16年
16年
千夏
「うわ!まじか。本当に中條じゃん」
「久しぶりー。ええっと、中学卒業以来?」
「お前さー、高校も大学も日本じゃないから、行方不明だったんだよ?」
「ああ、すみません」
アメリカで大学卒業してから、日系の映像製作販売の会社に入社して、あっという間に8年。
「ねぇ、30歳なっちゃったね」
「そうだね」
「でも、相変わらずきれいじゃん。中條」
「それは、どうも。ていうか三井君、どうしてわたしの連絡先わかったの?」
こいつが三井君じゃなくて、一樹君だったらよかったのに。
「出張できたら、ロサンゼルス支社のやつが、日本人で独身ですげー美人がいるって言っててさ、名前聞いたらもしやと思って。いやー、世間は狭いなぁ」
三井君ってこんなキャラだったっけ?
「ね、で、お前は何でまだ結婚してないの?」
「今時、30で独身って珍しくないでしょ」
「じゃあ、彼氏とかいんの?ハイスペック彼氏」
あー、なんかこいつ、ただの親父になりさがったな。
「そういう三井君は?」
「俺、もう既婚です。お前に嘘はつかない」
「え~!」
「なんだよ。昔、こっぴどく振っといて、今更そんなリアクションか?」
「違うわよ。結婚早くない?」
三井君、残念そうな顔でわたしを見て、ビール飲んだ。
「お前、一生独身でいきそうだな」
ぷち、むかつくわ。こいつ。
「ていうか、仕事命で結婚とか興味ないんだろ?」
「いや、再会したてで、わたしのこと全然知らないくせに、何言っちゃってんの?」
しばらく三井君もう一度残念そうな顔で、ビール飲んだ。
「なぁ、お前ってこんなずけずけ物言うキャラだったっけ?」
お互い、お互いにがっかりしてたわけか。
「中学ん時からどれだけ経ったと思ってんのよ。そりゃ変わるわよ」
「いや、お前は口とじてりゃ中学のままだ。変わってない」
一応フォローしてくれるわけか。ありがとう。
「ねぇ、彼氏とかいないの?婚約者とかさ」
「なんでそんなしつこく聞くの?」
「一樹へのお土産話だよ」
思わずそっち見た。そして、
「イタッ!」
なんというか、ときどきありますよね。もんすごく急に首を動かすと激痛走るやつ。走りました、今。
三井君がもう一度残念そうな顔で言った。
「大丈夫?中條」
「……大丈夫」
「お前の居所がもう少し早く分かってたらなぁ」
いててて、ん、何?
「あのさ、一樹。結婚決まったんだよ」
むく。顔起こした。
「お前ら、タイミング悪いな。やっぱり」
目の前にあるお酒を少し飲んだ。
「いや、おめでとうだね。みんな」
「ちゃんと連絡先がわかるようにしときゃよかったのに」
「大昔の話で何を言ってんの?三井君」
「うん。お前にとって大昔の話なんだってことをさ、連絡先が分かってたら、あいつが自分で来て確かめられたじゃないか」
「……」
「それと、キャラ変した中條を見て、目が覚めたかもしれない」
「ちょっ、けんか売ってんの?」
はははははと三井君、笑った。
「まぁ、今となってはさ、中條が結婚してたとか婚約者いたって話を聞かせてやりたいのに、ふらふらしてんだな」
「わたしがふらふらしてたらだめなの?」
「いや、だめじゃない。今更だな。アメリカと東京じゃ遠いもんな」
そうだ、写真見るかと言って、三井君はスマホの写真をわたしに送ってくれた。
そこに大人になった一樹君がいた。スーツ着てた。
「最初はさ、大手都銀だったんだよ。それが、4、5年経った頃?取引先のベンチャーに急に転職してさ。それで、その頃つきあってた彼女に振られて」
「うん」
「そしたらさ、ずっと一樹のこと好きだった子がいてね。1人になったとたんに猛アタックして、つきあうようになってさ。それが今度結婚する人だよ」
「へぇ~。もててんだ。一樹君」
「不思議なくらいもててたよ。女、切れたことなかったな」
「……」
「なぁ、お前の写真撮らせろよ。一樹に送るからさ」
「ええっ?」
「大丈夫。写真にはキャラは写らないから」
「……」
返す返すも失礼なやつ。
「お前はどうしてたんだよ」
「別に普通に生きてました」
なんだかんだとあの頃同級生だった子たちのその後の話で盛り上がって、三井君結構まめにみんなと連絡とってたみたいで、いろいろなこと教えてくれた。思いのほか楽しかった。久しぶりに。
「ね、次いつ日本?」
「お正月かな?」
「日本のどこに帰んだよ」
「東京。今、親東京だから」
「まじか。じゃあ、また東京で飲もうぜ。今度は一樹も声かけるからさ」
それだけ言って、行ってしまった。まじかよ。こっちも思った。だって一樹君って何年ぶり?ていうか……
結婚しちゃうんだ。一樹君。
楽しかったくせに、帰り道むちゃくちゃ落ち込んだ。
30歳なっちゃったのに、わたし、まともに恋人ができたことない。人数だけでいったらそれなりにいるし、歴代彼氏すべてみんなに羨ましがられるような顔もいいし、頭よくてみたいな人たちでしたけど、長続きしたことない。最長半年じゃないかな?
原因と言えばまあいろいろあるんだろうけど、簡単に言うと全員わたしにとって気持ち悪い男の人だった。別に顔が気持ち悪い人1人もいなかったんだけどな。でも、受け付けない。受け付けないけど、受け付けてるから、彼氏がいるとき、正直楽しいと思ったことがなかった。
わたしレズなんじゃないかなと思ったこともあるけど、でも、女の人にそういうの感じたこともなくって、結局、恋愛できない体質なのかと。
だから、仕事して生きてきゃいいのかと。
ただ、1人だけ気持ち悪いと思わなかった男の子がいて、その子が結婚しちゃう。
ここまで考えてまた落ち込んだ。
もう仕事だけして生きていこうと思ってたのに。
計算してみる。16年だよ。16年前。そんな昔のこと、過去にできてない大人なんていないって。わたしみたいに30にもなって、まともに恋愛できない女もね。
しかも、手つないだだけ、一回だけ抱きしめられただけ、2人とも子供で。
いい思い出だよね。なつかしく笑いあって、結婚おめでとうって言って、そして、わたしの現実はまた1人で抱え込む。誰が見せられるか。あ、でも、
トゥルルルル
「千夏、変な時間に電話かけてくるな」
「そっち何時だっけ?」
「朝だ。ちなみに僕の生活は朝は寝る時間なんだ」
「四谷先生、新作順調?」
「順調だ。だから忙しい。眠い。切るぞ」
「ちょっと、あんたね」
ああ、こいつにも切られる。わたしほんと独りぼっちだわ。
「どうしたんだ、千夏。普段なら、時差考えて電話してくる君が」
泣きそうだ。
「ねぇ、わたしがずっと1人で誰とも結婚できなかったら、トモが拾ってくれる?」
電話の向こうで息をのむ音がした。
「いつも強がりな君がそんなたちの悪い冗談を言うなんて、一体何があったんだ?」
「中学ん時、3人でいっしょに映画行った京極君って覚えてる?」
「あの千夏の彼氏だろ?覚えてるよ」
トモの中では一樹君はわたしの彼氏なのか。
「結婚しちゃうんだって」
「……」
トモが黙ってる。
「君も僕も恋愛偏差値は低いけれど、僕が敢えて言ってあげる。君は僕より低い」
「傷口に塩塗るようなこと言わないで」
「中学の頃のような大昔のことをなぜ今言う」
「……」
「そんなにショックを受けるくらいなら、なんでもっと早く連絡しようとしなかったんだ?」
「連絡先知らなかったんだもん」
「子供じゃないんだ。調べようと思ったらいくらでも調べられただろう?」
「……」
わたしだけ、わたしだけが前に進めずまだそこにいるのではないかと思って、何年も。だから怖かった。わたしみたいに無様な恋愛しかできない女が。
きっと会わないでいる間に彼は成長しただろう。彼は大人になったのに、全然成長していない無様なわたしをもう一度見せることなんて
「千夏、君は周りにいつもほんと以上によく見られてしまうから、そのままの自分を見せられる相手は限られているよね。今、アメリカにそういう人はいるの?」
「……」
「人にはさ、自分を見せられる相手を上手に作っていける人とできない人がいる。できる人は友達や恋人と別れても、新しい場所でまた作ることができるけど、できない人にとっては一度できた友達や恋人は本当に大切じゃないか。どうして簡単に手放したんだ。どうして友達や恋人もいないアメリカみたいな遠い所に1人でいつづけるの?」
「わからない」
「千夏が今1人なのは、千夏の責任だ。千夏が変わらないかぎり、誰も助けてあげられないよ」
この人も結構厳しい人だな……。ひとかけらの甘いことばもないね。
「一樹君は、わたしと違って友達とか恋人新しい所で作れる人だもの。だから結婚するんだよ」
「そうだね」
「……」
「自分を必要だと言ってくれるからじゃだめなんだよ。千夏。自分が必要だからじゃないと。自分が必要な人が自分を必要だと言ってくれるのを待っちゃだめなんだよ」
「はい」
「今回は、もう間に合わなかったんだね」
「うん」
「次回がんばりなよ」
「わたしにたぶん次回はない」
今まで何人も試した。全部だめだった。
「ちゃんと反省して、悔い改め、精進しようとすれば」
「はい」
「もう一回だけチャンスが来る。見逃すな」
お告げか?なんだ今の?
「トモ、今のは何?」
「神様の声だ。千夏は別に大罪人でもない。あきらめた頃にまた出会いはあるもんだ」
わたしの頭の中になんか今ぱぁっと光が。
「なんか、不思議とそんな気が」
「じゃあ、寝るから切るぞ」
ほんとに切りやがった。
一樹
会社に向かう途中でスマホのぞいたら、久しぶりに三井のやつからメッセージ届いていて、びっくりした。通勤電車の中で僕の時間が止まった。
出張先のロスで、偶然千夏を見つけたと。大人になった彼女の写真を三井が送ってきた。
よりによって結婚式の日取りが決まった後に、こんなもの送ってこられてもな。というか三井、わざとやってるんだろうか。俺に秘密にしときゃいいのに。やなやつだな。
スマホしまって、ふとでも思う。もう一度。
ああ、これはあいつ俺を試してるんだと。しつこいやつだな。
一日働きながら頭の片隅に千夏の面影を大人になった彼女の顔を思い浮かべながら仕事した。やっぱりきれいな人だと思いながら。
家に帰って、シャワー浴びて、ビール飲みながら、我慢できなくてもう一度スマホ出した。千夏の写真だしてもう一回見た。
これ、削除したほうがいいかもしれない。
「誰?」
後ろから覗いてる。
「いや、いつ帰って来たの?」
「さっき」
くのいちかよ。こいつ。音しなかったって。
「ねぇ、誰?」
始まった。ああ、もういやなんだけどこれ。
「昔の知り合いだよ」
「すごい美人じゃん」
「君だって美人でしょ」
梨香がふくれてる。
「おかしいよ。ただの知り合いの写真。なんでそんなじっと長い間見てるの?」
「……」
この人そんなに長い間音立てずに僕の後ろに立っていたのか。
そしていつものように僕のスマホ取り上げて、人の写真勝手に削除した。
「なんで怒んないの?」
「うん。いいよ。別に、もう」
千夏の写真は手元においておきたくなかった。自分で削除するときにまた、つらい思いするよりは、梨香が消してくれてよかった。
「なんか変。とても変」
にぎやかだな。
「ねぇ、一日仕事してきてなんでそんな元気なの?」
「え?そう?」
そういって僕の横に座って抱き着いてきた。
「つかれたー」
そしてふいに、
「そうだ。忘れてた。あの美人何?」
なんだよ。そこにもどんのかよ。
「初恋の人。片思い。以上終わり」
「え~」
ああ、そういえば千夏もときどきこんな言い方したっけ。梨香をちらりとみてふと思う。不思議だな。写真を見ると細かいところまで思い出してしまう。さすがに古すぎて細かい所は思い出せないのに。声もしぐさも表情も。いろんなこと。そう気持ちだって、もちろん。色あせた。
「なんでさ、そんなに俺に執着するの?顔がいいわけでも、高収入なわけでもないのに」
「気持ちいいから」
「……」
リアクションに困るな。
「そっちの方も別に普通だと思うけど」
「え?だから、そういうことではなくって」
違うのかよ。
「あなたと一緒にいると気持ちがいい。24時間」
「はぁ」
「わかった?」
「よくわかんないけど、まぁ、わかりました」
にこにこしてる。よくわかんないけど、この人は僕といると幸せらしい。
「だから浮気しないで」
「ねぇ、結婚するって約束したんだから、そういうことしない。それにもともと俺そういうことする人じゃない」
こっちじっと見てる。
「それに、正直そんなもてないです」
「一樹は」
梨香が話し出す。
「話してみるまでわかんないの。話したら好きになる」
「そうなの?」
「うん」
「よくわかんない」
「わかんないでいいの。わたしがわかってれば。他の女もわかんないでいい」
また、抱き着いてきた。本当に元気な人だな。
***
秋ごろにそんなことがあって、11月に僕たちは挙式して晴れて夫婦になった。
正月休みの時に三井から連絡が来て、2人で飲もうって。梨香残して出かけたら、驚いた。本当に、写真じゃなくて、本物がいたから。千夏が。僕の憧れの人。
「サプライズ?」
三井に言った。
「久しぶり。一樹君」
そして声を聞いて思った。ああ、遠いって。心の中でずっと形を変えながら生き続けた面影。きれいな思い出は、自分の理想の形に少しずつ変化していく。そして風化する。そして、僕たちは別々に成長して、別々に大人になる。
今、あの頃、僕が恋した千夏はどこにもいない。自分も変わってしまった。
あの頃とは別人の30歳の男と女だ。そりゃそうだ。時間が経った。
「久しぶり」
時間が経ったことに気がついてなかった。きっと自分の中の一部の時計を僕は止めてしまっていた。だけど、そんなことできるはずなかったんだ。
これが失うってことなんだな。
手を離してしまったときにもう、自分のものではない。
「結婚したって聞いたよ。おめでとう」
「千夏は」
まだこの人のこと、名前で呼んでもいいのかな?
「結婚してないの?」
ピアスして、前髪つくらず、ストレートに髪おろしてて、相変わらず髪もきれい。
「残念ながら、仕事が恋人みたい」
「仕事って何してんの?」
「映画とかテレビ番組をね、日本の。アメリカに販売するの。アニメが主流なんだけど」
楽しそうに話しだした。生き生きと。
「元気そうでよかった」
三井が急に立ち上がった。
「じゃあ」
「え?帰んのかよ」
「梨香には最後までいたことにしてやるから」
こいつ、ほんっと。
「梨香さんって?」
「ああ、奥さんです」
弱み握られたな。最大の。
「三井君も知ってる人なの?」
「ああ、みんな大学が一緒だったの」
「ふうん。そうなんだ。楽しかった?」
千夏が横を向いた時、彼女のきれいなうなじが見えた。そして横顔が少し寂しそう。参ったな。俺、今日、酒入っちゃってるし。三井のやつ、絶対俺のこと試してる。
「楽しかったよ」
千夏もいればよかったのに。そうは言わなかった。千夏がいれば、きっと全て違ったろうな。
「三井がわざわざこんな席セッティングしたの、なんでか知ってる?」
「え?」
千夏がこっち向く。
「俺のためでも、千夏のためでもない」
どうしてこういうことになってしまったのかな。
「梨香のため」
「どういうこと?」
「僕の奥さんは、三井が初めて本気で好きになった人」
「ええっ?」
「笑えるでしょ?」
ははは。
「あ、ごめん。笑えないか」
俺、緊張してんのかな、今日。
「でも、奥さんは僕のことがずっと好きで、で、僕には別の彼女がいて、こう不思議な追いかけっこみたいなのをしてたんだよ。何年間か、僕たち」
時には笑えて、時には泣ける。どたばたした日々だった。
「僕が仕事のことで悩んでさ。親父と一緒の銀行員なったけど、本当にこのままでいいのかなって、もっとこう自分が役に立っているって思える働き方がしたくてさ。思い切って転職したらさ、彼女に振られて」
いろいろあった。それなりに。
「結構大切にしてたんだよ。結婚も考えてたしさ。でも、銀行員じゃない僕は好きじゃないんだってさ。ちょっと女性不信になったよ。そんときに梨香が、職業とかいろいろそういうの関係ないそのままの僕が好きだって」
千夏がぼんやりと僕の話を聞いていた。
「ごめん」
はっと我に返った。
「つまんない話ぺらぺらと」
やっぱり調子狂うな、今日。
「いや、改めて、素敵な結婚したね。おめでとう。一樹君」
乾杯する。
「飛行機のチケットを自分で買えるようになった時に、君の連絡先を知りたかったな」
彼女がちょっと驚いた顔でこっちを見た。
「ごめん。男ってさ、女の人と違って結構ひきずるんだよ。俺、結構時間かかってた。君のこと思い出にするのに。だから、会いに行って振られたかったな。ちゃんともう一回」
何も言わない。千夏。
「そういうのがあって、三井がそういうのよくわかっててさ。ちゃんとけりつけさせるために今日セッティングしたんだよ。ごめんね。つきあわせちゃって」
千夏は控えめに笑った。やっぱりきれいな人だった。この子、僕と一緒にいたときはどんな風に笑ったっけ?どんな話を2人でして、何がおもしろかったんだっけ?悲しいな。全部忘れてしまった。
どうして僕はこんなきれいな人を自分のものだと思ってたんだろう?僕は夢を見てたんじゃなかろうか?残酷だな。三井は。現実の千夏と会ったことで、美しく作り上げていた僕の思い出は風に吹かれてばらばらになった。今日から僕はこう思うだろう。
あれは、夢だった。手の届かない。手の届かないものは美しい。
2人で昔の同級生の思い出話をして、とりとめのない話して、そして、僕たちはそんなに話が盛り上がらないことに気付く。お互いに。千夏はあまり元気がなくて、元気がないというより、きっと僕が退屈な男なんだよね。
「もうそろそろ行こうか」
席を立って、
「ここは俺が払う」
財布出そうとする千夏を遮って、
「三井からも後からもらうから」
そう言って、店の外に出る。別れ際に彼女に言う。
「千夏、幸せになれよ。結婚式には呼んでよ」
「わたし、結婚の予定なんかないよ」
「結婚することになったらさ。待ってるから」
そう言ったら、笑った。小さく。そして、去って行った。僕だって笑いながら見送った。でも、悲しかった。彼女には言えなかった。結構長い時間、僕は本当にひきずっていた。
1人で空を見て、いつも授業中に授業聞かないで空見てるあの子の背中を思い出しながら、この空の下に、同じ空の下に千夏もいると思って、もしかしたら今同じ時にあの子もまた、授業をさぼって空を見ているかもしれないと思いながら。
千夏は周りのみんなとあまり連絡を取ってなくって、それに、大学も日本に帰らなかったから、大学生になったあたりで連絡先が分からなくなってしまった。どうやらアメリカにいるらしいといううわさは聞いていた。
風が通り抜けるような悲しい波が去って、その後によかったと思う。
人は年を取る。こんな感情の嵐のようなものも、持ち続けられないんだ。覚えていられないんだ。今日、千夏に会ったことで気づいた。たくさんのことを忘れてしまっていることに。そして、もちろん彼女にとって僕は取るに足らない過去だということ。
歩き出す。三井に電話かける。アリバイのために。
「今、帰る、1人」
「なんでわざわざ報告するの?」
「ビミョーな感じで2人にするなよ。お前」
「そういう雰囲気にならなかったの?」
僕はため息をついた。
「あらためて会って思ったけど、あの人は僕には高嶺の花すぎる」
「ふーん」
「だから自分の花を大切にするよ。お前にはやらない」
「誰もくれとは言ってない。俺だって妻子持ちだ」
え?一瞬耳を疑った。
「え?何?子供?」
三井が笑ってる。先越されたな。まあ、当然か。
千夏
日本語ばっかだな。変なの。ああ、そうか、ここ日本か。
電車に1人。お父さんとお母さんのマンションに戻る。
太一は、あの子は家族と一緒。遊びに来るはず。明日。子連れで。もう5歳だよ。下の子2歳。
みんな結婚してんじゃん。ああ、トモがまだか。でも、あいつも四谷先生とか言われちゃってさ。そのうち、きっと誰かと結婚するんだろうなぁ。
今日は、誰かの腕の中で泣きたいなぁ。
誰もいないじゃん。胸貸してくれる人。わたしには。
この年でお父さんかお母さんか、笑えないなぁ。
ちゃんと折々のときに忠告してくれた人がいる。無視した罰だ。
ひとりぼっちになっちゃった。
一樹君は嘘ついたよな。たぶん覚えてないだろうけど、あの人も鎧派だって言ったじゃん。恋愛は不器用だって。全然不器用じゃないじゃん。そして、わたしが超のつく不器用だっていうのも忘れちゃったよね。
1人で砂浜で足踏みしてる間に周りから誰もいなくなったじゃん。
決めた。尼になろう。尼になった気持ちで、わたしは日本のアニメ文化を世界に浸透させてやるんだ。男がなんだ。
電車の席に座りなおす。酔いがさめた。というかもともとそんな酔ってなかったんだけど。そして、ふとトモのことばを思い出した。天啓のように。
「ちゃんと反省して悔い改め、精進しようとすれば、もう1回だけチャンスが来る。見逃すな」
あいつ、神がかってたなぁ、あの一瞬。もともとクリエイターだからスピリチュアルな人なんだけど。本当だろうか。30女にラストチャンス?
***
年明け、日本から上司が出てくる。2か月に1回、出張してくる。
「一年間の予定でお前の下に研修目的で1人入れるから」
そう言って配属される社員の資料渡された。
「え?研修?そんなのって今までありましたっけ?」
「お前1人じゃまわんないし、下を育てないとさ」
そのファイルの名前に目が釘付けになった。
「これ、男ですか?」
「なんだ、お前。露骨だな。その言い方」
ずずずずず、お茶飲んでる。おっさん。
「いや、別に。男か女かわかんなかったから聞いてるだけじゃないですか」
「その名前で女なんかいるか?」
上条樹
「これ、いつきって読むんですか?」
「そうだね」
漢字がちょっと違うけど、同じ名前だ。
「その後ろにのってっけど、25歳独身男子。写真、結構かわいい顔してたよ」
上司を見返す。
「ああ、そうですか」
「そこで、ええ?本当ですか?とかってはしゃがないからな。お前はいきおくれるんだよ」
「セクハラですよ」
「ばかやろう。おじさん世代はお前のこと心配してんだよ。最近の若いやつはほんとうに腰抜けばかりだな」
ちょっとため息つく。
「本当ですね」
「まぁ、仕事でかなわないからな。大抵の男は、お前に。だから、社内は無理じゃない?」
「そうですね」
この子もたまたま名前が縁ある人に同じだったってだけ。同い年でも無理なのに、年下はありえないか。わたしには。資料もらってデスクへ戻る。履歴書を開く。これはまぁ、ほんとに社会人?学生みたいにかわいい顔。これは、またトレーシーが騒ぐだろうなぁ。
ぼんやりと窓から外を見る。新しい年になって、新しい人が来て、こうやって人は前に進んでいくんだな。過去から離れるために。
今日は空がきれい。わたしは空の水色が好き。
現実的には、中学生でここまで忘れられないような恋をすることってないかなぁと思いながら書いてました。まぁ、これは小説なので、これでいいと思うんですが。
千夏ちゃんは前から好きなキャラであちこちの小説に登場しているんですが、全部外側から書いていて内側を書いたのが初めてでした。だから、彼女の性格とか人となりは今回の小説で完全に決まりました。自分でも書いていて、彼女の心の中からなんかとんでもないの出てきたなと。あそこまで極端な考えを書いてしまったから、2人がかわいそうだから再会してうまくいく話書きたい衝動もありましたけど、まぁ、一樹君だけが幸せになり、千夏ちゃんがどん底で終わるというラストになりました。
これで決定してしまってこのあとの話書けるんだろうか、とここ2、3日迷ってたんですが、一応続く話のアウトラインが浮かんだので、あのとんでもない信念を入れたまま、完成形とします。
自分としては娘に対しての応対が父親の清一さんと夏美さんで違うのが書いていて面白かった。高校生ぐらいからの2人を書いているので、なんとなく夏美さんならこう感じて、清一さんならこう言うんじゃないかというのがあって、わりとすらすら親の部分は出てきました。苦労したのがやっぱり太一君で、途中からまた消えてしまった。すみません。
本当は、この一作は連作にするつもりはなくて、独立した一つにして、太一君の話を書こうと思ってたんですが、千夏ちゃんに引っ張られてしまいました。どん底に落ちた彼女を引っ張り上げてあげたいので、このまま千夏ちゃんの話を書こうと思います。
あの信念と彼女の不器用さをどう崩していくか結構難しいだろうなと思いつつ。
前作に引き続きコロナウィルスが無事終息しますように。
2020年2月7日
汪海妹