母親
ラシュレイは車に乗り込んだ。黒いステーションワゴンだ。運転席にはベティが乗っている。何者かは知らないが、歳を感じさせない綺麗さがある。ハンドルを握るその左手の薬指には銀色の輝きがあった。
「ねえ、アンタってノールズの後輩だったんだっけ」
「......はい」
「同じところに同じ湿布貼ってるものね」
バックミラー越しに彼女にちらりと目線を送られた。ラシュレイの頬には湿布が貼ってある。ノールズが持っていた超常現象を引き継いだのだ。彼の唯一の形見である。
「落ち着いたら戻ってきなさいよ。アンタを待ってるんだから、みんな」
ぶっきらぼうな言い方の中に優しさが感じられた。ラシュレイははい、と頷いてぎゅ、と拳を作った。
震えている。怖いのだ。
確実に自分は家に向かっている。あの父親がいるのだと考えるとゾッとする。テレビで状況は知っているかもしれない。ノールズのことを侮辱されたらどうしようか。殺してやろうか。そんなこと言われたらタダでは済まない。たとえ記憶の中の存在になったとしても彼だけは絶対に守らなければ。
*****
家は確かにあの施設からそう遠くなかった。車で15分ほど揺られればそこは既に家だった。
「はい、着いたわよ」
ベティが振り返るが、ラシュレイは黙って家を眺めていた。
きっと誰も自分の過去について知らない。記憶の炎でノールズには見られたわけだが、それでもブライス、そしてベティらは自分が最悪な環境で育てられてきたことを知らないだろう。
「......勘違いしているなら言うけれど、あたしは別にアンタをあんな環境にもう一度置きたいからこうして連れてきたわけじゃないから」
「え......」
驚いてベティを見ると、彼女は助手席にあったファイルを掴んだ。何やら分厚いファイルだが、研究員ファイルのようには見えない。
「ブライスはね、会社に入ってきた人間のバックグラウンドを想像するような人間よ。アンタ、虐待されていたんだってね」
「......」
「入社した時にブライスがアンタの服の下に見えた肌に目を光らせたの、傷跡にね。髪も伸びているし、家には戻っていないとも書かれているわね。当たりかしら」
「......はい」
そう、入社するための勉強期間、ラシュレイは家に帰っていなかった。近くのホテルに泊まったり、金が無いときは野宿もした。まさか、そんなことまで見抜かれていたというのか。
「彼は全く、意味のわからないことで能力を発揮するわよね......なんで......」
その後に言葉は続かなかった。彼女の震えた唇と、悲しげな瞳が全てを物語っている。が、次の瞬間には優しい笑みを浮かべていた。
「さ、降りなさい。案外大丈夫かもしれないわよ。だって、あんな会社で何でもかんでも教えこまれてきたんでしょう? だったら怖いものなんてないはずだもの」
「......」
ラシュレイは頷いて、車を降りた。
*****
扉を開く前に、一体誰が出てくるだろうかとラシュレイは考えた。振り返ると、少し離れた場所に車を停めてベティが中から眺めているようだった。
もし出てくる人が母親だったとしたら、何を言われるだろうか。どうして自分を置いていったのかと怒られるだろうか。
自分は父親の暴力から逃げようと自分だけ家を出てきてしまった。母親は自分を父親から守ってくれる存在だったというのに、そんな彼女はこの家に置いて行ったのだ。
もしくは、父親が出てくるだろうか。そんなことになったらまず殴られるかもしれない。その時は、ベティが行っていたように学んできたことを活かしてみればいいのではないか。赤い箱で教わった護身術。あれを使えば父親も倒せるかもしれない。
ラシュレイは意を決して扉を開いた。
「......ただいま」
こんなことを言ったのは一体いつぶりだろうか。
家の中はしんとしていた。父親は仕事かもしれない。母親も出かけているのではないか。
そう思って待っていると、奥から足音が聞こえてきた。
それは、
「ラシュレイ!」
母親だった。気づけば自分は彼女の上の中に抱かれていた。少し伸びた髪がラシュレイの鼻をくすぐる。
「ラシュレイ、ラシュレイなの!?」
「......うん」
よく顔を見せて、と言って、ラシュレイは肩を掴んで引き剥がされる。少し年老いただろうか、という顔だ。だが、優しい瞳も声も紛れもない母親だった。
「良かった、本当に良かったわ......あのニュースを見てあなたの消息ばかりが気になっていて......本当に良かった......」
彼女はもう一度ラシュレイを抱きしめた。ラシュレイはされるがままになっていた。動こうにも動けない。
「......父さんは」
「......」
母親は弱々しく笑った。かすかに目に浮かべていた涙が、陽の光でキラキラと光っている。
「......二年前にね、病に倒れたの。看病をして、お医者さんにも診てもらったけれど......。一年前に......」
その先が続かなかった。それが全てを表していた。
彼は死んでいた。一年も前に。
「......死んだ......」
「アルコールの摂りすぎってお医者さんには言われたわ」
「......」
そうか、最後に見た時はほとんど酒しか飲んでいなかった。あれなら肝臓をやられてもおかしい話ではない。
「ラシュレイ、ごめんなさい、私あなたを苦しめていたわ。あなたが居なくなったときに、私は本当に後悔したの。離婚しなかったことも、あなたを守りきれなかったことも......」
「そんなの......」
「お父さんと話し合ったけれど、離婚は成立しなかったわ......そして、その時にはもう彼の病気のことは分かっていたの。だから......」
声が震えていた。ラシュレイは自然と彼女の背中に手を回す。撫でながら、首を横に振った。
「いいよ。母さん。謝らないで」
そして、肩に顔を埋める。
「......今度は俺がいるから」
家に入る際にラシュレイは母親を支えながら、ちらりと車に視線を送った。車はちょうど発進したところだった。ラシュレイは見えなくなるまで見届けた。
*****
母親は自分がB.F.に務めていて、そこで爆破事件があったことを知っていた。B.F.に勤めていたということはシャーロットの口から電話越しに聞いたというのだからかなり最近の話である。爆破事件のことを知ったのもきっと最近のことだろう。
「ニュースで今もやっているわ。あれを見る度に胸が苦しくなるの。とてつもない炎と煙だったそうね」
「......うん。そう」
おそらく、一週間消えなかった炎の原因は、ラシュレイが記憶をとられかけた記憶の焔の仕業である。
新聞を見ながらラシュレイはぼんやりと考えていたのだ。燃え方が全く一緒だった。ラシュレイが見たあの巨大な炎は明らかに記憶の焔だった。
記憶の焔は誰かが中に入ってその記憶に関係する物体を取り出さない限り、中のものを燃やし尽くすまで半永久的に燃え続ける。
何を燃やしてあれだけの焔だったのか。それはきっとあの施設だ。全員の記憶が詰まったあの施設を、あの超常現象は燃やしそうとしていたのだ。
ラシュレイは母親にB.F.に入ってからのことを話した。ノールズという研究員に会い、そこで数え切れないほどの非日常な体験をしてきたことを。そして、彼は自分を守るためにとうとう帰って来なかったこと。
母親は何度も口を抑えて、ハンカチを濡らしていた。ラシュレイも話しているうちに声を震わせた。
もう見ることが出来ない彼の顔が何度も頭をよぎる。誰かを失うということはこんなにも辛いのだと初めて気付かされた。そして、きっとこの気持ちをこの一年で母親も味わったのだろう。
話し終えたラシュレイに、母親が涙声で、
「でも、きっとすごく楽しかったんでしょう」
と、そう言った。ラシュレイは「え......」と声を漏らす。
「いつの間にか、あなたの目に光があるの。ノールズさんの話をする度に楽しそうで、微笑んでいるから......。きっとその会社で笑い方を教えてもらったんだわ」
「......」
笑う。そういえば彼はよく笑っていた。いたずらっぽく笑ったり、嬉しそうに笑ったり。笑うだけでなく、感情の出し方を伝授されたようだ。オフィスに入ればそこはもう教室で、自分はそこで彼にたくさんの感情を教えてもらったのだ。
入社当時は屍のようになっていた自分が、今こうして人の目からわかるほどに感情を出せている。それは本当に凄いことなのだろう。
だから、なのだろうか。
涙が止まらなかった。子供のように、ラシュレイは泣いた。とっくに枯れていた泉がいつの間にか潤っていたのか、堰を切ったように泣き出した。