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Black File  作者: 葱鮪命
149/193

File067 〜味にうるさいダイニング〜

 ポテトは冷めきっている。サラダの野菜は古い。魚は臭いが酷いし、ワインにも埃が浮いている。


「こんなまずいもの、食えって言うのか」


 男は鼻で笑って、フォークで皿ごと対岸へ押し返す。


「料理もまともに出来ないなんて、何なら満足にできるんだろうな」


 男はワインを喉に流し込み、大きくため息をついた。向かいには、微笑を浮かべる女性が一人。白髪混じりの髪を後ろで結い、何を言われても動じない。


「......聞いてるのか」

「聞いてますよ。なかなか難しいのよねえ、上手に作るのって」


 男は嘲笑した。グラスをテーブルに置き、フォークでポテトを突き刺した。


「不味く作るのもまた才能か?」

「そうかも。何でもポジティブに考えましょう」

「ポジティブすぎる。もっとまともになれ」

「充分まともです」


 それは、何気ない朝食の会話である。ダイニングテーブルに向かい合わせになった、50代半ばの夫婦。皿の上の料理はお世辞にも美味しそうとは言えない。


 会話からして、女が作ったもののようだ。あかぎれまみれの手を擦り、愛おしそうに男を見つめている。


「もうこんな時間か」


 男が時計を見上げた。仕事の時間なのだ。


「行ってしまうのですね」

「この前、駅のトイレに駆け込んだら遅刻したんだ。料理で腹を下すくらいなら、食わん方が身のためだ」

「まあ」


 女はクスクスと可笑しそうに笑った。男は軽く睨み、椅子にかけていたジャケットとカバンを掴んで、ダイニングを出て行った。


「お皿、下げないと」


 女は誰もいなくなった空間に向かって、囁くように言うのだった。


 *****


 夕食、男はカピカピに乾いた皿をシンクに下げ、買い物袋を乱暴にテーブルに置く。


「セロリが安かった」

「じゃあ、スープにしましょう」

「あまり好きでは無いんだが」

「いつもセロリだけ残しますものね」


 少しして、テーブルにはセロリを使った料理が並んだ。


「質素だな」

 男が口を曲げる。


「充分ですよ」

 女が微笑む。


 男はスープにスプーンを落として、一口だけ口に運んだ。味に納得していないのか、眉を顰めている。


「薄い」

「あら......私は美味しいと思いますけど」

「こんな不味いもん、よく食える。腹が減っているからか」

「私にはちょうど良いんですよ」


 男は首を横に振ってスープを味わうことなく平らげた。そして、買ってきたパンをむしり取るように食べ始める。


「買ってきたものが一番美味い気がする。明日は外食でもしてくるか」


 ボソリと彼は言った。女は悲しそうな顔をして、


「ダメですよ。こうして一緒に食べるのが楽しいんですから」


 そう言った。男は聞こえないふりをして、パンを胃の中に落とし込むと席を立った。


「お風呂ですか?」


 女がすかさず問う。


「......風呂、入れてないな」

「ごめんなさい、今入れますね」

「いや、いいや。もう今日は寝る。明日も早いしな」


 男はそう言って、皿を置いたままダイニングを出て行った。


 *****


 外食をすると言っていたが、男は家に戻ってきてはきちんとダイニングで飯を食った。


「今日は......ちょっと濃いな」


 男は眉を顰める。その日は味付けしたチキンだ。調味料の量を間違えたのか、かなりしょっぱい味付けになっている。男のグラスからはかなり早いスピードで水が消えた。


「また腹を下しそうだ」

「全部食べるとそうですよ。ちょっと残せば良かったのに」


 女は空になった皿を見て目を丸くする。


「実は美味しかったんじゃないです?」

「この鶏肉、高かったんだぞ」

「なるほど......」


 女は笑って、両手に顔を乗せて、正面からじっと男を見つめる。


「なんだ......」

「いいえ、なんでもありませんよ」


 男は時計を見た。


「もうこんな時間か、昨日は風呂に入っていないからな。今日は何とか風呂に入る時間を確保したんだ」


 彼はそう言って、今日もダイニングを出て行った。


 *****


「今日はデザート付き」


 女は楽しそうに正面の男に言った。イチゴが乗ったバニラアイスだ。市販のバニラアイスだが、男は黙々と口に運んで、食べ終わってから「やっぱり買った方が美味いもんが多い」と言うのだった。


「デザートがあると、特別感が出て良いですよね」


 女は男を見つめて言う。


「腹に溜まるか溜まらないかって言われれば、ただの食費の無駄なんだがな。デザートは」

「あら、心の満たされ方がまた違うんですよ。甘いものが後に控えてるってなったら、食事も楽しく進みませんか?」

「女は別腹とか言ってな」

「正解」


 クスクス笑うのは女だけだった。男は今日も無愛想だった。前に比べて成長したのは、料理への文句が少しずつ減ってきていること、そして、皿を下げることを覚えたことだ。


「次の日まで洗っておいて欲しいものだがな」

「それは自分でやって下さらないと」


 男は皿に水を溜めながら、時計を振り返る。仕事の時間だ。


「今日は少し遠くで会議がある。帰りが遅くなるかもしれないな」

「そうなんですか。気をつけてくださいね」


 男は鞄とジャケットを掴み、ダイニングを後にした。


 *****


 帰りの電車は、遅い時間のために人が少なかった。男は深深とシートに腰をかけ、じっと暗くなった窓の外を見つめる。


 目を閉じると確実に眠ってしまうので、少し先の駅で降りる身としてはそれは避けたいところである。


 男はぼんやりと座っていた。流れていく街の灯りを見つめていた。


「......外食は怒るだろうな」


 男は呟いたあと、一駅前で電車を降りた。遅くまで営業しているスーパーマーケットが近くにある駅なのだ。


 *****


 家に戻るのは夜中だった。時計の針はちょうど12時を指し、男はダイニングの電気をつけた。女は椅子に座っていた。


「ちょっと冷えるな」

「私は大丈夫ですけれど......風邪を引くと困りますものね。会議はいかがでした?」


 女の質問に男は答えなかった。足元にある小型のストーブをつけ、着込んだ服を脱ぎながら買い物袋をテーブルに置く。


「今日はポテトサラダが安かった」

「へえ、お肉と合いますね」

「肉は高いから買わんのだ。魚を焼くだけの簡単なものにする」

「そうですか。魚も美味しいですからね」


 男はキッチンに消えた。香ばしい香りがダイニングに立ち込め、エプロンをつけた男が戻ってきた。


「もう一時か」

「そうですよ。真夜中の食事ってワクワクしますよね」


 男は女の言葉を無視して再び消えた。


 やがて、ダイニングテーブルに料理が並んだ。


「まあ、良い焼き加減じゃないですか」

 女が魚を見て顔を輝かせる。


「珍しく美味しそうだ」


 男が言って、ワインを開ける。そして、魚と共に腹に流し始めた。


「どうです?」

「まあ、美味いさ、そりゃ。手の込んだこと何もしてないからな」

「そうですか? 魚を焼くのって時間がかかるし大変じゃないですか。立派なひとつの料理として胸を張りましょうよ」


 女はそう言って、男を見つめる。男も、ワインを飲む手を止めた。


 時計は夜中の一時を回っている。日付は超えたのだ。


「......一年か」


 男はじっと女を見つめて言った。女は「そうですねえ」と頷く。


「......寂しいもんだな。一人でテーブルを囲むというのは」

「一人で囲むって......変な表現ですね」


 女は微笑み、男に手を伸ばした。その手は、男の体に触れることはできなかった。


 女は幽霊だった。


「一年も料理を作り続ければ、マシなもんは作れるもんだな」

「そうみたいですね。諦めない貴方が素敵でしたよ」


 男は女を見つめる。


「......そこに居るのか?」

「居ますとも」

「......一年間、お前の存在を感じられるのは、何故かこのテーブルに座った時だけなんだよな。味の感想を言うと、何かしら返してくれる気がするんだ」

「そうなんですね。嬉しいです」


 男は目の前の空席をじっと見つめる。


「今日のお味はいかがですか?」

 女は微笑んで問う。


 男の瞳から、塩味のある一雫がワインに垂れた。


「寂しい」


「......そうですか」


 *****


「妻の料理は、とても美味しかった」


 男は、囁くように言った。


「本当に、私の料理の腕が妻の足元にも及ばないことは承知しているんです。一度、妻に料理を作ったことがあるのですが、本当に美味しそうに食べてくれたんですよね」


 男は目の前の白衣の男に微笑む。


「あんなに不味いもの、よく食えたもんです。焦がした料理で、きっと腹も下したろうに。おかわりまでしてくれた」


「......奥さんは、今どちらに?」

「ダイニングに居ると思います」


 男は、リビングから見える、ダイニングルームの僅かな空間を見やる。


「椅子に座ってみますか?」

「是非」


 ダイニングテーブルには、椅子が二脚、向き合うようにして置いてある。研究員は、男がいつも座っているという方の椅子につく。


「どうです?」

「そうですね......」


 研究員は目の前の空席を見つめた。


「やっぱり、旦那様じゃないと現れてくださらないようですね」

「......そうですか」


 男は眉を顰め、研究員に代わって椅子に座る。


 気配がした。


「どうです?」

「......居ます。たぶん、目の前に」

「ええ。実は、私には見えています」

「......どんな表情です?」

「怒ってます。多分、私が先に座ったからかな」


 研究員が笑って、部屋を離れた。男はダイニングに一人残される。


「酷いですよ。たった二人の空間に知らない方を連れてきて」


 女の不満げな声がする。


「気配だけじゃ、寂しくてならん。もっと分かりやすく現れてくれよ」

「それならば、料理を作って下さらないと。此処に料理が並んだ方が、もっと力が出るわ」


 コン、と壁が叩かれる。男は其方を見た。研究員は包丁で切る真似をした。


「料理、しろってことですか」


 こくり、と頷いて、白衣は消えていった。


 男は「しょうがないな」と椅子から立ち上がり、キッチンに消えた。


 *****


 出来上がったのは、りんごのパンケーキだった。


「すごい、こんな豪勢なもの作れるようになったんです?」

 女は目を丸くし、男を見上げる。


 すると、


「今日は、俺じゃなくて」


 男は、女に皿を押した。フォークとナイフを、皿の横に添える。


「お前の感想を聞きたい」


 女は呆然とした様子で男を見ていた。


「私が、ですか」

「俺にも分かるように合図をくれたら、嬉しいんだが」

「......」


 女はナイフとフォークに手を伸ばす。その手は震えていた。


「......私、幽霊なんですよ? 実体がないのに、カトラリーなんて触れられません」


 男は黙って見つめていた。女は息を吸い込んで、フォークに触れた。指先に冷たい金属の感覚を覚えた。


「......触れた」


 女が呟き、ナイフも持った。そして、パンケーキを切り分けた。シナモンの香りが湯気と共に鼻腔を撫でた。


 女は一口大に切り分けたパンケーキを、口に運ぶ。


「......美味いか」

「......」

「美味いだろうな。その顔は」


 女は頷いた。泣きながら何度も頷いた。


「美味しいです。お腹、空いていたんです」

「うん、そうだろう。いっぱい食べなさい」


 男は、口いっぱいにパンケーキを頬張る妻を、幸せそうに眺める。


「食べ終わったら、もう行くんだな」

「もう平気ですか?」

「心配なのか」

「だって、あなた料理出来ないでしょう。あんなに下手くそだったじゃありませんか」

「やっぱり思ってたんだな? それなのにおかわりまでしてたじゃないか」

「頑張って作る貴方が可愛かったんですもの」


 パンケーキが、最後の一口になった。


「でも、もう心配いらないですね。こんなに美味しいもの作れるようになったんだもの」

「そうだ。もう大丈夫だ」

「良かった」


 皿が完全に空になった。


 ナイフとフォークが、静かに置かれた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 素敵なお話だな〜( ;∀;) 年を経た夫婦だからこそのやり取り 幽霊も超常現象のくくりに入るのかな? 特定の条件下でのみ現れる不思議な現象だから、やはり超常現象かな?
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