途絶えぬサイレン
ラシュレイは人混みの中で自分の先輩の姿を探した。しかし、あの金髪は何処にも見えない。廊下に居るのは、星4以下の研究員だけである。
星5は持ち場につけと放送で言っていたが、もしかして事前から彼らは何か言われていたのだろうか?
彼は今日自分と共に居た。トイレの時ぐらいしか離れていない。今日一日、彼はこの事実を知っていながら自分と対話していた。
ラシュレイは思い出す。食堂で、朝食を食べる自分の顔を愛おしげに見るノールズの顔を。
いつからだ。彼らはいつから、こんなことを_____。
「ラシュレイ!!」
人混みの中で自分を呼ぶ声がして、ラシュレイは其方を向いた。
「バレットさん!」
それは星4研究員のバレット・ルーカス(Barrett Lucas)だった。人混みの奥から此方に向かって声を張り上げている。
「なあ、エズラ知らねえかっ!?」
「居ないんですかっ」
「ああ、目を離した隙にどっか行っちまったんだよ!! なあ、何が起きてるんだよっ!? エスペラントが攻めてきてるって、本当なのかっ!?」
「分からないです、ただ、今は_____」
「星4の研究員は、パニックになっている研究員たちを落ち着かせる係に回れ! それと階段の場所を知っている奴は他の奴らに教えてやってくれ!!」
武装した研究員が廊下の奥から大声で叫んでいる。人混みの流れが変わった。ラシュレイはそれに飲み込まれそうになる。バレットの姿も気づいたら無い。完全に見失ってしまった。
たしかに、皆突然すぎる出来事にかなりパニックになっているようだ。
「ノールズさん......」
彼の姿はやはり何処にも見えないのだった。
*****
カーラは走っていた。ドワイトを探すためにオフィスに向かうが、その階にはもう星5研究員の姿は無かった。階段があるらしい廊下は酷くごった返しているが、皆避難するために階段へと向かっているようだ。
エレベーターは使えないのだろうか。
カーラは階段とは真反対にあるエレベーターへと走る。その時、
「まずい、伏せろ!!」
星5研究員だろうか。銃を持った研究員の怒号が飛んできて、カーラは頭を抱えて床にしゃがみこんだ。次の瞬間、大きな爆発音が響いた。熱風がカーラの頬を撫でる。薄目を開くと、通路の奥が炎の海になっているのが見えた。そして、銃声が絶え間なく聞こえてくる。
早いうちにエレベーターに乗ってしまおう。
そう思ってボタンを押したが、エレベーターは動かない。
「そんな_____」
やはり階段しか、他の階に行く方法は無いのか。
そう思って周りを見回して、カーラは後悔した。
「ひっ......!!」
さっきまで叫んでいた研究員がカーラの足元まで飛んできて、息絶えていた。カーラはそれを見て膝から崩れ落ちた。
「ドワイトさんっ......」
泣き出しそうになりながら、震える指で彼女は何度もエレベーターのボタンを押す。だが、エレベーターは動かない。故障なのか、何処かの階で開いたまま止まっているのか、それは分からない。
「どうしようっ、どうしようっ」
考えなくちゃ。彼が行く場所。
いや、もしかして、彼はもう......。
カーラは足元に転がっている遺体に目を落とす。嫌な考えが頭をよぎる。それと共にあの日の記憶が鮮明に蘇ってきた。
目の前で動かなくなった父と母。ぼんやり座っていた自分の太ももを濡らす、生暖かく、そして鉄の臭いを放つ赤黒い液体。
「っ......!!」
カーラは階段に向かう。こうなったら、まだ安全な廊下を一通り探してみるしかない。
「おい、早く行けよ!!」
「詰まってるんだよ!! 押すんじゃねえよ!!」
階段は列が出来ている。それぞれの階で同じような状況になっているのだろう。此処にもし、さっきのような爆弾が投げ込まれたら......。
カーラはゾッとした。しかし、まだ敵らしき人間が此方に攻めて来る様子は無い。星5研究員が食い止めてくれているのかもしれない。
しかし、どうしてエスペラントなんて攻めてきたのだろう。もしかして、自分が誘拐されたあの日、逃げてきてしまったのが原因なのだろうか。ベルナルドの言うことをきちんと聞いておくべきだったのだろうか。
いいや、彼に着いて行ったところでドワイトは悲しむだろう。
『私は何処にも行かないよ。君を守るという大切な役目があるからね』
彼はたしかにそう言った。エスペラントから帰ってきて、彼の前で泣きじゃくった自分を抱きしめて、そう言ったのだ。とても温かい、陽だまりのような自分の居場所。
彼を死なせたくない。次は自分が助けたい。
彼が居ないと外に出られない。彼が此処で死ぬ気なら、自分だって、此処で。
カーラは研究員たちが上へ上へと向かう中、ひとり下の階を目指した。
*****
キエラはオフィスにて紙袋を見つけた。持ってみるとずっしりと重いが、動けないほどでは無い。彼女がこれを持っていけと言うなら、持っていくしかない。
「忘れ物はないかな......」
キエラは自分のデスクの上などを見るが、パッと見て持っていく必要があるようなものは置いてなかった。続いて彼はイザベルのデスクを見る。
「あ......」
キエラは彼女のデスクの上にある写真立てを見つけた。自分と彼女が写っている。そう言えば、この写真を撮るまでは、知らない男性二人にイザベルが挟まれるようにして撮られた写真が入っていた。
あの二人が、さっき植物園で見たイザベルの兄弟子、そして師匠だったのだ。
キエラは写真立てを掴んで紙袋に入れた。きっと、これは彼女にとって大事なものに違いない。地上に出て合流をしたら、彼女に渡さなければ。
キエラはもう一度オフィスを確認し、いよいよ廊下へ続く扉を開いた。すると、突然熱風が吹き込んできた。
「うわっ!!」
後ろに吹っ飛ばされて、彼はオフィスの床をゴロゴロと転がった。紙袋は彼の手から離れて、中身を床にばら撒きながらオフィスの奥へと滑っていった。
「な、何っ!?」
顔を上げると、メラメラと炎が燃え盛る廊下が見えた。そして、銃声が飛び込んでくる。
「っ!!」
顔を出すことすら怖くて出来ない。キエラは四つん這いで扉に近づき、扉を慎重に閉めた。そして、散らばったファイルたちを震える手で掴み、紙袋に戻す。
「何で、何でっ......」
ポロポロと涙が出てくる。
さっきまで何ともなかったじゃないか。昨日までこうなるだなんて、誰も教えてくれなかったじゃないか。急すぎて、理解が追いついていない。イザベルさんは、一体何処に行ったんだ_____。
キエラは写真立てを拾い上げ、胸に抱いた。
「こっちに居るぞ!!」
「殺せ!!」
廊下では激しい銃撃戦が繰り広げられている。爆発音が何度か聞こえ、悲鳴が重なった。オフィスの扉の下にある僅かな隙間から漏れてくる熱風は、キエラの顔を更に歪ます。
「イザベルさん、何処......?」
彼は写真立てをしっかりと紙袋の奥に押し込む。
キエラは涙を袖で拭った。
弱気になっている場合では無い。約束したのだ。彼女と、外で合流すると。きっと彼女なら。今まで約束を破るところなど見たこともないほどに、自分に厳しい彼女なら、外にちゃんと出てきてくれるはずだ。
「......行かなきゃ」
キエラは袋を胸に抱いて、白衣でなるべく見えないように隠した。そして立ち上がり、扉をおもむろに開いた。真っ赤な世界が目に飛び込んでくる。白衣をしっかりと着て、肌を隠す。耐熱性がある白衣だとしても、この炎の中にずっと居られるわけではない。
キエラは煙を吸わないように白衣の裾で口と鼻を覆い、炎燃え盛る廊下を駆け抜けた。
*****
炎で明るい廊下を走り抜け、第5会議室の前を通り過ぎようとした時だった。必死すぎて見落としそうになったが、ラシュレイは今捜し求めている金髪が見えた瞬間、ぴたりとその足を止めた。
時間が止まった。
彼は第5会議室の二階部分、つまり扉を開いてすぐの床に肩を抑えて倒れていた。床には血溜まりが出来ている。それは全て彼から出てきたものであった。
「......ノールズさん......?」
最初、ラシュレイはそれが自分の先輩であることを信じることが出来なかった。しかし、もう三年も背中を追ってきて、目に焼き付けられてきた彼の姿が、目から脳へと瞬時に情報として伝達されていく。
床に倒れているのは、間違いなく彼だった。
「ノールズさんっ!!」
ラシュレイは部屋に飛び込んで彼を抱き抱えた。ぐったりとしているが、時折苦しそうに顔を歪めている。
彼はきつく閉じた目を何とか開き、自分を抱えている人物が助手であることを確認すると、何処か安心したような笑みを浮かべた。痛みで歪んだ顔に浮かぶ微笑みは、ラシュレイが見たこともないほど苦しげで、痛々しかった。
「ラシュレイ......」
ノールズは自分の腕にチラリと目をやった。ほとんど皮で繋がっているような、繊維で繋がっているような、引っ張ってしまえば取れてしまいそうな具合で彼の体とまだ繋がっている。そこからドクドクと赤黒く流れる液体は、ラシュレイの気をおかしくさせるような濃い臭いを放っている。
「あーあ」
ノールズが笑った。
「派手にやられたなー......」
「何馬鹿なこと言ってるんですか! すぐに応援を......」
ラシュレイが近くの固定電話を目指して立ち上がろうとすると、ノールズは彼の白衣を引っ張ってそれを止めた。それはとてつもない力だった。ラシュレイが思わずバランスを崩して倒れそうになるほどに。
「待って......」
ノールズはラシュレイを引き戻して、彼の服を掴んだまま、痛々しい傷のあるもう一方の腕を持ち上げた。血がボタボタと床に落ちていく。
「やめてください!! いい加減にしないと、死にますよ!!」
ラシュレイはノールズを起こさせまいと床に押し付ける。しかし、ノールズはそれも聞かずにゆっくりと自分の顔に手をやった。
「ラシュレイ」
ノールズが顔を上げて、ラシュレイの顔を見て笑った。
「俺の顔、見てみ」
「......え」
ラシュレイはノールズが自分の顔の湿布を剥して始めているのを見て、目を疑った。湿布の下にはノールズが長年その体に飼っていた超常現象、「寄生痕」が居る。それをノールズは人に移さないように湿布を貼って隠してきたというのに、彼は今、自ら湿布を剥がしたのだ。そして今、それをラシュレイに凝視させている。
「やれるもん、これしかなくてごめんなあ......」
ノールズはラシュレイの顔をさらに引き寄せて、しっかりその超常現象を彼に見せた。「目、離すなよ」と言葉を添えて。ラシュレイは呆然とされるがままだった。彼は、一体何をしようとしているのか理解が出来なかった。
「ごめん、ごめんな。こんな危険なところでさ......ほんとはもっといっぱい言いたいことはあるんだけど、もう......お前の安全を考えたら時間が無いんだ......。だから」
ノールズは微笑んだ。
「いいか、ラシュレイ」
彼の片手は、ラシュレイの頬を優しく、愛おしげに撫でる。
「俺が三年間教えてきたことは、きっとこれからも何かの役に立つって信じてる。少なくとも俺はこの三年間で成長できた......だから、お前も、助手が出来たら......」
ラシュレイは気づいた。彼の呼吸が薄い。
「いっぱい、愛情注いでやれよ。......代償は、でっけーぞ」
ラシュレイは頬に熱いものを感じた。ノールズはそれを見て少しだけ目を開く。
「やった......お揃いの場所に付いたよ、ラシュレイ。お守り、しっかり受け継いでな」
次の瞬間、施設全体が大きく揺れた。ラシュレイは今度こそバランスを崩してノールズから少し離れて床に腰をついた。
「ノールズさん」
ラシュレイは彼に近づこうとするが、
「行け」
ノールズが体を起こした。痛みで体を支えることなど無理に等しいだろうに、彼は上半身を何とか起こして口を開く。
「......行け、ラシュレイ」
「......いやです」
「まだ間に合うから。俺は、お前にだけは、絶対に死んで欲しくない」
「......」
ノールズが微笑んだ。
「また、会おうな」
ラシュレイは走り出した。
鳴り響く警報と銃声を背中に浴びながら。
彼にあるのはノールズの言葉のみだった。頬に手を当てる。感覚がない。彼が持っていたものが自分の頬にたしかにある。彼に生かされた自分は、これを持って何としてでも地上に出なければならない。
「......くそ」
ラシュレイの口から言葉が漏れた。全て引っ括めた感情だった。
「くそっ、くっそ!!」
炎の中で、彼の小さな言葉は簡単に溶けた。
*****
ノールズは実験室の床から立ち上がろうとしたが、大量出血のためか上手く体を動かせない。もはや支える腕も使い物にならならないので、まだ無事な足で体をずるずると前に押し出した。そして、柵の向こうの死体の山を見る。
ゾーイは、上手く逃げただろうか。
「......ほんと、何なんだよ、これ」
彼は柵を使って上手く体を起こした。
「......あ」
彼は一階部分の奥の扉から、あの取り逃した獣の超常現象が姿を表したのを見た。かなりの人間を殺してきたのか、彼の口元にはべっとりと真っ赤な液体が付いている。
「そこに居たかあ」
もう動けない彼も、いつかあの超常現象に食われる未来だ。もしくは、いずれ起爆される爆弾に体を焼かれるか。
「......いいさ、この部屋で一緒に死のう」
ノールズは部屋に積み上がった大量のご馳走に、目を爛々と輝かせるそれを見て微笑んだ。
*****
階段は思っていた以上の混み具合だった。上の方では爆発によるためか、それとも急激な人の増加のためか、建物が歪んでいるらしい。しまいには階段も崩れ、研究員たちは途方に暮れていた。
何とか階段に辿り着いたキエラはそれを聞いて、イザベルが心配で堪らなかった。焦る気持ちを抑えていたが、いつまで経っても進まない列に嫌気がさした周辺の研究員らが、上の方に向かって不満をぶつける声を聞いて、居ても立ってもいられなくなった。
どうにかしてほかの階段は無いのか、と彼は廊下を戻り始める。
「おい、何処行くんだ!」
星4研究員の怒号を聞いたが、キエラは振り返らなかった。
そうだ、エレベーターならどうだろう。
動いていなくても、ワイヤーを伝って外に出られないだろうか_____。
キエラはエレベーターの方向へと急いだ。
炎はさっきよりも確実に勢力を増していた。
*****
チェルシーはキュルスの班と一緒に研究員の殲滅を行っていた。やはり数が多い。それにB.F.研究員は特別な訓練を受けているようで、一筋縄ではいかなかった。ただもちろん、此方も丸腰で突っ込んでいるわけではないのだ。
「いいかい、作戦通り班を二つに分裂する! 三人ずつに別れて、確実に建物を占領するんだ!!」
「はいっ」
キュルスの命令に、兵たちは統率のとれた動きを見せる。
「チェルシーは食堂の方に行ってくれるかい? 君ならこの場所のことはよく知っているだろうから」
キュルスは柔らかい笑みをチェルシーに向ける。チェルシーは頷き、銃を持ち直して炎の中を兵士を追うように駆けて行った。
キュルスはその場に一人残り、その姿が見えなくなるまでその顔に笑みを浮かべていたが、彼女が炎の中に消えたのを見て、小さなため息をついた。
そして、まだ火の手が回っていない廊下へと爪先を変える。
「......兄さんを探さないと」
*****
「ゾーイさん、こっちに女が居ました!!」
「情報持ってそうなら、捕まえて聞き出せ」
カーラは走っていた。後ろからエスペラント兵が近づいてくる音を聞き、彼女は最も近くの部屋に入る。そこは誰も居ないオフィスだ。
カーラは扉を閉めて、息を潜める。
心臓がどんどんと大きく脈打っている。
扉に耳をつけるが、銃の音で敵の足音は掻き消されてしまっている。扉の下の隙間から流れてくる熱い風が、ジリジリとカーラの焦燥感を募らせていく。
まだ外に出ては行けないだろうか。
早く行かないと、手遅れになるかもしれない。
そう思って、ドアノブに手をかけた時だった。
「待って待って」
カーラの手に誰かの手が重なって、カーラは声にならない悲鳴を上げて振り返った。そこに居たのは知らない研究員だった。まず白衣を着ているので味方だと分かりホッとするが、それは研究員から白衣を奪って着ているだけのエスペラント兵である可能性も捨てきれないと気づいて、カーラは慌てて顔を確認した。
確認したところで、数え切れないほど居る職員の顔を把握しているわけがないので分かるはずもないのだが......、とそう思っていたが、彼女はその顔にピンと来た。
あちらも、目を細めていたが、「おおっ」と顔を輝かせる。
「イザベルちゃんと一緒に居た子!」
彼の方が先に言った。
カーラも記憶が蘇った。
シンシアという超常現象がB.F.に現れた時、食堂で会った男性研究員。イザベルと一緒に居たカーラは、イザベルに彼の名前を教えてもらったのだ。
「ルディ・マクベインだよー」
こんな状況下で呑気に自己紹介をしてる場合でもないのだが、彼の声はピクニックに来たかのような穏やかさだった。
「カ、カーラ・コフィです」
「カーラ......カーラ......んー? 何処かで聞いたような」
ルディが首を傾げた、その時だった。カーラが背中にしていた扉が強く蹴られた。ルディがすかさずカーラの腕を引いて、扉から離れさせる。
「おーおー、穏やかじゃないねえ」
ルディは片手に銃器を持っていた。
「カーラちゃん、星は?」
「えっと......3、です」
「ありゃー、もうすぐ作戦決行だってのにー。ダメだよー、こんな場所に居ちゃあ。おじさんが外まで連れてってあげ......るっ!!」
扉が歪むと同時に、ルディは隙間に向かって銃器を差し込んだ。扉の向こうで人が倒れる音がする。
「こんな小さい子の前で人を殺したくもないんだけど......ねえ」
ルディがニンマリ笑って此方を振り返った。カーラは気づいた。ルディの腹部にはべっとりと血がついている。それは彼の血ではないらしい。あれだけの出血をしていれば、あんな笑みを浮かべていられるわけがない。
「あ、あの.....私、人を探していて!」
「え〜、人おー?」
再び、彼は扉の向こうに銃を放った。
「はい、ドワイトさんを探しているんです......」
「......ははー」
ルディが勢いをつけて、扉を蹴破った。そこには、エスペラント兵が五人、重なるようにして倒れていた。カーラの口から「ひっ」と小さな悲鳴が上がる。
「なるほど、ドワイトがとった助手って、この子かあ」
ルディは廊下の先に銃口を構える。そして、空いている手の人差し指をクイッと曲げた。ついてこい、という意味のようだ。カーラは投げ出された体制で座っていたが、立ち上がって彼の後ろについた。
「いいよ、連れて行ってあげても。助手との別れって結構辛いから、ドワイトは嫌がるかもだけど」
ルディが進み始める。カーラは彼の斜め後ろについて行った。チラリと彼の横顔を見上げる。その横顔に浮かぶ笑みは、何処か切ないようにカーラには思えた。
*****
「第1実験室、壊滅」
「第4もだ」
B.F.の心臓とも言えるコンピュータルーム。此処は、かつて職員が立ち入ったことがない、B.F.の心臓と呼ばれる場所であった。
エレベーターのボタンに、伝説の博士でもブライスだけが持つ鍵を指すと押すことの出来るボタンがある。それにより、この階に来ることが出来るのだ。此処は階層にすると4.5階。ほとんどの職員はこの階を知らない。星5ですら。
ブライス、ドワイト、ナッシュはその階に居た。コンピュータルームは、B.F.のデジタルデータを全て網羅する場所だ。壁に設置された無数のモニターには、施設内の監視カメラの映像が映し出されていた。三人はそれを各々で監視し、必要があれば消火活動、防火扉を閉めるなどして、被害を最小限に食い止めようとしていた。全ては星4以下の研究員の脱出経路を確保するために。
「侵食が思った以上に早いな。計画は入念に行っていたということか」
「階段の方はパニックで、まだ移動に時間がかかりそうだね」
「困ったな。まだ連絡が取れる子を向かわせようか」
監視カメラの映像は凄惨なものだった。戦場と化したB.F.は、もう以前の顔を忘れるくらいの変わり様だ。
「一応星4は武器を持つように言わせていたが......そうだな。おい、リディア。まだ生きているな」
ブライスが大きな機械に付いているダイヤルを回し、マイクに口を寄せた。
「生きている職員を積極的に階段に回してくれ。階段の守りが足りない。それと、星4以下は武器を持つように言ってくれるか。護身用として、それを持って地上に上がれ、と」
ブライスがダイヤルを元に戻し、他の場所にも指示を出し始める。中には応答すらしないものもあった。
「ダメだ、火の周りが早すぎるよ。ガスが漏れているのかもしれない。食堂の方はもう手遅れだ。これじゃあ避難が......」
ドワイトが画面を操作してスプリンクラーの作動を試みる。
「当たり前だよ、ドワイト。シェフが出入りする裏口ならまだ可能性はあるかもね。食堂の大扉はもう閉めよう。さっきエスペラント兵が何もしないで戻って行ったから、B.F.職員は居ないと思う」
「分かったよ、ナッシュ」
防火扉を閉じるのは、もう職員が居ないと確実に判断できる場所のみだ。ほとんど意味をなさないが、爆弾が誤爆した際の被害は抑えられるだろう。
全くもって、馬鹿げた作戦だ。
ナッシュはそう思う。
大人の事情で子供を巻き込み、そして部下と心中をするこの勝手さに、ナッシュは散々頭を悩ませた。もちろん、ブライスが最も苦しいことは知っている。彼がよくこの作戦を思いついて、決行しようと思ったことだ。
他に方法はきっとあった。
だが、この方法じゃなきゃダメなのだろう。
彼のわがままに、最後くらい付き合ってやるのが、親友の勤めなのだろう。
やるからには、成功させないとな。
「_____わかった、そうしろ。残りの研究員は引き続き敵の足止めを行ってくれ」
ブライスはダイヤルを戻し、ナッシュとドワイトを振り返った。
「人手が足りないらしい。俺が行くから二人は_____」
「そんなの許さないからね」
ナッシュがそう言って、足元に置いていた銃を手に取った。
「僕が行くよ。ドワイトは?」
「ナッシュだけじゃ足りないならもちろん行くさ」
ドワイトも銃を持ち上げる。ブライスは二人をじっと見ていた。
「君は此処で指示出し。まだ死んじゃダメだよ」
ナッシュが出口に小走りで向かう。ドワイトもそれに続く。
「心配しなくたってきちんと戻ってくるよ。君を一人此処に置いて、起爆させることは有り得ないから」
二人は廊下に繋がる扉へ消えた。ブライスは彼らが居た場所から、モニターへとゆっくり目を戻した。
*****
チェルシーはエレベーターの前を通り掛かって、思わず足を止めた。追っていたエスペラント兵の背中が見えなくなっても、彼女はそこから動くことが出来なかった。
エレベーターの扉が開いていた。そしてその中に、随分と懐かしい顔があった。
「お姉ちゃん......?」
それは、イザベルだった。
*****
ジェイスとベティは地上で、施設から逃げ出してきたB.F.研究員の手当をしていた。緊急用に張ったテントの中にはベティの助手でもある看護師二人が訳も分からないまま怪我人の治療に当たっている。
「ベティさん、重傷者三人入ります!!」
ジェイスがベティの居るテントに駆け込んでくる。
「わかったわ、ジェイス。此処はもう人が入らないし、施設からも離れた方がいいわね。新しくテントを建てて欲しいの。怪我をしていない研究員たちと一緒に、できる?」
「わかりました!」
ジェイスはテントの外に飛び出していく。ベティは患者の止血をしていた腕からそっと手を離し、次に手当をする患者のもとへと向かう。必要なものを看護師に言うと、既に患者の傍らにそれは用意されていた。
外にはまだ数え切れないほどの怪我人が居る。誰もが呆然とした様子で草の上にへたれ混んで、理解できないという様子で建物を見上げている。煙も施設の地面から這い上がって来て、辺りは焦げ臭い香りが充満していた。消防隊もそろそろ来るかもしれない。
だがその前に、此処は危険である。まだ「あの作戦」が実行されていないのだから。ベティは下唇を噛み、次なる患者の医療器具を手元に引き寄せた。
*****
チェルシーは実姉によろよろと近づいた。
「......お姉ちゃん」
彼女の腹には弾丸に貫かれた痕があり、そこから耐えることなく血が湧き出ている。息はまだあるのか、胸が上下してはいるものの、もう虫の息だ。このままでは必ず死ぬだろう。
ざまあみろ、と本来ならそう思うはずだった。
自分から母親と父親を取り上げ、嫉妬に狂わせた自分を作り上げた彼女が、今死のうとしているのだ。今までの自分が望んでいた最高の瞬間だと言うのに、どうしてだろう。
なぜ、こんなにも辛いのだろう。
エレベーターの中に入れない。
まるでケーキの箱を開けた時のように、そのエレベーターという空間が、死に際の姉によって美しく飾り付けられているような。置物が作る、アートのような。その美しさが、感動に値する。綺麗だ。
では、喉奥から込み上げるこの吐き気は何か。
頭の中にある記憶は何か。
夕焼けの中で姉と共に歩いた帰り道。あの後、姉は服を着てくれたのだろうか。天使のようになった自分の姿を、姉は結局両親に見せたのだろうか。
高かったんだからね、あの服。
頭にあるのは、何気ない日常を「姉妹」として過ごしてきた二人の姿だった。かけがえのない存在だったのに、いつしか遠くなってしまったのはどうしてだろう。
彼女の顔がよく見えない。姉がぼんやりと霞んで、揺れて_____私、泣いてるの?
「お姉ちゃん、死なないでよ......」
エレベーターに入ろうと、一歩前に出た瞬間だった。チェルシーは三つの弾丸に体を撃ち抜かれた。ひとつは左腕。ひとつは左足の太もも、もうひとつは下腹部。
「あ......」
立っていられず、チェルシーはその場に倒れた。
エレベーターに乗ることも許されないのか。
姉と同じ場所に居ることすら。
もうあの関係に戻ることすら。
大人になるって嫌だ。
嫌いな感情ばかり覚えてしまう。
嫉妬は何て醜いのだろう。
戻りたいな。戻りたいよ。
「お姉ちゃん......ごめんなさい......ごめんなさい」
チェルシーの意識はそこで途切れた。
*****
「ねえ、ドワイト」
「うん?」
二人は廊下を走っていた。
さっき階段に顔を出したら、血相を変えた研究員達が、ホッとした顔に変わった。中には泣き出す子もいて、ドワイトもナッシュも宥めながら、安全に上まで登るように言った。その間、敵には指一本触れさせない、とも。
さっきよりは順調に、人の波が動くようになったらしい。
「ブライス、僕の言葉を聞いて嬉しそうにしていたよ」
ナッシュの声は弾んでいた。
「僕らは、彼のこういうところが憎めないのかな」
「......そうだね」
「研究員たちが彼についていくのは、此処で過ごした日々が楽しかったからだよね。死と隣り合わせでありながらも、笑える自由も、楽しむ自由も得られていたからだ。だから、彼に最後までついていくと決めたんだ」
「......うん」
「僕も、楽しかった。ブライスが此処の長で、正解だったと思うんだ。本当に」
サイレンが鳴り響く。
廊下の奥で爆発があった。
ナッシュは見てくる、と言ってドワイトとはそこで別れた。
ドワイトは銃を持ち直し、廊下を走った。
_____大丈夫、まだ戦える。いや、戦わなければならないのだ。
*****
キエラはエレベーターにやっとの思いで辿り着いたのだが、煙でもう周りは見えない。さっき爆発音がして、建物が大きく揺れた。爆発場所はかなり近くだったのかもしれない。
彼は腕で煙を払い除けながら廊下を進み、エレベーターの中を不意に見て、持っている資料を全て落とした。
ばさばさ!! と大きな音が鳴るが、その音は鳴り止まない警告音に掻き消されてしまった。しかし、彼の耳には何の音も聞こえなかった。目にはそれにか入らない。足元に倒れるもう一人の女性にも気づかない。
彼の口から呼吸が荒く漏れ出す。
彼は無音の中で、彼女の名前を呼んだ。
「_____イザベルさん」