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Black File  作者: 葱鮪命
122/193

開戦

 ノールズは鼻歌交じりに自販機に向かいながら、ふと、今日はイザベルとキエラの姿をほとんど見かけていないことに気づいた。


 自然と目は探してしまうのか、最低でも一日三回くらいは彼女らの姿を見かけるのが普通なのだが、今日は朝食の時にちらりと見かけたくらいであとは見ていない。

 昼食の時も夕食の時も、あっちも気がつけば、キエラなんかは特に挨拶に来てくれるのだが......今日はそういうことがすっかりなかったのだ。


「ま、忙しいんだろうなあ」


 独り言を呟いて、ノールズは自販機がある休憩スペースまでやって来た。夜だからか人は居なかった。


 イザベルの仕事の熱心さは尊敬できるが、最後くらい、そんなに仕事に熱を入れなくたっていいのに、とそう思いながらノールズは自販機で飲み物を買った。


 炭酸と言ったので、甘いサイダーにした。ただ、ノールズが一本買ってしまうとそのボタンに「売り切れ」の文字が浮かび上がった。


「あちゃ」

 ノールズはサイダーを開けて、その場で口に含む。舌の上でピリピリと弾ける炭酸に仕事で疲れた頭が回復し始める。


「どうしよ」

 他の炭酸となると、まだ種類はあるが、ラシュレイがどれを飲みたいのかノールズは分からなかった。

 そもそもラシュレイは炭酸などジュース類があまり得意ではなく、食堂では好んでコーヒーや水を飲んでいる。甘いものが苦手なのが関係しているらしい。


「うーん、これでいっかあ」


 ノールズが他の炭酸ジュースのボタンを押そうと指を伸ばしたその時だった。


 突然、建物全体が大きく揺れた。


「うおっ!?」

 ノールズはバランスを崩して、後ろにあったテーブルに片手をつく。持っていたジュースが激しく溢れた。


 続いて、けたたましいサイレンが鳴り響いた。


『緊急放送、緊急放送。エスペラント兵の奇襲を確認。星5研究員の皆さんは直ちに持ち場についてください。星4以下の研究員は案内の指示に従い、直ちにその場を離れてください』


 それはノールズの同期、リディア・ベラミー(Lydia Bellamy)の声だった。彼女の声は落ち着いていた。いつもの聞き取りやすさも健在だ。


 ノールズは飲み物を全て飲み終えた。妙に心は落ち着いていた。


 ついに来た。この時が。

 大丈夫。焦らなくていい。


「よーしっ、行くかっ!」


 ノールズはゴミ箱に飲み終えたジュースの容器を入れて、自分の持ち場へと向かった。


 *****


 実験室から出ると、リディアの声で緊急放送が鳴っていた。イザベルはキエラの手を引いて廊下まで出た。


「イザベルさん、これは一体何が起きているんですか......!?」

「エスペラントが攻めてきたのよ。キエラ、さっきの放送は聞こえた?」

「いいえ......」

「星4以下は避難するんですって」

「え!? じゃあ、イザベルさんたちはどうするんですか!」

「そうね、此処に居て色々としなければならないわ」


 イザベルはポケットに手を突っ込んだ。彼女が取り出したのはオフィスにある彼女のデスクの鍵だった。彼女はそれをキエラに手渡した。


「え、え、何です!?」


「オフィスの私のデスクの、一番下の引き出しよ。紙袋が入っているの。大事な資料がまとめて入れてあるから、それを持って外へ逃げなさい」


「ええ!! いや、そんなことはできませんよ! 僕がイザベルさんを置いて外に出ていくとでも思っているんですか!」


「そんなわがまま言っていられないの。キエラ、大丈夫よ。絶対に後で合流しましょう。だから、外で待っていて」


「あうう......」


 キエラは鍵とイザベルの顔を交互に見た。イザベルは彼に優しく微笑んだ。


「あとでね」

「......はい」


 キエラはくるりと向きを変えると、走って行ってしまった。イザベルはそれを少しの間黙って眺めていたが、キエラの背中が見えなくなるとすぐに持ち場へと向かった。


 *****


 ノールズが任されていたのは、この騒動で暴れることが予想されている超常現象の見張りだった。かつて多くの犠牲者を出した獣型の超常現象。B.F.では最も危険とされているものに分類される。


 この騒動で、施設が爆破前に大破することは考えられる。そして、大体の超常現象が大倉庫やセーフティールーム、保管フロアから逃げ出してきているとしたら、それが星4以下の研究員が逃げる時の足を引っ張ってしまうだろう。そうなってしまわないように、何がなんでもこの場所に留めておかねばならない。


「ノールズ!」

 既に何人かの研究員がこの部屋に居た。ノールズと同じ場所の担当を任された研究員だ。


「まずいぞ」

 事態は彼が考える以上に深刻だった。既に有害超常現象保管フロアの扉は破られていた。セーフティーフロアとを繋ぐ橋の上で何人かの監視員が絶命しているのを見る限り、ノールズが任された超常現象は既にそこには居ないようだった。


「取り逃したんだ。セーフティーフロアのどこかにいる」

「じゃあ、セーフティーフロアの扉をロックして、そこで......!」

「やってみよう」


 ノールズはセーフティーフロアに戻った。安全な場所が次々危険な場所に変わっていく。全速力で向かってきたつもりだったのに、これでも遅かったのかとノールズは悔しかった。もしあの超常現象が逃げようとする星4以下の足を引っ張れば、犠牲者は免れない。守るべきものを守れない。


「いたぞ!!」

 先を走っていた星5が、セーフティーフロアの廊下で見つけたようだ。突き当たりの右側の廊下を指さしている。ノールズはすぐさま近くの監視員にセーフティーフロアの扉を全て閉めるよう頼んだ。何としてでも此処で食い止めなければ。


 ノールズは慎重に足を進める。そして、噂には聞いていたその超常現象の姿をその時初めて見た。


 それは黒いライオンの姿をしていた。黒といっても、生えている毛が黒いというわけではなかった。影のような、その体を構成するのは触れることができないような黒い気体だ。その気体がライオンの姿を形作り、目があるべき場所に赤いルビーのような点が二つ。尾は三つに割れ、蛇のようにくねり、口があるべき場所からは赤黒い肉片が見えていた。

 誰かの体の一部と考えると、ノールズはぞっと寒気を覚えた。


「全員構えろ!」


 ノールズも含め、その場にいる研究員が全員、予め装備をしていた銃を構える。


 日曜会議で聞いていた限り、この超常現象は自然治癒の能力が備わっており、ほとんど不死身なのだという。そう聞くと銃を構えること事態が馬鹿馬鹿しく思えるが、治癒には時間がかかる。そうなれば足止めには十分だ。


「一列目が殺られたら二列目、二列目が殺られたら三列目!! 扉は死守だ!! 監視員はセーフティーフロアの超常現象が暴れないよう見張っていてくれ!!」


「了解!」


 ノールズは一列目に居た。これで、いよいよ自分も最後か、と彼は思った。ラシュレイはきちんと逃げられただろうか。もし自分を探していたら、周りの子が全力で彼を地上に引きずり出してくれたらいいのだが......。


「撃てっ!」


 引き金を引いた。反動が強い。ノールズは足を踏ん張った。その場が煙で真っ白になる。焦げ臭い。煙が晴れると、獣は体から血を滴らせていた。その血すら黒い。ノールズらは感覚的に倒したと思っていたが、それは間違いだった。


「おい!! 伏せろ!」


 突然のことにノールズは体が動かなかった。服を後ろから強く引かれ、ノールズはバランスを崩した。何がなんでも銃の反動で吹っ飛ばされるないように足を踏ん張っていたのがいけなかったらしい。彼の体はあっけなく床に倒れ、彼の顔面スレスレをあの超常現象は飛んで行った。黒い血がノールズの顔に降ってくる。


「まずいぞ!!」

 誰かの叫び声が聞こえ、それは一瞬で途絶えた。ノールズは体を起こした。目に入れたのは、獣がノールズの後ろに居た研究員を一掃している様子だった。鋭い牙で肉を抉り、その血で再び体を染める。ノールズらが空けた穴がみるみるうちに塞がっていく。


「あ......」


 ノールズは恐怖で声が出なかった。唯一、自分が今此処に居る研究員で生き残った者だと理解した瞬間、彼は心の底から恐怖した。


「大丈夫か!」

 奥から人の声がする。セーフティーフロアの監視員だ。ノールズは立ち上がって、銃を構えようとしたが、体が言うことを聞かない。


 獣は確実に、廊下に続く扉に向かっていた。その扉を破られれば、もう星4以下の研究員が居る廊下に出てしまう。それだけは。まだ、ラシュレイが居るかもしれないのに。


 ノールズは渾身の力を振り絞って、獣の背中に飛びついた。尾を抑えて、しっかり腰を踏ん張って後ろに倒れる勢いで獣を後ろに引っ張った。


「何してる!! 銃を構えろ!!」

「こいつは肉を食って治癒能力が高まってるんです! もう銃は効かない!」


 ノールズは叫んだ。


 日曜会議で聞いた知識がギリギリ脳に留まっていた。そうだ、ブライスが言っていた。この超常現象の治癒に関する特徴を。食わせれば食わせるほど最強に近づくと。だから、保管されてほとんど、この子は食料を与えていないのだ。


 しかし、今この状況はどうか。何処を見たって肉片があり、食料にいつだってありつけるこの場合、彼は限りなく無敵だ。


 なら、力しかない。力づくで押さえつけるしかない。


 監視員が何か言おうと口を開きかけた時だった。


 ガンッ! と、大きな音がした。ノールズは驚いて音の方向を見る。それは、今最も避けたい状況に繋がるものだった。


 廊下へ繋がる扉が大きく歪んでいる。外側から強い力が加わったのだろう。ノールズたちが居る方向に扉が凹んでいるのだ。


「おいおい、嘘だろ」


 監視員が扉を抑えた。


「エスペラント兵だ!! 全員扉を抑えろ!! アンタはそいつを!」


 そう、扉の向こうに居るのはエスペラント兵だ。彼らしかいないのだ。


 この最悪の状況に、最悪な一石を投じようとする輩は。


「もう此処まで来たのかよ!! 外の星5の守りはどうなってんだ!」


 誰かが叫ぶ。ノールズは暴れようとする獣を押さえつけるのに必死で声が出なかった。凄い力だ。もう少しで足が浮きそうだった。


「もう少し頑張ってくれよ!!」

 監視員がノールズに言う。


 扉がまた大きく凹んだ。扉の歪みによって、小さな隙間ができた。ノールズはハッと気づいた。エスペラント兵の冷たい目が見えた。ノールズはその目を知っている。誘拐事件の時、彼に散々痛めつけられたのだ。


「ゾーイ......」


 それは、ゾーイ・フロスト(Zoe Frost)だった。


「此処を開けろ!!」


 彼の鋭い声が飛び込んでくる。


 再び扉が歪んだ。もう手首までなら入りそうな隙間が空いている。監視員が四人がかりで扉を押さえつける。ノールズは獣を抑えているのでその役には回れない。


「まずい、まずい! このままだと破られるぞ!! くっそ......くっそ!」


 監視員が悔しげに言うのが聞こえる。


 獣も、エスペラント兵も居る状況をどうすればいいのだろう。このまま自分たちはどちらに殺されるかも分からない状況で、死を待つのみなのか。


「......! おい、A、出てきちゃダメだ!」


 監視員の一人が何かに気づいたようで、廊下の先に向かって叫んだ。騒動に気づいてセーフティールームから既に超常現象が出てきているらしい。


 状況が悪くなるばかりだ。


「くっそ!! おい、もう行け、バクストン!! せめてお前だけは全部のセーフティールームの奴らの情報把握してんだろ!! お前だけは死んじゃダメだ!」

「そんなことできません!!」


 ノールズの足が大きく浮いた。


「あ_____」


 それと同時に、扉の隙間から何かを投げ込まれた。


 それは、手榴弾だった。


 しかし、それが爆発する前にノールズは獣の尾に首の横を強く打たれた。彼は壁際まで吹き飛ばされ、壁に強く体を打ち付けると完全に気絶した。


 鋭い音ともに、扉は破られた。


 *****


 イザベルはキエラと別れてすぐ、階段の方が安全かどうかを確かめに行った。


 彼女が任された仕事は、星4以下の研究員の階段までの誘導、そして彼らが無事に階段に辿り着けるルートを確立することだった。


 B.F.は外に出るための緊急用の階段が、大倉庫からずっと上へと伸びている。エレベーターではやはり時間はかかるし、電気がやられれば作動などしない。


 この階段の存在は星4になると教えて貰えるが、職員の誰もが、此処にいるうちでは使うことがないだろうと思っていた。いつもは鍵がかかっていて開かないが、事前に星5の誰かが解錠したらしい。


 階段の混雑具合は、この作戦で最も心配されていることのひとつだった。


 イザベルが走っていると、少しずつそれは見えてきた。


 階段の外まで溢れかえる研究員の背中。押し合っては全く前に進んでいる兆しが見えない人の群衆が、そこには居た。


 やはり階段は混雑していたのだ。


「まだこっちまで敵は来ていないから、焦らずに登れ!! 動けないやつや、体が不自由なやつには手を貸して、全員で生き残れ!」


 上の階で男性研究員の声がした。イザベルもしっかり声を出す。


「安全に上まで登りなさい! 転ばないように、慎重に!」


 チラリと人混みの中を探したが、キエラの姿はなかった。


 あの子は、ちゃんと外に出られただろうか。


 まだ言っていないことはあったが、彼の安全を確保するのが先だと判断した。それでいいのだ。


 イザベルがもう一度声を出そうと息を吸い込んだ時、遠くで爆発音がした。彼女はハッとして後ろを振り返る。エスペラント兵が奥の廊下を横切ったのが見えた。廊下の先の誰かに銃口を向けながら。あっちは保管フロアがある方だ。ノールズの担当だったはず。


 だが、まずい。今の爆発音で階段はパニックだ。誰もが早く逃げたいという一心で前に居る人の背中を押している。このままでは圧死する者まで出てくる。


「階段、大丈夫かい!」


 誰かがそう言って走ってきた。それはバレットの先輩であるデビット・フィンチ(David Finch)、そしてケルシーの先輩であるオリオン・ペスター(Orion Pester)だった。


「デビットさん、オリオンさん」

「イザベル、私が皆を誘導する! オリオンと一緒に廊下に残っている後輩たちを階段に誘導してくれ!」

「わかりました」


 イザベルはすぐに体の向きを変えて走り出す。オリオンも隣を走った。


「キエラは避難できた?」

「姿は見えないんですが......彼はきっと大丈夫です」


 イザベルははっきりと言った。そうでなきゃ困るという思いも込めていた。彼女の言葉にオリオンは「そっか」と頷いた。


「俺は廊下を右回りに行く。イザベルは左回りだ」

「分かりました」


 イザベルは廊下を左に回った。「ロ」の字型の建物なので、避難できていない後輩を見つけるならその方が手っ取り早いはずだ。イザベルは腰から拳銃を取り出し、構えながら走った。エスペラント兵が他の部屋から出てくるのが見えたので、腕と足を撃ち抜いた。せめて殺しはせず、動けない状況を作る。此処に居てどうせ死ぬと分かっていても、人を殺すことに躊躇いを覚えるのだ。


 エスペラント兵が無線機で誰かに連絡を回すのが聞こえた。


 イザベルは構わず走った。角に差し掛かったところで、もう一人エスペラント兵を見つけた。彼は廊下の先に銃口を向けていてイザベルには気づいていない。イザベルは彼も撃った。倒れたことを確認し、彼が銃口を向けていただろう研究員を探す。すると、その角を曲がった先に三人の女性研究員が身を寄せ合うようにして座り込んでいるのが見えた。


「あなたたち! すぐに避難して!」


 イザベルは三人に走り寄った。三人ともガタガタと震えており、特に中央の女性は震えが酷い。


「ジェ、ジェニファーさんが、目の前で......ベロニカさんも、さっき_____」


 ああ、そうか。

 もう亡くなっている星5も出てきているようだ。だが、これは前々から決められていた自分たちの運命で、星5全員がわかっていたこと。


 イザベルは三人の顔を順番に見た。


「今は何が起こっているのか分からないかもしれないわ。それでも、きっと理解できる日が来る。今は生きることだけを考えて。星5全員が身を呈してあなたたちを守るから、みんなはちゃんと逃げるのよ」


 イザベルはそっと手を伸ばして、中央の研究員の髪を優しく撫でた。


「泣いていちゃ逃げられないわ。大丈夫、一緒に頑張りましょう」

「......はい」


 研究員が頷き、ゆっくり立ち上がる。二人もそれを支えると、よろよろと覚束無い足取りながらも、階段の方へと向かって行った。イザベルはその背中を見届ける。


 背中が角を曲がって見えなくなったところで、彼女は小さくため息をついた。


 こうして動けなくなっている研究員が他に居るとしたら、すぐ助けに行かなければ。エレベーターはまだ動くだろうか。階段はどっちにしろ避難する研究員でごった返して使えないだろう。


 イザベルはエレベーターの方に向かおうとして、その足を止めた。


「......キエラ」


 彼は上手く逃げられただろうか。地上で再会しようなどと、できない約束をしてしまった。自分は此処で死ぬのだ。命を散らしてでも彼らを守ると決めたのだから。


 ノールズとリディアはどうなっただろう。まだ生きているだろうか。せめて最後は、声を掛け合って死ぬことができたなら。


「!!」


 その時、イザベルは背中から何か熱いものを感じた。それは体の内側を通り抜け、そのまま腹を突き破る。


 白衣が真っ赤に染まっていく。イザベルは前に進もうとしたが、それは叶わなかった。大きく体が前へと傾き、そのまま床に倒れた。


 ごぽ、と口から血が出てくる。


 撃たれた。


 いや、これは正解だ。だって自分は死ぬために此処に居て、自分は銃を当てるにはちょうどいいほどにぼんやりしていた。


 迂闊だった。後ろから撃たれるなんて。


 もう此処は平和なB.F.じゃない。日常が壊れた、危険な戦場だったのだ。


「......キエラ」


 彼の暖かい手の感触。柔らかい髪質、笑った時のくしゃくしゃの顔。また見たかった。また抱きしめたかった。


「......っ」


 いや、何を弱気になっているんだ。撃たれたからと言って、すぐに死ぬわけじゃない。即死じゃないということは、自分にはきっと仕事があるはずだ。


 避難できていない子に声をかけるとか、閉じている扉の向こうに誰かいないか、とか。


 _____ああ、そうか、そうだった。


 あの子に渡さなければ。あの日の約束を。あの日の思い出を_____。


 イザベルは腹這いになって進んだ。彼女の腹から流れ出す血が、床に赤い線を描いていく。


 朦朧とした意識の中、彼女はエレベーターへと辿り着いた。不思議と痛みは無い。ただ、まだ動けるかと言われると難しかった。


 エレベーターの中には血が広がっていた。誰のものかは分からない。怪我をした誰かが此処に居たのかもしれない。


 イザベルはエレベーターの奥まで進んでいき、背中を壁につけた。


 ボタンを押さないと動かないというのに、今の彼女にはもう、そんなことすら分からないほどに意識がなかった。


 *****


 ノールズは目を覚ました。


 香ばしい香りがして、彼は自分が今置かれている状況を思い出し、ばっと体を起こした。


「......」


 目の前に息絶えた何人もの職員を見て、彼は口元を腕で覆った。胃がひっくり返りそうな吐き気が襲ってくる。


 無理やりこじ開けられた扉は、もう形を無くしていた。遠くで聞こえる銃声が、彼に少しの勇気を与えた。


「ラシュレイ_____」


 どのくらい気絶していたのか分からないが、彼は一刻も早く向かわなければならなかった。


 もうこの場で敵を迎え撃つ必要はいらないのだ。

 獣の超常現象も、もう居ない。


 ノールズは立ち上がり、廊下に出た。


 凄い煙の量だ。何処かで爆発があったのだろうか。廊下もまた、人だらけだった。もちろん生きているものなどそこには居らず、エスペラント兵と星5研究員が折り重なるようにして倒れている。

 知っている顔を見かける度、彼は静かに黙祷をした。


 廊下を走りながら、ノールズはふと嫌な予感を覚えた。


 その廊下は何処の廊下とも同じように人が多く倒れているが、何故だろう、漂う空気が重すぎるのだ。何かがあったのか?


 ノールズは理由を探ろうと辺りを見回し、最も近い扉を潜った。


「......!!」


 入ってから気がついた。そこは第5実験室。いつしかジェイスが、ノールズに親友の墓場として教えてくれた、入室不可の実験室だ。


 そんな此処は構造が少し特殊で、部屋が円形になっている。ノールズが入る扉はその部屋の二階部分に当たり、部屋の両端にある階段から一階のフロアに降りることができるのだ。


 部屋の中央にはジェイスの同期、パーカー・アダムズ(Parker Adams)の墓がある。しかし、今はそれが見えなかった。


 それは、積み重なる死体によって、完全に姿を消していた。


「なんだこれ......」


 墓を覆い尽くす死体は全て白衣をまとっていた。間違いない、B.F.研究員である。


 ノールズは呆然としたまま、目の前の柵に両手をついた。血の匂いが何処よりも強く、頭がクラクラとしてくる。


「......ラシュレイ」


 嘘だ。そんなわけはない。


 一瞬だけ頭を過ぎる考えにノールズは自分が嫌になった。彼一人死なせたら、この作戦は失敗だ。いや、彼だけではない。星4以下がもしあの中に混ざっていたら、この作戦を起こした意味は......?


 彼が居るわけがない。こんな場所で殺されるような助手に育てたつもりなど微塵もない。


「ノールズ・ミラーか」


 それは確かに少年の声ではあった。だが、ラシュレイは自分のことをフルネームでは呼ばないし、こんなに弾んだ声など出さない。


 そして、自分は今の声を少し前に聞いている。


 それは、死体の山の裏から現れた。


「ゾーイ_____」


 エスペラント誘拐事件で、彼は一際幼く思えた。自分がベルナルドに拷問を受ける際、周りの兵士の中で、彼が最も若かった。


「はっ、まだ生きていたのか。なかなかしぶといんだな、お前は」


 ゾーイは腕に銃を抱えていた。黒光りするそれは、彼には大きすぎる。


「なんだよ、これ。これは君がやったの?」


 怒りでおかしくなりそうだった。それでもノールズは彼に対して「君」と言った。ラシュレイの影が、どうしても彼の頭を掠めていく。


「ああ、そうだ。見ての通り、お前の同期か上司だろ? ベルナルドさんにやる情報がこいつらからザクザク出てくるからな。取っ捕まえて拷問して吐き出させてやったんだよ。ちょうど、お前にやった時みたいに。いや、お前の時はまだ生ぬるかったか?」


 彼の声は歪むノールズの顔を楽しむように弾んでいた。


「ひどい......」


 それ以上の言葉はノールズから出てこなかった。


「今更のことか? 俺が優しく『情報をください』なんて言うと思ってんのか? だとしたら面白い妄想だな。人間、死ぬ直前になると面白いほど喋り出すんだよな。命乞いが特に滑稽だったな。死んだ仲間を抱えて逃げ出そうとするところなんか、腹抱えて笑ったぜ」


 ゾーイの顔が歪んだ。それは、腹の底から込み上げる笑いのせいだった。ノールズはそれとは逆で、彼の言葉一つ一つを聞いて全身がわなわなと震えた。


 ノールズは白衣の内側に手を忍ばせる。そこには、護身用として持っていた拳銃がある。


 彼はそれをゾーイに突き付けた。


 狂ってる。エスペラントは、彼は。


 そう言いたいのに、彼の口からは荒い息しか出てこなかった。言葉を紡ごうにも、怒りで上手く出てこない。


「俺を殺すのか? 結局同じことだな。お前も、お前の上司も人を殺してる。互いの会社はもう血まみれだ。どう足掻いたってそれは紛れもない事実だ」


「ブライスさんと一緒にするな! お前がしていることは人道を外れている!! 死ぬ前に聞いてやるよっ、なんでエスペラントなんかに入ったんだ!!」


 ノールズが叫んだ。もう彼を呼ぶことに躊躇いなく、そして彼を殺す気で銃を構えた。


 ゾーイはノールズの問いに目を細めた。


「どうしてか? まあ、いずれ死ぬやつに何を話そうが変わらないしな」


 彼は銃をガチャガチャと言わせている。それは確実にノールズを殺す用意をしているのだった。


「俺の育った村は戦争で壊れた。俺が最初に殺した人間が誰か知っているか? 姉と弟だ」


 ノールズは目を見開いた。


「俺は死ぬか生きるかを選択させられた。取り敢えず生きてみることにした。育てられた環境の中では、こんな拷問、日常茶飯事だ」


 ゾーイはチラリと死体の山に目をやり、続ける。


「人を殺すことにもう何も感じない。命乞いだって、同情の心すら感じない。惨めに思えて笑えるだけだ。無理に楽しむだけだ」


 ノールズは彼を注意深く観察していた。彼の姿が、酷く小さく見えるのだ。それは彼の隣にある死体の山が彼の身長を優に超えているから、だとか距離が遠いから、だとかそんなことではなかった。


 彼は大人の振りをしている大人そのものだった。


 それは、舞台で大人の事情を飲み込ませられて、ほとんど実状も知らず踊らされている子供ダンサーのような、そんな無邪気さを秘めていた。


 そして、ノールズはその感覚を知っている。最も自分に近い存在、黒髪の助手_____それは、まるでラシュレイのようだ。境遇は違えど、彼がまとっているのはラシュレイのまとっているものに似ている。


 子供の頃に、自分の心をねじ曲げられ、型に押し込まれ、感情ですら奪われる子供を、ノールズは確かに知っている。


 それを平気でする大人があることも、よく知っている。


「だから、俺はエスペラントでこうして人を惜しみなく殺せる環境を用意してもらった。金なんか、権力なんかいらない。求めるものがそこにあれば、俺は何もいらない。死ぬことなんか怖くない」


 ゾーイは口から乾いた笑いを吐き出した。


「これは仕事じゃない。俺にとって、息をするように当たり前の行為だ」


 彼に隠された幼さは、ノールズの心を締め付けた。彼は大人になれなかった子供だ。大人になれず、子供にもなりきることのできなかった、大人の振りをした子供。


 ああ、似てる。似てるな、やっぱり。


 ノールズはぐっと腹に力を込めた。


 なら、黙っていられるわけもない。

 彼には、ちゃんと言わなければ。


「なあ、ゾーイ。お前さ_____」


 その時だった。


 大きな爆発音が第5実験室の中に響き渡った。驚いた様子でゾーイが頭を屈め、死体の山は頂上が少しだけ崩れた。


「ゾーイッ」


 思わずノールズは叫んだ。ゾーイが怪訝な顔で此方に目を向ける。


「お前は死にたいと思ってこんなところに居るんじゃないだろうな!!」


 ゾーイは眉を顰めた。

 何故そんなこと聞くんだ、とでも言うようにノールズを見ている。


「お前はそれでいいのかっ!?」


 ノールズは二階部分の手すりに掴まって、体を大きく前のめりにし、聞いた。


「お前の人生、そんな血塗れでいいのかっ!!」


 そんなこと、許したくない。黒髪の助手を三年間育てて分かった。彼らに必要なのは愛情、時間、会話_____。ラシュレイは確かに変わった。最初に比べたら、表情も声も何もかも変わった。育てたから分かる。助手にとったから分かる。


 何処かそんな彼に似ている目の前の少年兵を、ノールズは見捨てられなかった。


「こんな場所で死んじゃダメだよ! まだまだ他のことで一生懸命なれるはずだから、なっ!?」


 ノールズの声に反応したエスペラント兵が一階の入口から指をさしてくる。そんな彼らに銃口を向けられても、ノールズはただゾーイだけを見た。


 彼を死なせたくない。


「だから、逃げろっ」


 ゾーイは呆然とノールズを見上げていた。


 何故、自分のようなエスペラント兵にそんなことを言うのか。あいつは俺の後ろに積み重なっている仲間の死体の山が目に入らないのか?


「何が_____」


 逃げろ、なんて。

 この世界は、俺が子供の頃から逃げ道なんて作ってくれなかったくせに。


「何で_____」


 苦しい。


 ゾーイは頭を抑えた。

 何かが溢れようとしているのだ。

 彼の中で、何かが込み上げてくる。


 気持ち悪い、苦しい。


 ゾーイはぐっと唇を噛んだ。


 何か言ってやりたかった。言われっぱなしが一番嫌だ。


 そう思って顔を上げたのと同時に、


「!!」

 ノールズの体が大きく傾く。


「......ノールズ」


 二階部分の床は此処から見えない。彼は倒れたらしい。ゾーイは背中を振り返った。エスペラント兵が、銃を構えていた。


「どうして撃ったっ!!」


 ゾーイが怒鳴って彼らに銃口を向ける。兵士たちは驚いてゾーイを見る。

 ゾーイも自分の行動に驚いた。今まで部下に銃口を向けたことはなかった。向けても、本気で殺してやろうか、だなんて思ったことなかった。


 彼らの戸惑いは的を得ている。

 そもそもノールズが敵であるのだから、彼を撃つのはエスペラント兵として当たり前なのだ。


 ゾーイは銃を下げた。


 何を血迷っているんだ、自分は。

 他社の職員の説教を聞いているなんて、馬鹿馬鹿しい。


「他の見回りに行け。此処は俺一人で十分だ」


 ゾーイが低い声で告げると、兵士たちは部屋を出て行った。ゾーイは二階部分に目を戻す。エスペラントの兵器は殺傷力がべらぼうに高い。人を殺すためだけに作られたものだからだ。


 ノールズは死んでしまったのか_____。


 なぜ、敵の心配などしているのか。

 彼は敵視すべきB.F.研究員だ。それなら死んで正解だというのに。


「......ノールズ」


 二階部分へ続く階段に向かおうとした時だった。


「ノールズさんっ!!」


 男の声が聞こえてきた。

 ゾーイはハッとして、足を止めた。そして、頭を振って第5実験室を後にした。

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