File006 〜幸せで満たされたブリキのバケツ〜
「うーん、何処からどう見ても普通のバケツですよね」
そう言って首を傾げたのはB.F.星2研究員のキエラ・クレイン(Kiera Crane)。
彼の前に立つのは、金髪のショートボブの白衣を纏った女性。名前はイザベル・ブランカ(Isabelle Blanca)、B.F.星5研究員であり、キエラの先輩だ。
此処は二人のオフィス。今日の実験は危険を伴わないという理由から、オフィスで行われることになった。実験対象は、今イザベルの腕の中にあるブリキのバケツだ。
「そうね、でもこれでも立派な超常現象よ。聞く話によれば急に花で満たされる不思議なバケツ、らしいけれど」
「特別なにも起こりませんね......僕も持ってみていいですか?」
「ええ」
キエラが腕を伸ばしたのでイザベルは彼にバケツを手渡す。かなり大きいバケツなので彼が持つと、何だか彼がひどく小さく見える。
「結構古そうですよねー、このバケツ」
確かに、バケツは随分年季が入っているように見える。
この超常現象が見つかったのは、かなり前に潰れた農家の納屋だった。
近隣の住民に話を聞けば、農夫が亡くなる直前まで大事に使っていたという話だが......。
誰かからプレゼントされたものなのか。それとも、他に何か大事な理由があるのだろうか。
イザベルが考察巡らせていると、バケツを引っくり返して裏側を見たキエラが「あっ」と声を上げた。
「どうかした?」
「裏に何か書いてあります。えーっと、この花を......あなたへ」
キエラが、消えかけているバケツの裏のその文字を読み上げた。
「なるほど。お花をこのバケツに入れてプレゼントされたのかもしれないわね」
「わあ、なんか素敵ですね! そういうの憧れます!」
キエラがそう言ってバケツを元に戻したときだった。
ブワッ!!
「!?」
バケツの中から溢れんばかりの花が現れた。二人の目にはバケツの底から花が湧き上がって来るようにも見えたのだが、突然の出来事にキエラもイザベルも目を丸くする。
「凄い......これ全部お花ですよ!!」
「ええ、そうね。黄色のスミレ......この青いのは、スターチスかしら」
「イザベルさんお花詳しいですね!?」
「ええ、まあね.......。昔、趣味で育てていたことがあったから」
イザベルはそう考えながらふと、あることに気づいた。
花にはそれぞれ、花言葉というものが付いている。例えば薔薇。薔薇の花言葉は「愛」、「美」。赤い薔薇であれば「愛情」、「情熱」などである。
イザベルは頭の中で辞書を引く。黄色のスミレの花言葉。「田園の幸福」。スターチスは「途絶えぬ記憶」。
イザベルはなるほど、と一人頷いた。
このバケツの思い出が、花言葉に合わした花になって現れたようだ。きっと、農夫が大切に使ってくれたことが、このバケツはとても嬉しかったのだろう。
素敵な超常現象だな、とイザベルは山になったバケツの中のスミレを一輪つまみあげる。
「このお花、どうしましょう」
「サンプルにいくつか取っておいたから、あとは大倉庫にしまうわ。中のお花は......どうしましょうね」
流石に燃やすとなるとイザベルも心が痛い。
「折角だし、職員の皆さんに1輪ずつプレゼントしてきます! それが終わったら、そのまま大倉庫にバケツをしまってきますね!」
キエラが顔を輝かせて、イザベルを見上げている。
「そう......別に構わないけれど、迷子にならないでよ?」
「平気ですよー!」
彼は笑顔でそう言うが、彼には前科がありすぎる。何故そんなに自信満々に平気と言えるのかイザベルにはさっぱりだったが、あまり遅くならないように伝えて送り出すことにした。
「いってきまーす」
小さな花屋がオフィスを出ていくのを見届けて、イザベルは早速報告書の作成に移った。
*****
遅い。遅すぎる。
イザベルは完成した報告書から目を上げて、壁にかけてある時計を見る。
もうかれこれ一時間は経過する。花を渡すとなれば一番効率が多いのは、人が多く集まる食堂だ。
食堂ならば、あのバケツの中身を全て配り終えるほどの職員は居るはずなのだが。
まさかオフィス一つ一つを回っているのだろうか?
それか、食堂の場所を忘れてしまったとか。
いや、オフィスの場所を忘れてしまったのか。
大倉庫に向かう途中で迷ったか?
イザベルの頭に様々な考えが交差する。報告書も書き終わってしまったので珍しく、今日は仕事がない。
体を動かしていないと落ち着かないので、イザベルは食堂に夕食を買いに行くことにした。
*****
オフィスで、イザベルが買ってきたサンドイッチを頬張っていると、
「イザベルさーん......」
キエラが戻ってきた。
彼がオフィスを出てから既に二時間が経とうとしている。
しかしイザベルが驚いたのは、
「あなた、それは大倉庫にしまってきなさいと言ったはずよ」
キエラは手にバケツを持っていた。中身は空っぽだったが、花を配り終えたその足で大倉庫に戻してくるという約束だったはずだ。
散々迷った挙げ句、結局倉庫には辿り着かなかったということだろうか。
「えーっと......そう、なんですけど.......」
「大倉庫の場所が分からなかったとか、かしら?」
「いいえ、分かります......8階、ですよね」
「9階よ」
「......」
「......」
「場所は分かりますよ! でも、ちょっと違う理由で持ち帰ってきたんです......」
「そう、何かしら。迷ったは無しよ」
イザベルが腕組をして彼を見下ろす。
すると、キエラがバケツをキュッと抱き締め、イザベルを見上げた。
「えっと」
彼の頬が少しだけ赤く染る。
「僕もイザベルさんにお花をあげたくなったんです。その、いつものお礼に」
キエラがそう言うとバケツをイザベルに差し出してきた。その中身は瞬く間に色とりどりの花で満たされていく。
白いスミレ、赤いアネモネ、紫のライラック......。
イザベルが眉を顰めて首を傾げる。
「全て恋に関する花ばかりじゃない」
「えっ」
キエラの顔が真っ赤になる。
「えー、っと......えっへへ、尊敬の念を込めたつもりだったんですけど......」
イザベルは花を手に取る。
「綺麗ね。そのバケツ、此処に置いておきましょうか」
「え!? でも_____」
「大事に使われていたんでしょう。倉庫にしまうのは何となく可哀想じゃない?」
イザベルの言葉にキエラは確かに、と頷く。
こうしてバケツは倉庫ではなく、インテリアとしてイザベル達のオフィスに飾られることになった。
花で満たされたバケツ。その中身が空になることはなかったという。