File067 〜味にうるさいダイニング〜
ポテトは冷めきっている。サラダの野菜は古い。魚は臭いが酷いし、ワインにも埃が浮いている。
「こんなまずいもの、食えって言うのか」
男は鼻で笑って、フォークで皿ごと対岸へ押し返す。
「料理もまともに出来ないなんて、何なら満足にできるんだろうな」
男はワインを喉に流し込み、大きくため息をついた。向かいには、微笑を浮かべる女性が一人。白髪混じりの髪を後ろで結い、何を言われても動じない。
「......聞いてるのか」
「聞いてますよ。なかなか難しいのよねえ、上手に作るのって」
男は嘲笑した。グラスをテーブルに置き、フォークでポテトを突き刺した。
「不味く作るのもまた才能か?」
「そうかも。何でもポジティブに考えましょう」
「ポジティブすぎる。もっとまともになれ」
「充分まともです」
それは、何気ない朝食の会話である。ダイニングテーブルに向かい合わせになった、50代半ばの夫婦。皿の上の料理はお世辞にも美味しそうとは言えない。
会話からして、女が作ったもののようだ。あかぎれまみれの手を擦り、愛おしそうに男を見つめている。
「もうこんな時間か」
男が時計を見上げた。仕事の時間なのだ。
「行ってしまうのですね」
「この前、駅のトイレに駆け込んだら遅刻したんだ。料理で腹を下すくらいなら、食わん方が身のためだ」
「まあ」
女はクスクスと可笑しそうに笑った。男は軽く睨み、椅子にかけていたジャケットとカバンを掴んで、ダイニングを出て行った。
「お皿、下げないと」
女は誰もいなくなった空間に向かって、囁くように言うのだった。
*****
夕食、男はカピカピに乾いた皿をシンクに下げ、買い物袋を乱暴にテーブルに置く。
「セロリが安かった」
「じゃあ、スープにしましょう」
「あまり好きでは無いんだが」
「いつもセロリだけ残しますものね」
少しして、テーブルにはセロリを使った料理が並んだ。
「質素だな」
男が口を曲げる。
「充分ですよ」
女が微笑む。
男はスープにスプーンを落として、一口だけ口に運んだ。味に納得していないのか、眉を顰めている。
「薄い」
「あら......私は美味しいと思いますけど」
「こんな不味いもん、よく食える。腹が減っているからか」
「私にはちょうど良いんですよ」
男は首を横に振ってスープを味わうことなく平らげた。そして、買ってきたパンをむしり取るように食べ始める。
「買ってきたものが一番美味い気がする。明日は外食でもしてくるか」
ボソリと彼は言った。女は悲しそうな顔をして、
「ダメですよ。こうして一緒に食べるのが楽しいんですから」
そう言った。男は聞こえないふりをして、パンを胃の中に落とし込むと席を立った。
「お風呂ですか?」
女がすかさず問う。
「......風呂、入れてないな」
「ごめんなさい、今入れますね」
「いや、いいや。もう今日は寝る。明日も早いしな」
男はそう言って、皿を置いたままダイニングを出て行った。
*****
外食をすると言っていたが、男は家に戻ってきてはきちんとダイニングで飯を食った。
「今日は......ちょっと濃いな」
男は眉を顰める。その日は味付けしたチキンだ。調味料の量を間違えたのか、かなりしょっぱい味付けになっている。男のグラスからはかなり早いスピードで水が消えた。
「また腹を下しそうだ」
「全部食べるとそうですよ。ちょっと残せば良かったのに」
女は空になった皿を見て目を丸くする。
「実は美味しかったんじゃないです?」
「この鶏肉、高かったんだぞ」
「なるほど......」
女は笑って、両手に顔を乗せて、正面からじっと男を見つめる。
「なんだ......」
「いいえ、なんでもありませんよ」
男は時計を見た。
「もうこんな時間か、昨日は風呂に入っていないからな。今日は何とか風呂に入る時間を確保したんだ」
彼はそう言って、今日もダイニングを出て行った。
*****
「今日はデザート付き」
女は楽しそうに正面の男に言った。イチゴが乗ったバニラアイスだ。市販のバニラアイスだが、男は黙々と口に運んで、食べ終わってから「やっぱり買った方が美味いもんが多い」と言うのだった。
「デザートがあると、特別感が出て良いですよね」
女は男を見つめて言う。
「腹に溜まるか溜まらないかって言われれば、ただの食費の無駄なんだがな。デザートは」
「あら、心の満たされ方がまた違うんですよ。甘いものが後に控えてるってなったら、食事も楽しく進みませんか?」
「女は別腹とか言ってな」
「正解」
クスクス笑うのは女だけだった。男は今日も無愛想だった。前に比べて成長したのは、料理への文句が少しずつ減ってきていること、そして、皿を下げることを覚えたことだ。
「次の日まで洗っておいて欲しいものだがな」
「それは自分でやって下さらないと」
男は皿に水を溜めながら、時計を振り返る。仕事の時間だ。
「今日は少し遠くで会議がある。帰りが遅くなるかもしれないな」
「そうなんですか。気をつけてくださいね」
男は鞄とジャケットを掴み、ダイニングを後にした。
*****
帰りの電車は、遅い時間のために人が少なかった。男は深深とシートに腰をかけ、じっと暗くなった窓の外を見つめる。
目を閉じると確実に眠ってしまうので、少し先の駅で降りる身としてはそれは避けたいところである。
男はぼんやりと座っていた。流れていく街の灯りを見つめていた。
「......外食は怒るだろうな」
男は呟いたあと、一駅前で電車を降りた。遅くまで営業しているスーパーマーケットが近くにある駅なのだ。
*****
家に戻るのは夜中だった。時計の針はちょうど12時を指し、男はダイニングの電気をつけた。女は椅子に座っていた。
「ちょっと冷えるな」
「私は大丈夫ですけれど......風邪を引くと困りますものね。会議はいかがでした?」
女の質問に男は答えなかった。足元にある小型のストーブをつけ、着込んだ服を脱ぎながら買い物袋をテーブルに置く。
「今日はポテトサラダが安かった」
「へえ、お肉と合いますね」
「肉は高いから買わんのだ。魚を焼くだけの簡単なものにする」
「そうですか。魚も美味しいですからね」
男はキッチンに消えた。香ばしい香りがダイニングに立ち込め、エプロンをつけた男が戻ってきた。
「もう一時か」
「そうですよ。真夜中の食事ってワクワクしますよね」
男は女の言葉を無視して再び消えた。
やがて、ダイニングテーブルに料理が並んだ。
「まあ、良い焼き加減じゃないですか」
女が魚を見て顔を輝かせる。
「珍しく美味しそうだ」
男が言って、ワインを開ける。そして、魚と共に腹に流し始めた。
「どうです?」
「まあ、美味いさ、そりゃ。手の込んだこと何もしてないからな」
「そうですか? 魚を焼くのって時間がかかるし大変じゃないですか。立派なひとつの料理として胸を張りましょうよ」
女はそう言って、男を見つめる。男も、ワインを飲む手を止めた。
時計は夜中の一時を回っている。日付は超えたのだ。
「......一年か」
男はじっと女を見つめて言った。女は「そうですねえ」と頷く。
「......寂しいもんだな。一人でテーブルを囲むというのは」
「一人で囲むって......変な表現ですね」
女は微笑み、男に手を伸ばした。その手は、男の体に触れることはできなかった。
女は幽霊だった。
「一年も料理を作り続ければ、マシなもんは作れるもんだな」
「そうみたいですね。諦めない貴方が素敵でしたよ」
男は女を見つめる。
「......そこに居るのか?」
「居ますとも」
「......一年間、お前の存在を感じられるのは、何故かこのテーブルに座った時だけなんだよな。味の感想を言うと、何かしら返してくれる気がするんだ」
「そうなんですね。嬉しいです」
男は目の前の空席をじっと見つめる。
「今日のお味はいかがですか?」
女は微笑んで問う。
男の瞳から、塩味のある一雫がワインに垂れた。
「寂しい」
「......そうですか」
*****
「妻の料理は、とても美味しかった」
男は、囁くように言った。
「本当に、私の料理の腕が妻の足元にも及ばないことは承知しているんです。一度、妻に料理を作ったことがあるのですが、本当に美味しそうに食べてくれたんですよね」
男は目の前の白衣の男に微笑む。
「あんなに不味いもの、よく食えたもんです。焦がした料理で、きっと腹も下したろうに。おかわりまでしてくれた」
「......奥さんは、今どちらに?」
「ダイニングに居ると思います」
男は、リビングから見える、ダイニングルームの僅かな空間を見やる。
「椅子に座ってみますか?」
「是非」
ダイニングテーブルには、椅子が二脚、向き合うようにして置いてある。研究員は、男がいつも座っているという方の椅子につく。
「どうです?」
「そうですね......」
研究員は目の前の空席を見つめた。
「やっぱり、旦那様じゃないと現れてくださらないようですね」
「......そうですか」
男は眉を顰め、研究員に代わって椅子に座る。
気配がした。
「どうです?」
「......居ます。たぶん、目の前に」
「ええ。実は、私には見えています」
「......どんな表情です?」
「怒ってます。多分、私が先に座ったからかな」
研究員が笑って、部屋を離れた。男はダイニングに一人残される。
「酷いですよ。たった二人の空間に知らない方を連れてきて」
女の不満げな声がする。
「気配だけじゃ、寂しくてならん。もっと分かりやすく現れてくれよ」
「それならば、料理を作って下さらないと。此処に料理が並んだ方が、もっと力が出るわ」
コン、と壁が叩かれる。男は其方を見た。研究員は包丁で切る真似をした。
「料理、しろってことですか」
こくり、と頷いて、白衣は消えていった。
男は「しょうがないな」と椅子から立ち上がり、キッチンに消えた。
*****
出来上がったのは、りんごのパンケーキだった。
「すごい、こんな豪勢なもの作れるようになったんです?」
女は目を丸くし、男を見上げる。
すると、
「今日は、俺じゃなくて」
男は、女に皿を押した。フォークとナイフを、皿の横に添える。
「お前の感想を聞きたい」
女は呆然とした様子で男を見ていた。
「私が、ですか」
「俺にも分かるように合図をくれたら、嬉しいんだが」
「......」
女はナイフとフォークに手を伸ばす。その手は震えていた。
「......私、幽霊なんですよ? 実体がないのに、カトラリーなんて触れられません」
男は黙って見つめていた。女は息を吸い込んで、フォークに触れた。指先に冷たい金属の感覚を覚えた。
「......触れた」
女が呟き、ナイフも持った。そして、パンケーキを切り分けた。シナモンの香りが湯気と共に鼻腔を撫でた。
女は一口大に切り分けたパンケーキを、口に運ぶ。
「......美味いか」
「......」
「美味いだろうな。その顔は」
女は頷いた。泣きながら何度も頷いた。
「美味しいです。お腹、空いていたんです」
「うん、そうだろう。いっぱい食べなさい」
男は、口いっぱいにパンケーキを頬張る妻を、幸せそうに眺める。
「食べ終わったら、もう行くんだな」
「もう平気ですか?」
「心配なのか」
「だって、あなた料理出来ないでしょう。あんなに下手くそだったじゃありませんか」
「やっぱり思ってたんだな? それなのにおかわりまでしてたじゃないか」
「頑張って作る貴方が可愛かったんですもの」
パンケーキが、最後の一口になった。
「でも、もう心配いらないですね。こんなに美味しいもの作れるようになったんだもの」
「そうだ。もう大丈夫だ」
「良かった」
皿が完全に空になった。
ナイフとフォークが、静かに置かれた。