電話
「そっち持ってー」
「はい!」
郊外に大きなビルが建つようだ。その建設現場では、主に若者が作業着とヘルメットという格好で働いていた。その中に一際髪が伸びた黒髪の男性が居る。彼はその髪を後ろで結ってその先をヘルメットから出していた。
「よーし、これが運び終わったら昼食休憩だな」
先輩の作業員にそう言われて、黒髪の彼は「分かりました」とハキハキ答えた。気づけば太陽が南中して作業場を真上から照らしていた。動きっぱなしなのでそれぞれの額には汗が滲んでいる。
黒髪の作業員_____ジェイス・クレイトン(Jace Clayton)はその汗を手の甲で拭い、パイプを持ちながらその足場に足をかけた。
*****
「おつかれ、ジェイス」
「お疲れ様」
休憩に入ると、作業員らは作業を止めて地上に戻ってきた。配達された弁当を食べながら、その上下関係に関係なく話に花を咲かせる。
ジェイスの周りには二人の作業員が集まっていた。
ジェイスの七つ上である大先輩、ロイス・ベイカー(Royce Baker)、そして三つ下のサムソン・スターレット(Samson Starrett)だ。
「今日は暑いなー」
ロイスはそう言って買ってきたばかりの水を半分ほど飲んだ。
「明日も暑いらしいし、一人くらいは具合悪くなる人出てきそうだよなー」
サムソンがサラダを食べながら言った。
ジェイスももらったサンドイッチを食べる。チキンとトマト、レタスの相性が抜群のボリュームのあるサンドイッチだ。
「サムソンは、今回の現場で最後なんだって?」
ロイスもジェイス同様サンドイッチに手を伸ばす。それを掴みながらジェイスの隣に座っているサムソンに聞いた。
「まあ、行先が決まればな。今はもう少し検討しないとなー、って」
「子供は何ヶ月だっけ」
「五ヶ月。写真見るかー?」
サムソンは二年前に結婚をし、一児の父だ。ロイスにも子供は二人居るが、もう二人とも成人して家を出て行っている。ジェイスだけはこの中で唯一独身で、小さなアパートに一人で住んでいた。
サムソンはほら、と嬉しそうに写真を見せてきた。携帯電話の画面にまだ小さな赤ん坊が映っている。母親の腕に抱かれて、母親の顔を見つめている。小さな手には歯固めなのか、星型の木のおもちゃが握られていた。
「可愛いなあ」
ロイスの頬が緩んでいる。自分の子供が小さかった頃のことを思い出しているのかもしれない。ジェイスも「ほんとだ」と頷く。サムソンは二人の反応に満足したらしく携帯電話をしまって、「だろ?」と笑った。
サムソンはもう少し安全な場所で働くために、そして収入を更に得るために、大きな街に引っ越すという。今はその街にある仕事場を探している最中だ。この現場が終われば彼とは離れ離れになる。
「その頃が一番可愛いんだよなあ。これくらいになるとさ、本当にイタズラしかしねえんだよ」
ロイスは手のひらを下に向けて地面から少し離れた場所に持ってきた。身長を示しているようだ。三、四歳くらいと言いたいらしい。サムソンは「肝に銘じる」と苦笑して頷いた。
「ジェイスは?」
「え?」
サンドイッチを食べ終えたジェイスが水を飲んでいると、ロイスは話を振ってきた。
「好きな子とか、できたか?」
「あー......」
ジェイスが頬を掻く。
この会社で働き始めて二年。自分の前の職場について彼は黙っていた。これだけの歳で肉体労働を選ぶとなると、やはり皆同じことを思うらしい。前の職場を何か色々な理由で辞めているのだろう、と。そう、ジェイスは辞めたのだ。逃げるように、その職場を去ったのだ。一人のまだ幼い助手を残して。
「まあ、頑張って探してはいるんだけどねー」
ジェイスは力なく笑って、そう言った。ロイスが「そうか」と頷く隣でサムソンは「知り合いに良い子いるけど」と携帯電話を再び出す。
「結婚願望とはまだないし......もう少し心の余裕ができてからにしようかな」
言い終わってからしまった、と思った。では今は心の余裕がないのか、という返答ができてしまう返し方をしてしまった。
幸いなことにそこで話は終わったが、ジェイスはいつその話が蒸し返されるか分からないので、もっとマシなこと言えばよかった、とその日は一日後悔した。
*****
仕事から帰り、シャワーを浴びたジェイスはベッドに寝転がった。
B.F.を出てからは小さなアパートで一人で暮らしている。家族は此処から車で何時間もかかる離れた場所に居り、車を持っていないので会いに行くのは稀だ。
実家に戻っても良かったが、心残りなのだろうか。どうしても、こうしてB.F.があるノースロップに留まってしまう。
心に残るのも仕方がない。自分はほとんど何も告げることなく助手を置いてきた。重い鎖のようにそれは自分の心に絡まって、重りとなっている。
その気持ちからどうにか気をそらそうと、こうして肉体労働の道を選んだ。B.F.から出ると体力はとことん落ちていて、最初は重い物を持っただけでふらついて倒れたが、徐々にそれも慣れていった。良い仲間に恵まれてそれなりに仕事もできている。
少し前、ジェイスはB.F.のメンバーと顔を合わせる機会があった。エスペラントという組織にノールズを始めとした五人が誘拐され、その救助を行ったのだ。ジェイスはたまたまそこに居合わせる形となったが、一瞬だけ、いや、あれから彼の心の中には一つの願望が芽を出していた。
_____B.F.に戻りたい。
あの三人の賑やかな同期に囲まれることはなくとも、あの施設で、一番大切な助手とまた実験ができたなら。
あの救出劇を繰り広げた日からその芽はぐんぐんと成長している。死んだ仲間をも置いてきた自分が願うにはおこがましい願いなのは承知の上だ。
あの柔らかい金髪を一日に何度も撫でられる権利を、あの笑顔を一日に何度も見られる権利を、彼は心から望んでいるのであった。
ジェイスは目を閉じる。疲れた体に、このベッドの柔らかさが心地いい。夢の世界が確実に近づいていることを自覚しながら、ジェイスはその夢へと向かっていく。
また明日も頑張らなければ。
そう思いながら、ジェイスは眠りに落ちた。
*****
何処か遠い場所で電話が鳴っている。
ジェイスは薄目を開いてそれを探すが、それが振動しているのは少し離れたベッドサイドのテーブルの上だった。ベッドには真横になるように寝そべっており、上に何もかけていなかったからか体は冷えていた。
テーブルの上で小刻みに振動する携帯電話は徐々にその位置を変えていき、今にも落ちそうになっている。ジェイスはずりずりと体をシーツに擦り付けながら携帯電話に手を伸ばした。画面を見ると、『ベティ・エヴァレット』となっていた。
珍しい、とジェイスは思いながら通話ボタンを押す。
「もしもし」
『ジェイス? ちょっと来てくれるかしら』
「今からですか?」
ジェイスは寝転がりながら、テーブルの上の目覚まし時計に表示された時刻を見る。間違いなく夜の10時だ。こんな時間から外に出ることは本当に稀だ。
「手術の助手までは流石にできませんよ」
『そんな冗談言ってる場合じゃないの』
ジェイスが冗談を言うとピシャリと言われた。どうやら随分お急ぎのようだ。
「分かりました。すぐ行きますね」
ジェイスは不思議に思って眉を顰めつつも起き上がった。
*****
ベティはB.F.を出てから診療所を持つことになった。本当に小さな診療所で、夜は大抵閉まっているが、その日は電気がついていた。裏口から中に入れてもらい、ジェイスは診察室に入った。ベティはそこに居た。
この診療所には彼女の他にもう二人働いている。看護師として、ベティの助手として働いているその二人も、もう既に帰ってしまったようだ。
診察室にはベティが一人だけ、深刻そうな顔をして座っていたのである。
「ブライスから電話があったのよ」
「ブライスさんから?」
ブライスとジェイスが話をしたのはあの誘拐事件が最後だ。数ヶ月と言っても半年が経過するかしないかなので相当久しぶりなのだが、その彼からベティが電話を受けたということは、何か医療関係の話だろうか。しかし、だとしたら自分が呼ばれる意味が分からない。
「とにかく掛け直すから、そこに居て頂戴ね」
「分かりましたけど......俺も必要なんですか?」
「あら、必要じゃなければ呼ばないわよ」
電話を耳に当てながらベティが言った。そして、
「ああ、ブライス。ベティよ。ジェイスもいる」
どうやら出たらしい。
一体自分に何の用だろう。B.F.に戻ってきて欲しいなんて言う電話なら、ノーとは言わない。寧ろそうであって欲しいという淡い期待を抱いてみるが、ならばベティが居るのはおかしい。自分に直接かけてくればいい話なのだ。誘拐事件の時に個人の電話番号はブライスに渡していた。尚更ベティの居る意味が分からなくなる。
「代われってさ」
ベティが電話を投げて寄越すので、ジェイスは手を前に出してそれを受け止める。そして、恐る恐る耳に当てた。
「もしもし」
『ああ、ジェイス。久しぶりだな』
「はい......お元気そうで何よりです......」
言っていて、電話越しで言うセリフでもないな、と考えながらジェイスは早速本題に入る。
「あの、突然どうされたんですか?」
『実はな、エスペラントが動き出した可能性がある』
ジェイスは息をピタリと止めた。彼の言葉を頭で反芻させた。
_____エスペラントが動き出した可能性がある。
それはつまり、
『B.F.に危機が迫っているかもしれん』
ブライスは淡々と説明を始めた。