File064 〜厨房の小人たち〜 後編
「鮭と牛乳、小麦粉、塩コショウ、レモン、バター......鮭って何処にあるんだ?」
ジャミソンが紙に書き出した材料を読み上げたエズラは、テーブルの上から周りを見回す。
「大抵は冷蔵庫じゃね?」
バレットは高層ビルのような大きさの冷蔵庫を指さす。
「扉は開けられるのかな」
ケルシーは冷蔵庫を観察した。取っ手はついているものの、あれは巨人用。自分たちが小人なので、あのサイズの取っ手は当然役に立たない。
しかし、今挙げた材料の多くは冷蔵庫にあるのだろう。冷蔵庫を開けなければ話は始まらない。
「それでしたら」
ジャミソンが口を開く。
「取っ手部分に、あのハシゴと同じような紐をつけているんです。みんなで引っ張れば開きます」
全員、彼の話で気がついた。たしかに、取っ手の部分に細い紐がついて、それが床までぶら下がっているのだ。あの紐を引っ張ったら、たしかに開きそうである。
「じゃあ、私は冷蔵庫に行くね!」
ケルシーはそう言って厨房台のハシゴを降りていく。ビクターはそれに続きながら、バレット達を振り返った。
「俺も冷蔵庫に行く。バレットも来い。エズラは塩コショウと小麦粉を用意してくれ」
「分かった」
「はーい」
バレットがビクターと共に降りて行ったので、厨房台にはエズラとジャミソンの二人が残った。
エズラはシェフを振り返る。
「塩コショウは何処に?」
「えっと......あの棚の上ですね!」
ジャミソンが指さしたのは、調味料や粉物を置いている木の棚だった。ちょうど厨房台の真正面に見える。冷蔵庫よりは低いが、あれもかなりの高さだ。
「調味料類は、布に入れて運べます!」
そう言って、ジャミソンが持ってきたのは正方形の白い布である。大きさはもちろん、大きいのだが、巨人用と言われるとそうでも無い。ティッシュペーパーを一回り小さくしたくらいの、小さな布である。
「これを、こうして......」
ジャミソンが対角線の角を結び、布を袋状にした。
「背中に背負うと、ハシゴの昇り降りも楽ちんですよ!」
彼はそう言って、同じものをもう一つ作る。布は何枚も用意されていた。きっと、これも「小人」である現在の自分たち専用なのだ。
「できましたー!」
ジャミソンが得意気に布を見せた。袋状の布は、粉類もそれなりに入りそうである。エズラはそれを背中に背負った。
「じゃあ、これに塩コショウと小麦粉を入れて持ってきたら良いんですね」
「はい! 行きましょう!!」
二人はハシゴを降りた。
*****
五人が作ると決めたのは、鮭のムニエルである。
新しく増えた注文に書かれている、三つの料理は「人参のポタージュ」、「鮭のムニエル」、「タルトタタン」であった。
ジャミソンは、その中で最も作業時間が短いと見込んで鮭のムニエルを提案したのである。
「タルトタタンはじっくり火を通すと時間がかかりますし、人参のポタージュも下準備が多いです」
そのような理由であったが、エズラは甘いタルトタタンを頭に思い浮かべる。
ジュワッととろける熱々の食感、香ばしい湯気、甘党の彼にとっては、捨てがたい選択肢ではあった。だが、此処は超常現象の厨房。自分の欲だけがまかり通る世界では無い。選択を誤れば命が危険に晒される場所なのだ。
ハシゴを降り、エズラとジャミソンは床を歩く。タイルからタイルへ飛び乗るようにして、溝につまずかないように慎重に進んだ。
「あの、エズラさん」
「はい」
エズラはジャミソンの先を行っていた。振り返ると、ゼイゼイと激しく息をするジャミソンが居る。彼は驚く程に体力が無い。シェフだと言うのなら、厨房を忙しく行ったり来たりしているはずなのだから、体力もあるはずである。
もちろん、これだけ巨大な厨房は未経験ではあるだろうが。
「どうしました」
「エズラさん達は、一体何者なんですか? この変な空間に動揺しているような様子も見られませんでしたし......」
「ああ......」
そのことか、とエズラは前を向いて再び歩き始める。
エズラたちからすれば、異空間の超常現象なんてものは日常茶飯事だ。毎日のように訓練に使う赤い箱なんて、その良い例だ。
空間を歪めてその空間を自在に変えてしまい、自分の庭にしてしまうのが、異空間の超常現象の怖いところである。
最初こそエズラだって驚いたが、慣れればそういうものなのだと納得してしまうのだから、慣れというものは恐ろしい。
一般人に自分たちの仕事を説明することは今までなかったが、今回のケースは新しいB.F.になってからは日常の風景になった。
しかし、そのままの説明をするというわけではない。明るみには出てしまった会社だが、まだ明確なことは明かしていないのだ。
「救助隊です。こういうの専門の」
エズラが淡々と答える。
「救助隊、ですか......消防士さん、ということなんですかね?」
「......まあ、そんなとこです」
消防隊が白衣を着て大きな銃を背中に背負うことは決してないだろうが、エズラは肯定しておく。
こういう場合は相手に話を合わせておくのが賢い逃げ方である。
「これの他にも似たような事件は結構あるんですか?」
「ありますね。結構頻繁に」
「ほえー。カッコイイですね。若い方も多いようですし、何だか僕も頑張っちゃおうって思います!!」
肩で息をしながら言うことでも無いような気がするが、前向きになってもらうのはありがたい。さっきのように泣き喚いて話も出来ないような錯乱状態になってしまえば、次に困るのはエズラ達だ。
この空間では、彼しか鮭のムニエルの作り方を知らないのだ。
もし巨人の客の機嫌を損ねて彼が連れて行かれてしまえば、エズラ達にはこの空間の中で見知らぬ料理名を前に立ち竦む未来が待っている。
「着きましたね」
エズラは先に厨房台から真正面に見えていた、調味料や粉類が保管された棚の前へとやって来た。この棚にも丁寧に、「小人用」のハシゴが取り付けられている。
エズラはそれに登り、比較的床に近い位置に置いてある小麦粉の袋の場所までやって来た。エズラは袋を開く。ぶわっ、と空気が大きく動き、白い粉がエズラの青髪を染めた。くしゃみを我慢し、エズラは背中に背負っていたジャミソン特製の布の袋を腹の前に持ってくる。これを袋の中に落とし、小麦粉をすくうのだ。
エズラはそうしようとして、ふと気づいた。
今から自分たちが作ろうとしている巨人用の料理に使う小麦粉の量と、この袋に入れられる小麦粉の量が全く均等でないのだ。
それも考えてジャミソンはもう一つ袋を用意したのだろうが、あれはもしや。
「ジャミソンさん」
「はーい?」
エズラは下の方でエズラの様子を伺っているジャミソンを呼んだ。ジャミソンは背中に、エズラと同じ袋を一つ背負っている。
「その袋、まさか塩コショウを入れるためのものじゃないですよね」
「え? 塩コショウを入れるための袋ですよ? エズラさんのは、小麦粉用です! エズラさんには、何回か往復してもらおうかと思っていたので!」
太陽のような笑みを向けられ、エズラは今手の中にある小麦粉を、その顔面に落としてやろうかと思ったのだった。
*****
バレット、ビクター、そしてケルシーの三人は、冷蔵庫の扉の取っ手を引っ張っているところだった。ジャミソンの言う通り、取っ手にはロープがついているので、小人である自分たちはこのロープを引っ張って開けることになる。
しかし、
「うがああっ!! こんなの開くのかよ、本当にっ!!」
全身の力をこめてロープを引いても、扉はビクともしない。
「斜め下に力が行っているから、上手く開かないのかも」
ケルシーが冷静に分析を行う。
現在三人が居るのは床の上。ロープが床まで伸びているということは、床からでも引っ張ることを想定しているのだろうが、斜め下に力が加わっても扉は開かない。
「てこの原理だな。俺が上で扉の間に物を挟むから、二人は引き続き引っ張ってくれ」
「りょうかーい」
ビクターが冷蔵庫についたハシゴを登っていき、ケルシーとバレットは引き続き紐を引っ張る。
「なあ、エズラたちも呼ばね!?」
「ダメだよー、エズラはジャミソンさんと他の用意してるんだから! それに、制限時間も迫っているだろうからモタモタしていられないよ」
ケルシーがそう言った次の瞬間。
「うわっ!!」
二人の体が後ろに吹っ飛んだ。
ゴロゴロとタイルを転がり、バレットはテーブルの近くにあった黒い車輪に頭を強打した。ごん、と重い音を辺りに響かせ、彼の息が詰まる。
「バレット、大丈夫!?」
ケルシーが慌てて彼に駆け寄った。バレットは目を回していたが、やがて「大丈夫......」と起き上がる。顔を上げると、巨大な冷蔵庫の扉が片方だけ開いている。
中には巨大な食材達が鎮座していた。
既にビクターが必要な食材を選んで、冷蔵庫から引きずり出しているところだった。
「おい、どうやって厨房台まで運ぶつもりだ?」
ビクターの声が上から降ってくる。
「えーっと」
床に居る二人は周りを見回す。大切な食材を床に落とすわけにもいかない。どのような条件で巨人が怒るのか、詳しいことは分からないが、一度床に落とした食材を使う時点でNGのような気がする。
「ところで、これって何だろうね?」
ケルシーが問う。今バレットが頭を強打したのは、黒い車輪である。こんなところに車輪があるのはおかしな話だ。車輪には銀色の板がついており、その上にもまた間を空けて同じ板が取り付けてあった。
「これ、台車じゃね? ほら、レストランとかでさ、料理乗せて運ぶやつ」
バレットが言うと、ケルシーも「ほんとだ!」と目を丸くする。いつも見慣れている大きさではないと、気づかないことも多いのだ。
それは、レストランで注文した品を店員が乗せて運ぶワゴンだった。さっきバレットが頭を強く打ったのは、その車輪部分だったらしい。
「これなら、何とか引っ張れるかな」
「ビクター! これに乗せてくれー!」
バレットが上に居るビクターに大声で伝える。ビクターが頷いて、ワゴンに食材を乗せていく。その間、ケルシーとバレットは辺りを散策していた。
「それにしても、本当に大きなキッチンだよねー」
「なー。こんな超常現象、一体何が目的で現れるんだか」
「まあ、理由も無く現れるのが超常現象だからねえ」
ケルシーが言って、何気なくワゴンの下を覗き込む。すると、
「......あれ?」
彼女は首を傾げた。
「どうした?」
「ワゴンの下、あれって......何だろう」
ケルシーがワゴンの下の空間を指さすので、バレットも腰を屈めてその下を覗き込む。目を凝らすと、暗闇の中にたしかに何かが落ちている。
「何だこれ......?」
バレットはワゴンの下に潜り込んで、その物体に近づいた。手で触れようとすると、ケルシーが懐中電灯をつけてくれた。明かりがその物体をよく照らし出した。
「お肉? いや、チョコかな」
物体は小さく、茶色かった。米粒のような形をしているが、米にしては色が変だ。見回してみると、周りにも同じようなものがいくつも転がっていた。
「何かの食材かな」
「調味料とかか?」
「うーん。オシャレなレストランは、きっと使う食材も多種多様だろうしね。私たちが知らないものがあっても可笑しくはないだろうね」
ケルシーがそう言ったので、バレットも納得する。後でジャミソンに聞くのが良いだろう。
二人で物体の観察を続けていると、
「終わったぞ」
上からビクターの声がした。
「はーい。じゃあ、行こっかバレット! 一仕事するよ!」
ケルシーが懐中電灯を消してワゴンの下から出ていく。バレットもそれに続いた。
ワゴンの下から出ると、ビクターの声が降ってきた。
「何してたんだ?」
彼の問いにケルシーが答える。
「知らない調味料が落ちていたんだよー。変色した米粒みたいな感じの」
「変色した米粒?」
「きっと調味料だよ。ジャミソンさん達が最初に料理した時に落としていったのかもね」
ケルシーが言って、ワゴンを押し始めた。バレットもそれに加勢する。ワゴンには、やはり小人用の取っ手が付いていた。このワゴンを使うことも、超常現象は想定済みのようだ。
ワゴンは二人の力でも難なく進んだ。これならば、時間短縮にもなって、鮭のムニエルを作る前に時間切れになることは無さそうである。バレットはそう思って、ホッと胸を撫で下ろすのだった。
*****
「ちょっ、エズラさん、こぼしすぎですよ!! 僕の頭が真っ白になっちゃいます!!」
エズラは小麦粉を布に入れていた。これで三回目の作業は、いよいよ腕がつりそうだ。手伝ってくれると思っていたが、ジャミソンは当たり前のように見ているだけである。
エズラは慎重に袋に入れているつもりだが、ジャミソンは何やら小麦粉が降ってくることが不満らしい。
真下に居りゃ、そりゃ小麦粉くらい被るだろ。
エズラはイライラしながら小麦粉を乱暴に袋に詰める。
こっちは良いから、ジャミソンはジャミソンで上に行って塩コショウを取ってきて欲しいものだ。
まさかそれすら自分にやらせようとしているわけじゃあるまいな、とエズラは思った。
「エズラさん、もっと注意してくださいよ!!」
「......」
「うわー!! また降ってきたー!!」
「......あのさ」
エズラが、彼に一言言ってやろうとした時だった。
エズラはある違和感に気づく。
小麦粉の袋に複数の穴が空いているのだ。小さな穴だが、今のこの体の小ささならば手どころか腕全体が通せそうなほどの大きさだ。こんな穴があれば、そりゃ穴から小麦粉が漏れて降ってくるに決まっている。
これで自分のせいにされていたのだから、エズラは尚更腹が立つ。
何か言ってやろうかと口を開きかけたが、そんなことよりも手を動かした方が良い。今するべきことは怒ることではない。小麦粉を詰めることなのだ。
「......終わったぞ」
案の定機嫌の悪いエズラがハシゴから降りてきた。背中には、サンタクロースのように小麦粉でパンパンになった白い袋を背負っている。
ジャミソンはその機嫌の悪さにすら気づいていないようだ。
「わあ、ありがとうございます! じゃあ次は塩コショウをお願いしますね!」
当たり前のように袋を押し付けてくるジャミソン。エズラはもちろん手を出さない。
「お前一人で行ってこい」
「ええっ!! 嫌ですよ!!」
とんでもない! という顔でジャミソンは顔を横に振った。
「俺はこれがあるんだから、どう考えたって登れないだろ」
エズラが自分の背中にある、小麦粉で膨らんだ布をチラリと見た。
「で、でも、それを床に置いていけば_____」
「早く行け」
「うう......」
エズラの気迫に押されて、ジャミソンはハシゴを登って行った。
塩コショウはかなり高い位置にあるのでまだ時間がかかるだろう。
エズラはその間、小麦粉を持ってテーブルに戻っていた。
この間にも制限時間が迫っているとしたら、空いている時間は活用した方がいいだろう。
テーブルに戻り、ボウルに小麦粉を入れる。ボウルには三脚がついていた。何故か、これも厨房の上に用意されていた。小人用の三脚だ。
エズラがボウルに溜まった小麦粉を見て、これを全て自分だけで運んだことに怒りを感じていると、
「わあー!! エズラさあーん!!」
遠方から聞こえてくるジャミソンの悲鳴に、彼はため息をついて振り返った。ジャミソンはハシゴの途中で激しくくしゃみをしていた。エズラがあれだけ我慢したくしゃみを盛大に行っている。エズラは怒りで体が震えそうだった。
さらには、ジャミソンが背負う袋はまだ空である。塩コショウにすら辿り着いていないらしい。
「薄力粉です!! 薄力粉に襲われています!! ぶえっくしょんっ!!」
エズラは仕方なく厨房台から降りて、彼の元に向かう。もう何往復したかも分からない。自分はハシゴを早く降りるコツすら掴めてきた頃だというのに、あのシェフは未だ塩コショウすら手に入れられないというのか。
エズラはくしゃみを繰り返すジャミソンを下から見上げる。
「早くしないと時間切れになるぞ」
「わ、わかっているんですけど......ぶえっくしょん!! ぶえっくしょん!!!」
「......はあ、もう良い。俺が行く」
これでは何時間経っても粉類を集め終わらない。
エズラの言葉にジャミソンは嬉しそうに、
「ほんとですか!? じゃあ、お願いしますね!」
と、ハシゴを降りて来た。
全て彼の作戦の内だったのかもしれない。この超常現象を出たあとで、エズラは彼にどんなお仕置をしようか考えながらハシゴを登るのだった。
たしかに、上から白い粉が雪のように絶え間なく降ってくる。小麦粉の袋もそうであったが、他の袋にも穴が空いているようだ。衛生面からして、大丈夫なのだろうか、とエズラは不安になった。
塩コショウにたどり着く頃には、エズラの青髪は更に白っぽくなっていた。気にせず彼は塩コショウの蓋を取って袋に詰める。さっきの小麦粉よりも、此方の方がくしゃみが出そうだ。吹き飛ばさないように気をつけて、彼は袋に入れ終える。
「こんなもんか」
ジャミソンの話によれば、小麦粉ほど使うわけではないらしい。袋にパンパンに詰め、エズラは慎重にハシゴを降りる。
下ではジャミソンが待っているようだ。
彼の言いなりはもう沢山だ。厨房台へ登るハシゴは、せめてジャミソンにこの袋を背負わせてやる。
エズラはそう思いながらハシゴを降りていた。すると突然、その場を切り裂くようなジャミソンの悲鳴が下から聞こえてきた。
*****
「ビクター、大丈夫?」
ビクターが全ての食材をワゴンの上に運び終え、ケルシーとバレットがワゴンを冷蔵庫から厨房台まで動かしたところで、彼女はワゴンの上に居るビクターに問う。
床のタイルによって、ワゴンは大きく揺れた。とは言っても、ケルシーたちの体の大きさで感じる揺れと、巨人用の大きさの物体が感じる揺れは異なる。
ビクターがワゴンの上で食材が落ちないように抑えていたので、床に落ちてくる食材は無かった。
「ああ、大丈夫だ。二人はすぐに厨房台に上ってくれ」
上からビクターの声はして、ケルシーは「分かった!」と頷いた。
「行こ、バレット!」
「うん。時間は大丈夫なのか......?」
バレットは不安に思って彼女に問う。
準備を始めた正確な時間は分からないが、体感で20分ほど経過した気がする。
「少し急いだ方が良いかもね。鮭のムニエルは焼く時間も考慮して、時間がそれなりに取られているってジャミソンさんは言っていたけど......この超常現象は分からないことだらけだもん」
ケルシーが銃を背負い直す。
「いつ気が変わるか」
「そうだな」
二人は頷きあって、小走りで厨房台に登れるハシゴへ向かう。
エズラたちも小麦粉の調達を終わらせた頃だろう。いよいよ料理が始まるのだ。
バレットの頭には、また違う不安が浮かび上がっていた。
「俺、料理したことないんだけど......鮭のムニエルなんて難しそうな料理、俺に作れるのかな」
ハシゴに着いて、バレットはケルシーを先に登らせる。ケルシーはスイスイと猿のような軽快さで登っていく。
「大丈夫だよー。料理の指示に関してはジャミソンさんがしてくれるって言うし! 私たちは彼に言われたことをすれば_____」
ハシゴの中腹まで二人が登った時だった。
「うわああああっ!!!!」
誰かの悲鳴がキッチンに響き渡った。思わずケルシーもバレットも、足と手を止めてその方向を振り返る。
「何!?」
声が聞こえてきたのは、エズラとジャミソンが向かったはずの粉類の棚である。今ケルシーたちが背を向けている方向にある棚だ。
「おい!! ネズミだ!!」
ビクターが上から顔を出した。バレットが棚の足元を見ると、灰色の物体が高速で這い回ってるのが見えた。それはジャミソンとエズラが居る棚によじ登ろうとしているところである。
ケルシーが「危ない!!」と叫んで、ハシゴから手を離した。下にはバレットが居る。
バレットはギョッとして「何してんの!!」と彼女に叫ぶが、ケルシーは体を大きく反らせて、バレットを避けた。床に着地するまでの間に、彼女はそのネズミを銃で撃ち抜いた。ネズミが床に倒れるのと同時に、ケルシーも床に着いた。前に転がって衝撃を吸収しているので怪我は無さそうだ。
なんて怖いもの知らずだ、とバレットはまだハシゴに掴まったまま一部始終を見守っていた。
「おい、まだ居る!!」
棚の上で作業していたエズラが叫ぶ。
ネズミは一匹ではなかった。隙間という隙間から次々と這い出てくる。あまりの多さにバレットは背筋にゾッと寒いものが走った。
こんなに大量なネズミが、今まで影から自分たちを見ていたのだ。
「バレット、何してるの!! 右の子達をお願いね!!」
ケルシーがそう言って、冷蔵庫の方へ走って行く。其方からもネズミの集団が迫っている。
バレットは彼女の勇敢さに驚かされながら、ハシゴを降りた。
しかし、ネズミに時間を割いている余裕はあるのだろうか。
準備時間だって制限時間内に含まれているのだとしたら、このネズミを片付けている間にも制限時間は刻々と迫ってくるのだ。
「ビクターは時間が無いから準備してて!! 床は私たちだけで大丈夫!!」
ケルシーがネズミの相手をしながらそう叫んだ。
「わかった、これも使え!」
ビクターが背中に背負っていた自分の銃を身体から外して宙に放った。ケルシーはそれを見事に受け取ると、再びネズミの相手をし始める。
「あの二人、本当に凄いな」
バレットは感心しながらようやく床に降りた。すると、
「うわああ!! でっか!!」
遠くからでは分からなかったが、ネズミもまた自分たちが見知ったサイズではなかった。巨人用のネズミという表現が正しいのかは分からないが、ネズミのサイズはバレットの体以上だ。
そんな彼らはバレットに気がつくと、一目散にタイルの上を駆けてくる。バレットも銃を準備して、攻撃を開始した。
「こっちは終わったよ!!」
ケルシーが冷蔵庫側のネズミを殲滅したらしい。
「もう!?」
「うん、数はそこまでじゃないのかも! でも、油断は禁物だよ!!」
ケルシーはバレットの前にいるネズミたちに攻撃を始めた。赤い箱の最高責任者をしているだけあって、ネズミは次々と床に倒れていく。
「なあケルシー、俺思ったんだけど、あのワゴンの下に落ちていた米粒って......」
バレットはビクターが作業しているワゴンの方をチラリと見た。あのワゴンの下には、米粒のような形の黒い粒が沢山落ちていたのだ。バレットは、その正体が分かったような気がした。
「うん、ネズミさんたちの糞だったんだろうね! この子達、此処のキッチンを住処にしてるんだよ!」
ケルシーがビクターの銃に持ち替えた。片方の弾が切れたらしい。
「でも、なんで俺らに向かってくるわけ!?」
「餌だと思われているのかも!」
銃声を響かせている間に、エズラは作業を終えたらしい。ジャミソンを引き連れて此方側へ来ようとしているが、ネズミが邪魔して床には降りられない。
エズラも袋を背中に背負っているので、大きな動きはできないらしい。銃も取り出せないのだ。
「二人を助けに行かないと!」
バレットが走り出そうとするが、ネズミがすぐにやって来るので此方も動こうにも動けない。
「くっそ、ダメなのかよ!」
「何とか道を作ってあげるしかないね! エズラー! できるだけ全力で走ってきて!!」
ケルシーが対岸のエズラに叫ぶ。エズラが頷いたのを見て、バレットとケルシーは背中合わせに攻撃を始める。弾丸の雨にはネズミも後退を始め、二人の行く先には道ができ始める。その道をエズラとジャミソンが走った。
「ひいい!!! なんですかこの巨大なネズミはー!! ぼ、僕死ぬかもしれません!!! エズラさん、エズラさああん!!!」
「うるせえ!! 黙って走れ!!」
二人の声が近づいてきた。バレットはいよいよ弾が切れそうだ。
「ケルシー、俺弾切れるかも!!」
「じゃあ、ハシゴに向かって!! ジャミソンさんをお願いね!!」
「分かった!」
ジャミソンとエズラは何とか厨房台のハシゴへ辿り着いた。
「エズラは先に!!」
バレットが相棒を先に登らせる。サンタクロースのように、背中にパンパンの袋を背負っているエズラの方が、登るのが大変であるからだ。
エズラが登るのを待っている間、バレットは銃を振り回してジャミソンをネズミから守っていた。
バレットの弾が切れてしまえば、対応できるのはケルシーのみだ。ネズミは勢いを増して襲いかかってくる。
「ひ、ひいい!!」
ジャミソンはハシゴの傍に蹲っている。
「ジャミソンさん、早く上へ!!」
「わ、わかってますけど......うっ! うわああー!!」
突然、一匹のネズミがジャミソンに向かって飛んできた。口を開け、牙を見せながら獲物を捕らえようとしている。
「やべっ!!」
「馬鹿っ! 早く上がって来い!!」
エズラがハシゴの上から怒鳴るも、ジャミソンは完全に腰を抜かした。ネズミがジャミソンの目と鼻の先に迫った時、そのネズミの頭が吹き飛んだ。
「ひえええっ!!」
どさ! と目の前に落ちてきた灰色の塊にジャミソンは頭を抱える。
「大丈夫!?」
ケルシーが走り寄ってきた。
「大丈夫!? 立てる!?」
「はい、はい......」
泣きながらケルシーの手を取るジャミソンに一同はホッとした。彼まで居なくなれば自分たちだってこの空間から出られないだろう。
バレットはぐるりと辺りを見回した。随分と静かになった。見ると、ネズミの死体があちこちに倒れている。ほとんどがケルシーによるものである。
きっと、今の狙撃もケルシーがしたのであろう。
バレットは半ば呆れながら、ハシゴを登る二人に続くのだった。
「無事だったか」
ハシゴを登り終えると、一同はビクターと合流した。彼は既に準備を終わらせていたようだ。調理台の上には、冷蔵庫から持ってきた食材が並べられていた。
どの食材も見たことがないほど巨大だ。現在の彼らの体に合わせた料理をするとなれば、一体何人前の料理が作れるのか。
しかし、これから作るのは巨人用。
「よし、じゃあ作り始めよう!! 超巨大ムニエル!!」
ケルシーが拳を振り上げて、声高々にそう言った。
*****
ジャミソンは積み重ねた皿の上で、四人へ指示を出していた。四人はそれの通りにテキパキと動く。
「エズラさん!! もっと油を敷いてください!! あ、ちょっと、バレットさん!! 鮭を引きづらない!!」
料理人の心得なのか、食材を手荒に扱うと酷く怒られた。バレットとエズラは不服そうに鮭を焼いている。
その間にビクターとケルシーは添える野菜の準備を行っていた。
「ケルシーさん、何か手伝いますか?」
「ううん、大丈夫! ありがとう!」
ケルシーが茹でたじゃがいもを取り出して切りながら、ジャミソンに笑みを投げる。
「そうですか! お手伝いできることがあればなんなりと申し付けてくださいね!」
「はーい!」
明らかに彼女への声がけは優しいが、それに突っ込めるほど四人は暇ではなかった。
いつ迫ってくるかもわからない手に、今はとにかく料理を届けなければならない。
やがて、キッチン全体に良い香りが立ち込め始めた。
「そーっとね!」
フライ返しの上に焼けた鮭を慎重に乗せて、それを白いプレートの上に移動する。それが終われば、次は周りを野菜で彩るのだ。
「できた〜!!」
そうして、巨大な鮭のムニエルは完成した。
「こ、これで何とか......」
「出られるのか......?」
最も頑張っていたバレットとエズラは、厨房台の上で足を投げ出している。
「時間は間に合ったんでしょうかね......」
「さあ......」
不安な顔で五人は天井を見上げる。すると、
「うわあああ!!!」
天井に巨大な黒い穴が空いた。夜の闇より深い穴だ。
その穴から巨大な手がぬっと出てくると、今五人が作り終えたプレートを持ち上げた。
「ひいい!! あれです!! あれがセリーヌさんとメルビンさんを連れて行った手なんですよおお!!」
ジャミソンがケルシーの背中にしがみついて、ガタガタと震えている。
エズラは銃を構えた。手はムニエルを持っていくと、黒い空間へと消えていく。しかし、穴はなかなか塞がらない。
「あっ!」
何かに気づいたケルシーが走り出した。同じくビクターも彼女を追うように走り出す。二人は穴の真下に移動した。
エズラとバレットは目を見張る。
穴から落ちてくる、二つの物体。
それは、ジャミソンと同じ格好をしているように見えた。
ケルシーとビクターが穴の下に滑り込むのと、穴が塞がるのはほとんど同時だった。ドサッと重い音がすると、ジャミソンは走り出す。
「メルビンさん、セリーヌさん!!」
ケルシーとビクターが受け止めたのは、居なくなったシェフだった。二人とも意識はあるようだ。
「も、戻って来られたの......?」
女性のシェフが目をぱちぱちさせながら、辺りを見回す。
「もう大丈夫ですよ!」
ケルシーは女性に微笑みかけた。ビクターが受止めた男性のシェフもまた、驚いたようにキョロキョロと顔を動かしている。
そして、二人のシェフの目は同時にジャミソンを見た。二人の顔には安堵の笑みが浮かぶ。
「良かった......無事だったんだな、ジャミソン」
「うう......ううっ、うわああん!! お二人も無事で良かったですよううう!!!」
ジャミソンが二人に抱きついた。バレットとエズラは少し離れた場所からその光景を見る。
バレットは、肩を軽く叩かれる感覚を覚えた。見ると、エズラがある方向を指さしている。
バレットがその方を見に行くと、自分たちが潜ってきた扉は、同じ場所に戻ってきていた。
これで、元の世界に戻れるのだ。
*****
普通のサイズの厨房に戻ってきた一同は、今出てきたパントリーの扉の奥で現象が消滅したのを確かにその目で見届けた。
あの巨大な異空間は何処にも無く、今はただ薄暗い食料庫が佇んでいるだけである。
「すごい......あんなに大きな空間があったのに」
セリーヌたちは目を丸くして、何度も後ろを振り返っている。
「他の場所に移動した可能性も考えられます。こうなってしまうと、追うのも一苦労なんですけれどね」
そう言って、銃をケースに収めたケルシーが肩を竦めた。
「まあでも、犠牲者も出さずに戻ってこられたんだから結果オーライだよな」
バレットが言った。
それを聞いてメルビンが深深と頭を下げる。
「本当に、本当にありがとうございました!! もう一生出られないんじゃないかと思っていたんです」
メルビンに続いてセリーヌも頭を下げる。
「何とお礼をしたら良いか......このご恩は一生忘れません」
「そんな大袈裟な、私たちはお仕事をしただけですので......」
ケルシーは二人の顔を上げさせる。すると、ジャミソンが「そうだ!」と顔を明るくした。
「今度、うちにお料理食べに来てください! メルビンさん、セリーヌさん、良いでしょう!」
「そうだな、それは良い」
「全て無料に致します」
「わあ! すごい!! みんな、聞いてた!?」
セリーヌと握手を交わしながら、ケルシーは嬉しそうに三人を振り返る。
「デザートもありますか」
ここぞとばかりに口を開くエズラに、微笑んで頷くのはメルビンだ。
「もちろんです。腕に自身はあります。何でも好きなものをお作りします」
満足気に頷くエズラの横で、ビクターは腕時計に目を落とす。いよいよ外部調査も終わる時間だ。
*****
メルビン達は、車まで四人を見送りに来た。
「今度、あの大きな手に連れて行かれたメルビンさんとセリーヌさんには、事情聴取を行います。ご連絡は、また後日」
バレットとエズラが先に車に乗り、ビクターとケルシーは三人と握手を交わしている。
「分かりました」
ビクターの話にメルビンが頷き、やがて双方の顔を見て申し訳なさそうにした。
「あの......ジャミソン、変なことしませんでしたか? 皆さんのお役に立てていたら良いのですが......こいつ、まだまだ半人前でして」
メルビンがジャミソンを見やり、ビクターとケルシーに目を戻す。
「そんな! 彼すっごく頑張っていましたよ! ね、ビクター!」
「そうだな」
ジャミソンは嬉しそうに頬を搔いている。車の中から、エズラの刺さるような視線を向けられていることには気づいていないらしい。
「エンジンかけてるな」
「はーい」
ビクターが運転席に乗り込み、車にエンジンがつく。辺りは騒がしくなり、いよいよ別れが近いと三人は悟る。
「じゃあ、私たちはこれで。近々必ず食べに来ますね」
「はい!」
「お待ちしております」
セリーヌとメルビンが微笑んで、ケルシーは最後にジャミソンを見る。二人に挟まれるようにしていたジャミソンは、何処かモジモジした様子で下を向いていた。
「ジャミソンさん、ありがとうございました」
「いやあ......そ、そんな......」
ケルシーはそんな彼に微笑んで、車に向かおうとする。
すると、
「あ、あの、ケルシーさん!!」
ジャミソンに呼び止められて、ケルシーは振り返った。林檎のように顔を真っ赤にしたジャミソンと目が合う。
「こ、今度一緒に食事でもどうですか!!!」
「こら、ジャミソン!」
「お前何言ってんだよ!!」
傍らの二人が彼の口を塞ぐ。
「す、すみませんケルシーさん。こいつ、惚れっぽくて......前もお客さんに同じことを......」
「でも僕本気です!! 今回はっ!!」
「あほ! ケルシーさんはお仕事でお前を助けてくれたんだぞ!」
賑やかな三人にケルシーは笑って言う。
「ありがとうございます。でも、先客が居りますので。これで失礼させていただきます」
「へ......」
彼女が颯爽と車に乗り込むと、車はすぐに発進した。
「......ひえっ」
「ジャミソン?」
「どうした?」
車が発進する際にジャミソンが肩を竦めたので、メルビンとセリーヌは不思議そうに彼を見た。
「い、今、ビクターさんに物凄く睨まれたような......」
二人が不思議に思ってジャミソンから視線を外すが、既に車は夜闇に溶けて見えなくなってしまった。