カーラ・コフィは頑張りたい
「なるほど、この方法でもダメだったんだね」
最も狭い、少人数でミーティングを行う事が出来る第一会議室。その部屋の中央にある机には、大きな紙とそれを埋め尽くす大量の書類が置いてある。
そしてその机を囲む、三人の博士達。
メガネをかけ、ダークブラウンの髪を持つ優しい顔立ちの男性ドワイト・ジェナー(Dwight Jenner)、白銀の長髪を後ろでひとつに結んだ男性ナッシュ・フェネリー(Nash Fennelly)。そして、目付きが鋭く、難しい顔で机の上に目を落とす黒髪の男ブライス・カドガン(Brice Cadogan)。
「伝説の博士」と呼ばれる、B.F.設立メンバーである。当時は大学生だったこともあり、かなり若かったが、今ではすっかりおじさんだ。
机上の資料のひとつを手に取って、ドワイトはペラペラと捲っている。
「今のところ全部ダメだよ。粘ったんだけどなあ」
ナッシュがドワイトに苦笑する。
「また作戦の練り直しだな」
低い声が部屋に響いた。ブライスが口を開いたのだ。
「火も水も効かない。音にも怯むこと無かった」
彼は眉間に皺を寄せて資料を漁る。
「犠牲になったのは......これで10人目、か」
ナッシュが呟いて顔を曇らせた。
「こんな言い方は良くないけれど......まるでイケニエを差し出しているように感じてしまうよ」
「......あいつらの犠牲は絶対に無駄にはしない」
ナッシュの言葉にブライスが小さくそう言った。
Mr.スクエア。少し前にB.F.で保護した超常現象だ。人知を超える能力を用いてこれまで10人の研究員の命を奪い取ってきた。
殺し方はどれも惨いものだ。惨殺、残虐。どの殺し方も顔を背けたくなるほどに凄惨だった。
今のところ、彼を管理しているのはブライスとナッシュだ。彼らは間近でMr.スクエアが研究員達を殺すのを見てきた。ガラスの向こうで助けを求める声が、今も二人の耳奥に鮮明に残っている。
Mr.スクエアは、どうも人を殺すことをゲームのように楽しんでいるようだ。毎度殺し方が異なる。悔しいが、それも実験という名でちゃんと記録として残してある。
ドワイトはそんな話を聞きながら悲しくなる。犠牲になった職員たちのためにも、早くMr.スクエアについて調査を進め、彼らの犠牲が無駄でなかったことを証明してあげたい。
Mr.スクエアの管理人はブライスとナッシュの名前になっているがドワイトも時々、二人に助言するためにミーティングに参加していた。
正直ドワイトは驚いていた。優秀な研究員二人がこれだけ知恵を出し合っているというのに、物事は悪くなるばかりなのだ。それだけ今回の対象が強すぎるということだが、まさかここまでとは。
ドワイトも二人と共に実験を行いたいが、彼は最近新しい助手を取ったこともあって、死ぬことは許されない。危険な実験からは遠ざけられている状態だ。
「......まあ、とにかく早めに対処法を考えなくてはならないな。これ以上犠牲者を増やすわけにはいかん」
資料を掻き集め、ブライスはファイルにしまった。
「何かいい方法があればいいんだけれど......」
ドワイトが眉を顰める。
「僕も考えてみるよ。正直、この疲れきった脳にもう何か新しいアイディアを生み出す力は残っているような気がしないんだけれどね」
ナッシュが肩を竦める。
しっかり休めていないのか、疲れた表情をしている。仲間を殺されて精神的にもかなり追い込まれているのだろう。
ブライスも何処か疲労感が漂っている。
その様子を見て、ドワイトは胸が痛んだ。
「二人とも......倒れる前にしっかり休んでおくれよ。君達が倒れたら誰がB.F.を引っ張っていくって言うんだい」
ドワイトの言葉にナッシュが首を傾げる。
「そりゃあ......」
「お前だろう」
ブライスが言うとドワイトが肩を竦める。
「生憎、私には君たちのように人を纏める力がないんだ。今は小さな助手さんで精一杯さ」
ドワイトの言葉に「ああ、あの子か」とナッシュが微笑んだ。
「どうやら君について回ってるそうだね? あれからどうなったんだい?」
「仕事を覚えるのに必死みたいだ。とっても可愛くてね。ただ、頑張り屋のマイナス面というのかな、頑張りすぎて休みたがらないんだよ。注意はしているけれど、聞く耳を持たないんだ」
「はは、ドワイトと早く一緒に実験がしたいんだろうね」
ナッシュが笑った。
「お前は信頼されているからな」
「そうそう、僕らみたいな研究員とは違ってね」
ブライスの言葉にナッシュも頷く。
「何を言っているんだい? 君達は素晴らしい研究員だよ」
ドワイトが眉を顰める。
三人は大学時代からずっと一緒に時を過ごしてきたが、ドワイトは二人をいつも尊敬してきた。
二人とも自分にはない力を持っている。自分には決して出来ないだろうことも、二人はこれまで平然とやって退けてきた。
自分が最も尊敬している彼らに、ドワイトはそんなセリフを吐いて欲しくなかった。
「私は君達を一番尊敬しているんだ。もっと胸を張ってくれなきゃ」
ドワイトの言葉に、ブライスが口元を緩めた。
「相変わらずだな、お前は」
彼が久々に見せる優しい顔にドワイトも嬉しくなる。
「ふふ、そうかい?」
やがて三人は会議室を出た。
「それじゃあ、また」
「ああ」
「小さい助手さんに宜しくね」
ドワイトはナッシュ、ブライスとは反対方向に歩く。彼らはまたこれから違う会議があるようだ。本当に忙しい。
自分も少し前までは2人と共に行動していたが。少しだけ寂しい。
ドワイトは一人苦笑し、食堂へと向かった。
*****
「お疲れ様です、ドワイトさん」
「こんばんわ、ドワイトさんー」
食堂で砂糖菓子を買っていると、多くの職員がドワイトに声をかけてくる。ドワイトが小さく手を振ると、女性職員は楽しそうにきゃあきゃあと手を振り返す。
ドワイトの最近の日課は、砂糖菓子を食堂で購入することだった。
自分が食べるわけでは無い。自分の助手へのプレゼントだ。
オフィスに戻りながら、今日の残りの仕事を頭の中で数える。
B.F.の頂点ともなると仕事の多さは尋常じゃない。だが、ドワイトはそんな忙しさが嫌いではない。
「カーラ、ただいま_____おや」
オフィスに戻ったドワイトが目を丸くする。彼の視界に映ったのは一人の少女だった。
オフィスの奥の机に、腕に顔を埋めて小さく寝息を立てる背中があった。肩にかかるか、かからないか程に切りそろえられた黒髪に、赤い大きなリボンをつけている。
腕の隙間から覗くまだ幼さが残る寝顔に、ドワイトは口元を綻ばせた。
そして、仮眠用ベッドから毛布を持ってきて彼女の背中にかけてあげる。
「さてと......」
ドワイトは自分のデスクに向かう。買ってきた砂糖菓子をデスクの中にしまい、報告書に判子を押す作業を始めた。
静かな部屋に、背後の少女のすうすうという寝息が小さく響く。
カーラ・コフィ(Carla Coffey)。ドワイトの助手だ。彼女がやってきてまだ二ヶ月程。
ドワイトは、助手などもう一生取らないものだと思っていた。二ヶ月前までは。
人生何が起きるか分からないな、と、ドワイトは小さく笑った。
*****
白衣を来た大勢の研究員でざわつくこの大きな会議室に、カーラは一人、ポツンと椅子に縮こまるようにして座っていた。ぶかぶかの新しい白衣の胸ポケットには名前と顔写真、その他諸々の情報が載ったネームプレートがついている。
緊張して震える拳を膝に押し付けて、彼女は見る場所に困って床に視線を落とした。
自分がどうしてこんな場所にいるのか。
それは、B.F.の入社試験に受かったからだ。
自問自答する彼女は、椅子に座り直したり白衣の裾を気にしたりと落ち着かない様子だ。というのも、周りには知らない大人ばかり。自分に近い歳の人などほとんど居ない。ましてや歳下など聞いたことも無い。
今回入社した研究員は、自分を含めて30人弱。
カーラの周りは皆彼女より四、五歳年上だ。自分が最年少であることが浮いているようにしか思えず、カーラは早く研修会が終わって欲しいと心の底から思っていた。
さっきからチラチラと周りの視線が自分に向けられるのは気のせいではないだろう。
同じ歳の子が一人でもいれば心強いのだが、もともと人と話すことが得意ではない彼女にとって、そんな望みは最初から諦めるべきだったようだ。
カーラの不安はほぼ頂点に達しようとしていた。
自分は此処で馴染んで暮らしていけるのか。幼いからと周りから馬鹿にされるのではないか。
カーラはブンブンと頭を横に振る。彼女の頭についている大きなリボンがフリフリと揺れた。
自分に言い聞かせる。
弱気になっちゃダメ、ちゃんとしないと。
もう、誰かに頼って生きることは出来ないんだから、と。
カーラが思い切って顔を上げると、会場のスクリーンの前に女性の職員がマイクを持って歩いていくのが見えた。皆それを見て自分の席へと戻っていく。
「B.F.入社説明会を始めます。皆さん着席してください」
女性は綺麗な声でそう告げた。
*****
説明は一時間半で終わった。座ってひたすら資料の内容を聞いているだけだが、カーラの頭はパンク寸前だった。
国家機密だということを耳にたこができる程に言われ、此処でのルールについて淡々と説明を受けるのである。
驚いたことに、これでまだ前半戦らしい。
こんな長い説明をまたされるのかと身構えたが、後半は班ごとにB.F.の施設を歩きながら説明される「施設内研修」というもののようだった。
やっと体を動かせる。と、カーラはホッとした。
だが、班ごとと言われると少し不安が残る。班の人と上手く話せるだろうか。
説明会の前半と後半の間には、昼休憩を挟むようだ。
会議室をぞろぞろと出ていく研究員達にカーラも混ざる。
食堂の場所などわからない。B.F.の施設が広すぎて、一目地図を見ても完全には頭に入りきらなかった。
不安は広がるばかり。
美味しいものでも食べたら気持ちも落ち着くだろう、そう思って彼女は人の流れに身を任せることにした。
*****
食堂に着くと、美味しそうな匂いと同時に、再び彼女に不安がやって来た。
どこもかしこも人だらけ。全員が白衣を着ているのは当たり前だが、年齢はバラバラだ。だがしかし、自分と同じ年齢の子は見つかりそうもなかった。
カーラは取り敢えずパンとシチューのプレートを購入した。職員はカードで払うことになっているのだが、直接お金を払わないことに少しだけ罪悪感を覚えてしまう。
だが、美味しそうにホカホカと湯気を立てるシチューは、緊張して疲れた脳を癒してくれるようだった。
トレーを持ったカーラは、ふと思った。
どこに座ろう。
昼時の食堂など最も混む時間帯である。一席も空いていない。空いたとしても、それは次の人が待っている状態なので、星1の自分は座ることすら許されないのではないか。
隣から会話が聞こえてくる。
「やっぱ混んでるな」
「オフィスで食う?」
「そうしよっか」
オフィス_____。
自分にはまだオフィスがない。従って此処でしか食べられない。
カーラは仕方なく人の邪魔にならないよう、食堂の隅で立って待つことにした。隅に立つと、食堂全体が見渡せる。そして職員の多さに圧倒される。
こんなに多くの人がいるというのに、自分が知っている人も、自分を知っている人も、誰もいない。
それどころか、まだ誰かときちんと会話をしたこともない。
カーラは酷い孤独感に襲われた。
自分は、どうして此処に居るのだろう。B.F.に入社したから。
しかし、本当はもっと前に理由がある。
そう、両親が死んだから。
両親が死んで、ある日突然、一人になったから。
一人で生きていかなければならなくなったからだ。
*****
カーラの両親は、家に押し入ってきた強盗によって殺された。
カーラはそれを目の前で目撃した。あまりに一瞬の出来事で自分は何が起こったのかよく分かっていなかったのだが、気づけば父と母、血を流して床に倒れていた。
強盗はカーラを襲うことは無かった。両親が死んだ幼い子供など一人で生きることも出来ず、やがて死んでしまうとでも思っていたのだろう。
氷のような冷たい目で自分を見下ろした後、静かに部屋を出ていった。
カーラは震える手で受話器を取った。誰に電話をし、どんな会話をしたのかまで記憶にはない。もう思い出したくもないし、二度と経験したくない出来事だ。
*****
カーラは自分の視界が揺れていることに気づいて、慌てて頭を振った。
クヨクヨしているわけにはいかない。これからは一人で生きていかなければならないのだ。
カーラは食堂を再度見回す。席はやはり空かない。
もう、座って食べてもいいんじゃないか、と思うようになってきた。自分の存在など周りに見えてすらいないのかもしれない。
足も疲れてきて、早く全てを投げ出して座りたい。
そう思っていた時だった。
「大丈夫かい?」
優しい声が頭上から降って来た。カーラは驚いて振り返る。自分の後ろに誰かが立っている。
メガネをかけた白衣の男性だ。白髪混じりのダークブラウンの髪に、皺が刻まれた大きな手。歳は周りの研究員に比べてかなり上のようだ。
そんな彼からは、誰よりも優しい雰囲気が滲み出ているようにカーラには感じられた。
男性は、手にスパゲッティが乗ったトレーを持っている。
「あ、えっと......」
カーラはそこでようやく声を出した。
思えば、今日は全く話していない。久々に出した自分の声は掠れていた。
「相席になるけれど、空いている席を知っているんだ。よかったら、一緒に座ろうか?」
男性の言葉にカーラは目を丸くした。
空いている席などあっただろうか。目を凝らしてもそれらしい席は見当たらない。
「い、いいんですか......?」
カーラが尋ねると男性はああ、と笑って頷いた。そして、歩き出す。その大きな背中にカーラは着いていく。時々視線を感じるので、縮こまるようにして早足で彼を追った。
星1の自分なんかが席に座るだなんて、生意気すぎただろうか。
やがて男性は食堂の最も奥、入口から最も遠い席で足を止めた。四人がけの席だ。
確かに空いているかどうか、パッと見分からないほどに食堂の奥に位置している。
既に二人の研究員が席に着いている状態で、どちらも今カーラを此処まで連れてきた男性と同じくらいの歳に見えた。
「おや、今日は四人かな」
銀色の髪をひとつに結んだ男性がカーラに微笑む。
綺麗な人だな、と思った。触れれば消えてしまいそうな儚い雰囲気を纏った人、という印象をカーラは抱く。
「彼女が座れそうな場所が無かったからね。それに、此処はいつも空いているだろう?」
カーラを此処まで連れてきたメガネの男性職員が笑うので、銀髪の男性は「まあねえー」と隣に座るもう一人の男性に目を向ける。
「怖い怖いおじさん達が居るから、かな?」
くすくすと可笑しそうに銀髪の男性が笑う。
彼の隣に座る男性は、さっきから手に持っている資料に目を落としているので顔は見えない。会話には一切入ろうとしていないようだ。
しかし、カーラはその男性を見てぴんと来るものがあった。
「あ......」
この人は_____。
説明会で、彼からの一言があったのを思い出す。此処の最高責任者_____名前は確か、ブライス・カドガン(Brice Cadogan)、だっただろうか。
「あ、あの、やっぱり私......邪魔になると思うので......」
失礼しました、と頭を下げて席を離れようとすると、
「ああ、大丈夫、大丈夫」
銀髪の男性が慌ててカーラを呼び止める。
「そんな畏まらなくたっていいんだよ。見た目ほど悪い人じゃないからね」
「見た目ほどとはどういう意味だ」
そこでようやくブライスが口を開く。説明会の時もちらりと感じたが、凄い迫力だ。
「まあまあ、取り敢えず食べてしまおう。ほら、君も座って」
メガネの男性が席に着いて隣の椅子を引いてくれる。カーラは恐る恐る席に着き、食事を始めた。
あれだけ美味しそうな匂いをさせていたシチューが緊張の為か、全く味がしない。
カーラはただ食べ終わることだけを考えて、懸命に口を動かした。
「それで、あの実験結果から推測するに_____」
カーラ以外、三人の研究員は実験中の超常現象について議論しているようだった。
相変わらずブライスは口数が少ないが、メガネの研究員と銀髪の研究員はよく話す人たちだった。
話の内容はカーラにとって全く理解できないものだ。難しい単語や長い文字の羅列を右から左へ受け流しながら、味のしないパンを懸命に水で流し込んでいると、
「そう言えば君、B.F.に最年少で入社した子だよね?」
銀髪の研究員が、突然カーラに話題を振ってくる。
「へ、あっ......は、はい」
確定ではないが、恐らくそうだろう。そもそも彼女は15歳である。こんな歳で就職など普通はありえないことなのだ。
「カーラ・コフィ。入社試験での正答率が断トツで良かった。我社の重要な人材となるだろう」
突然、ブライスがそんな事を言った。カーラは恥ずかしくなって下を向く。
「私は、そんな......」
入社試験に向けて、死に物狂いで勉強したのは確かだ。両親の死から目を背けようとした自分に残ったのが勉強だった。本来はきちんと向き合うべきだったろう。
だが、やはり難しかった。何処か逃げる場所が欲しかったのだ。
「まあでも」
銀髪の男性がにっこりと笑う。
「こんなに若い子が居てくれると、癒しにもなるから良いよね。それに、誰が助手にとるのか......気になるところだな」
そうか、とカーラは思い出す。
此処B.F.では星4になるまで星4以上の研究員の元で助手をするというルールが存在する。
自分は誰かの助手にならなくてはならない。ちゃんと見つけられるだろうか。
こんな自分を、助手に取ってくれる人など、そもそもいるのだろうか。
「助手、ねえ」
メガネの博士が何かを考えるようにボソリと呟いたが、カーラには聞こえなかった。
やがて全員が食べ終えたので、待っている職員たちの為に皆空になったトレーを持って立ち上がる。
カーラは三人の背中に深深と頭を下げた。
「あ、あの......ありがとうございました!」
銀髪の博士がカーラに微笑み、メガネの博士も小さく手を振ってくれた。三人を見届けた後、カーラもトレーを片付けに向かう。
午前は説明会だったが、午後はB.F.施設内研修。場所を覚えて早くパートナーを見つけなくては。
*****
会議室にぞろぞろと戻ってきた新入社員達は、早速班分けをされた。一班四人で、班長に星4の研究員が一人入るため合計五人だ。
施設内研修はB.F.の施設を周り、実験の様子を見学したり、会議室の場所を確認したりする研修で、大抵の研究員はこれでパートナーを見つける。
この機会を逃すと、あとは自分の足で見て回ってパートナーを探さなければならない。
カーラもそうだが、皆この機会を逃すまいと真剣に班長である星4研究員の話に聞き入っている。
「では、早速始めますねー。しっかり着いてきてくださーい」
軽い説明が終わると、班ごとに移動が始まった。
「ねね、さっき君、伝説の博士たちとご飯食べてたでしょっ」
隣を歩いていた女性が突然カーラに話しかけてきた。カーラよりも五、六歳年上に見える。
カーラは初めて聞く言葉に首を傾げる。
「伝説の博士......ですか?」
「知らないの?」
女性は信じられない、とでも言うように目を丸くすると説明してくれた。
あの三人の博士はB.F.の頂点に君臨する、B.F.設立時から居る人達だったようだ。
カーラはそれを聞いた途端、持っていた資料を落としそうになってしまった。自分がそんな凄い人達と夕食を共にしていたことが信じられなかったのだ。
確かに、此処のトップであるブライスと砕けた口調であの二人が話していた時点で気づくべきだったのかもしれない。
そりゃあ食堂で他の職員にチラチラ見られるわけだ、とカーラは納得した。
しかし、どうしたものか。自分のせいで折角の食事の時間を邪魔してしまったのでは......?
そんな事を考えているうちに、カーラ達の班は実験室へとやって来ていた。
新入社員が入ることが出来るのは、実験室の一つ前の部屋、準備室までだ。そこからでも実験室の中の様子はよく見ることが出来た。
「......あ」
カーラは思わず声を出してしまった。
ガラス張りの壁の向こう側に、あのメガネの博士の姿があった。
硝子で出来た鳥の群れの中で真剣な表情でバインダーにペンを走らせているその姿は、さっき食堂で見た時とは雰囲気がガラリと変わっていて、まるで別人のようだ。此方に気づく様子もない。
カーラは知らないうちに彼に夢中になっていた。硝子に張り付くようにして、彼を目に焼きつける。
綺麗な硝子の鳥の群れが何なのかは彼女には分からなかった。
だが、そんな中佇むその白衣の彼はまるで一枚の絵のような美しさを持っていた。
「カーラちゃん?」
近くで声がしてカーラはハッと我に返る。隣にあの女性研究員が立っていた。
「行くよ?」
「ご、ごめんなさい」
カーラはいつの間にか準備室から出て行っていた自分の班を慌てて追いかける。
胸がドキドキしている。
カーラは自分の班の背中を追いながら、頭はほとんど彼のことを考えていた。
*****
一通り施設を見終わると、また最初の会議室に戻ってきて、研修会は終わった。
約30人の研究員の顔からどっと緊張の色が抜けた。
皆施設内研修を通してすっかり仲が深まったようで、楽しげに談笑している。内容はどの研究員がかっこよかった、誰に志願しに行くか、などそんな類だ。
カーラはその様子を少し離れて眺めていた。
あとは皆、自分が気に入った研究員の元に、「助手にしてください」と志願しに行くのだ。
今日からこの施設が自分の家。まずは助手になる研究員を決めなければ。
頼みに行って断られたら、また違う研究員の元に行かなければならない。
そもそも実験で結果を残さなければ、此処に居る意味さえ無くなってしまう。
カーラは既にアタックする相手を決めていた。
ただ、その研究員にはもう既に助手が居るかもしれない。こんな最年少の頼りない自分を助手に取ることを拒むかもしれない。
それでも_____。
カーラは椅子から立ち上がり、大量の資料を胸に会議室を出た。研修会で回った廊下を、記憶を頼りに進んで行く。
すれ違う研究員は、皆真剣な顔で実験の情報交換をしていたり、バインダーに何かを書き込んだりしている。
実験室に彼はまだ居るだろうか。もし彼が自分を助手に取ってくれなければ、一体自分は誰に志願に行けば良いのだろう。
廊下を曲がった時だった。カーラの目に、廊下の遥か先を歩く三人の背中が見えた。一人は銀髪の長い長いポニーテール、一人は黒髪、もう一人は_____。
「あ、あのっ......!」
三人が足を止めて此方を振り返った。カーラは三人に追い付く。
そして、足を止めた瞬間に気が付いた。
「君は......カーラ君じゃないか」
メガネの研究員の優しい声が降ってくる。
カーラはまだ、彼の名前を知らなかったのだ。
施設内研修で同じ班になった子に名前を聞いておけば良かった、とカーラは酷く後悔した。恐らく手元の資料に名前は載っているだろうが。今目の前で開いて確認するのはあまりにも失礼だ。
ならば、こうするしかないだろう。
カーラは深呼吸し、彼を見上げた。ダークブラウンの髪が綺麗な、メガネの研究員。硝子の向こうで鳥の群れの真ん中に立つだけで一枚の絵のようになってしまう彼。
ちゃんと言わなきゃ。失礼のないように。
「わ、私をっ.......」
カーラは目をぎゅっと閉じてしまった。慌てて顔を下げる。何故閉じたのか分からない。彼の後ろにある蛍光灯が眩しすぎたのだろうか。
とにかく、相手をきちんと見なければ。でも開かない。石になってしまったようだ。焦れば焦るほど目が開かない。目の開き方を忘れてしまったのではないかと疑うほどに。
その時カーラは、瞼の裏に懐かしい顔を見た。
それは彼女の両親だった。あの事件以来、目の裏に焼き付いた二人の姿は、床に転がった動かないあの状態だったというのに。
今の二人はカーラに向かって優しく口を開いている。声は聞こえない。
だがその口は「がんばれ!」と言っているようだった。
そうだ、頑張らないと。
一人で、頑張らないと。
「私を......」
目がゆっくりと開いた。三人の足。
そこから少しずつ視線を上げていく。
そして、
「私を、助手にしてくださいっ」
真ん中のメガネの博士に向かってカーラは叫ぶように言った。
彼は眉を上げた。ブライスも銀髪の博士も少しだけ驚いた顔をしているのが視界の端に映る。
数秒の空白の時間がカーラの胸をぎゅうと締め付ける。
言ってしまった。
断られた時、どんな顔をしたらいいのだろう。泣いてしまったらどうしよう。いいや、既に涙がすぐそこまで来ている。
もう五秒も持たないかもしれない。
「私でよろしいのかい?」
暖かい声が降ってきた。
「ドワイト、本気で言っているのか?」
「そうだよ、だって君は_____」
ブライスと銀髪の研究員は、カーラとドワイトを交互に見る。
そうか、彼はドワイトさんと言うのか。
彼の名前を、何度も心の中で唱える。
驚きを隠せないらしい二人の研究員に対し、ドワイトは「だって」と笑う。
「こんなに一生懸命頼んでくれる子なんだ。きっと素晴らしい助手になると思わないかい?」
「......!!! じゃあ......」
カーラの胸にじんわりと暖かいものが広がっていく。ドワイトが大きく頷いた。
「ああ、いいよ。君を助手に取ろう」
カーラは言葉が出なかった。
やっと、やっと居場所が出来た。
求めていた、ずっと前に失った温かさが、少しずつ彼女の器を満たしていく。そしてそれが溢れた瞬間、彼女の瞳からボロボロと大粒の涙が堰を切ったように流れ出した。
「大丈夫かい」
ドワイトがポケットからハンカチを取り出すと、優しく彼女の目元に当ててあげた。
カーラの涙は止まらなかった。
やがて声を出して号泣した。それは幼い子供のような、彼女が我慢していた、閉じ込めていたものを全て流すような泣き方だった。
泣きじゃくる小さな少女を見て、ナッシュとブライスは顔を見合わせると、優しく口元を緩ませた。
*****
背中が暖かい。良い匂いがする。
カーラは薄目を開く。
まず目に入ったのは、書きかけの報告書だった。どうやら報告書を書く練習をしていた途中でそのまま眠ってしまったようだ。
背中が暖かいのは仮眠用ベッドにあった毛布がかかっているからだ。これを羽織って寝た記憶がカーラにはない。恐らく、ドワイトが掛けてくれたものだろう、とカーラは察する。
そして、報告書の隣には甘い香りがする茶色の液体が入ったマグカップが置いてあることにも気づいた。ホカホカと湯気を立てていて、良い匂いの原因はココアだったことが分かる。
カーラが眠りから覚めたばかりで、状況をひとつずつ整理していると、
「よく眠れたようだね」
「!! ドワイトさん!」
オフィスの扉が開いて、部屋にメガネを掛けた研究員が入ってくる。ドワイトだ。手には分厚いファイルを抱えているから、会議か何かに行ってきたようだ。
「あ、あの......毛布とココアが......」
カーラが毛布を畳みながら戸惑いがちに彼を見上げる。
「最近は休めていなかったようだからね」
ドワイトはカーラの後ろにある、自分のデスクの椅子に腰掛けると椅子を回転させて自分の机にあるマグカップを手に取った。中身は入っているようだが、湯気は立っていない。部屋を出る前に淹れたものだろう。香りからしてコーヒーのようだ。
「すみません......」
カーラは畳んだ毛布を膝の上に置いて、俯いた。
彼の助手になって少し経つが、自分の実力の無さを身に染みて感じる日々だ。同時期に入社したあの周りの星1の同僚達が次々と結果を出しているのを小耳に挟む。
自分が最も幼いことを理由にすることなど出来ない。自分の実力が足りていない。それだけの事だ。だが、それが分かってしまうのが尚更辛い。
最近、彼女は寝ないで報告書を書く練習をしたり、対象について勉強をしたりしていた。
焦れば焦るほど、周りにかける迷惑が大きくなっていくことにカーラは気づき、どうすればいいのか分からなくなってしまいそうだった。
「君は頑張り屋さんだからね」
ドワイトがマグカップを自分の机に戻すと、不意にそんな事を言った。
「それはとても良いことだ」
彼は優しい声で続ける。
「でも、考えてみてくれ。頑張りすぎて、体が耐えられなくなって、倒れてしまったら? 仕事が出来なくなってしまうね。それは私にとって辛いことだし、カーラにとっても同じはずだよ」
ドワイトがカーラの黒髪に手を伸ばす。そして、優しくその髪を撫でた。幼い子にするように。
「自分の体の管理も立派な仕事の内だよ、カーラ」
「......はい」
元気の無い返事をするカーラに、ドワイトはそうだ、と明るい声を出した。椅子を回転させて自分のデスクに向かうと、何かを取り出してカーラの手のひらにポン、と置く。
それは砂糖菓子だった。食堂で売っている、カーラの大好物だ。
「疲れた時には素直に糖分だよ。コーヒーに入れると美味しいんだよね」
「あ、ありがとうございます......!」
早速袋を開けて、二人は口に放り込む。コロコロと口で転がらせると、甘く優しい味わいが口いっぱいに広がった。
カーラが昔母親と通ったお菓子屋に、似たようなものが売っていた。宝石のような見た目で、いつも買い物の帰りにそこに寄っては、今のように口に含んで帰路に着くのが彼女の日課だった。
「私、ドワイトさんと出会った頃の夢を見ていたような気がするんです」
「私とかい? ふふ、そうなんだ、懐かしいねえ」
ドワイトがコーヒーを淹れるために立ち上がる。
彼の助手としてやってきて、まだ少ししか経っていないが。自分は少しずつ此処での生活に慣れ始めている。憧れの研究員の元で助手ができることが何よりもの幸せだ。
自分はもうひとりじゃない。
甘ったるくなった口にココアを含むと、甘さをかき消すちょっとした苦味が心地良かった。