File057 〜ウィンザー博士の幽体離脱体験記〜 中編
次の日まで、ラモントは園に居た。
この体になって便利になったのは浮遊したり物を浮かしたりできるようになっただけでなく、睡眠も食事もいらなくなったということだった。力を使うと疲労感は残るが、それは少しじっとしていればかなり良くなったとラモントは思った。
朝になって、夜中あれだけ静まり返っていた園も賑やかさを取り戻し始めていた。子供の元気な声が教室に飛び込んできて、ラモントはただ一人の姿を探していた。デニアは教室に二番目にやって来た。しかし、彼女の姿を見てラモントはぎょっとした。彼女の半ズボンから覗く膝小僧に大きな痣ができていた。
打撲か? それにしては大きい。
腕の痣といい、彼女の体にできる傷はどうしてこんなにも大きいのか。
ラモントは浮遊しながら彼女に近づいた。うっかり触れてしまうと憑依してしまうので、ゆっくり慎重に近づこうとして、
「おはよう、デニア!!」
体が重くなって、ラモントは、あっ、と思った。やってしまった。後ろにも目を配るべきだったか、と思ったがもう遅い。デニアが「おはよう、アシュリン!」とにこやかに挨拶をしてくる。
「その膝どうしたの?」
体を間違って乗っ取ったわけだが、これはこれで好都合かもしれない。ラモントは今日一日彼女の体を借りることにした。
ラモントがアシュリンという女児の体を乗っ取ってデニアに問うと、デニアは小さく笑った。そのことについて何も話さなかった。
「あっちで遊ぼうよ。昨日ね、すごく高く積み木を積み上げられたの!」
デニアは逃げるようにおもちゃ箱に走っていった。やはりダメか、とラモントは目を伏せた。
彼女が頑なに家の話をしないとことが、彼女の膝の痣が誰によって負わされたものかというのを明らかにしていた。
デニアは積み木を積み始めた。ラモントはその隣に行く。子供の体というのは本当に小さくて、積み木ひとつでさえ大きく感じ、更にこれが自分の身長よりも高く積まれたら怖いだろうな、と思うほどだった。
「アシュリン、はい! これを積んで!」
デニアは積み木を渡してきた。ラモントはそれを受け取り、今一番上に積まれている積み木の上にそれを置いた。
「昨日ね、私遅くまで園に残っていたんだけど......お化けが一緒に積み木で遊んでくれたの!」
「お化け?」
ラモントはとぼけて問い返す。
「そうよ。優しいお化けだったの。凄く高い積み木のタワーを作ってくれて、先生もびっくりしてたわ!」
「そうなんだ、すごいね」
ラモントは子供になりきって明るく言うが、やはり何処か演技らしいぎこちなさが出てしまう。だが、デニアは疑う様子も見られず、昨日ラモントと遊んだという話を興奮気味に話していた。
*****
園児になりきるというのは案外大変だった。力いっぱい走り回る園児について行ったり、小さな体で図画工作をしたり、歌を歌ったり友達と話したり。
想像しているよりも遥かに体力を使い、この体でいるのも大変だったが、デニアの行動を最も近くで安全に見守れるのはこの体の特権だと言える。
デニアに憑依するのは避けたかった。どうしてかは上手く説明できないが、彼女はそのままで居て欲しいと思うのだ。
午前は遊び、昼食を食べた後は軽い昼寝を挟んで、午後から算数など数字のフラッシュカードをするという。
昼食を食べたが、幼児の弁当というのは小さい。大人ならば手のひらに収まるのではないかと思うほどだが、案外この体のままで食べると満腹になった。
先生が布団を敷いている間、ラモントはアシュリンの体を乗っ取ったまま、デニアの隣に居た。デニアは眠たげに目を擦っている。
「大丈夫?」
ラモントが聞くと、彼女は「うん」と頷いて登園カバンから何かを取り出して持ってきた。それは女の子の姿をした人形だった。
「それは?」
「え? ケルシーだよ」
「ケルシー?」
「アシュリン、いっつも可愛いねって言うでしょ?」
デニアが不思議そうに首を傾げるのでラモントは慌てて首肯する。
「そうだった」
なるほど、どうやらお気に入りの人形を家から持ってきているようだ。可愛らしいところがあるな、とラモントは微笑んだ。
「はい、じゃあ皆お布団に入ってね」
先生が言うのでデニアは目の前の布団に潜り込んだ。『ケルシー』はしっかりその胸に抱かれている。
「はい、アシュリンもお布団に入ってね」
先生に背中を押されてラモントは布団に入る。ふかふかと暖かい。隣でデニアが寝ている。眠かったからか眠りに入るのも早い。
カーテンが閉まった暗い部屋。程よい暗さにラモントも眠くなってきた。
幽霊も睡眠は必要だったか、と新たな発見をした。もう死んでいるから報告書など書けないはずなのに。長い間で体に染み込んだ癖が幽霊になっても抜けない。
ラモントは彼女を横向きのまま眺める。彼女は家でどんな日々を過ごしているのだろう。考えてみれば、デニアは昨日母親が迎えに来た時に嬉しそうに帰って行った。あの反応を考えると家での虐待は薄まってくる気がするが......。
ラモントは落ちようとする瞼に力を込める。
「アシュリン......」
「......!」
デニアの手が布団の中に入ってきて、ラモントの手を握った。ラモントは驚いて一瞬目を見開いたが、きっといつものことなのだろう、と微笑んだ。そして、彼女の頭をそっと引き寄せて微睡みに身を任せた。
*****
「ラモントさん!!」
誰かが自分の名前を呼んでいる。それは彼の助手だった。
「......オリオン」
目を薄く開くと、実験室だ。白衣を着た自分の体。幼児の大きさでは無い。
「俺、何を......?」
「何寝ぼけてるんですか。先に実験室に行ってるなら言ってください。どうして実験室の床で寝ることができるのか俺は理解できません」
オリオン・ペスター(Orion Pester)が大きくため息をつき、手を差し出した。ラモントはぼんやりしたままその手を見つめ、次に彼の顔を交互に見た。
「俺、生きてんのか......?」
「はい? 何言ってるんですか?」
「いや、だって昨日の実験で死んで......って、そうだ_____デニアは?」
「デニア? 誰ですか?」
目の前の助手は本当に知らないらしい。怪訝な顔をして更に手を差し出してくる。
夢だったのか。実験も、死んだことも、幽霊になったことも、デニアに会ったことも_____。
そうか、そうだったか。
ラモントは安心したが、逆に気がかりでもあった。夢だったとしてもデニアの様子を最後まで見てあげたかった。自分はどうしてそこまでしてあの女児に固執するのか。家の事情すらまだ明確では無いのに、どうして_____。
「ラモントさん、ほら」
オリオンがラモントの手を引っ張った。彼の力によって腰が浮かされた瞬間、ラモントは意識が遠のいた。誰かがまた自分を遠くで呼んでいる。
「アシュリン!」
気づくとラモントは横たわっていた。体が重くて、目の前にいる人物に驚く。デニアが自分の手を取って、不安げに此方を見ていた。
「デニア......」
夢だったらしい。やはり、自分は死んだのだ。こっちが夢であって欲しかった、と今更ながら思えたが、その思いはデニアのことを見ているうちにかき消された。
「......死んでも夢は見るもんなんだな」
「え?」
「ううん、何でもない。デニア、おはよう」
「うん! 午後はお勉強!」
デニアがラモントの腕をパッと離した。自分の腕はだらりと下がった。妙に体が重い。長い間憑依するのもかなり体力がいるようだ。
ラモントは体を何とか起こして布団から出た。周りも起き始めている。ラモントは邪魔にならないように教室の隅に寄ろうと歩き出した。が、突然視界が低くなった。
幼児の体になっているのだからただでさえ低いというのに、今はもう床と一緒になりそうなくらいに思うほどだ。
がくん、と膝が折れてラモントは片手を床についた。
「え!? アシュリン!?」
突然座り込んでしまったラモントをデニアは慌てて支えるが、ラモントは自分の力では体を支えられなかった。立ち上がろうとしても体が動かない。
すると、ラモントはアシュリンの体から弾き飛ばされるようにして離脱した。それは自分の意思ではなかった。
憑依にも限界があるらしい。朝からずっと彼女の体に入っていたが、体のだるさを感じればすぐ離れるべきなのだろう。
冷静に分析してラモントはアシュリンを見た。彼女は未だ床に座り込んでいた。ぼんやりと遠くを見つめているのは、憑依した人間に今まで見られてきた現象だが、彼女の場合それだけではなかった。
「先生、アシュリンが!!」
アシュリンが突然後ろに完全に倒れた。デニアが支えようとしたが間に合わず、重い頭が床に落ちてゴン、と大きな音を立てる。ラモントは何も言えなかった。
憑依しすぎたのだ。アシュリンの意識は戻らず、彼女はそのまま病院に運ばれて行った。
*****
園はそれから少し騒がしかった。先生が共に救急車に乗って行き、代わりの先生が来たが、皆はアシュリンの心配をしているようだった。デニアはその間誰とも喋らず人形のケルシーを胸に抱いてじっと下を向いていた。
ラモントは教室の隅の天井からそれを見ていた。申し訳ないことをした、という反省の気持ちが堰を切ったように溢れ出てくると同時に、教室の中で彼女を見るクラスメイトの目が冷たくなっていることを感じていた。
近くに行って会話を聞いていると、アシュリンが変になったのはデニアのせいだという話が出ているらしい。子供によくありそうな、何処から根拠が湧き出たかも分からないでっち上げにラモントは溜息をつきたくなった。
そんな中、フラッシュカードを終えて、次は体を使ったゲームをすることになって、先生が机を端に寄せるのを待っている間に一人の女児がデニアに近づいて行った。いかにも気の強そうな、高いツインテールの女児だ。目には皆の代わりに私が真実を確かめてあげないと、という強い使命感のようなものが燃えていた。
デニアは近づいてきた女児に怯えるようにして一歩後ろに下がった。女児の後ろには真実の答えを待つ野次馬が少し遠目に様子を伺っている。
「ねえ、アシュリンが倒れたのってデニアせいじゃない?」
「違うよ......アシュリンは急に倒れちゃったもん」
「コビーが、アシュリンが倒れたのは、デニアのその人形のせいだって」
女児はちらりとケルシーを見て言う。デニアは首を横に振った。
「違う! ケルシーのせいじゃない!」
「なあ、もうやめとけよシェイラ」
男児が二人の間に割り込んできた。
「こいつの近くにいると、呪われるぞ」
クラスが笑いに包まれた。デニアが人形を抱いたまま泣き出した。男児も問い詰めた女児もそれに焦ることなく、笑っている。先生がようやく気づいて止めさせたが、笑いはなかなか収まらなかった。やめなさい、と先生が何度も言うが、「魔女だ!!」、「呪われるぞ!!」という声が飛んでくる。
ラモントは子供の残酷さに心を掻き乱されているような不快な気分に陥った。力任せにおもちゃ箱の中の積み木を床にぶちまけた。教室は一瞬で静まり返った。誰かが「え......」と声を漏らした。ラモントは更に隣にあった幼児用の椅子を壁になげつけた。プラスチック製の椅子だから椅子にヒビが入った。誰かが悲鳴を上げた。
「何!?」
「怖い、先生っ」
「お化けだっ!!」
笑い声は悲鳴の大合唱に変わる。ラモントは子供の登園カバンを床に投げた。子供は更に怖がり、中には泣き出す子も居た。
「デニア、止めさせろよ!!」
「その人形のせいだろ!」
怒りの矛先がデニアに再び向いた。ラモントは今度はその子供たちに軽いおもちゃを投げつけた。泣き声が増えた。先生が宥め、廊下から他にも先生が飛んでくる。
教室が恐怖に包まれる中、デニアだけはじっと教室の隅に目をやっていた。
*****
デニアは別室で先生と話をすることになった。
ラモントはその様子を部屋の隅で眺めていた。大人げなかったとは自分でも思った。元はと言えば自分が悪いのだから、デニアをこうして悪者に仕立て上げるようなことに拍車をかけなくたってよかった。というか、デニアは元々悪者なんかじゃない。誰かが勝手な嘘を作り上げたのが原因でもある。
俺も遊びすぎたな、とラモントは反省した。
デニアは先生の前で静かに人形の服を整えていた。先生は柔らかい口調でデニアに様々な質問をしているが、デニアは答えるつもりはないらしい。
さっきまでラモント達が居た教室からかなり離れているところにこの部屋はあるが、廊下にはまだ収まらない子供たちの声が響いている。誰かが教室を抜け出してこっそりと扉を覗いてきた。先生に呼ばれて行ってしまったが、やはり子供はこういうところだな、とラモントは呆れていた。
「デニア、アシュリンの件はあなたは悪くないわ」
「......」
「貧血とか寝不足とか、理由は色々考えられるもの。気にしないの。あなたのせいじゃない」
「......」
デニアは口を開かず、首も振らず、人形のスカートをいじっている。
「ケルシーはいつもお家では何処にいるの?」
先生が同じ口調で問う。ケルシーをいじっていたデニアは目をちらりと先生に向けた。
「一緒に寝るのかな?」
「......」
デニアは再び人形に目を落とし、
「このこと、ママとパパに言わないで」
と消え入るような声で言った。
「アシュリンのことも、お人形のことも......私、悪い子になっちゃうのいや......」
デニアが机に伏せて泣き出した。先生が「言わないわ」と彼女の頭を撫でる。
「アシュリン、死んじゃうのかな」
「死なないわよ。大丈夫」
「ママとパパは怒ってお家を出ていくかもしれない」
「大丈夫よ」
ラモントは目を伏せた。幽霊の体でなければ、もっと違う方法で解決できたのに。子供相手にムキになるとは、一番幼稚なのは自分だ。
「少し待っててね」
先生が部屋を出ていった。デニアはしばらく机に伏していた。ラモントは近づいたが、この先どうしたらいいのか分からなかった。
「......そこに居るの?」
突然デニアが体を起こして聞いてきた。ラモントは驚いて周りを見回す。教室には自分とデニアの二人しかいない。彼女は自分に話しかけてきたのだとラモントは分かった。
「あのおもちゃ箱、あなた?」
ラモントがおもちゃ箱をひっくり返した犯人であると分かっているようだ。答えたいがラモントには今は口がない。
「怒ってはいないの。だって、嬉しかったもの」
デニアは笑った。ラモントは驚いていた。てっきり彼女は勝手に暴れられて、自分に責任を負わされて、すっかり怒っているのだと思っていた。
「私の事、ずっと見ているんでしょ? 私分かってるもの。今日はずっと誰かに見られている気がした」
デニアは立ち上がって、ホワイトボードの前に立った。
「お名前を教えて。私、あなたのこと知りたい。お友達になりたい」
ラモントは戸惑っていた。さっきまで泣いていた彼女とは別人のようだった。自分を気遣っているとしたらよく出来た子供だが、無理しているようには見えない。初めて会った時のあのワクワクした表情だ。
ラモントはペンを浮かした。キャップを取って、ホワイトボードに自分の名前を書いた。
「ラモント・ウィンザー......ラモントね、良い名前!」
デニアは笑って、名前の横に自分の名前を書いた。
【デニア・ブレイン】
「私たち、凄く良いお友達じゃない? だって私がピンチになったら助けになってくれるんでしょ!」
さっきからピンチを生んでいるのは寧ろ自分のせいだが、彼女は嫌でも自分を悪者にはしないようだ。本当に優しい子だ、とラモントは彼女の頭に伸ばしかけていた手を急いで引っ込めた。
こんなことしたら憑依してしまう。デニアがアシュリンのようになってしまったらどうしようか。あの子のことも心配だ。
「アシュリンは治るかな。もしかしたら、あれはあなたがやったの?」
ラモントはぎょっとしたが、嘘をついたところで彼女には真実を知る権利がある。あれだけの思いをさせておいて、大人が黙っているのはズルだ。
ラモントはボードに答えを書いた。
「あなたが、乗っ取っていたの? アシュリンの体を?」
デニアが目を大きく見開いて文字を目で追った。
「すごい、じゃあ今日のアシュリンはあなただったの!」
ラモントは肯定を文字で示した。デニアは顔を輝かせてその文字を目で追っている。
「アシュリンが倒れたのは......ソーテーガイかあ。私を守ろうと思って近くに居てくれたのね?」
ラモントは彼女の痣が気になっていたことを話した。膝の痣のことを聞き出すにはアシュリンはちょうど良いと思っていたが、長い間憑依をするとああなってしまうというのは、自分も知らなかったことも。
「うん、うん。そうよね」
デニアは大きく頷きながら文章を頭に入れていた。言葉は砕いて説明したが、どれくらい理解出来ただろうか。
「守ってくれてありがとう。でも、お友達にはもう傷ついて欲しくないから誰の体も乗っ取らないって約束してくれる?」
ラモントは何も言えなかった。こんなしっかりした園児が居るのかと思ってしまうほどにデニアは大人びているのだ。
ラモントが『約束する』と書くとデニアは笑った。その笑顔もまた大人びていた。
*****
デニアはその後、母親の迎えによって帰って行った。母親は身長の低い、痩せ型の女性だった。伸ばした髪は傷み、顔は青白く、化粧がまるで役目を果たしていなかった。
それでも小さなデニアに手を握られ、園を去っていくその後ろ姿は親子と呼べた。一体何がこの心に違和感をもたらしているのか、ラモントは分からなかった。
園はまだデニアの話題で持ち切りだ。先生が話題を変えようと努めても、小さな子供たちの好奇心を掻き立てるのは、自分たちの目の前で起きた不可解な霊障であり、手遊び歌ではなかった。
ラモントはそれをやはり教室の隅で眺めていた。二つ空いた椅子を見て、そう言えばアシュリンはどうなっただろうと、彼は思い出した。この近くの病院だとすれば、昨日自分が行った場所が近いだろう。総合病院でそこそこの大きさだったのできっとアシュリンはそこに運ばれたのだ。
ラモントは園を出て昨日の病院を覗くことにした。
*****
アシュリンは居なかった。いや、盗み見た病院の患者の履歴には彼女の名前は確かにあった。下の名前は知らないのでそれが彼女かは分からないが、緊急搬送されたという文字からしておそらく彼女だ。しかし、彼女は更に大きな病院に運ばれたということだった。履歴の見方が分からず、把握出来たのはそれだけだった。
憑依は長時間できないということが、今日の一日でよく分かったことだった。
まだ小さな女児の体を乗っ取って、デニアに近づく手段をとった自分は、地獄に落ちたって文句は言えない、とラモントは思った。
大きな病院から更に大きな病院に運ばれるということは、アシュリンはかなりの重症であるということである。まだ意識が戻っていないのかもしれない。後遺症になってしまったらどうしようか。デニアの大切な親友を、大人の身勝手でどうにかしてしまうのは、酷いなんて言葉では言い表すことができない。
ラモントは園に戻った。近くにあるこれよりも大きい病院を、ラモントは知らなかった。
*****
園では子供たちが帰り支度をしているところだった。先生がそれぞれの園児に忘れ物がないかなどを確かめ、なければバスに誘導する。親が迎えに来る子も居るようで、最初にラモントがデニアと会った時に、デニアと遊んでいたあの男の子は今日も教室でパズルを解いていた。
「先生、またねー!」
「気をつけて帰ってね」
園児を見送る先生は忙しそうだが、突然女性が駆けてきて彼女に一言二言話をした。先生の顔色が変わった。
「アシュリンが......記憶喪失?」
ラモントは思わず彼女たちに近づいた。まさか、と思って聞き返したかったが、そんな口はないのだ。
「さっき病院から電話があったの。すぐに行ける? 見送りはメアリー先生に任せて」
「わかりました」
ラモントは目眩がしたような気がした。浮遊が定まらないような感覚だ。気絶だけで済む話ではなかった。
自分は本当になんと言うことを_____。
ラモントは病院に向かうという先生の車について行った。
*****
アシュリンが居たのは、さっきの病院とは比にならないほど大きな病院だった。彼女は目を覚ましていた。病室で点滴の海の中、ぼんやりと天井を見上げている。
厳しい顔をした医師の男性が先生に説明をする中、ラモントは彼女を観察していた。虚ろな瞳には何も映っていないように見えた。
デニアがこの姿を見たらどんなに悲しむだろう。今まで通り話すことはできるようになるだろうか。
医師の話を聞いていると、命に別状はないという話だった。病室にはアシュリンの母親が居り、先生に凄い剣幕で説明を申し立てている。ラモントはその様子を眺めながら、アシュリンの上で浮遊した。
憑依は一生しないと誓った。アシュリンと彼女の母親と先生、そして医師に、ラモントは心の底から謝った。
*****
次の日園に来ると、アシュリンは来なかった。デニアが落ち着かない様子でアシュリンの机にチラチラと目を向けている。やがてほかの園児も登園してきて、アシュリンが居ないことを知ると、寄って集ってデニアに質問責めをした。
涙目になるデニアだが、ラモントはどうしようもなかった。
また憑依して同じ目に合わせてしまうのは避けたいし、人を傷つけないという約束をデニアとしてしまったのだ。
悔しかったが見守るしか無かった。実体があれば、体を張って守ってあげたいというのに。
そう言えば、とラモントは彼女の痣を見た。今日は新しい痣が増えていなかった。
その日は一日デニアについてまわる視線があった。何処に行こうが、先生でさえ彼女を警戒しているようだ。
やはりデニアは他の子よりも少し特別で観察眼に優れていた。彼女は誰が自分に対してどう思っているのかを理解しているようだった。
誰も話してくれないからか、彼女はその日ほとんど一人遊びをしていた。先生が授業でペアを組むように言っても、彼女と組みたがろうとする子が見られないのにも、彼女は気づいているようで、先生の場所に最初から行っていた。
ラモントは胸が張り裂ける思いでそれを見ていた。
やがて、帰る時間になった。先生たちが慌ただしく準備をし、デニアはいつも通り部屋で遊んでいた。
彼女の母親は今日も遅いようで、彼女は分かりきっているのか、カバンからケルシーを出して、おもちゃ箱の中から出した積み木で出来た城に遊びに行かせるというひとり遊びをしていた。
ラモントはそれを眺めながら、教室をウロウロしていた。すると、壁にかけてあるカレンダーが目に入った。カラフルなペンで子供たちの名前が日付を空けて書いてある。ページを捲るとまた違う名前が書いてあり、ラモントはこれが誕生日を示しているものだと気づいた。
ラモントは気づいた。三日後、デニアが誕生日を迎えることを。彼女を振り返ると、彼女もまた此方を見ていたのでラモントはギョッとした。憑依はしていないはずなので自分が何処に居るのかは分からないはずだが、と思ったが彼女が自分に気づいたのは、どうやらカレンダーを捲る音が原因だったようだ。
彼女は遊んでいた積み木の城をそのままに、ケルシーは胸に抱いてラモントの近くにぺたぺたと走ってきた。ラモントは慌てて場所を避ける。彼女はカレンダーに書いてある自分の名前を指さして、
「私、今度誕生日なのよ!」
と嬉しそうに報告をした。ラモントは頷いてみせたが、当然彼女に見れるわけもない。
デニアは身近な友達の誕生日を説明しながら、自分が誕生日に欲しいものをピックアップしていった。
ケルシーの新しい洋服、キャラ物のメイクセットや、アクセサリーケースなど。どれも父と母にはお願いしているという。
デニアの目は輝いていた。
ラモントはそれを見て不思議に思う。先生たちの話によればデニアは家に問題があるということだが、彼女のこの横顔からその様子は見られない。
父と母の名前を出す時の抵抗がないのも、良い環境の証なのではないか?
そういえば彼女の家にはまだ行ったことがない。ラモントは、今夜は彼女の家に行くことにした。
*****
デニアの母親はいつもと同じくらいの時間に迎えに来た。うんざりした顔の職員に目を向けることなく、デニアの手を取って歩いていく。ラモントもそれに浮遊しながらついて行った。
二人は白い車に乗った。ラモントもそれに続く。母親が運転、デニアは後部座席に座っている。ラモントも車に乗ってみた。発進しても彼の体が壁をすり抜けることはなかった。意識すればできそうだが、今はそんなことより彼女達の会話が気になる。
「ママ、今日私、ケルシーのお城作ったよ! 王子様がケルシーを舞踏会に誘ってね_____」
デニアは今日の遊びの内容を伝えているようだった。母親は聞いているのかいないのか、真っ直ぐ見ていた。
「それとね、パズルが_____」
「デニア、ちょっと黙っててくれる? ママ今お仕事してるの」
「......うん」
突然彼女の話を遮るようにして母親が言った。デニアはパッと顔を伏せて、元気の無い返事をした。
車内はそれからエンジン音しかしなかった。デニアも母親も家に着くまで一言も言葉を交わさなかった。
10分ほどで家には着いた。一軒家だ。大きな庭に車がもう一台停まっていた。デニアは車を降りて家の中に入って行く。母親もそれに続いた。ラモントも壁をすり抜けた。
家の中は散らかっていた。干されて洗濯竿から外されたであろう服の山が床にいくつもできており、朝に食べたであろう朝食のプレートがカピカピに乾いてダイニングのテーブルに置いてあった。
デニアは服の山から自分の服を取り出して、二階に上がって行った。デニアについていくと、二階は彼女の自室と両親の寝室があるようだ。デニアは自室に入り、ラモントも続く。
ピンク色の壁紙と白い絨毯が敷かれた部屋だ。おもちゃ箱と学習机、ベッド、本棚が置いてあり、デニアは本棚の側面についているフックに登園カバンをかけて、持ってきた服をクローゼットにしまった。届かないので椅子を使っていたが、危なっかしいので、何も出来ないがラモントは彼女の下で受け止める準備をしていた。特に問題もなく降りてきた彼女は勉強机に向かい、椅子に座ると背中を丸めて何かを熱心に書き始めた。見てみると、色鉛筆で文字を書いているようだ。
『☆しあわせな誕生日の予定!☆
朝にママとパパにおめでとうのキス、誕生日プレゼントをもらう。プレゼントは三種類。一つ目の小さな箱がケルシーのお洋服。赤いワンピースや青いドレス。二つ目はメイクセット。ピンク色のケースにたくさんのコスメが入っていて、ママに教えて貰いながらお化粧をする。三つ目はアクセサリーケース。ネックレスやリングが入っているから、それをつけて三人でランチを食べに行く。ブランチでもいいけれど、食べるならパスタがいい。公園で遊んで、帰ってきたらおばあちゃんやおじいちゃんを呼んで皆でお祝い。いっぱい遊んで、パパとママにおやすみのキスをしたら、ベッドに入ってしあわせな気持ちで夢の世界に行く!』
周りにケーキや似顔絵、ハートや星などを描いてデコレーションし、デニアはそれを持ってニコニコと笑った。
「できたー」
彼女は少し遠目からそれを眺めて、
「リビングに貼ろうっと」
と、椅子を降りた。
階段を降りる彼女は大事そうに誕生日のスケジュールを書いた紙を手に、そっと耳をそばだてた。すると、キッチンから金切り声が聞こえてきた。それは母親のものだった。ラモントは不快なその音が彼女に悪い影響を与えないといいのだが、とデニアを見た。デニアの足は止まっていた。
「......」
母親は携帯で誰かと会話をしているらしい。話の内容はデニアにとって最悪なものだった。
「毎日、毎日、嫌になるわ。あんな子のために仕事帰り車を走らせて幼稚園に行くなんて。バスに乗らせるなって言ったのはアンタの親じゃない。私は反対したでしょ? いっそのこと置いて行こうと思ったけど。明日はアンタが行きなさいよ! 私は一人になりたいの! だから言ったのに、堕ろそうって!! 産みたくないって!! 時間の無駄になるだけだって!!」
デニアの手からハラリと紙が落ちた。それはあと三段残っていた階段を超えて一階の床に落ちる。賑やかだった絵が裏面になって、真っ白な紙の面が床と一体となった。
「仕事ばっかり、母親と子供がどうでもいいんでしょ? いいわよ、そのうち死んでやる。デニアと心中して、アンタは好き勝手生きて新しい女と子供でも作ればいいんじゃない? またどうせ逃げられるんでしょうけど。前の奥さんみたいにね」
デニアは紙を素早く拾い上げると階段をかけ登り、部屋の扉を閉めた。鍵をかけて、その場に踞ると声を押し殺して泣き出した。スケジュールを書いた用紙がクシャクシャになっていくが、彼女は気にもせず、ただただ泣いていた。ラモントは彼女の傍でじっとそれを見ていた。
小さい子には初めて聞く事実も多かったのかもしれない。デニアの父は再婚しており、そして母親はデニアを産む気がなかったということ。心中という言葉をデニアが理解できたかは分からないが、死ぬということは理解出来たはずだ。
決して自分に対して向けられた言葉ではないにしても、伸し掛る事実と重みが彼女の心を潰している。
だが、ラモントにはどうすることができようか。何をしたって彼女には触れられない。近づけば憑依をし、彼女をアシュリンのようにしてしまう。彼女がもしそうなれば母親は喜ぶかもしれない。父親の心情は不明だが、もちろんそんなことはラモントが許せないのだ。
「......ラモント」
デニアが突然声に出した。
「私、ママとパパが仲良くなって欲しい。前はね、すっごく優しくてラブラブで、三人で遊んだもん。でも、最近ずっとああいう風に喧嘩ばかりで......私、普通のお家に行きたいよ。優しいママとパパが欲しいよ」
デニアが更に泣き出した。ラモントは机に置いてある色鉛筆と紙を手にして、
『もう二度と戻ってこられないかもしれないよ』
と書いた。彼の頭にひとつのプロセスが導き出されていた。デニアは目を丸くしていた。目の前にラモントが居るとは思っていなかったのか、それとも文字を見て内容に驚いているのか。
デニアは小さく頷いた。
「いいよ。私、もうママとパパのところに戻れなくてもいいよ。こんな気持ち、もうたくさんだもん」
デニアが泣きながら笑った。ラモントは鉛筆を置いた。
「ラモント、連れて行ってくれるんでしょ? ママとパパのいないところ。新しいママとパパのところ」
デニアがラモントに手を伸ばした。ラモントもまた、彼女に手を伸ばす。手などないが。
二人は静かに一つになった。
*****
方角は小さな体では判断しきれず、ラモントはそれらしい、記憶にある道をただただ走り抜けた。
足にある痣が痛む。心臓が早く鼓動を打つ。何にしても、子供の体は不便だ。でも、それでも、この子を安全な場所に連れて行けるなら。
ラモントは街を走った。目指す場所はただひとつ。何年も自分が過ごしてきたもうひとつの家だ。頼れる仲間がたくさん働いている、不可思議なあの会社へ。