虚無
長い長い夢を見ていた。
ある研究所に勤めていた自分は、それなりに充実した生活を送っていた。しかしどうしてか、今、涙を流してベッドの上で寝そべっている。そしてそこは、あの研究所のベッドではない。
「......」
目を開けば、きっと目の前にはもうひとつのベッドがあって。その上に金髪の研究員が眠っている。彼の名前はノールズ・ミラー(Knolles Miller)。誰よりも勇敢で、誰よりも優しいそんな彼が、きっと目を開けたらそこに居る。
「......」
目を開くと、まず飛び込んできたのは、薄く開かれた窓と、揺れるレースカーテンだった。窓からは柔らかな朝の日差しが差し込んでくる。
それを感じて、ああ、と思った。
こんな光景の中に、彼は居ない。自分が彼と共に過ごした部屋は、施設は、外が見える窓なんて無かったのだから。
体を起こすと、自分の上には薄いブランケットが被せてあったことに気づいた。寝癖を手ぐしで整えながら、そっと部屋の中を見回す。何も無い。驚く程に。
机の上には切り抜かれた新聞紙。壁にはカレンダーがかかっていて、6/4が今日の日付である。
そっと、床に素足を下ろしてみる。ひんやりとした感覚が夢の中から現実へと引き戻してきた。現実へと。
あの日からもう少しで一ヶ月が経過する。最愛の先輩、ノールズ・ミラーはあの日、施設の中で死んだ。出血多量か、それとも焼死なのか。それは誰にも分からない。
ラシュレイは、そっと頬に触れる。湿布が貼ってある。毎日のように湿布を貼り変えるそこには、ノールズが唯一自分に残してくれた超常現象「寄生痕」があった。
誰もがあの日、何も知らないまま襲撃に逢い、何も知らないまま外へと放り出された。仮施設を含めたB.F.の施設は、炎の化け物へとその姿を変えた。
誰もが泣き叫んだ。助けに行こうと走り出そうとする研究員もいた。
ラシュレイはと言うと、ただ、静かに炎を見上げていた。黄金の火の粉が夜の空を焦がすように幾度となく舞い散るのを、目に焼き付けた。
自分の全てを築き上げてくれたと言っても過言でもない施設が目の前で焼けていくのを、芝生に座り込んだまま見上げる他なかった。
星5研究員は全員犠牲になった。誰も、助かることは無かった。
*****
炎は轟轟と音を立てて燃えている。遠くで消防車の音がした。
「イザベルさん、イザベルさんっ!!」
キエラが泣き叫んでいる。腕がちぎれんばかりに施設に腕を伸ばしている。それをケルシーとビクターが止めていた。他の研究員が空を仰いで泣き出した。周りがそれに続いた。
ラシュレイはぼんやりと施設を見上げる。じりじりと髪を焦がすような熱さだった。
芝生に額を付けて泣いている綺麗な女性の姿がある。彼女の指には綺麗な銀色の指輪が輝いている。
何かを呟いているが、それは周りの泣き声でラシュレイの耳には届かなかった。
*****
ラシュレイ達はその後、ある施設に隔離された。ベティとその先輩であるシャーロットだとかいう人物が用意したらしい。四角い建物に、残された研究員達は入れられた。怪我人の治療や、心のケアなどを目的とした隔離のようだ。症状が軽くなると、家に帰されたり、また違う環境で住める場所へと移動させられる。
この時点で既に100人ほどが施設から出て行っていた。
しかしラシュレイは、昨日も今日も変わらない日々を送っていた。ベッドから起きて、ぼんやりと時間を過ごす。時には狂ったように新聞を読んで、あの日のことを綴った記事に目を通した。
「爆破からおよそ一ヶ月が経過しようとしています。政府が何かを隠蔽しようとしていたのでしょうか。詳細は今も尚謎のままです」
テレビから聞こえるのは、面白い玩具を見つけた赤ん坊のような抑揚をつけてニュースに花を咲かせるアナウンサーの声だった。
上空をヘリコプターが飛んでいるのかバタバタと音がする。
焦げた施設からは誰一人戻ってこなかった。誰もが、あの地下施設で後輩のため、命を捧げた。
ノールズも、イザベルも、ドワイトも......全員。
ラシュレイは頭を抱えてデスクに突っ伏した。新聞紙は自分の頬の下に来て、インクの香りが鼻腔をつく。何もしない日々がもう一ヶ月も経とうとしている。こんな施設で自分は心のケアをされているはずなのに、事態は一向に良くならなかった。
*****
「ラシュレイ、朝ごはん持ってきたわよ。食べられそう?」
部屋の中でデスクに突っ伏していると、扉がコンコンとノックされて、女性の声が扉の向こうから聞こえてきた。毎日、これくらいの時間に彼女はやってくる。ラシュレイは返事もせず、のそりと体を起こして扉を見る。少しして小さく扉が開いて、年老いた白衣の女性がトレーを持って入ってきた。
「今日はシチューとパンと、フルーツよ。食べられそうなものだけ食べなさい。あら、熱心ねえ。また新聞を読んでいたの」
彼女の名前はシャーロットという。昔彼女もB.F.で働いていたのだという。
彼女は、ラシュレイがのそのそと新聞紙を片付けることを急かすことはなかった。
ラシュレイはあの事件以来屍のようになった。何をしても返事もせず、口も開かず、ただ虚空を見つめている。もしくは、光の無い目で静かに新聞紙の文字に目を落としている。
「はい、どうぞ」
ロールパンが二つ、シチューは木のボウルの中でホカホカと湯気を立てている。フルーツはオレンジだった。飲み物は紅茶。アイスティーだ。
「何か必要なものはある?」
「......」
ラシュレイは首を横に振った。そう、とシャーロットが頷き、
「じゃあ、食べ終えたら食器は部屋の外の棚に置いてね。そうだわ、今日は10時から皆でお散歩に行くのよ。ケルシーとか、バレットとか居るから、ラシュレイも気が向いたら来てみてね」
と、そう言って部屋を後にした。ラシュレイは彼女が居なくなった後も静かにトレーの上を見つめていたが、やがてゆっくりとスプーンに手を伸ばした。
*****
食堂の中は賑わっていた。50人ほどの人間が様々な場所でテーブルを囲んで朝食を食べている。
「ソーセージいただきっ」
「あ、それ俺の!!」
ある一角で赤髪の研究員と青髪の研究員が何かを言い争っている。バレット・ルーカス(Barrett Lucas)とエズラ・マクギニス(Ezra McGinnis)だ。
「返せよっ」
「取られるような場所に置いてる方が悪いんだろ?」
「んだと!!」
エズラが今にも掴みかかりそうな勢いで彼を睨みつける。そんな時、
「ちょっと、やめなよー」
「お前ら何してるんだ」
二人の前に現れたのは女性の研究員と、男性の研究員。ケルシー・アーネット(Kelsey Arnett)とビクター・クレッグ(Victor Clegg)である。
「あ、おはよう」
バレットはすんなりエズラの皿に取り上げたソーセージを戻す。
「ここのご飯美味しいもんね! 分かるよー!」
「だよな!」
「だよな、じゃねえよ」
頷くバレットをエズラが軽く睨んだ。
「今日は一段と人が多いよな」
ビクターが椅子に座りながら食堂の中を見回す。食堂の中はこの時間帯だといつも30人ほどしかいないが、今日は賑やかさで溢れている。
「うん、今日はシャーロットさんがお散歩に連れて行ってくれるんだって!」
そう言って、ケルシーはサラダにドレッシングをかけている。
「そうなのか」
此処に来て一ヶ月。四人の回復は周りに比べて比較的早かった。心の傷が深い人間に共通することは、あの事件で昔、もしくはその時に自分のペアだった先輩が亡くなったことだ。
ただ、全く心の傷を負わなかったというわけではない。常に頼りになる星5は周りに大勢いた。その人たちが一人も残らず犠牲になったこと、またその場で実際に見てしまったことが傷を抉った。
「私、散歩行く! みんなもどう?」
「俺行く!」
バレットが手を挙げる。ビクターとエズラは「いい」と首を横に振った。
シャーロットは順調に皆の心の傷を回復させていた。B.F.から出てきてかなり経過していたが、名医と呼ばれるだけの腕は全く衰えていないらしい。
ただ、やはり傷が深すぎる人間だって少なくはない。まず頭に浮かぶのはラシュレイである。彼は最愛の先輩であったノールズを亡くしてから生きる気すら感じられなくなった。一瞬だけトレーを下げに廊下に出てくる彼は幽霊のようで、どこか足元もおぼつかない。
かなり傷が深い人間に食べ物を届ける時はシャーロットが必ず行くようにしているらしい。ラシュレイはつまりそういうことで、また彼に限らずもう一人いた。
それはコナー・フォレット(Connor Follett)である。彼はまだ部屋から出てきてすらいない。彼の元にもシャーロットが向かっているらしいが、顔すら見せず、何も食べず、トレーすら下げないそうだ。皆の頭にはやせ細っていくコナーの姿が浮かぶ。
生き生きとしていたあのイタズラ好きの先輩の姿は、もはや過去のものとなった。
*****
朝食を済ませて、バレットとケルシーは散歩へと行った。残されたビクターとエズラは椅子を寄せる。
「結局、政府はあんまり力を貸してくれなかったんだな」
エズラは今朝の新聞に目を通していた。
B.F.に長年味方をしていた政府がある日裏切りを謀った。それがB.F.の滅亡の始まりと考えても良いだろう。味方が居なくなったB.F.は逃げ場を失った。
きっと伝説の博士は寝る間も惜しんで考えただろう。あんな最悪な結末を、あんな悲しいシナリオを、ブライスか、ナッシュか、ドワイトは思い描いていたはずだ。
あまりにもスムーズに移動させられ、星5の研究員が目の前で死んでいく様を見せられ、あまりに呆気なく彼らの命は灰となった。
B.F.を裏切った政府は仕事を忘れたかのように何もしなかった。あの場所を更地にするようで、最初から何も無かったようにまっさらにすると発表した。憤慨する者もいた。悲しみに泣き崩れる者もいる。だが、政府の言葉に表も裏もないように見えた。彼らの頭は空っぽのように思えた。
「記念公園にでもするのか?」
「石碑くらいは立てて欲しいところだよな」
エズラが新聞紙を放るようにしてテーブルに置いた。
*****
いくらか開いた窓から、柔らかな日差しとともに笑い声が入ってくる。この声はケルシーだ。バレットの声も聞こえた。そう言えばシャーロットが散歩に連れていくと行っていた。
ラシュレイはベッドに戻って横になっていた。
もう皆あの事件を忘れたというのだろうか。そんなわけない。なのに、どうして笑っているのだろう。もしかして、こうして部屋に閉じこもっているのは自分だけなんだろうか。自分だけこうしてうじうじして前に進めないのだろうか。一年後、二年後となってこの記憶が風化しない限り、自分はずっとこうして部屋の中なのだろうか。
いや、風化するなど考えられない。風化するほどあの優しい陽だまりのような思い出は、自分の中で簡単な言葉で片付けられないものなのだ。
どうして、彼らは逝ってしまったのだろう。あれだけ一緒に過ごしてきたのだから、一緒に生きたいとは思わないのだろうか。自分たちがそう思うに値しない人間だったのだろうか。
ラシュレイは枕に顔を埋めた。一ヶ月も使えばくったりしてきて生地に肌が馴染むようになってきた。彼はその枕の下に手を差し込む。かさ、と指先に紙の感触があった。そっと引っ張り出すと、あの日、ジェイスが自分にくれた手紙だった。ノールズが自分に向けて書いてくれていた、一通の手紙。
一体いつこんなもの書いていたのか。
封筒を開いて、懐かしい字を目で追う。もう何度読んだか分からない。彼の声で頭の中で読み上げられる。
後追いはするな、と書いてある。きっと自分がこんな心境になることを心得ていたのだろう。文字は滲んで読めなくなった。
「ラーシュレイ」
「!」
ベッドから飛び起きて振り向く。ノールズが立っている。こちらに向かって手を振っている。ラシュレイは彼に手を伸ばした。ベッドから出て、彼の金髪に向かって、彼の柔らかな笑顔に向かって手を伸ばす。
が、温かい温度に触れるはずのその指は虚しく宙を搔いたのみだった。
冷たい空気だけが肌を掠めた。瞬きすれば誰もいなかった。
ラシュレイは立ち上がりかけていた自分に嫌気がさした。ベッドに戻る気にもならず、ズルズルと床に座り込んだ。顔を覆い、声を押し殺して泣いた。
_____早く自分もそっちに行きたい。
*****
爆破事件から一ヶ月半が経過した頃。
「コナーさん......!!」
食堂に現れたのは、部屋にずっと篭っていたコナーであった。顔色は優れないが、テーブルに揃っているバレットらを見て顔をほころばせている。
「よう、元気か?」
彼は四人がいるテーブルに腰を下ろし、持ってきたヨーグルトをスプーンでかき混ぜる。
「もう出てきても大丈夫なんですか......?」
バレットが控えめに問う。
「ああ、いつまでもこのままじゃ居られないしな。どっちにしろ、俺らは色々準備しないといけないだろ」
「準備ですか」
エズラが眉を顰める。
「考えたんだが、ブライスさんたちは俺らにB.F.を引き継いで貰いたいって考えているんだと思う。今は建物すらない状況だが俺らの手元には大量の資料があんだろ?」
「ええ、そうですね」
ビクターが頷く。
あの事件で施設から持ち出した大量の資料は、この施設の倉庫に運ばれて、あれ以来誰も触っていない。
「多分、あの事件で超常現象の多くが施設から出ていったかもしれない。ここ一ヶ月新聞を読んでいたけど、不可解な事件があらゆる場所で起きまくってる」
「そんなこと調べていたんですか......!?」
ケルシーは目を丸くした。
「俺がそんなに悲しんでるとでも思ってんのか? 死んだらどうせいやでも顔を合わせることになるんだ。ちょっとのお別れだろうが」
「......」
皆ぽかんとした顔で彼を見つめていた。
てっきり彼は、自分の部屋であの日の悲しみにくれて立ち直れないような状況になっているのだと考えていたのだ。しかし、目の前にいる彼はあんな事件を忘れてしまったのではないかというほどに落ち着いていた。
「俺らで作り直そうぜ、Black File」
*****
ジェイスはシャーロット、ベティに連れられ、その場所に来ていた。工事が終わって何も無くなった更地。近くの草は焦げていた。一週間、消防隊を苦しませたあの炎は、まだ彼の目の奥で燃えている。
「何もなくなっちゃったわね」
シャーロットは寂しげに言う。
本当だ。施設があった場所は緑に戻りつつある。誰も何も残そうとはしなかった。彼らの犠牲があれだけの人間を助けたというのに。
「......ノールズ」
ジェイスは地面に向かってそう声をかけた。返事はもちろんない。だが、彼はきっと自分をあっちで待ってくれている。あっちにはパーカーも、ヴィムも、ハンフリーもいる。あの助手をきっと可愛がっている頃だろう。
「この場所......どうするんでしょうね」
ベティが口を開く。シャーロットはさあねえ、と微笑んだ。
「何も建てないかもしれないし、何かを建てるかもしれないわ」
「政府から話は出ているんでしょうか」
ジェイスは右隣のシャーロットを見上げる。
「いいえ、全く。でも......」
シャーロットの目は優しかった。
「彼なら......ブライスさんなら、どうするかしらね」
「......」
ベティとジェイスはちらりとお互いに目線だけを合わせたが、あとはじっと地面を見つめていた。
*****
ラシュレイに大きな変化があったのは、爆破事件から二ヶ月後のことだった。着々と職員らが施設を出ていく中、彼の部屋に一通の手紙がやって来たのだ。シャーロットは彼にそれを渡すと部屋から出ることはなく、丸椅子に腰かけた。
「読んでみて。差出人を見たら驚くんじゃないかしら」
そう言って優しく笑う彼女。
ラシュレイは手渡された封筒をそっと開いた。あの日以来、あの手紙以外を読んでいない。
やっぱりノールズが生きていたとか、あれは何かの超常現象が見せていた夢だったとか言われる内容なら、どんなに飛び跳ねて喜んだだろうか。きっとそんなわけがない。でも、もしかしたら。
淡い期待を抱いて、ラシュレイは封筒から便箋を取り出して目を通した。短い文章が書いてあった。
『たまには帰ってきなさい。あなたのお話、沢山聞きたいわ』
母親からだった。ラシュレイが僅かに目を見開いた。
彼はB.F.に入社して以来母親に会っていない。というかあの忌々しい父親がいる家には、何がなんでも戻りたくなくて、逃げるように家を出てきたのだ。
母親は好きだったが、あの後はどうなったのか分からない。父親の暴力に苦しめられているのか、それとも病気や怪我をしたのか。
だが、少なくともこの字からは健康そうな母親の姿が思い浮かべられた。
「お母様と連絡をとってみたの。そうしたら、ぜひ戻ってきて欲しいんですって。住所を調べたけれど、此処からそう遠くないんじゃない。ね、環境を変えてみるっていうのも治療の一環なのよ」
「......」
ラシュレイはもう一度手紙を読む。
お話。もしかしたら彼女は知っているのか。自分がB.F.に居たことを。そして、そこであった事件も。ニュースであの事件は何度も報道されているだろうし、新聞でも一面を飾るほどになっていた。
今まで政府の影に隠れて動いていたが、政府が動いたことによって陽の光を浴びてしまったのだ。本来浴びてはいけない自分ら研究員は。
シャーロットは丸椅子から立ち上がった。
「お母さんはきっとあなたをお家で待っているわ。ラシュレイからたくさん聞きたいこともあるし、あなたが好きなものを作ってもくれる。元気になったらまた色々なことに挑戦してみればいいし、今はゆっくり休むべきよ」
ラシュレイは封筒に手紙をしまう。
休むと言われても、何だかよく分からない。美味しいものを食べたらいいのか、本や教科書を読めばいいのか、テレビを見ればいいのか。
だが、あの家の主は自分を歓迎してくれるだろうか。もう一度過去の生活に逆戻りになってしまったらどうしよう。
もう自分に絆創膏を差し出してくれる人間はいない。彼は今、瓦礫の下で押しつぶされている。
「......帰ってみます」
ラシュレイは久々に声を出した。カサカサになっていて、出にくかった。シャーロットは頷く。
「そうね、それがいいと思うわ」
こうして彼はあの家に帰ることになった。
ラシュレイは父親との最初の会話を思い浮かべながら、荷造りを始めた。