File058 〜過去を生きる君へ〜
B.F.最高責任者のブライス・カドガン(Brice Cadogan)が居るオフィスには、かなりの数の内線がかかってくる。
大抵は実験中の研究員からのヘルプで、例えパソコンを打っている時でも、期限が迫っている書類の対応をしている時でも、職員の命を守るためにオフィスを出ていかなければならない。
ブライスが居るオフィスということは、そのオフィスを共有で使っている彼の相棒、ナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)もその電話対応に追われることがあるということだ。
ブライスが居ない時は基本的にナッシュが電話番になる。
最高責任者という肩書きはなくとも、ナッシュはほとんどその地位が変わらないので、仕事量だって彼と同じだ。
*****
ブライスが体調を崩した。これは今まで共に過ごしてきて初めての事だった。理由はそれほど複雑では無い。ベティが居なくなったからだ。
少し前、ブライスがベティと喧嘩をした。ベティはもともと言いたいことをはっきりと言う性格だった。ブライスが無理をしてでも職員らの前に立とうとする姿にすっかり呆れたのか、彼女は施設を出て行った。ブライスはその後彼女を探し回ったが、彼女は何処にも居なかった。
涼しい顔をして仕事をしていた彼だったが、無理をしていることをナッシュは勘づいていた。そしてそれ以上に彼の体が気づいていたらしい。
ブライスは高熱を出し、今は自室で寝込んでいる。今日の朝も仕事をしなければ、とベッドから這い出てこようとしてきたのをナッシュ、そしてドワイトで止めたのだ。
仕事に対する熱は誰よりもあるが、自分の体調より優先するべきことでは無い。
熱が下がるまでベッドから出ないことを約束して、ナッシュは部屋を出てきたのだ。
ブライスが居ないとなると、彼が担当する会議、超常現象の調査はナッシュが代理で行うことになる。
ドワイトも手が空いたときは手伝ってくれるが、ブライスが持っている仕事は本当に多いので二人でもカツカツである。
「早く治ってほしいね」
ナッシュは一人ごちて書き終えた書類をファイルに挟んだ。今日の午後は三つも会議を控えている。終わらせられるものは終わらせておきたい。
次の書類を手に取った時、内線が鳴った。ナッシュはすかさず受話器を取る。
「もしもし」
『あ、ナッシュさんですか!!? エメリー・スミスです!! 超常現象が暴れだしてしまって......急遽応援をお願いしたいんです!!』
緊迫した女性研究員の声だった。ナッシュは近くにあった研究員ファイルを手繰り寄せる。
「わかった。落ち着いて、超常現象の名前と実験室の場所を教えるんだ」
ナッシュはペンを胸ポケットから取り出す。女性研究員の声は震えていた。既に何人かは絶命しているという。
ナッシュはすぐに行くと伝えて、電話を切る。内線の連絡がドワイトに行くように設定をし、彼はオフィスを飛び出した。
*****
「ナッシュ、大丈夫かい?」
ナッシュが夕食をとっていると、声をかけてきたのはドワイトだった。心配そうな顔でナッシュの向かい側の席に腰を下ろす。ナッシュは「何が?」と首を傾げる。
「ぼんやりしているから......今日は忙しかったね。実験中の子が暴れだしたんだって? 会議も三つあったって言ってたね」
「ああ」
ナッシュは頷いて、気づけば止まっていたフォークを動かす。
「別に大したことないさ。ブライスが復帰するまでの辛抱だよ。それよりも内線をドワイトに任せて悪かったね。大丈夫だったかい?」
「うん、二件ほど緊急の連絡があっただけで、あとは何も無かったよ。無理しないで、今後も私のオフィスに繋げていいんだからね」
「そうだね、そうする」
ナッシュはフォークを再び止めた。今日の夕食はスープパスタだ。
「ベティが戻ってきてくれさえすれば、いいんだけどね」
「......そうだね」
ベティの失踪はB.F.に大きな打撃を与えた。大きなところとしては、医務室が忙しくなったことだ。
医務室にいる医者はベティを入れて二人居たが、ベティが居なくなったことでシャーロット・ホワイトリー(Charlotte Whiteley)だけになった。怪我人が毎日出るようなこの会社で医者の数が足りないのは致命的だ。
それにシャーロットは、今後仕事を続けるのが難しくなってきた。引退も考えていた矢先の出来事だったので、もしシャーロットまでB.F.から居なくなればもう誰も治療をできる人は居なくなってしまう。
「きっとベティのことだからケロッとした顔で戻ってくるよ。ブライスを残して居なくなるなんて無いと思う」
ドワイトは優しい声でそう言った。ナッシュは「そうかなあ」とスープパスタのスープに浮いているレタスをフォークで掻き集める。
「あの二人の間にあるものはそんなに単純なものじゃないさ」
ドワイトの微笑みに、ナッシュは何処かほっとした。彼が言うには、本当にそうであると思えてきたのだ。
ベティが戻ってきたら、まず彼女を叱らなければ。かっとした時によく効くハーブティーの淹れ方でも、シャーロットさんに習っておこうかな、とナッシュが小さく言うと、ドワイトは「いいね」と笑った。
*****
夕食の後もナッシュはオフィスにて仕事をしていた。日中に比べて電話がかかってくることは少なくなった。
実験している研究員が昼に比べて圧倒的に少ないからだろうが、これでペーパーワークに集中できる。
ペンを走らせていると、電話が鳴った。今日最後の電話であってくれよ、という思いを抱きながらナッシュは受話器を手にした。
「もしもし」
電話をとるが、向こうから聞こえてくるのは遠い喧騒だった。ごごご、と空気の動く音、そして子供の笑い声のようなものが聞こえてくる。
ナッシュは眉を顰めて、
「もしもし?」
ともう一度言った。すると、
『あ、ナッシュ? リアーナよ』
「............え?」
ナッシュは聞き返す。
それはもう二度と聞くことが出来ないはずの妻の声であった。
リアーナ・フェネリー。旧名リアーナ・レイン(Liana Raine)はナッシュの妻だ。彼女は、交通事故で息子と共に行方不明になったはずだ。あの事件から10年以上経過しているはずなのに、電話の向こうからその声が聞こえるのはおかしい。
イタズラ電話かもしれない。そう思い、切ろうとしても、手は耳に電話を当てて離れようとしなかった。
「リアーナ_____」
『今ね、凄く綺麗な海の上を飛んでいるの。二人で旅行に来たところにそっくりよ』
「......海」
『お土産何がいい? お土産屋さんに行く時間くらいは取ってくれるとは思うんだけれど_____あ、ちょっとチャールズ、ママ今お電話してるから、待ってね』
電話の向こうで小さな子供の泣き声がする。それが我が子の声だと分かった途端、ナッシュの目から涙が溢れた。
『ナッシュ......? どうしたの?』
リアーナが電話の向こうで眉を顰めているのが想像できた。ナッシュは「なんでもないよ」と声が震えないように慎重に言った。
これはきっと超常現象だ。
ナッシュは分かっていた。今まで100以上もの不思議な現象と対面してきて、その異質性に驚かされつつも、そういうものがあると頭に叩き込んできたのだ。
この世の原理を覆すようなものがあったって驚かない。例え既にこの世に居ない妻から電話がかかってきたって、泣くことじゃない。驚くことでもない。
「モデルの仕事だったね。現地に向かう途中か」
ナッシュは当時のことを思い出す。あの日、リアーナは息子のチャールズを連れて、モデルの仕事をしに飛行機で撮影場所に向かっていた。
『そうなのよ。あら? 言ってなかったかしら』
「仕事が忙しくて、忘れかけてたよ。ごめん」
『そうなの、ベティたちは元気? バタバタして出てきちゃったから、ゆっくり話す時間なくて......』
「みんな何とかやってるさ。ブライスは風邪で寝込んじゃったけど」
『ブライスが? そうなの......心配だわ。ブライスは頑張っていたもの』
「うん、僕も本当にそう思うよ」
ナッシュは深呼吸をした。
さて、この電話は何処で切るべきか。一生繋いでいたっていい。
だが、それはきっとできない。どういう仕組みになっているかは分からない。
もし本当にリアーナが生きていた頃の時間と繋がっているのだとしたら、彼女はこの後死んでしまうのだ。
彼女の叫び声なんて、こんな耳元で聞いていられない。
なら、此処で切らなければ。もうこれ以上繋げていたら、何もかも持たない。
現に今、止めどなく目から溢れるものがあるのだ。
「......チャールズと話してもいいかな」
『もちろん、いいわよ。チャールズ、パパがお話したいって言ってるわ。お電話できる?』
電話の向こうでゴソゴソと物音がした。そして、
『パパ!!!』
耳が壊れそうになるほど大きな声でそう叫ばれて、ナッシュは思わず受話器から耳を浮かせる。
『ちょっと、チャールズ』
『パパ、パパー!!』
リアーナの止める間もなく立て続けにそう言うチャールズに、ナッシュは笑みが漏れた。
「チャールズ。ママの言うことを聞いて、良い子で座っているんだよ」
『うんっ』
「......じゃあ、また」
『バイバイ!』
ぶつん、と電話が切れた。チャールズが切ってしまったのか、自然と切れてしまったのかは分からない。
ナッシュは少しの間受話器を持ったまま立ち尽くしていた。受話器を持つ手は汗ばんでいた。知らぬ間に強く握りしめていた。
飛行機は基本的に電話がかけられないので、やはりこれは超常現象と捉えるのが正しいのだろうが、それでも本当に妻と息子の声だったように思えた。
あの日、今日の自分と二人は話をしたのなら、少しは違った気持ちで死ぬ事ができただろうか。
それとも、どうしてさっきまで話していたのに、父親だけ生き残って、自分らは死ななければならないのかと呪っただろうか。
飛行機が落ちる瞬間、いや、まだ落ちたと確定などしていないが、二人はどんなことを思っただろうか。
綺麗な海の上で消えた機体は、今一体何処をさ迷っているのだろう。
ナッシュは受話器をそっと元の位置に戻した。
「......あ」
ナッシュはとあることを言い忘れたことに気づいたが、あまりにも遅すぎたのだった。
*****
自室でブライスは静かに眠っていた。熱を測るとすっかり下がっている。あとは風邪の症状さえ治れば大丈夫だろう。
ナッシュが彼の夕食の用意をしていると、
「......なにか、あったのか」
彼がゆっくりと起き上がって、ベッドサイドに置いてあった薬と水に手を伸ばした。ナッシュは食堂にて作ってもらったチキンスープを用意しながら、
「愛してる、って伝えるのは大事なことだよね」
と、小さく言った。
眉を顰めてその言葉の意味を考えるブライスだったが、ナッシュはそそくさとブライスにチキンスープを手渡すとシャワーを浴びに行ってしまった。
ブライスは渡されたチキンスープをスプーンで掬うと口に運んだ。鶏肉の出汁がよく染み出ている優しい味のスープだ。一口、また一口とブライスは口に運ぶ。
「......愛してるか」
ブライスはナッシュが言った言葉を繰り返した。彼の吐息がスープの油を静かに回転させた。