか。


「あれはラブカですね」

「ラブカ」

「はい」


 手からペットボトルが取り上げられる。彼は蓋を閉めながら、宙を見ていた。


「とっても深い所にいる深海魚の一種です。もしかしたら、リースさんを同じ深海へ連れていこうとしたのかもしれませんね」


 怖いことを言う助手を、リースは軽く睨んだ。


「こういう危険な超常現象は、隠さずに私にも話してください。見えないところで死なれては困ります」

「見えるところで死ぬつもりもないです」

「ふふ、そうでしたか」


 リースはもう一度、あの深海魚が泳いでいた宙を見上げた。


 ラブカ_____。


 あの黒々とした目は、しっかりとリースの脳裏に焼き付いていた。


 *****


 次の日、リースは会社帰りに例のスーパーに寄った。全て話した後では、ウィルも気になると言ってついてきた。


「あ。あった」


 遠くから見ると、それは呆気なく安売り専用の籠に無造作に放り込まれていた。リースは手に取ろうとして違和感に気づく。


 ポップの裏に何かが書いてあるのだ。


「リースさん、カメラを」


 ウィルがペン型の小型カメラを渡してきた。リースはそれを構えてポップを捲る。


『魚心あれば水心』。


 そこにはそう書いてあった。


 *****


 それから少しして、そのスーパーの在庫が無くなるまでリースは入浴剤を買い続けた。使うというわけではない。ビクターに話し、大倉庫で保存してもらうことになったのだ。あんなに危険なもの、店頭で売っていてはいけない。


 他にも売っている店があるのか、リースはウィルと共に長期間の調査を行うことになった。


 幸運なことに、あの入浴剤が売られているのはノースロップではあの店だけのようだ。


 入浴剤も懲りて、また湯船に浸からない日常が戻ってきたリースは、いつものようにスーパーに寄った。夕食を買うために入ったが、途中でシャンプーを切らしていたことに気づいて、シャンプーのコーナーに向かう。


 シャンプーを手に取って選んでいる時、彼は視界に嫌なものが映ったような気がした。


 これ以上仕事が増えてたまるか、と見るのを避けていたが、結局好奇心には勝てなかった。


 丸いカゴの中に、大量のトリートメントが投げ入れられている。全て小袋で、一度で使い切れる量のものだ。よく網目の間を抜けず留まっているな、と思うほどに小さい袋である。


 そのカゴには、例の如くポップが貼ってある。売れないので驚くべき値段で売られていることを、視覚に煩いほど語りかけてくる。


 リースはポップを摘む。恐る恐るそれを捲った。そして、どんな効果があるトリートメントか、即座に理解した。


『魚心あれば水心』。

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― 新着の感想 ―
[良い点] どんなに無害に思えても、たまーに命の危険がある それが超常現象なんですよねえ 製品自体が、というよりポップに書かれた文字によって不思議な効果が付与されたんでしょうか 前にも文字が書かれた…
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