スカイラ・ブレッシン
ラシュレイはオフィスで仕事を行っていた。
新しいB.F.は、ビルの中にオフィスを持つ者、そして地下道を歩いて離れた場所にある実験室などの設備が揃っている施設にオフィスを持つ者の二通りに別れる。
ラシュレイがオフィスを持つのは、地下道の向こう側、比較的昔のB.F.に近づけて作られた施設の方だ。
地面に埋め込まれるようにして作られたその円形の施設は、実験室や超常現象の保管場所、大倉庫などが入っている。この施設は、職員たちから主に「実験場」と呼ばれていた。
地下道によって、会議室などが入った本社のビルとは行き来できるようになっている。
地下道には、オフィス、仮眠室、小さな食事処などが設けられていた。
新しいB.F.が昔のB.F.と圧倒的に異なるのは、皆自室を持たない、というところである。
仮眠室は誰でも使えるようになっており、家に帰ることが出来ない職員や、実験の合間に仮眠を取りたいという研究員は使用可能だ。
新しいB.F.になって、大抵の職員は家に帰ることができるようになった。
ラシュレイもそうで、仮眠室を使ったことは、数えるくらいしかない。
地下道には、無数の扉が並んでいる。そのほとんどがオフィスであり、ラシュレイのオフィスもまたそこにある。
各オフィスの造りは、前のB.F.と大きくは変わらない。デスクがあり、棚があり、ベッドは自由に置いて良いことになっている。ラシュレイのオフィスには置いていなかった。
彼のオフィスは閑散としていた。
デスクはひとつ、棚に荷物は多いが、コーヒーメーカーなど、前のB.F.でノールズと過ごしていたオフィスに比べると、かなり寂しくなっている。
ラシュレイは、デスクに向かって書き物をしていた。
新たな超常現象は、次々と現れている。早く、前の施設から逃げ出したものたちを回収しなければ、新しいものに追いつけない。
今回、大人数の職員をとったのは、そのためだ。人手が圧倒的に足りないのだ。
百人前後の新入社員をいっぺんに入れるということは、それなりの研究員が助手を持つということ。
研修会の全てが終わり、既に助手を取った研究員の情報がラシュレイのところにも届き始めた。B.F.をまとめる立場となった彼は、申請書の手続きなども行う必要があるからだ。
そして、ラシュレイのもとにも、助手志願が来た。
後輩であるキエラには、きっぱりとらないと言っていた。また、自分に来ることなどないだろう、と心のどこかで思っていた。
しかし、来たのである。
それは、青髪の少年であった。名前をスカイラ・ブレッシン(Skylar Blethyn)と言い、目元のホクロが特徴的な童顔の研究員であった。
助手志願ならばお断りだと思っていたラシュレイだったが、彼が願ってきたのはそれではなかった。
婚約である。
ラシュレイは書いていたペンのインクが滲んだのを感じた。
果たして自分は夢を見ているのだろうか?
何処に助手志願より先に婚約を申し込む初対面の男が居るのか。
そして、驚いたのはそれだけではない。
彼はラシュレイの紛うことなきストーカーであった。
ラシュレイが気づかない場所で写真を撮り、それをグッズ化し、そして自分の部屋に飾っている。リュックにキーホルダーとしてもつけている。
全身に寒イボが立った。
ラシュレイは腕を擦る。暖房を強めよう。
あれ以来、あのスカイラという少年には会っていない。恐らく諦めてくれたのだろう。ビクターやケルシーも、ラシュレイが助手にとりたくないということを彼に遠回しに伝えてくれたらしい。
ラシュレイは仕事に集中する。
終わったことをいちいち頭の中で繰り返さなくて良い。今は目の前の仕事を片付けることが最優先である。
コンコン。
オフィスの扉がノックされる。ラシュレイは「はい」と返事をし、立ち上がった。しかし、ドアノブに手をかけてふと嫌な予感を覚える。
耳を澄ますと、扉の向こう側から何かが聞こえてきた。
すーー......。
はーー......。
「......」
がちゃん。
ラシュレイは鍵をかけた。
「えええ!!! ちょっと、ラシュレイさん!! 居るんですよね!! そこに居るんですよね!!!?? 僕には分かりますよ!! ラシュレイさんの匂いがするんですもん!!」
ラシュレイは壁掛けの電話に走った。すぐさまコナーに電話をした。
数分後、廊下で何かが引きずられていく音がした。
「やめてください!! 僕はラシュレイさんのオフィスに入りたいだけなんです!! ラシュレイさんの匂いが、昨日、想像で作った香水の匂いと一緒か確かめたいだけなんです!!」
ラシュレイは遠くなっていく声に寒気を覚えながら、再び部屋の温度を上げるのであった。
*****
次の日、ラシュレイは会議に参加するため、オフィスや会議室を行ったり来たりしていた。
新入社員が入ってきて過不足がないか、新たに見つかった超常現象にどう対処するか、などを話し合う大事な会議だ。
他にも、現在実験中の超常現象について情報交換をする会議もあり、その日は五つの会議に参加をしたのだった。
やっとオフィスに戻る頃には、心身ともに疲弊していた。
改めて、この忙しい立場を三人で切り抜けた伝説の博士の凄さを思い知らされる。
オフィスに戻ると、ペーパーワークが待っている。だが、疲れきった脳みそは、何かを考えようとはしなかった。
ふと、彼は机上のカレンダーに目をやる。今日は火曜日だ。
火曜日と木曜日は、あの場所が開いている。
ラシュレイは少し悩んだ後、立ち上がった。
ちょうど豆も切らしていたし、行かない選択肢は無いだろう。
彼は白衣を翻してオフィスを出た。
*****
ラシュレイのオフィスは地下道にある。ビルにもオフィスはあるが、此処は実験室も近いので、実験の記録などを置いておくにはぴったりなのだ。その他にも、他の研究員からヘルプがかかった際には、すぐに助けに行けるようになっている。
実験場の廊下は、放射状に伸びている。中央の円形の広場は、休憩スペースとなっており、そこから様々な方向に伸びる廊下は実験室やオフィスに繋がる。
特別な構造になっている理由は、超常現象が逃げ出した際、すぐ捕まえることができるようにするためだ。放射状の廊下の先は、地下道に続くもの以外は全て行き止まりなので、超常現象が逃げても追い込んで捕まえることが出来る。
そして、逃げ出した超常現象を中央の広場からすぐ見つけられることも出来る。
この構造を考えたのはカーラだった。蜘蛛の巣から発想を得たという。ドワイトが見込んだ助手なだけあり、彼女の存在は新しいB.F.を作る上で必要不可欠となった。
廊下は、白衣の研究員たちの意見交換の場となっている。道行く人が「ラシュレイさん、お疲れ様です」と言ってくるので、ラシュレイも「お疲れ様です」と返す。
年上からも言われるとなると、ラシュレイは落ち着かない。この立場になっても、まだ慣れないことは多い。
オフィスのある通路から、中央広場に出て、ひとつ隣の通路に向かう。その通路は人があまり居ない。一番奥まで行けば倉庫になっており、用が無いとほとんど足を踏み入れない場所だ。
その通路の最も手前に、木目調の扉がある。
天井から扉、床の色まで統一された白い一色の施設で、唯一色がついているのではないかと思わせるほどの、ダークブラウン。「OPEN」の字が書かれた真鍮のプレートが扉にかかっている。
ラシュレイは扉を開いた。ふわり、と香ばしい香りが扉の隙間から溢れ出てくる。カランコロン、とドアベルの音がする。
「あ、ラシュレイさん!!」
ドアベルの音に続いて聞こえてくるのは、まだ幼さの残る、高い男性の声だ。
白く眩しい廊下とは対象に、その部屋は暗かった。間接照明と、最低限の照明で店内は明るさが留められている。壁一面に貼られたレンガの壁紙や、暗い木の色の床もまたそうだ。
しかし、店内は暗すぎない。所々に置かれた観葉植物が、部屋の暗さを調整している。落ち着いた雰囲気へと仕上げていた。
部屋の奥には、L字のカウンターが置いてある。店の雰囲気を壊さない、落ち着いた色を持つそのカウンターは、どっしりとした存在感があった。
そんなカウンターの向こう側に赤茶色の髪の男性が立っている。アホ毛がぴょこん、と立って、小さくフリフリと左右に振れている。白いシャツの上に、バーデンターが着るような黒いチョッキを来ていた。
キエラ・クレイン(Kiera Crane)。B.F.星4研究員だ。
「キエラ」
「待ってましたよー! 好きなところに座ってください!!」
着ている服の雰囲気からはかけ離れた、どこか子供じみた喋り方をする彼は、ラシュレイに笑顔を向けてきた。
「もしかして、ニューブレンドを試しに来てくれたんですか?」
「ニューブレンド......また新しいの作ったのか」
ラシュレイはキエラが居る正面の席に腰を下ろした。
「いやあ、仕事中に色々試していたら本当に良いのができちゃって」
「仕事しろ」
キエラはゴリゴリと豆を挽いているところだった。伏し目がちの目に長いまつ毛が美しい。パッと見、性別不詳だ。
ラシュレイは頬杖をついて店内を見回した。
此処はキエラが一人で経営している小さな喫茶店である。食堂とは違って、本当に小さな店だが、隠れ家的な雰囲気は研究員から密かに人気を集めている。
落ち着いた雰囲気の内装は、キエラ自身がデザインしたわけではない。これは、主にベティの案だ。
キエラが喫茶店を開きたいと考えていると聞いて、ベティはジェイスと共に案を出してくれた。
ジェイスは、ポップミュージックが似合う、現代の若者向けのお店にしようと考えていたが、ベティは大人向けの落ち着いた雰囲気の店が良い、と反論していた。結局ベティの案が勝ち、こうなったのだ。
ラシュレイも此方の方が好きだった。
何よりも、キエラにはこの雰囲気が似合っている。
彼の驚くべき隠れた能力は、コーヒーを美味しく淹れるということであった。イザベルの舌を唸らせたバリスタであり、彼のコーヒーに対する愛はなかなかのものだった。
一体どこでその能力を得たのか、ラシュレイは聞いてみたが彼もよく分かっていないのだとか。どこまでもフワフワしているな、と呆れたのを覚えている。
キエラは火曜日と木曜日にこの喫茶店をオープンしている。それ以外の曜日は、ラシュレイと同じように、研究員として実験をしたり、資料を作ったりしているのだ。
「そう言えば、風の噂で、ラシュレイさんのところに助手志願が来たと聞いたのですが」
キエラの言葉に、ラシュレイはハッとした。
今日は例の少年を見ていない。会議で忙しかったから、オフィスにはほとんど居なかったのだが。オフィスで待ち伏せされていなくて良かった。
「ああ、来た。変わったやつだった」
「それは、どんな風に?」
キエラは興味があるのか、手を止めて聞こうとする。
「ニュースで俺ら、騒がれていただろ」
「はい。何回かカメラに映りましたよね」
キエラが頷いてその先を促す。
「その時に映った俺に一目惚れをしたとかって言ってた。挙句の果てに写真まで撮ってストラップにしているんだぞ。有り得るか?」
「ス、ストラップですか」
彼の想像を遥かに超えた人物像が浮き上がったらしい。
「しかも、会ってすぐに求婚してきたんだぞ」
「求婚......」
「助手志願よりも先にだ」
「......」
キエラは眉を顰めている。
「普通、実在している一般人でストラップなんか作るか? それに求婚をするとして、俺は相手のこと知らないんだぞ」
「よっぽどラシュレイさんが好きなんでしょうね......」
「よっぽどが過ぎる」
ラシュレイはため息をついた。
「何だか、イザベルさんを追いかけ回していたノールズさんを思い出します」
キエラが止めていた手を動かした。
ラシュレイは自分の頬に触れながら、「そうだな」と頷いた。数年前の彼が、いつもイザベルに求婚していた日常を、ラシュレイも思い出した。
懐かしい。
ラシュレイは口許を綻ばせて、そう思った。
*****
「ラーシューレーイーさーんー」
あるオフィスの扉を叩く一人の少年が居る。
もしかしなくても、スカイラ・ブレッシンである。
道行く人は、まるで奇妙なものでも見るように彼を見ている。しかし、スカイラはそんなことは気にしない。扉の向こうにいるであろう、愛しの彼に助手志願をするめに、扉を叩いて呼びかけ続ける。
鍵はかかっていないだろうが、許可なしに入るのは心が引ける。
一応彼にも人の心はあるようだ。
ただもちろん、声は一段と大きい。
「ラシュレイさん、どうして開けてくださらないんですか? もしかして、僕が勝手に香水を作ったこと、怒ってます? すみません!! あれは僕の憶測で想像した香りでして......でも安心してください! 本物が一番良い匂いに決まってますから!!」
彼は笑顔で扉を叩く。
「あ、もしかして僕が勝手に抱き枕を作ったから怒っているんですか? えへへ、あれに抱きつくと良い夢見られるんですよお。僕、もうひとつ作っちゃおうかな、って考えてるんです! あ、でも本人がベッドに来てもらうというのが一番良いんですけれどね!!」
何と恐ろしい人間がこの会社に来たことか。もはやストーカーなどというレベルではない。変態の最上級を飾りそうな勢いである。
「うーん......やっぱり、アクリルキーホルダーだからダメだったのかなあ。ラバーキーホルダーにしておくべきだったのかな。ああ、いや、写真集が気に入らなかったのかなー。でもあれは僕の最高傑作だし......部屋の中に貼って、いつでもラシュレイさんの視線を感じられる優れものですからね......」
彼はうっとりとした顔で扉を見つめている。
この先にはどんな世界が広がっているのだろう。彼がいつも仕事をしているオフィスに入ることが出来るなんて、夢でも見ているのでは_____。
いや、決して入れると決まったわけではないが。
「......何してんの?」
そんな彼の後ろから声が聞こえてきた。B.F.星5研究員のコナー・フォレット(Connor Follett)である。
「あ、えーっと......」
振り返ったスカイラは困った顔をしていた。
「コナーで良いよ」
「僕はスカイラと言います!!」
「知ってる知ってる」
コナーは手をヒラヒラと振って、スカイラが今まで話しかけていたオフィスに続く扉を開いた。そして、そのままずかずかと中に入っていく。スカイラは目をぱちぱちとさせてその様子を見た。
「ええっ!! 良いんですか、入って!?」
「俺は良いでしょ。お前はたぶん......アウトだけど」
「えー! あ、じゃあ、カメラを渡すので中の撮影を......!」
「お前やべえぞ」
カメラを取り出そうとするスカイラを見て、コナーが呆れ顔で言う。
とてつもない執着心だ。オフィスにラシュレイは居なかったが、居たら失神するのではないか。
コナーが、電話越しの彼の怯えた声を思い出していると、スカイラがオフィスの中を外から見回した。
「此処が......ラシュレイさんのオフィス......」
目をギラギラさせて、スカイラはそう言った。
「それで、肝心のラシュレイさんは居ないんですか?」
「ああ、そうだな。俺も実験の資料を置きに来たんだけど......あー......」
資料の束をラシュレイのデスクに置き、コナーはオフィスを見回す。そして、カレンダーを見つけた。
「そうか、今日は火曜日だな」
「はい!! 僕がラシュレイさんのオフィスの空気を嗅げた記念です!!」
「はいはい。まあ、この時間ならキエラのカフェ_____」
と、コナーは言いかけて、しまった、と廊下に目を戻した。既にスカイラはそこには居なかった。
「......ごめん、ラシュレイ」
コナーは顔を覆った。
*****
「美味しかった」
ラシュレイはカップを空にして、ソーサーの上に置いた。かちゃん、と心地よい音がする。
「それは良かったです!」
キエラはカップを片付けるためにラシュレイの前のカップとソーサーを持ってシンクの方へと行く。
「僕もいつか助手志願が来て、助手ができる日が来るんでしょうかね......」
キエラはカップを洗いながら独り言のように言う。
その目はカップと言うより、何処か遠くを見ているようだった。あの日々を思い出しているのだろう。イザベルという先輩と過ごした、あの時間を。
「......やっぱり、考えづらいことだよな」
「はい。僕はあんな美人になれるでしょうかっ......!!」
「また違う問題になってくるな」
冗談が言えるのも、彼が少しずつあの事件から心の傷を治していることを意味している。最初の頃は言葉すら発しなかったらしく、ずっとメダルを握っては泣いていたそうだ。
そう言えば、とラシュレイは思い出す。彼は、大切なメダルをどうしたのか。
「キエラ」
「はい?」
「イザベルさんから受け取ったメダル、どうしたんだ?」
ラシュレイの問いに、キエラは微笑んだ。
そして、自分の胸元を指さした。彼は、ループタイを付けている。いつもこの喫茶店を営業する時、彼は必ずあのループタイだ。
ループタイには、黄色の丸い輝きがあった。
ラシュレイは目を見開く。
「かっこいい感じに仕上げてもらいました! お店を開く記念に、って、ジェイスさんが手作りしてくれたんですよ!」
キエラの顔は嬉しそうだった。肌身離さず付けているのだろう。あれは彼の心臓の一部なのかもしれない。
それを言うなら自分だって。
ラシュレイは頬に手をやる。皮膚の感触が無かった。
記憶の焔で彼に記憶を見られて、きっと彼は色々と思い出しただろう。
ラシュレイは目を閉じた。
彼に初めて絆創膏を貼ってもらったのも、この場所だった。そして、「寄生痕」は偶然にもそれと同じ場所に寄生した。きっと、彼に初めて絆創膏を貼ってもらった場所がまた違かったのなら、違う場所に寄生していたに違いない。
ノールズがあの時、あの瞬間、少し驚いた顔をしていたのは、そういうことだったのかもしれない。
ラシュレイは目を開く。柔らかく微笑むキエラと目が合った。
二人は互いに、かけがえのないものを持っているのだった。
*****
「じゃあ、また来る」
「はい! 明後日はデザートも食べに来てくださいね〜!」
「考えとく」
ドアベルがカランコロン、と鳴る。ラシュレイはそこでキエラと別れようとした。その時だった。
どどどどど......。
この世のものとは思えない足音が近づいてくるのを聞いた。ラシュレイの顔が青ざめる。キエラはきょとんとした顔で首を傾げる。
「超常現象が暴れているんですかね......?」
「違う......いや、違わない」
彼もその類なのではないかと疑いたくなるラシュレイであった。
彼には既に足音の主が分かっていた。
誰かが自分の居場所を教えたらしい。
まず一番初めに疑うべきはキエラだが、彼は自分とずっと話をしていたし、手に持っていていたのも携帯などではなく、カップなどのコーヒー関係の器具であった。
「だ、大丈夫ですか、ラシュレイさん......何だか顔が青いですよ!?」
ラシュレイの顔色を見たキエラが、ぎょっとして彼を支える。
「......平気」
と言っても、全く平気ではない。
一体誰が自分の居場所をばらしたというのだ。
「ラーシューレーイーさああん!!!」
足音の主がその姿を表した。青い髪、満面の笑み。歳はラシュレイよりも若い。おそらく、キエラよりも。
全身で表してくる自分への好意が、ラシュレイの心をザワザワとさせてくる。
「え、えっ!?」
キエラは、自分たちに向かってくる少年とラシュレイの顔を交互に見た。
「あ、あの子が助手志願に来たという......」
「そうだ」
「ストーカーと言えなくもないという......」
「そうだ」
「ストラップを作って、求婚までもしてきたという......」
「そうだ」
その間にもスカイラはすぐそこまで来ていた。このままではイノシシのように突進される。この場にいるキエラにも被害が及ぶかもしれない。これは言わば、自分がまいた種だ。
......いや、そういうわけでも無さそうだが、とりあえず自分が原因でこうなっているのならば、自分が何とかするしかないだろう。
数少ない知り合いの店をめちゃくちゃにするわけにはいかない。
ラシュレイはふう、と息を吐いて気合を入れる。
大丈夫、大丈夫だ。
足腰はそうとう鍛えたのだ。
赤い箱が奇跡的に地上に現れたので捕獲に成功し、無事にこの実験施設に持ってくることができた。
久しぶりに入っていざ戦ってみると、腕はそこまで落ちていなかった。ビクターやバレットと肉体戦を想定した訓練もして貰ったし、少しは動けるはずだ。
ラシュレイは腰を低くして構える。
言わば彼は超常現象と変わらない。
あの異常な執着心は人間の域を超えている。
キエラは構え出したラシュレイを見て「ええっ!!」と声を上げる。
「ま、まさかラシュレイさん、正面から受けるんですか!?」
「後ろにどうにか流せるかもしれない」
「いや、無茶ですよ!」
「やらないと分からないだろ」
ラシュレイが受け止める姿勢に入ったと確信したらしいスカイラが、「わーい!!」と、駆けてくる。キエラはそれをハラハラと見つめる。
そして、
「ラシュレイさーんっ!」
どごっ。
「う"っ」
彼は簡単に負けた。
*****
「ふう、危なかったです!! ラシュレイさんの体に怪我を追わせてはファンは務まりません!!」
スカイラの腕に抱かれたラシュレイは、まるでテディベアのようである。ムスッとした、いかにも不機嫌そうな表情をその顔に浮かべている。テディベアとしてその表情はどうかと思うが。
スカイラはやっと大好きなものが手に入って、心底幸せそうだ。ラシュレイの黒髪に何度も頬ずりしては、「幸せー」とうっとりしている。
「......だ、大丈夫ですか」
キエラがラシュレイを見る。
「なわけないだろ」
ラシュレイが機嫌悪そうに言った。なかなか此処まで感情を表に出すラシュレイも珍しい。彼と居てこういう表情はあまり見たことがないので、キエラは新鮮だった。
それにしても、とキエラはスカイラを見る。確かに思っていた以上に手強そうだ。大型犬と飼い主という構造がピタリと当てはまるような、そんな光景である。
「もー......探したんですよ、ラシュレイさん! オフィスに居ないんですから......せっかく助手志願に来たのに!」
「いや、助手にするなんて一言も言ってない」
「ええー! でも僕は待ちますよ! ラシュレイさんが心を開いてくれるその日まで」
「いや、絶対開かない。というか、今すぐ退いて」
「はうう〜! そんなとこも好きです〜!!」
寧ろ強く抱きしめられてラシュレイは「ぐえ」と潰れたカエルのような声を出している。キエラは慌ててラシュレイを助けようと手を伸ばすが_____。
「あ、僕のラシュレイさんに触らないでもらって」
にっこりと物凄い黒いオーラの笑みを向けられて、キエラはヒェッと身を縮こませる。
「だいたいあなたは誰です?? 僕のラシュレイさんをこんな場所に連れてきて......彼氏を名乗るようじゃその格好は正直ありえないですよ」
「なっ!!!」
キエラのアホ毛が直立した。
「僕のラシュレイさんと仲良しみたいですが、これからは僕の方が仲良しになるんですから!! 勝手に話しかけたり、触ったりしないでもらえます?」
「そ、そんなの勝手だよ!」
「いーえ、ダメなんですっ」
キエラが泣きそうな声で「ラシュレイさーん......」と助けを求めてくる。
正直助けて欲しいのは自分の方なのだが。
ラシュレイはため息混じりに、
「この人はキエラ・クレインだ。俺の一番慕ってる後輩の一人だから、あまりいじめるな」
そう言った。スカイラがそれを受けて「ええっ!」と目を丸くする。
「僕のことを一番に慕っているんじゃないんですか!!」
「ワースト一位くらいだな」
「わあ、でもランキングには入っているんですね!? 好きです!!」
ポジティブにも程がある。スカイラの腕の中でラシュレイはキエラと視線を交わす。キエラは苦笑して肩を竦めた。
ラシュレイは再びため息をついた。
これから自分の生活はどうなるんだ、と。