File064 〜厨房の小人たち〜 前編
その日、赤い箱での合同訓練を終えた星5研究員、バレット・ルーカス(Barrett Lucas)と、エズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)は実験室から出た。
他二人の研究員は、エズラとバレットのひとつ後にB.F.に入社した後輩である。かなり緊張したのだろう、二人とも額に汗が輝いている。
バレットもエズラも久々の赤い箱にかなり手間取った。何とか銃の扱いは教えることが出来たが、今日は何度か危険なシーンがあったのだ。
あの事件以来、銃というものを扱う場面は突然来るのだと体に染み込まされたB.F.研究員。
前よりも赤い箱での訓練を強化するために、昇格試験の内容に早いうちから銃の扱いのテストが組み込まれることになった。これはビクターをはじめとしたB.F.中心メンバーが決めたことである。
「お疲れ様ー。ちょっと危なっかしいとこはあったけど、頑張ったな!」
バレットは後輩の二人を褒める。二人はすっかり疲れた様子で、「ありがとうございます」と言うと、シャワーを浴びに自室に戻って行った。重い銃をずっと持っていたので、足も腕もプルプルと震えている。
その様子を心配げに見守って、二人の背中が廊下の先に消えると、バレットは隣の相棒を振り返った。
「俺らもシャワー、浴びてこようか」
エズラは実験室に鍵をかけているところだった。この実験室は、赤い箱専用の実験室だ。責任者は、旧B.F.同様にバレット、エズラ、そして同期の星5研究員、ビクター・クレッグ(Victor Clegg)と、ケルシー・クレッグ(Kelsey Clegg)である。
「ああ、そうだな。つーかお前、忘れてないよな」
鍵穴から鍵を抜いて、エズラがバレットを見た。
「今日は午後からビクターたちとミーティングなの。時間に遅れないようにって、釘刺されてただろ」
「あー、そうだった」
バレットは思い出す。
昨日オフィスに届いたのは、ビクターから会議に参加しろという紙だった。新しく超常現象が見つかったそうなので、エズラと共にその実験の前準備として会議に参加することになっていたのだ。その会議は今日の午後二時から行われる。
「シャワー浴びられるかなー」
バレットは腕時計に目を落とす。今は正午を過ぎたくらいだ。昼食もまだなので腹も膨らませたいところである。
「さあな。まあ、遅れたってケルシーがフォローしてくれんだろ」
そう言ってエズラは歩いていく。たしかに、とバレットは頷いて彼の後ろをついていった。
*****
「一時間遅れてくるとは良い度胸だな」
会議室に入って二人が最初に拝んだのは、ビクターの怒り顔である。
バレットとエズラはシャワーを浴びて昼飯を食べ、うっかり仮眠室で横になってしまった。気づけば約束の時間を一時間過ぎていたのだった。
「まあ、ほら。お疲れだったってことで......」
バレットが弁解するも、
「時間ギリギリに仮眠室に入るやつの神経を疑いたいな」
と、怖い声で返された。言葉に詰まるバレットの横で、エズラは部屋を見回していた。一時間も待たせて呆れられたのか、会議室にケルシーの姿は無かった。
「なあ、ケルシーは?」
「お前らが全然来ないから別の会議に行ったんだよ。俺らも暇じゃないんだからな」
「あー......ごめん」
ビクターは何度も電話をくれたようだが、眠っていた二人は全くコールが聞こえていなかった。ある程度の場所は探したようだが、仮眠室に居るとは思わなかったようだ。
席につくように言われ、バレットとエズラはそれぞれ椅子に腰かけた。
「昨日も言った通り、新しい超常現象が見つかった」
二人に資料を配りながら、ビクターが言う。
「まだ事件で逃げた超常現象を追う必要もあるが、新しいのも並行して調査しないとな」
あの事件で外に逃げ出した超常現象は、順調にB.F.に戻ってきている。しかし、まだまだその数は少ない方だ。また、新しい超常現象も危険なものならば、早急に対処しなければならない。
超常現象は待ってはくれないのだ。
二人は早速資料に目を通した。
「レストランのパントリーが大きなレストランになってる? パントリーって何?」
バレットが首を傾げる。
今回は外部調査のようだ。調査地は此処からそう遠くない街中の有名なレストランだ。大きな超常現象を掴まえた時の打ち上げに、バレットは一度だけ行ったことがある。
「パントリーって言うのはキッチンの収納スペースのことだ。食料入れたり、調理器具入れたりしている小さな部屋あるだろ」
ビクターの説明に、バレットは「ああ!」と納得した。そう言えば自分の家にもあったが、料理面は全てエズラに任せているので、知らなかったのである。
「で、そのパントリーがレストランになってるのか? 異空間ってことで良いんだよな」
エズラは眉を顰めて資料を読み込んでいた。
「文章の通りだ。そのレストランの厨房にあるパントリーの向こう側に、巨大な異空間が現れたらしい。そこにそのレストランのシェフが数名入って、戻ってきていないんだよ」
「大きなレストランっていうのは、物体自体が大きくなってるってこと?」
「ああ。オーブンも冷蔵庫も全部俺らの身長の何倍もある。今わかってる情報はそんなもんだ。その超常現象があるから、そのレストランは今閉鎖中だ」
「戻ってきてないシェフは無事だと良いけどな......」
バレットが資料を捲りながら言った。
「ああ、シェフの捜索も調査内容に入っている。危険な超常現象の可能性もあるから、武器の持ち込みは許可されている」
「武器? キッチンでー?」
バレットが資料から顔を上げた。キッチンで銃を使う想像ができないのだ。実験室ならばまだしも、レストランの厨房で響かせる銃声は不安である。
「言ったろ。巨大な厨房の異空間なんだ。銃を放ったところで、対岸に弾は届かないと思え」
ビクターはそう言って、当日の詳しい説明へと話を移した。
*****
そのミーティングから三日後。バレット、エズラ、ビクター、そしてケルシーの四人は、街の中心部にやって来ていた。移動はビクターが運転する車だ。
「わー、豪華なレストランだねー!」
ケルシーが助手席の窓に張り付いて、そのレストランを眺めている。
ビクターが車を停めたのは、料理店が立ち並ぶ通りだ。職員専用の駐車場に車を停め、四人は車から降りた。
それぞれの手には、ゴツゴツとした黒い細長のケースを持っている。このケースに収まっているのが、今回持ち込むを許可された銃である。
そして、四人はその場で白衣をまとう。外部調査で堂々とこのような格好ができるようになったのも、あの事件によってB.F.が表にでてきたからである。
周りの目が無い、早朝のうちにやって来たので四人は堂々とレストランまでの道を歩いた。
レストランの正面入口は鍵で閉ざされていた。扉には休業中の張り紙がある。パントリーに超常現象がある限りはずっとこのままであろう。
「鍵は渡されてないのか?」
エズラがビクターに問う。
「いや、渡されてるけど......これ、違う鍵みたいだな」
ビクターが鍵穴に鍵をさして回そうとするが、鍵は回らなかった。
「はあ? 違う鍵を渡されたのかー?」
バレットは眉を顰める。そんな横でケルシーが、
「裏口のかもよ! こっち行ってみよ!」
と、店の横から狭い道に入っていく。正面が開かないとなれば別の扉を探すしかないので、三人はケルシーに続いた。
「あ、裏口」
回った先に一枚扉がついている。ビクターがその鍵を刺すと、扉は難なく開いた。
「おかしいな」
ビクターは鍵を見下ろして独り言のように呟く。
「この鍵を渡される時、確かに鍵を目の前で閉めてもらったんだけどな。正面入口の鍵穴で」
「間違いないのか?」
「ああ」
たしかに、それならば間違った鍵にはならないはずだ。マスターキーだろうか。
「マスターキーは店長が一つだけ持ってるって。これはマスターキーじゃない」
「もうこの時点でおかしいのは明らかなわけだね」
ケルシーが頷き、「じゃあ」と扉に手をかける。
「開けるよ」
今のことがあって、四人は完全に仕事モードに切り替えた。いつ何が起こっても不思議では無い、まだ謎の多い超常現象なのである。厨房のパントリーに限らず、その建物全体に効果をもたらす現象の可能性も出てきた。
ケルシーはゆっくりと扉を開けた。向こうは暗闇が続いている。ビクターが隙間から腕を差し入れ、電気をつけた。パチン、という音と共に照明がついた。そこは、廊下のようだった。タイヤ付きの大きなゴミ箱が並べられているのを見る限り、この裏口からゴミを出すのだろう。
廊下には当然ながら誰も居ない。まっすぐ続く先にはトイレがあり、右と左に一枚ずつ扉がついていた。
「入ろうか」
ケルシーが言って、ビクターが先に建物に入る。バレットとエズラは銃を構えてそれに続いた。
建物の中はしんとしている。四人が歩く音は、床に敷かれたカーペットによって完全に消された。
「誰も居ないレストランって変な感じ」
前に来た時の雰囲気と大きく違うので、バレットは落ち着かない。食材を調理する音や香り、食器の音やBGMが聞こえないのは、レストランとしては違和感だ。人が居ないので音がしないのは当然だが、このレストランが持つ空気は重い。
「こっちはホールだな」
ビクターが左側についている扉を見て言った。
扉には丸い窓がついている。そこから誰も居ないホールの様子が見えた。全席の椅子がそれぞれのテーブルの上に上げられ、カーテンが締め切られているので、朝だというのに暗い。
扉には、接客に関するルールが書かれた紙が貼ってあった。この様子を見る限り、この扉をホール側から見るなら「スタッフオンリー」と書かれているのだろう。今四人が居るところは、スタッフだけが入れる場所なのだ。
「こっちが今日の仕事場だね」
右側に居たケルシーは、ビクターとは真反対の扉を覗いている。それは、キッチンへと続いていた。
「何も無さそうか?」
「うん。誰も居ないみたい」
ケルシーの言葉を受け、バレットとエズラも窓からキッチンの中を覗く。いかにも厨房らしい。大きな冷蔵庫やコンロ、オーブンが並んでいるが、やはり人の気配は感じられない。
「入るか」
ビクターが片手を扉にかける。
「待って、一応......」
バレットが手に持っていた鞄を床に置く。ビクターがそれを見て頷いたので、バレットは鞄を開く。その中から出てきたのは、赤い箱で使われる銃である。エズラも同じものを取り出し、二人は後ろで構えた。
「開けるよ」
「うん、いつでも良いよ」
両開きの扉が右左に開く。ケルシーとビクターが扉を抑え、その間をバレットとエズラが銃を構えた状態で通った。
「パントリーは何処だ?」
エズラが銃の先に目を向けたまま問う。
「冷蔵庫の横にあるらしい。ケルシー、電気つけられるか」
「うん!」
パチン、と音が鳴って、照明がついた。特に気になるものも無く、四人は厨房の奥へ進んだ。
「これか......」
見つかったのは、木の扉だ。いや、木目調のシールが貼られた扉である。スライド式の扉で、鍵穴は無い。
ケルシーとビクターも、そこで銃を取り出した。今回の超常現象は、この向こう側に現れたという。シェフを数人連れて行って戻さない、謎の多い異空間の超常現象である。
「俺が行くよ」
バレットが先頭に立ち、扉に手をかける。数センチ開くと、向こう側から空気が流れ込んでくる。
巨大な空間の気配。間違いなかった。
「行くよ」
バレットは一気に扉を開く。その向こう側に、彼らは巨大な世界を見た。
高層ビルですら比にならない冷蔵庫、調理台、シンク、食洗機、調味料の棚......。
巨人用という言葉が似合うだろう。それは、超巨大な厨房の姿をした、異空間であった。
「でっっか......」
一同は唖然としてその光景に見入っていた。
まるで自分たちが小人になったかのような錯覚に陥る。床との距離が随分と近く、地面を這ったってこの近さまで床とは近づけないだろう。
床はタイルが貼られているが、そのタイル一枚一枚は、ジャンプして飛び越えなければ溝に落ちてしまうような大きさなのだ。
「これが、言っていた現象か......」
エズラが呆然として言った。
「ああ。聞いていた通りだが、想像以上の大きさだな」
「俺ら、体が小さくなったってことなのか?」
エズラが振り返って、今自分たちが廊下からやって来た厨房を見る。そこは、人間サイズの普通の厨房だ。しかし、前を向けば巨大なサイズの厨房が佇んでいる。
前後でサイズが異なる世界が広がっているというのは、これほどにまでに気持ちが悪いのか。
エズラは頭がクラクラした。
「物の場所は変わっていないみたいだね。ただサイズが大きくなっただけだよ」
ケルシーが冷静に言った。確かに目の前の巨大な厨房は、物の配置が人間サイズの厨房と同じである。同じ場所に冷蔵庫があり、同じ場所に厨房台がある。異なるのはサイズのみだ。
「取り敢えず、探索をするか」
ビクターが先頭で歩き出したので、それにケルシー、バレット、エズラと続く。
「ネズミになったみたいだな」
バレットはタイルの隙間を飛び越えて言った。このタイルも、人間用の厨房に貼られているものと同じである。
「ねえ、見て!!」
突然、バレットの前を歩いていたケルシーが足を止めた。後ろについていたバレット、そしてそれに続いていたエズラが次々と背中にぶつかる。
「いって、何だよ」
バレットの後頭部に鼻をぶつけたエズラが不満げな声を上げた。ケルシーは、ある場所を指していた。
それは厨房の中央に置かれた巨大な厨房台だった。銀色のテーブルだが、さっきの厨房と同じ造りならば上にコンロや水道があるはずだ。彼女が指さしているのはそんなテーブルの側面だった。
何かが、テーブルの上から床までぶら下がっている。
四人はそれに近づいた。
「これって.......」
「パスタ、みたいだな」
テーブルからぶら下がっているのは、短く折られたパスタを連ねたものだった。パスタ同士が黒い頑丈な質感の紐で繋がっている。
「この黒い紐は......髪の毛じゃないか?」
ビクターが黒い紐に触れて言った。
「ええっ、髪の毛!?」
バレットは信じられずに、黒い紐に触れて確かめてみる。確かにこの質感は知っている。まさに今自分の頭に生えているものである。
四人は顔を見合わせた。
「パスタに髪の毛を括り付けるって、どういうこと?」
「てか、なんでこんなものあんだよ」
「これは誰の髪の毛なんだろう......こんな長さの髪の毛を持っている人なんて居るの?」
四人とも唸って、その垂れ下がる物体を眺めていた。すると、
「ビクター。この超常現象って、もう既にシェフが何人か巻き込まれているって言っていたよな」
「ああ、そうだな」
エズラの問いに対して、ビクターが頷く。
「これって、そのシェフが使ってるものなんじゃないのか。これ、梯子だろ」
「!! 言われてみれば!!」
ケルシーが弾かれるようにして後ろに下がる。遠目から確認しているのだ。
パスタの部分に足をかけるとしたら、梯子としての役割を果たしそうな見た目である。
「じゃあ、シェフたちは生きてるってこと?」
「それは分からないが......これを作ったとしたら上に居るかもしれないな。登ってみるか」
「折れたりしない?」
バレットはパスタと髪の毛で作られた、その梯子を見上げる。
普段自分たちが食べるパスタは、一本でも二本でも、手に力を加えずとも簡単に折れてしまう。それを知っているからか、パスタに体重を預けるのは心もとない。
ケルシーがパスタに片足をかけた。全体重をかけて、片足だけで体を支えている。
「が、頑丈そう?」
バレットが問う。ケルシーは「登れないことはないけれど......」と首を傾げている。
「ま、物は試しだよね!! もし落ちてきたら三人とも受け止めてよ!!」
ケルシーはそう言って、二段目、三段目のパスタに次々と登っていく。それを見てビクターが続いた。
「......怖いもの知らずだな」
瞬く間に地上から離れていく二人を見て、エズラが呆れ顔で言った。
二人ともしっかりしているが、何をしようと思えば何でもしてしまう怖いもの知らずである。似た者夫婦とはこういうことだな、とエズラは思うのだった。
一方で、バレットはぐるりと辺りを見回していた。彼はオーブンや調味料棚に、ケルシー達が登っている梯子と同じものがぶら下がっているのを見た。
この空間では小人サイズの自分たちが、棚やオーブンに登れるようにしてあるということは、何か意味があるのだろう。
カタン。
突然、棚の方から何か音が聞こえて気がした。バレットは視線を走らせる。
「エズラ、何か聞こえなかった?」
バレットは棚の方に目を向けたまま相棒に問う。
行方不明になったシェフだろうか。
耳を澄ますが、音はもう聞こえない。
「いや、何も」
「そっか......」
「ほら、行くぞ。置いてかれる」
先を行く二人がある程度の高さまで登ったのを見て、エズラがバレットに言った。
「ああ、うん」
バレットは腑に落ちないまま、梯子の一段目に足をかけるのだった。
*****
バレットとエズラがハシゴを登っていると、先に頂上へ着いていたケルシーから、声がかかった。
「誰か居るよ!!」
それは、おそらく居なくなったシェフだろう。バレットもエズラもハシゴを登るスピードを上げて、ようやく登りきった。
厨房台の上に着く頃には、二人とも酷く息が切れていた。
「でっかいまな板」
バレットは途切れ途切れの息でそう言った。
厨房台は地平線が見えるのではないかと思うほどに広かった。
ジャンプでは飛び乗るのは難しい高さの段は、まな板だ。その横に収められているのは、鋭い包丁。もちろん、人並みのサイズではない。
その他、ピーラーやボウルなど、自分たちの体の何倍もの大きさの調理器具が並べられていた。そんな調理器具の森の中に、誰かがうつ伏せで倒れているのを見た。
白い服を着ているが、バレットらがまとっている白衣と言うよりは調理服のようだ。頭の近くに円柱の帽子が落ちている。コック帽だ。
「居なくなったシェフって、あの人じゃない?」
先に上に着いていたケルシーが、バレットとエズラを振り返る。その隣でビクターは銃を構えていた。
「生きているのか?」
エズラが目を細めて、倒れているシェフを見る。
「分かんない。でも、怪我はしていないかも」
ケルシーがシェフに駆け寄ろうとすると、ビクターは腕を横に出して彼女を止めた。
「待て、無闇に近づくな。超常現象の罠かもしれないだろ」
「そっか......でも、銃は下ろしてビクター。あの人が一般人だったら、怯えちゃうでしょ?」
ケルシーがビクターが構える銃を手で抑え、自分も銃を背負い直す。そして、ゆっくりと倒れている人物へ近づいて行った。
バレットとエズラもその後ろに続く。
「大丈夫ですか?」
ケルシーは少し離れた位置から、そのシェフに声をかける。シェフはピクリともしない。ウェーブの栗色の髪の男性だ。顔は伏せているのでよく見えないが、かなり若い人だった。
「息はしているみたいだぞ」
ビクターが銃を下ろしたまま彼に近づいていく。そして、その背中を軽く叩いた。
「うう......」
苦しそうな声がする。
「起きた!」
ケルシーが彼を抱き起こす。やはり、若い男性のシェフだ。年齢にして20、21か。少なくともこのメンバーの中の誰よりも若かった。
「大丈夫ですか?」
ケルシーはぼんやりと目を開ける男性に引き続き声をかける。男性の目は何処か遠くを見ていたが、やがて焦点があったらしい。
自分を囲む四人の男女を見て、それぞれが手に持つか背負うかしている長い銃に顔を青ざめさせた。
「うわああああっ!!!」
彼は怯えたように体を縮め、ケルシーの腕から死に物狂いで抜け出すと、近くにあったミキサーの後ろに隠れてしまった。
「だ、誰ですかっ!! 僕は美味しくないですよう!!」
四人は顔を見合わせる。相当脅えているようだ。ケルシーはビクターに己の銃を預けた。
「あの......私たち、あなたを助けに来たんです! このレストランで、不思議なことが起こっていると聞いて!」
ケルシーはミキサーに近づくが、男はまるで聞く耳を持たない。ミキサーの裏から顔も出さず、何かをブツブツと呟いている。
「錯乱してるな......」
「よっぽど怖いことがあったんだよ。でも、あの様子じゃ話ができそうにないし......」
「とりあえず、周りに他のやつが居ないか見てくるか」
ビクターが辺りを見回す。
「じゃあ、私はこの人の近くに居るよ」
「ああ、何かあったら呼べよ」
「うん」
ケルシーをその場に置いて、ビクター、エズラ、そしてバレットは周辺の捜索に入った。
「本当に広いな......これ、今日だけで探索し終わるのは無理なんじゃないか?」
エズラは厨房台の上から、厨房全体を見回す。上から見下ろすとクラクラするほどに、床との距離は遠い。ハシゴを登っている時間を考えるに、相当な高さである。
厨房にあるのは、この厨房台だけではない。巨大な冷蔵庫、調味料棚、シンクまで......さっきまで四人が通ってきた人間サイズの厨房と全く同じ造りなのだ。置いてあるものだって全く一緒。
それが巨大化したことで、探索に気の遠くなるような時間を要するのは、考えずとも分かることであった。
「さっき見たけど、俺らが登ってきたハシゴと同じものが、他の場所にもかけられてるんだよ」
バレットは先程自分が見た光景を二人に説明した。
対岸には調味料棚、その左手にシンク、そしてシンクを挟んで冷蔵庫がある。そのどれにも、髪とパスタで作られた奇妙なハシゴがかけられていた。
「本当だな。あのシェフが作ったのか......?」
エズラが、ミキサーを挟んでの対話を試みているケルシーの方を見た。まだミキサーの裏から出てくる気配は無さそうだ。
「だとしたら、ハシゴをかけるためにまず登らないとならないだろ。どうやってかけるんだ」
ビクターが対岸のハシゴを眺めながら言う。
たしかにそうである。あのハシゴをかけるには、ハシゴが無い状態であの高さまで登らなければならない。羽でも生えない限り、あの高さを登るのは無理である。
「じゃあ、最初から付いていたのかな? そう考えたら、俺らがあれを使うことを想定して超常現象が設置したのか......」
バレットは眉を顰める。
「この厨房に入ってくる人間のサイズに合ったハシゴだもんな。此処が巨人専用のレストランだとしたら、おかしな話だな」
エズラが頷く。その隣でビクターは既に他の場所に移動を始めていた。厨房台はこれでも一部だ。さらに奥がある。
「こっちはコンロだ」
ビクターの背についていくと、見えてきたのはコンロだった。巨大な要塞のような、禍々しい金属のフィールドが形成されている。
「でっけー」
バレットは白から黒へ変わるその境目に足を置く。靴を履いてコンロに上がるのもあまり褒められた行為では無いが、それを言ってしまえば厨房台に土足で上がっていることはどうなるのか。この巨大な厨房は、もはや外と大差ない。
「これ、なんだろうな」
ビクターがコンロの傍で何かを見つけた。それは、黒いレバーがついたスイッチだった。レバーは現在「off」の方に傾いており、反対に倒せば「on」となる。
「引いてみる?」
バレットがレバーに手をかける。そのレバーも大きく、彼の身長と同じくらいだ。引くには全身の力がいるだろう。
「待て。さっきの厨房のコンロにはこんなものついてなかったよな」
ビクターがバレットを止める。そして、確認するようにエズラを見た。エズラはよく覚えているな、と彼に感心しながら、さっき通ってきた人間サイズの厨房を思い浮かべる。
同じ造りだったのでコンロもあったが、たしかに、普通に考えてこの位置にスイッチがあるのは変である。コンロの傍にあるのだから、何かしらコンロに作用をするスイッチなのだろうが、火をつけるとなれば、一般的なコンロは側面にスイッチがあるはずだ。
そうなれば、これはハシゴ同様、人間サイズの厨房には無かったものである。
「たぶん、コンロに火をつけるものだろうな。そうなると、この厨房は巨人用でもないみたいだ」
ビクターは厳しい顔で周りを見回す。
「俺らに、料理を作らせるためってことか」
エズラが頷く。
「はあ? こんだけ巨大な厨房を用意して? 明らかに俺らのサイズに合ってないじゃんか」
バレットが納得いかない様子で二人を見た。
「わざとそういうサイズにしてあるんだよ。このコンロも、この巨大な厨房のサイズの人間じゃなくて、俺らみたいな小人が使えるように用意されてるんだ。まあ、考えるに......」
エズラがケルシーたちの方を見た。何とか話がついたらしい。
「俺らがシェフってところか」
*****
「ああ、良かった......助けが来てくれたんですね......本当に......」
そのシェフは始終泣いていた。ケルシーが何とか自分に害の無い人間だと分かると、地面に崩れて泣き出したらしい。
もはや自分の泣き声でケルシーが何と言っているかも聞き取れていないようだが、ようやくその涙も落ち着いてきた頃、ケルシーは彼から話を聞き出した。
このシェフは、この巨大な異空間にやって来て四日が経過しているらしい。どうやら、ケルシー達が通ってきた普通サイズの厨房に通じる扉は、時間の経過と共に消えるのだとか。
確認してみると、通ってきた扉は確かに消えていた。
そして、さらに驚くことにこの厨房は出口がない。
ホールへ続く廊下へと通じるはずの扉は、何処にも存在しないのだ。人間サイズの厨房には廊下に通じる扉があったというのに、この異空間にはそれが無い。
一生出られないか、何か条件を満たさなければ出られない異空間である可能性が高い、と四人は見た。
見つかったシェフの名前はジャミソンと言った。このレストランの厨房で働き始めて数ヶ月の新人らしい。
彼はパントリーに小麦粉を取りに行った先輩が戻ってこないことに違和感を抱き、そのままパントリーに入ったのだと言う。すると、そこは巨大な厨房の異空間になっていた。
先輩の姿を探そうとしているうちに、もう一人の先輩が自分を探しに入ってきて、やがて三人は合流できたが、いざ帰ろうとした時に既に扉が無かったのだそうだ。
「うう......もう私は死ぬしかないんでしょうか......メルビンさんも、セリーヌさんも、戻ってこないんですよう......」
話を区切って、彼は再び泣き出した。ケルシーが彼の背中を撫で、バレットたちもその様子を見守る。
「その二人は、ジャミソンさんと一緒にこの空間に入った先輩たちですね? その二人は何処へ?」
ケルシーが優しく問う。
すると、ジャミソンはさらに泣き出した。何かに怯えるように、体を大きく震わせている。誰も彼に向かって銃を構えていない。周りには彼ら以外何も居ないというのに、ジャミソンは強い恐怖心を抱いているらしい。
「大丈夫ですよ、ゆっくりで良いですから」
ケルシーが背中を優しく撫でているうちに、彼は再び心を落ち着けたようだ。言葉を落とすように吐き出す。
「二人は、連れていかれました......このレストランの客に......いえ、あれは化け物です......ああ、どうしてこんなことにっ......」
「落ち着いてください、ジャミソンさん。順を追って説明をしてくだされば、私達もあなたたちを助けられます。何があったか、お話できますか?」
「はい、はいっ......」
ジャミソンは鼻を啜ると、再び話し始めた。
彼の先輩は男性の方がメルビン、女性の先輩はセリーヌと言った。三人は合流したあと扉が消えてしまったので、どうにかして出口はないかとこの巨大な厨房を歩き回ったという。
しかし、結局出口は見つからず、見晴らしの良い場所に移動しようというメルビンの提案が出た。
三人は棚に予め掛けられていたハシゴを使って、調味料棚に登った。
すると、棚の頂上から、今ケルシーらが居る厨房台の上の景色が見えたのだという。その上にメモ用紙が置いてあるのが確認できたそうだ。メモ用紙には文字が書いていたが、棚からは距離があって読むことが出来ないので、三人は厨房台に移動した。
三人は、調味料棚に掛かっていたものと全く同じハシゴを使って、厨房台へ登った。
メモ用紙には次のようなことが書いてあったという。
『3番テーブル:合鴨とトマトのサラダ、旬の野菜の冷製スープ、子羊の背肉ロースト
5番テーブル:夏野菜のキッシュ、パンプキンスープ、白身魚のマスタードソース煮
12番テーブル:鯛のポワレ、レモンタルト、サーモンのサラダ』
オーダーの表だということは、仕事上彼らはすぐにわかった。しかし、これをどうしろというのだろうか。作ると言っても、鍋も包丁も冷蔵庫も全てが巨人サイズである。どれか一品を作るにしても難しいだろう。
「ですが、セリーヌさんは前向きに何か一つでも作ってみようと言いました。私たちは3番テーブルのオーダーである、旬の野菜の冷製スープ作ることにしたんです」
鍋とまな板、包丁などは既にその場に置いてあった。それを使って彼らは何とかスープを作ろうとしたらしい。
ただ、その場にある器具はもちろん、食材全ても巨人サイズだった。食材を上手く切る事もできず、どうすれば良いかと嘆いているときだった。
「突然、天井から巨大な人の手が生えてきたんです。その手にセリーヌさんが捕まりました」
丸太のような指を持つ、巨大な手が天井から生えてきた。それはセリーヌを捕まえると、彼女を天井へと連れて行ったのだ。そのまま、手も彼女も天井に消えてしまった。
厨房台の上には、ジャミソンとメルビンが残った。
「私たちはこれではいけないと、12番テーブルのサーモンのサラダを作りました。何とか作ることは出来ました。そしたら、また手が出てきてサラダだけ持っていったんです」
二人は続いて、五番テーブルのオーダーである白身魚のマスタードソース煮を作ったそうだ。
しかし、問題があった。
マスタードが見つからなかったのだ。棚を探しても、テーブルの上を探しても無いので、探しているうちに例の手が出てきてしまった。メルビンがそれに捕まったのだという。
「それから今日まで彼らは戻ってきていません。私は一人では何も出来ず、こうしてずっと隠れている状態なんです......こんなに大きな厨房で普通の料理をすることなんて絶対にできません......私もいつか死んでしまうんです......うわああん!!」
ボロボロと涙を流すジャミソンの話を、皆黙って聞いていた。
ケルシーは彼の背中を撫でながら、天井を見上げた。手が出てくるというが、その手は一体何処に二人を連れていったというのだろう。
「手の正体はやっぱりお客さんかな」
ケルシーが三人を見上げる。
「その手は服の袖がついていました?」
ビクターがジャミソンに問う。ジャミソンは頷いた。
「セリーヌさんを拐った巨人が着ていたのはチェックのシャツでした。メルビンさんを拐った手が着ていたのは......たしか、薄い緑色のシャツ......だったような」
「じゃあ、お客さんってこと?」
バレットが首を傾げる。
「おそらくそうだと思います......厨房で働くなら白い服を着ていないと......少なくとも、このレストランのルールです。あ、人間サイズのレストランの話ですけどね......」
「それじゃあ、上手く料理が出来ないシェフを怒って連れて行くってことかな」
ケルシーが眉を顰める。
「それか......制限時間があるのかもしれないな」
エズラが口を開く。
「制限時間?」
「ああ。客が料理を注文してから、時間内に料理を届けないといけないのかもしれない。レストランでいつまでも料理が出てこないのは誰だって嫌だろ」
「なるほど......たしかに、それはあるかも」
ケルシーが頷くと、ジャミソンも「本当ですね」と言った。
「12番テーブルの注文にあったサーモンのサラダを作った時は、誰も連れていかれませんでした。時間のかかる工程はありませんから、他の料理よりも素早く提供できたのかもしれません」
「つまり、俺らはメモに書かれた料理を、客に素早く提供しないとならないってことだな」
バレットが厨房台を見回す。遠くに白い紙が見える。もちろん、サイズは見知ったものではない。その上に黒いペンで文字が書かれている。
「あれか」
バレットとエズラは紙を引きずって三人の居るところまで持ってきた。その紙には、さっきジャミソンから聞いた通りの料理名が並んでいた。
しかし、3番テーブル、5番テーブル、12番テーブルが注文した料理名には、全て横線が入っていた。
その下に、
『2番テーブル:人参のポタージュ、鮭のムニエル、タルトタタン』
と新しい文字が加えられている。その文字には横線が入っていない。
それを見たジャミソンが悲鳴に近い声を上げて頭を抱える。
「あ、あ、新しい注文が来てますっ!! ま、また手が出てきちゃいますようう......」
バレットはまじまじとメモを見下ろす。
先程のジャミソンの話の通りであれば、提供した料理は一品。提供し損ねたのは二品であり、そのどれもが各テーブルの注文である。
客が満足できる料理を提供できなかったというのに、全ての注文に横線が入っているのはどういうことだろうか。
「さっきの説明の感じだと、各テーブルに一品提供すれば満足するみたいだな」
ビクターが冷静に言う。
「でも、ジャミソンたちはサーモンのサラダしか上手く提供できなかったんでしょ? それ以外のテーブルには一品も提供してないんだから、横線が入るのはおかしいんじゃないの?」
バレットの問いに答えたのはエズラだった。
「そりゃ、代わりのものが料理として連れて行かれたってことになるだろ」
空気が変わったのは言うまでもない。
ジャミソンは息をハッと呑み、声にならない悲鳴を上げている。
バレットも「そういうことか」と頷く。
この異空間では、人は「一人」と数えない。「一品」と数えられるらしい。