夢で終わらせはしないよ
石作りの家々が並んだスロープ状の道を、小さな影が転がって行った。
白いシャツに焦げ茶色のズボンとチョッキ、上からすっぽりと覆う色あせた緋色のマント。6歳かそこらであろう少年は、マントを翻して脇目も振らず駆けて行く。ずれたフードからこぼれた金の髪を見て、擦れ違う人々は苦笑をもらす。
やがて、針と糸巻き、ハサミを模した飴色の看板が視界に入ると、少年は翡翠の瞳を輝かせた。その店の横に曲がり、裏へと回る。
あまり陽当たりが良いとは言えぬその場所では、木と立てた棒の間に張ったロープに、少女がぬれた衣服を掛けていた。長く黒い髪を緩く束ねて、ベージュのブラウスと茶色のスカートの上からエプロンを着けている。16歳ほどだ。
腰を屈めて、足下の籠からシーツを引っ張り出す。ふんふんと機嫌良さそうに歌を口ずさみながらロープへと延び上がる、彼女のスカートに少年は思い切り飛びついた。
「フィナーっ。」
「きゃあっ?」
驚きに飛び上がった少女は、シーツを取り落としてしまった。バサッと地面を覆うそれを慌てて拾いつつ、振り返る。緋色の下からのぞく大きな丸い目に見つめ返されて、眉をひそめる。
「ダメですよ。また、こんな所にいらっしゃって……。」
「フィナー。あそぼ、あそぼ。」
「……聞いてませんね。」
きゃっきゃっとうれしそうにエプロンを引っ張る少年に、フィナと呼ばれた少女、フィラアナはため息をついた。
「もう……。今頃、皆さんが心配してますよ?」
「だいじょーぶっ。もうみんな、ボクがフィナのとこにきてるって、しってるからっ。」
「そういう問題じゃないですよ……。」
ため息を深くしてほほを押さえるフィラアナから離れて、少年が籠をのぞき込んだ。
「これ、そこにかけるの? ボクもやるー。」
「やらなくて良いですから、大人しくなさってて下さい。お茶お入れしますよ、お菓子召し上がりますか?」
「おかし、なにっ?」
ぱっとフィラアナを見上げて翡翠が輝いた。裏口に向かう彼女に、慌ててついて来る。
「カップケーキですよ。さっき焼いたんです。」
「わぁーいっ。」
少年はぴょんぴょん跳ねた。踊るような足取りで家の中へと飛び込む。
ダイニングに入るなり、ひょいっと椅子に乗り上がった。フィラアナが目の前に菓子を置いてやると、まだ紅茶も入っていないのに、小さな手でつかんでかぶりつく。丸いほほがケーキをほお張ってさらに丸くなった。少年は、機嫌良くぱたぱたと両脚を振る。
「んー、おいしーっ。フィナは りょうり じょうずだよねー。」
「そりゃどうも。」
「やさしーし、はたらきものだしー、いい およめさんになるよねー。」
うたうのに合わせて、少年は右、左、右と体をかしげる。
「はあ。」
また始まった。
そう思いながら、フィラアナは相づちを打つ。
「ねーねー、ボクのおよめさんになってよ。」
本日三度目のため息をつく。
「ですから、無理ですってば。」
***
フィラアナは、国境近くの城下町に住む仕立屋の娘だ。決して裕福ではないけれど、父も母も働き者で、一家は幸せに暮らしている。
フィラアナは父を尊敬していて、仕事を手伝いながら自身も仕立屋を目指していた。
その日、フィラアナは買い物に出ていた。伯父が営む薬局に寄ってから、父に頼まれたお使いのため市場へと向かった。さて目的の店はどこだろう、と視線を適当に投げた先、小さな子供がうずくまっているのを見つけた。にぎわう露店から離れた建物の影で、深緑の布を頭から被っている。
衣服から素直に判断するなら、男の子だ。脚を抱える手や、ちらりとのぞくほほが雪のように白い。見れば被っているジャケットも、転んだのか汚れてしまっているズボンも、華美な細工こそないが上質なものだ。放って置けば、良からぬ者に目をつけられるかもしれない。
フィラアナは巡回しているはずの憲兵を求めて、きょろりと辺りを見た。運の悪いことに、人混みの向こうへと見慣れた制服が遠ざかって行くのを見つける。何か事件が起こっている訳でもないので、声を張り上げる勇気が出ない。追いかけるべきか悩んで、あの小さな子を一人にする方が怖いと、子供の方へ駆け寄った。
「どうしたの? どこか痛いの?」
声をかけると、深緑越しに小さな頭が跳ねた。戸惑うように間を置いてから、少年がこくっとうなずいた。
「どこが?」
「……あし。」
返された声はか細くて、雑踏にかき消えてしまいそうだ。フィラアナは少年を抱き上げるようにして立たせると、側の木箱に座らせた。しゃがみこんで、指さされた右足の靴を脱がせる。白い足首が腫れていた。
「捻挫だね。……確か、」
フィラアナは自身の足下に放っていた編み籠を振り返った。そそっかしい母を心配して伯母が持たせてくれた物の中にあれがあった、はずだ。大した物の入っていない籠の中、目当ての物はすぐに見つかった。
小さな瓶とハンカチを取り出すと、髪を束ねていたリボンを解く。瓶の中の緑色のペーストをハンカチに塗りたくる。少年の足首にハンカチを当てると、リボンでくるくるっと固定した。
ふうっと息をついて、フィラアナが顔を上げると、大きな瞳がこちらを見つめていた。透き通った緑に涙の膜が張っていて、宝石のようにきらめている。えっと、と口ごもって、フィラアナはリボンの上から足首をなでた。
「痛いの痛いの、飛んでけーっ。」
翡翠の瞳が瞬いた。その拍子に、張っていた膜が雫になってこぼれた。じぃっと見下ろしたまま反応を寄越さない相手に、フィラアナは恥ずかしげに笑う。
「ズボン、破けてるね。直してあげようか?」
「……できるの?」
「服屋さんの娘だもの。」
編み籠を引き寄せて、今度は革製の丸いケースを取り出す。そこから針と糸を取る。チクチクとズボンの裾を縫いながら、フィラアナは少年に問いかけた。
「どこから来たの? 一人で帰れる?」
「……おこられるから、かえりたくない。」
「どうして怒られるの?」
「かってに そとでて、ふく やぶいたから。」
こんな小さな子が突然いなくなっているなんて、気がついた両親は胸がつぶれるような思いをしているかもしれない。
「服なら私が直してあげる。お家に帰ろう? ご両親が心配してるよ。私もついて行ってあげるから。」
「……ほんと?」
翡翠がすがるように見つめてくる。フィラアナは微笑んでうなずいた。
「うん。本当。」
針をケースへ、ケースを籠へとしまって立ち上がる。少年へ両腕を差し出した。
「さあ、お家はどこ?」
もし迷子なら、今度こそ憲兵を探さなくては。
少年はフィラアナの腕を支えに道へ出ると、ぐっと空を見上げた。積まれたレンガに縁取られたその向こう、町一番高い場所に建てられた塔を小さな指が示す。
「あっち。」
「うん。」
城を挟んで反対側は、そこそこ身分の高い人が住んでいる。やっぱり良い所の子だ。
「ボク、おしろからきたの。」
「……うん?」
耳に届いた言葉を上手く処理できなくて、フィラアナは首をかしげた。
***
あれから約半年経ったが、今も領主様の末息子は、小さな仕立屋に週四回のペースで通っている。
そして、町娘Aとでもいうべき取るに足りない少女に、ほぼ毎回のように結婚を迫っていた。仕事を奪われるのかと、領主様御用達の仕立屋がフィラアナの父をにらんだり、城と仕立屋をつなぐ道の警備が厳しくなったりしたが、一家の生活に特に変化はない。町の誰もが、好奇心旺盛な子供を微笑ましく見守っている。
フィラアナも、小さな子供の言うことだと、本気にはしていない。
一年前、彼の一番上の兄がそれは美しい花嫁をもらったものだから、結婚というものに興味が湧いているのだろう。加えて、庶民の娘がもの珍しいに違いない。
紅茶も菓子も食べ終えたのか、裏庭で洗濯物干しを再開させていたフィラアナの傍へ、少年が寄ってくる。翡翠の瞳が、下から顔をのぞき込んでくる。
「ミブンのことなら、きにしなくていいよ。父さまも母さまも、兄さまたちだって、フィナがいいこだって、しってるもん。きっと、みとめてくださるよ。」
黙って仕事を続けるフィラアナを、とてとてと追いかけてくる。
「あのね、ボク、フレード兄さまのちいさいころに、そっくりなんだって。フィナもしってるよね、にばんめの兄さま。だから、だいじょーぶだよ。ボクもすぐ、兄さまみたいな、おっきくて、かっこいい、トノガタになるんだから。」
「そうは言っても、」
空っぽになった籠を持ち上げて、フィラアナはようやく口を開く。
「どんなに早く大きくなっても、大人じゃないと結婚は出来ませんよ。私もまだ成人じゃありませんし、クリス様もあと12回も誕生日が来ないと結婚できないんです。12回ですよ、12回。」
少年にとって、これまでの人生の二倍もの月日だ。気が遠くなるだろう。そう思ったのに、少年は丸いほほを膨らませてにらんできた。
「わかってるよ、そんなのっ。」
今にも泣き出しそうに、翡翠が潤む。
「そうだよ。ボクはフィナより、10ねんもかかるんだ。その間に、ほかのひとがフィナとけっこん しちゃうかもしれないじゃない。2ねんたってすぐ、フィナはおよめに いっちゃうかもしれないじゃない。」
ぽろぽろと雫が落ちる。腫れたように真っ赤になったほほがぬれていく。
「だから、いま、やくそくしなくちゃ だめなんだ。」
しゃくりあげるのを堪えて、声が震えていた。気がつかれないように、フィラアナはこっそりとため息をつく。
「分かりました。約束しましょう。」
しゃがみこむと籠を脇へと退けた。丸いほほを両手で包み込んで、親指で涙を拭う。
「クリス様がフレルナード様みたいな、大きくて格好いい男の人になっても、成人して立派な大人になっても、それでも、私が必要だと仰るなら、結婚いたしましょう。」
「……ほんとっ?」
ぱあっと翡翠の瞳が輝く。フィラアナは微笑んだ。
「はい。本当です。」
「じゃあ、ほかのひとと、けっこんしない?」
「しません。」
「じゃあじゃあ、じゃあ、やくそくだよっ。」
丸いほほが今度は喜びで色付く。小さな体がぴょんっと胸元に飛び込んできた。受け止めて、フィラアナは金色の柔らかい髪をなでてやった。
***
それからもしばらく、少年は変わらず仕立屋に訪れた。
向こうの仕立屋は今もプリプリ怒っているが、誰がどう言っても少年はめげないし、あの翡翠の瞳に見つめられると一家は強く追い返すことが出来なかった。仕方ないと諦めてから、フィラアナはせっせと菓子を焼くようになった。
台所でクッキー生地を練っていると、通りがかった母がふふっと笑った。
「ドレスを縫っている時くらい熱心ね。」
フィラアナはきゅっと眉を寄せて振り返った。
「そんなことないけど……。貴族のお坊ちゃんがいらっしゃるんだから、ちゃんとおもてなししないとダメでしょう。」
「そうねー。」
母のにこにことした笑みは、娘にはにやにやとからかい混じりのものに見える。
「……何。」
「通りのお菓子屋さんで買ってきた方が見栄えも良いし、楽なんじゃないかしら。」
「家にそんなぜいたくする余裕はないでしょ。いじわる言うんなら、母さんにはあげないから。」
「あらあら、ごめんごめん。」
「もうっ。」
丁度クッキーが焼けた頃、少年はやってきた。
小さな鼻をひくひくさせて、ぱっと顔を輝かせる。期待に満ちた翡翠がフィラアナを見上げた。思わず苦笑がもれる。
「お茶にしましょうか?」
「うん!」
小さな金色がダイニングを走り、ぴょんと椅子に飛び乗る。
お茶会にお菓子もないなんてかわいそうだとか、きらきらした大きな目がかわいいだとか、そう思ってしまうのだから、もう仕方がないのだ。
***
彼が大きくなるに連れて、来訪の間隔は空いていった。
8歳には週二回。10歳には週一回。
決まって金曜日に来るようになったので、毎日お菓子を用意しておく必要はなくなった。母の腹回りも安泰である。
父に仕立てを、母に家事を習ったフィラアナに、貴族の子息に必要なものなんて想像も出来ないけれど、きっと他の子よりも習うべきことが沢山あるのだろう。きっと、やるべきことが沢山あるのだろう。
あの子は下町に迷い込んだだけ。こうやって少しずつ元の世界に帰って行くのだ。
***
目の端で緑色がキラリと光った。
もう用事も済んでいて、市場を通り抜けるつもりだったのに。その光に引き寄せられて、思わず足を止めてしまう。露店のおじさんが振り返った視線に気がついて、にかりと笑った。骨太の指がフィラアナを招く。紙袋を抱え直して、店に近づいた。
深紅のじゅうたんの上に並べられた木製ケースには、きらきらと色とりどりの光が詰まっている。指輪の赤は、夕陽の色。ペンダントの青は、晴れた空の色。
瞳に似ていると、おじさんはブローチを見せてくれたけれど、フィラアナが手に取ったのは一組のカフスボタンだった。褐色のシンプルな台に、木漏れ陽色の石がはまっている。
買えないだろうと思って聞いた値段は、手の届くもので、フィラアナは目を丸くした。
「こういう石が沢山採れる国があってね。このサイズだとこんなものさ。」
「へー。こんなに奇麗なのに。」
フィラアナはじっと手元を見つめた。どうしよう。手の中のきらめきが手放しがたい。
これくらい。うん、これくらいなら、良いかな。父と母に面白いものがあったと報告になるし。
「フィラアナ?」
おじさんにお金を払っていると、後ろから顔をのぞき込まれた。驚きに肩を揺らして距離をとる。相手は見知った青年だった。
近所のパン屋の次男坊で、小さい頃に一緒に走り回った遊び仲間の一人だ。
「よう。それ、どうすんだ? おじさんにか?」
「ううん。ちょっと参考にね。」
「ふーん?」
青年の視線から隠すように、フィラアナはカフスボタンを紙袋にさっとしまった。知り合いに見られたことが何となく気恥ずかしい。
「なら、さっき細工物の店があったぞ。一緒に行くか?」
「ううん。お使いの途中だから、もう帰らなきゃ。」
「別に、ちょっと寄るくらいなら問題ないだろ。子供じゃあるまいし。」
青年がむっと眉を寄せた。フィラアナは笑ったが、眉が八の字になる。
「でも、今日は金曜日だから。また今度ね。」
怒らせたくなんてないのに、青年の顔はさらにしかめられる。
「また今度、また今度って、お前の予定はいつになったら空くんだよ。」
苛立ちの混じった声に、フィラアナは困ったように笑みを深くする。
その時、二人と歳の変わらぬ男の声が、遠くから青年を呼んだ。ついっと青年が振り向いた隙に、フィラアナは市場の人波をくぐった。呼ぶ声が背中にかかる。
青年の隣に並んだのは友人の一人だった。そちらもフィラアナを呼ぶ。
二人へ手を振りつつも、フィラアナは立ち止まらなかった。そのまま道へと抜けて、家へと急いだ。
***
「フィナー。」
火曜日の午後。
一階の作業場でジャケットの飾りを縫い付けていたフィラアナは、店裏から聞こえた声に驚いて手を止めた。ジャケットを作業台に預け、廊下へ駆ける。ダイニングを通って勝手口を出ると、緋色の塊が飛びついてきた。
被っていたフードが脱げて、パサリと肩に掛かる。ふわふわした金色が露わになった。少年が、ぎゅうっとフィラアナの腰に抱きついて、腹に顔をうずめた。
抱きつかれることは珍しくない。しかし、いつもの彼なら顔を上げて笑みを見せてくれるのに。
「クリス様、どうされたんですか?」
金色のつむじに呼びかけても、しがみつく腕の力が強くなるだけで、返答はない。フィラアナは首を傾けて、彼の顔をのぞき込んだ。
エプロンに埋もれて表情は見えない。ほほが、いつもより赤い気がした。
「クリス様?」
もう一度呼ぶと、たっぷり間を開けてからくぐもった声がこぼれてきた。
「……何でもない。」
幼い声には不満がにじんでいる。何でもないというのなら、その膨れたほほには何が詰まっているのやら。
フィラアナはため息をかみ殺した。小さな背をぽんぽんとたたく。
「そろそろ休憩にしようと思っていたんです。お茶に付き合ってくれますか?」
「……ミルクティー入れて。」
「はい。」
少年を促して、ダイニングの椅子に座らせる。今日は菓子がないので、クラッカーとリンゴジャムを出すと、パリパリとかじり始めた。フィラアナは鍋にミルクを注ぎ、火にかけた。
話を聞くべきなのだろうか。
子供の悩みというものは、本人にとっては明日をも知れぬ大事だったとしても、大人にとっては大したことではなかったりする。もうフィラアナも二十歳であるし、小さな両手に収まらないものを、半分ポケットに預かることくらい出来そうなものだ。
ただ、この王子様の悩みが、町の子供とそう大差ないものであれば、だが。
フィラアナはちらっと背後を振り返った。少年の白いほほにクラッカーが詰め込まれてもごもごと膨らんでいる。そのまま、嫌な気持ちもかみ砕ければ良いのだけれど。
「クリス様、どなたかとケンカでもなさったんですか?」
「……ケンカじゃないし。」
行儀良く、ゴクンと口の中のものを飲み込んでから返された声は、まだ沈んでいる。
誰かとケンカではない何かはあったらしい。ご両親かお兄様方に叱られでもしたのだろうか。
ミルクティーをカップに注いで、少年の前に出す。彼は両手でカップを抱えて、フーフーと息を吹き込んだ。一口飲んで、隣に座ったフィラアナを見上げる。
「今、何つくってるの?」
「私はジャケットを。あと、何着かドレスの直しを任されていますよ。」
「ジャケットってどんなの?」
一口一口、カップを傾けながら少年が質問を繰り返す。自分の方の話をする気はないらしい。フィラアナも、話したくないならと、彼への返答に徹することにした。
クラッカーも二杯目のミルクティーも空になった。両手をまっすぐ突き上げて、少年がぐーっと伸びをする。
「んーっ! よし!」
ぴょこんと椅子を降りて、フィラアナの右手をぐいと引いた。座ったままのフィラアナと少年が向かい合う。こちらの手を、ぎゅっと小さな両手が包んだ。
まっすぐ見つめてくる翡翠の瞳には、いつものきらめきが戻っている。
「フィナ! ボク、がんばる!」
「はい。クリス様。」
フィラアナは微笑んでうなずいておいた。何のことかは分からないが、せっかく戻った輝きを曇らせたくはない。
悩みを聞いてあげることすら出来なかったけれど、それを飲み込む手助けが出来たのなら、良かった。
「じゃあ、また来るね!」
緋色のマントが金色を隠す。大きく手を振って、ぴょこぴょこと走り去って行く。それがレンガの影に見えなくなるまで見送って、フィラアナは店の中に戻った。
***
12歳には月一回。
来訪の前に手紙が来るので、それに合わせてフィラアナは茶菓子を用意する。少年も、お土産だと花を持ってくるようになった。
サイズこそ小さいものの、まるで花嫁のブーケのように華やかなそれを、素材そのままの木製テーブルに飾るのは戸惑われて、ある日からテーブルクロスを用意した。
ザラザラした木目の粗い生成りのクロスだが、角に刺しゅうを施してみた。フィラアナの目にはなかなか立派なお茶会に見える。むしろお茶請けのご家庭マフィンの方が浮いている。
何かの折に、市場で買ったカフスボタンの話を母がしたからだろう、彼は何回か飾りボタンも持ってきてくれた。繊細な細工彫りのものや、キラリとした石がはめ込まれたものを。高価なものは受け取れないので、親子三人でしげしげと眺めてから彼に返した。
***
14歳には半年に一回。
その日、少年は大きな銀ボタンを持ってきた。青い石がはめられていた。いつか見たブローチとは違う、混じりけのない深い青は冬の湖のようだ。
彼は一着のベストをフィラアナに渡した。広げて見ると、少年のものにしてはまだ大きかった。不思議に思って首をかしげると、彼はさっきの銀ボタンを突きつけてきた。
「ここのさ、一番上のボタンをこれにして欲しいんだ。」
「私が付けるんですか?」
彼の衣服は、ご両親と同様にちゃんと向こうの仕立屋に任せているはずだ。今手にしているこれも、フィラアナが普段扱っている物と生地の質が全然違う。困ってベストを見つめていると、少年の大きな目が視界に割り込んできた。
「ね、お願い。フィナに付けて欲しいんだ。」
フィラアナはため息をついた。否と言えない自分にあきれる。
ただ縫い付けただけなのに、彼はいたく喜んで、丈の合わないそれを着て帰って行った。
***
16歳には、彼は仕立屋に来なくなった。
それが自然なことなのだ。ようやく、彼も当たり前のことが分かったのだ。
貴族と下層の町娘など、友達になることすら不自然なこと。
どんなに末っ子に甘い領主様でも、身分違いの結婚などお認めにならないこと。
貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
貴族の花嫁に必要なものは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。
兄への憧れと迷子の心細さが産んだ勘違いなんて、恋ですらないこと。
***
帽子に付ける青い薔薇の飾りを縫いながら、フィラアナはため息をつく。ため息をつく度に幸せが逃げるという話が本当なら、フィラアナが逃した幸せはとてもじゃないが数え切れないだろう。
馬鹿なことをしたものだと思う。
今日、パン屋の青年が町を出て行った。
青年は一緒に行こうとフィラアナに言った。フィラアナはただ首を横に振った。
「約束なんて、チビ助はもうとっくに忘れてるだろ。」
「そうね。でも、あと二年だから。」
フィラアナは笑った。青年は悔しそうに顔をゆがめて行ってしまった。
馬鹿なことをしたものだと思う。
約束を守るフリの、フリをしていた。
心のどこかで、町娘は王子様のお迎えを待っていた。来る訳がないと知りながら。
どんなに善良でも、どんなに働き者でも、町娘がヒロインになるなんて、おとぎばなしでもない限り無理なのに。ましてやお姫様になるだなんて、魔法使いでも現れない限りかなえられない。
薬屋の娘は、仕立屋に恋をして仕立屋になった。仕立屋の娘だって、パン屋に恋をしたらパン屋になれただろう。けれど、貴族に恋した仕立屋は、一生仕立屋のままだ。
小さなカフスボタンが返す緑の光に、いつか自分を追いかけた、透き通った翡翠を重ねて物語を終える。
***
白いドレスの裾にレースを縫い付け終えて、フィラアナは立ち上がった。これで今日の仕事は終いだ。机の上に散らばった、飾りや道具を片付けていく。
近々、式を挙げる花嫁のためのドレスだった。フィラアナより2歳ほど年下で、小さい頃からよく知っている。金色巻き毛の小柄な娘。恋人が独立するのをずっと待っていた。きっととびきり可愛い花嫁になるだろう。
式の様子を思い浮かべて、フィラアナはほほを緩めた。自然と笑みが浮かぶ。それなのに、箱にハサミをしまって顔を上げた時、ドレスが視界に入ってツキリと胸が痛んだ。
一生、自分は白いドレスを着ることはないだろう。それが、自分の選んだことである。
フィラアナは首を一つ横に振ると、寝る支度をするべく仕事場を出た。新郎の礼服を手掛けていた父は、昼間に宣言していた通り早々に仕事を切り上げて町に繰り出して行ったようだ。寝室に入ると、母がとっくに寝台の一つに山をこさえている。家の中は薄暗く静かだった。
この辺りは静かでも、城の庭園も町の中央広場も大いににぎわっていることだろう。今日は、領主様の末息子の誕生日であるから。今日、彼はようやく成人した。約束の日から12年が経ったのである。
もう、約束を守る必要はないけれど、やはり自分は誰の花嫁にもならないだろう。今もあの瞳が忘れられないから。胸の内にあるこの想いを抱えたまま他の人と歩めるほど、フィラアナは器用な女ではなかった。
物思いに沈んでいると、カタンっと窓の外で何かが揺れた。思わず視線を向けたが、窓の向こうは薄闇が広がるばかりで何も見えない。
「……ネコ?」
引き寄せられるように近づき、窓を開けたフィラアナの手首を、男の大きな手がつかんだ。
***
平和なこの国を象徴するようにいつも穏やかな、その国境近くの城下町は、朝から上下がひっくり返されたみたいな大騒ぎとなっていた。その混乱はもう、隣の町にまで広がっている。
昨晩、成人の儀を兼ねた宴の途中で、主役である領主の息子が行方をくらませたからだ。可愛がっていた末っ子の失踪に、奥方様はショックで倒れてしまったという。
12年の歳月は、何も知らなかった子供に色々なことを教えた。
貴族が町娘に近づくと、色々なゆがみが起こること。
どんなに末っ子に甘いお父様でも、身分違いの結婚を認めてくれないこと。
貴族が結婚するということが、当人だけの問題ではないこと。
貴族の花嫁に求められることは、働き者であることでも、料理上手であることでもないこと。
あの優しい藍色に焦がれる気持ちが、確かに恋だということ。
そして、歳月は非力な子供に色々なものを与えた。
城内ですら迷子になった小さな頭は、憲兵のパトロールルートも国内外の地理も覚えた。
池の飛び石にすら移れなかった短い脚は、家の二階にすら飛び上がれるようになった。
いつもスカートにしがみついていた細い体は、成人女性を抱え上げたまま、追って来る憲兵を振り切れるほどたくましくなった。
城下町に収まっていた幼い世界は、友好国に友人が出来るほど広がった。
12年の歳月は、夢見がちな男に夢を実現させる力を与えた。
***
青空の下、四角い荷台に風避けのほろが張られただけの小さな車を、のんびりのんびりと二頭の馬が引いている。車の半分には木箱と麻袋が積まれている。御者の他には年老いた女が一人と、男女が一組乗っていた。
男女は幾らか歳が離れていた。酔ったのか、青い顔で荷馬車の端で縮こまっている女を、まだどこか幼さの残る男が心配している様子を見て、老女は二人を姉弟だと思った。
青い上着のフードから、女の艶やかな黒髪がこぼれている。目深に被った緋色のフードに隠された男の髪が、それとは似つかない金髪であることなど、老女には分からない。
男との話の中で、老女は息子夫婦の下を訪ねるのだと教えてくれた。孫が産まれるのだと。
女、フィラアナは慣れない揺れの中で、床についた自身の手にじっと視線を落としていた。ここはどこだ。さらわれたはずのフィラアナだけが緊張していた馬車の検問を、男は通行手形を見せてあっさり突破してしまった。何が起きてるんだ。
「フィナ、ずっと下向いてると余計気分悪くなっちゃうよ?」
聞きなれない声が、なじんだ名前を呼ぶ。最後に会った時は不安定だった声は、知らない間に低く落ち着いていた。そろそろと顔を上げると目が合う。透き通った翡翠がきらりと光って、彼が微笑む。丸みがとれてシャープになった白いほほに、ほんのりと赤みが差した。
夢を見てしまいそうだ。
王子様と仕立屋を開く、そんな夢。
END