とある二人の研究員
ラシュレイはオフィスに入った。
今日から彼のオフィスは少しだけ狭くなる。それは彼が新たに助手を迎え入れたことを表していた。
オフィスに入ってまず飛び込んでくるのは、新しく増えたもうひとつのデスク。上はまだまっさらで、中も空っぽだろう。
ラシュレイは少しだけ緊張していた。
これからの生活を考えて、自分は彼と上手く絆を築いていけるだろうか。
ノールズは最初から上手だった。ペアが彼だったから、あんなに充実した毎日を送ることが出来た。
自分は果たして自分の助手にそう思わせることが出来るだろうか。毎日充実している、と。
そう思って、ラシュレイは彼のデスクの引き出しを開いてみた。
そこには溢れんばかりの「ラシュレイ」の写真が詰め込まれていた。どこで撮ったのだろう、というものから、テレビの中にいた自分を捉えたものまで。
引き出しの中に所狭しと自分が詰まっているのを見て、ラシュレイは軽く恐怖を覚えながらそっと閉めた。
「......」
心配はいらなかった。彼は既に充実している。
そして絆を築くとかの問題ではない。彼の場合愛情を育めるかどうかだろう。
「......はあ」
本当に大変な者を助手にとってしまったようだ。
*****
ラシュレイがオフィスに来て30分ほどすると、スカイラ・ブレッシン(Skylar Blethyn)が入ってきた。扉を開けた瞬間顔を輝かせて、
「おはようございます!!」
と駆け寄ってくる。
「おはよう」
ラシュレイがそう返すと、「あああ!! 幸せえ!!」と身悶えしていた。
「朝起きて一番最初にラシュレイさんに挨拶されるなんて......僕はもう世界一......いや、宇宙一の幸せ者ですね!!」
「そうか」
規模が大きい上に大袈裟すぎる。こちらはそんなこと微塵も思っていない。
「はあ......ラシュレイさんと同じ空気を吸っているなんて......そして今日から背中合わせでお仕事ができるなんて......僕、嬉しすぎて朝の八時に起きちゃったんですよ!」
「ギリギリだな」
時計を見ると八時半を指している。
彼の家はここから近いのだろうか。
そう言えば自分は彼のことについて全く知らない。
名前と自分への愛情の大きさくらいしか、ラシュレイは彼について把握していないのだ。
これからゆっくり知っていこう。
ラシュレイは取り敢えず、今日彼に教えることを記した紙を取り出した。
「今日することは報告書の書き方の練習だな。これが報告書の用紙」
「ふむふむ!!」
ラシュレイは真新しいスカイラのデスクの上に、報告書の練習用紙を置いた。スカイラはメモ帳をポケットから取り出すと、それにペンを走らせ始める。
なかなか真面目な一面もあるようだ。
意外に思いながらも、ラシュレイは説明を続ける。
「この欄に対象の名前。こっちが対処の保管の仕方。あとは扱い方や特徴だ。自分の考えを書いてもいい」
「ふむふむ!!」
「名前は基本的に、最後に実験を行った人が付けることができる。一応国に報告するものだから変なものはつけるな」
「はーいっ!!」
「......」
スカイラはすごい速度でペンを走らせている。ラシュレイは怪訝に思って彼の手元を見る。
そして、
「あっ」
彼の手からメモ帳を取り上げた。素早くそれに目を通す。
『ラシュレイさんの声が近くで聞けて幸せ!! 低いけど声の中に優しさが溶け込んでいて、耳が妊娠しそう!!!
ラシュレイさんの香りがする!! 柔軟剤の名前を後で聞く!!!
今日はラシュレイさんと初めて一緒のオフィスで仕事をした日!! カレンダーに記念日の印を付けておく!!!!
ラシュレイさん可愛い!! 愛してる!! 早く籍入れたい!!!!』
「......」
ラシュレイはチラリとスカイラを見る。彼ははにかんで笑っていた。
「......取り敢えず、このメモは今日はポケットから出すな」
「はいっ!!!」
スカイラは頷いてメモ帳をポケットに突っ込んだ。
*****
それからラシュレイは、スカイラに対して色々と注意をした。
彼に説明をしても、だいたい自分の顔しか見ておらず、注意が向いて欲しい方向に向かないのだ。結局、説明をし終わるのに30分もかかった。
「今のが報告書の書き方だから。分からないことは俺に聞いて」
「はいっ!!」
「......星2の試験でテストがあるから、自分でも練習はしておくんだぞ」
「任せてくださいっ!!!」
大丈夫だろうか。
ラシュレイは不安になったが、彼の言葉を信じて自分の仕事に取り掛かることにした。
*****
ラシュレイはキーボードを叩く。
ノールズが面倒だと言っていた理由がよくわかった。確かに資料作りは気力との勝負である。数字を何度も打ち込むのは気が狂いそうになるし、少しでもミスが無いかと細心の注意を払って画面を見るのは目が疲れる。長い間椅子に座っているからか、最近腰も痛い。
ラシュレイは少し休憩を入れようと立ち上がった。チラリと後ろの席を振り返ってみると、彼はどうやら真面目にペンを動かしているようだ。ラシュレイは胸をなでおろして、コーヒを淹れる。
香ばしい香りがオフィスの中に立ち込める。彼にも淹れようと、もうひとつカップを用意した。
黒い液体が溜まっていくのを見ながら、今日の残りの仕事を頭の中で数える。
明日は日曜なので日曜会議がある。初級研修を終えて最初の日曜会議なので、話し合う内容はたんまりある。
今日片付けられる仕事は片付けておいた方がいいだろう。
コーヒーカップを持ってスカイラのデスクにひとつを置いた。彼がハッと顔を上げる。
「コーヒー、飲めるか?」
「はい! ありがとうございます!! 一口一口感謝しながら飲みます!!」
「重い」
ラシュレイは自分のデスクに戻る。もう少しでパソコンの作業は終わりそうだ。
*****
気づけば12時を過ぎていた。ラシュレイはペンを止めて立ち上がる。
「スカイラ、昼飯にしよう」
「えっ!! 僕がラシュレイさんと一緒に......二人きりでご飯を......!?」
「ビクターさんたちも誘っておくか」
「あーーーっ!! 僕、二人で食べたいです!!」
ラシュレイが壁掛け電話に受話器に手を伸ばすと、スカイラがラシュレイの腕を掴んだ。
「じゃあ準備して」
「はーーいっ!!」
*****
廊下を歩いていると、何人か知らない顔に会う。きっと新入社員だ。
今回は年齢もちぐはぐで一概に若い層が入ってきたとは言えないが、やはり研究員としてのオーラは幼い人が多い。
自分がこんなことを思う立場になったのだな、とラシュレイは少しだけ不思議な気分だった。
隣にはスカイラが今にもスキップしそうな上機嫌で歩いている。
「ラシュレイさんと昼食......僕今日眠れません......!!」
「お前、朝からそんなだけど疲れないのか」
「疲れません!! ラシュレイさんが僕のことを認識してくれていることだけで、僕はエネルギーを溜められます!!」
「よく分からない」
重すぎる。
一目惚れだとしてもそんなに重い愛を受け止めきれるほどラシュレイに心の余裕はない。
あったとしても重すぎて潰れてしまうだろう。
二人はエレベーターに乗り込む。広いエレベーターだが、中には数人の研究員しか乗っていなかった。皆食堂に行くらしい。
「今日は何を食べるんですか?」
「そうだな......まあ、サンドイッチにするか、ベーグルあたりだな」
「いいですね!! 僕は、うーん......ラシュレイさんの一口貰ったら十分ですね!!」
「あげないし、自分の食いたいものを食え」
「えー、じゃあ同じのにします!! せめてラシュレイさんと味覚を共有したいので!!」
「怖い」
言い方というものがあるだろう、とラシュレイは思う。エレベーターの中は静かで自分たちくらいしか話していない状況だ。周りの人にどう思われているか、ラシュレイは気が気でなかった。
*****
食堂は人が多いが、旧B.F.のあの施設に比べたら密度はそこまでに思えない。フロア全部が食堂なだけあって解放感があり、窓もついているからか雰囲気も明るい。
「新作デザートいかがですかー?」
そんな声が聞こえてくる。メニューのバリエーションも随分増えた。季節によってフェアを行ったり、装飾を変えたりとかなり凝っている。この辺りのアイデアは、ケルシーとエズラが主に出したらしい。
「スイーツですか。ラシュレイさん、どうしますか?」
「俺はいらない。食べたいなら食べれば」
「いいえ!! 僕はラシュレイさんと同じものしか食べないと決めました!!」
「明日からそれ禁止」
「わかりました!!」
聞き分けはすごく良い。
さっきメモ帳をしまえと言えば文句も言わずにしまったのだから、あとはどう自分で考えて動けるようにさせるかだろう。
列が動くのでラシュレイはそれについていく。何となく食堂を見回していると、カーラの姿を見つけた。
彼女は相変わらず大きなリボンで、身長が小さくても目立つ。今日はバレットらと実験だったらしい。白衣を着て、腕にゴーグルがぶら下がっているので実験室から直接こちらに来たようだ。
カーラは手にパスタが乗ったトレーを持っていた。そしてキョロキョロと辺りを見回していた。誰かを探しているようだ。
すると、
「こっち」
低い声がした。カーラがハッとした様子でそちらを見る。
少し離れた席に黒髪に赤いメッシュを入れた青年が腰かけている。カーラはパタパタとそこに向かっている。
はて、とラシュレイは首を傾げる。
あんな少年、職員の中にいただろうか。全員では無いが、自分の周りにいる人間がよく接する顔というのは自然と覚えている。
しかし、あの少年は見たことがない。
となると、彼女も助手をとった、ということになる。
驚いた。自分でも早い方だと思ったのに。
「次の方どうぞー!」
「あ、ラシュレイさん!! 出番ですよ!! あなたの素敵な低音ボイスで店員さんをメロメロにしてあげてください!!」
「いいから静かに並んでろ」
ラシュレイは注文をするためにカウンターに向かった。
*****
「ったく、その年で迷子か」
カーラが席についたのを見て、彼女の助手であるアドニス・エルガー(Adonis Elgar)は鼻で笑った。
「ご、ごめんね。だって人が多いんだよ」
「お前がチビだからだろ」
「違いますっ」
カーラはアドニスを鋭く睨みつける。今日一日を一緒に過ごして、彼への敬語もようやく剥がれてきたが、やはりまだ少し混ざってしまう。
「まあ、そのリボンがあるから俺も何とか見つけられるけどな」
アドニスはスプーンでスープを口に運びながら、そう言った。カーラは彼の言葉を受けて「ああ」と自分の頭の上にある赤いリボンに触れた。
「お母さんがくれたんだ、小さい頃」
「......ふーん」
カーラは寂しげに目を伏せる。
彼女の両親はもうこの世に居ない。
彼女の過去のことは、アドニスは彼女の口から聞いていた。
彼女の悲しげな表情にアドニスは何も言わずにスプーンを動かす。
しかし、少しして、
「汚すなよ」
と、短くそう言った。
カーラはフォークにパスタを巻いて口に運ぼうとしていたが、思わずアドニスを見る。
そして、
「......うん」
と、小さく笑った。
*****
午後の仕事もラシュレイはテキパキと片付けていく。スカイラもペンを動かしているらしく、部屋は静かだった。
コンコン。
少し控えめなノックの音が聞こえてきて、ラシュレイは顔を上げる。
「どうぞ」
声をかけると、扉が開いてエズラが顔を見せた。
「よう」
「エズラさん」
「資料見せてもらいたいんだけど」
「いいですよ。ファイルの棚はあっちです」
「ありがと」
エズラは体を滑り込ませて、扉を閉める。凄い視線を感じるが、きっとスカイラである。彼らだけの空間に違う男が入ってきたことが気に入らないのだろう。
エズラは気にしないようにファイルの棚に向かった。
膨大な量のファイルから必要な情報を抜き取っていると、
「エズラさん、僕が手伝いましょうか」
ニコニコとスカイラが迫ってくる。どす黒いオーラが彼にまとう。なかなかの迫力だ。
「......いや、大丈夫」
エズラはファイルを戻しながら言う。そして他のファイルを手に取った。
「いいえ、手伝いますよ!! 早く終わらせて、お仕事に戻らないといけませんしね!!」
「これも一応仕事なんだけどな......」
困ったな、とエズラがラシュレイを見ると、彼も呆れ顔だった。
なかなか表情豊かになった彼である。
エズラが物珍しそうにラシュレイを観察するためか、スカイラのオーラがいっそう強くなった。
「エズラさん、手伝います!!」
「スカイラ、先輩の仕事の邪魔するな」
「はいっ!!!」
すんなりデスクに戻っていくスカイラ。あまりに呆気なくてエズラは拍子抜けする。
自分の話はほとんど聞いていなかったというのに、物凄い違いである。
ラシュレイもなかなか大変なようだ。小さくため息をついて自分の仕事に戻って行った。
*****
エズラが部屋を出ていくと、ラシュレイは自分の方向に椅子が回転する音を聞いた。スカイラだ。
「ラシュレイさん!!!」
不満げな彼の声がする。ラシュレイは振り返らずにその先を促した。
「何」
「僕以外を部屋に入れちゃダメじゃないですか!!」
「何で」
「えっ!!! 此処は僕とあなたの愛の巣ですよ!?」
「ただのオフィスだ」
「違いますよー!!!」
スカイラが立ち上がって横にやってくる。
「僕はこのオフィスを誰にも触れさせません!! 僕とラシュレイさんの空間には誰も入れません!!」
「そうか」
「僕以外の人と必要以上に仲良くするのは困るんです!! 僕が嫉妬しちゃいます!!」
「そうか」
ラシュレイは適当に返す。今日の仕事を終わらせるために早くペンを動かす必要があった。
「僕はラシュレイさんが好きで此処に居るんですからね!!」
「知ってる」
「僕はラシュレイさんの従順なる下僕なんです!! とことんいじめてもらっていいですからね!! 他の人以上に!!」
「いいから仕事しろ」
変な方向に話が曲がってきている。
話のノリで肯定してしまう前にラシュレイはスカイラをデスクに戻す。
彼は素直に戻っていく。
聞き分けは素晴らしく良い。
「ラシュレイさん!!! 愛しています!!」
「ペンを握れ」
「はいっ!!」
カリカリと音が聞こえてくる。ラシュレイはどうしたものだろうか、と考えながらも仕事を手際よく終わらせていくのであった。
*****
全部の仕事が終わった頃には時計に針は夜の七時を示していた。
昼食から戻ってきてほとんどデスクワークだったので体が痛い。
後ろを振り返ると、すうすうと彼が眠っていた。机に突っ伏して、気持ちよさそうな寝顔を見せている。
彼の机の上には書き終えた報告書の練習用紙が五、六枚置いてあった。慣れないことをして疲れたらしい。
ラシュレイは報告書を眺めながら彼の背中を叩く。全く起きない。
「スカイラ」
声をかけるが、まだ目を開かない。
ラシュレイは何かないか、と辺りを見回す。すると、デスクに付属しているブックスタンドに貼り付けてある小さなメモ用紙を見つけた。彼はそれを手に取る。
そこには、
『耳元で愛を囁いてくれたら起きるはずです! レッツチャレンジ!!』
「......」
ラシュレイは静かにそのメモを元の位置に戻し、自分のデスクにある鞄を掴んだ。
「さて、帰るか」
「あ"ー!! 待ってください!!!」
ガタッと椅子が倒れそうな勢いで彼が立ち上がった。
「起きてるなら最初の声掛けで起きろ」
「えへ、ラシュレイさんならメモに従ってくれるかなー、って思ったんですけれど......」
「嫌だ」
「分かってたんですけれどね! そんなところも好きです!!」
ラシュレイはそんな彼に呆れ顔を向け、デスクに散らばった報告書の練習用紙を見る。教えた通りには書けているようだ。第一関門は突破か、とラシュレイは胸を撫で下ろす。
「ど、どうですかね!? 僕頑張っちゃいました!」
「最初にしては書けている方だと思う。このまま練習を重ねれば、来週辺りからは一緒に実験ができるかもな」
「えっ!! 本当ですかっ!!?」
スカイラが目を丸くした。
「まあ、ビクターさんに相談してみないと分からないけど。もう少し練習もしないといけないだろうし」
「ぼ、僕頑張りますっ!!! 報告書の書き方とか、ラシュレイさんへの愛の伝え方とか!!!」
「後者はほどほどにしろ」
「無理です!!」
最後に聞き分けが悪い。ラシュレイは呆れ顔で彼を見るが、彼はニコニコと笑っていた。
「......そろそろ帰るか」
「はいっ」
ラシュレイは自分のデスクを片付け始める。
自分の助手は変わっていて、かなり自分への愛は強いが_____。
だが、ノールズに始まり、ドワイトやナッシュ、イザベルたちが助手というものを守りたいと思うのはよく分かる。
助手という存在は、確かに、可愛げがあるものなのだ。