2度目の絶望
2度目の絶望
千夏
毎日が少しずつかたくなりながら過ぎてゆく。わたしたちはばらばらになる日に向けてカウントダウンしていく。そんなのとっくにわかってたよなぁ。
今日もわたしは空を見ている。空の色が好き。こういう水色、一樹君が来たら似合うかなぁ?
「中條」
あてられた。適当に答えた。もう一回、空を見る。
時間が止まればいいのに。
だけど、終わりのない毎日ってきれいなんだろうか?
今までって、小学校から中学校ってわくわくしてたじゃん。それに、転校だって二回してる。わたしは変化が好きだったじゃない。インターに行って、いろんな国の子と勉強する。きっと楽しい。わたし、この前まで喜んでなかったっけ?普通にわくわくしてたよね?
間違っていないはず。それなのに、どうしてだろう?ずっと憂鬱だ。
お父さんと話した話が心の底にある。ずっと。
失ってならないもの。
そんなの、まだ若いわたしにあるわけない。生命とか家族とかわたしがインターに行ったからって失うものじゃない。
「勉強はかどってる?」
「うん。まぁ、ぼちぼち」
「なんか、元気ないね?」
一樹君の顔見た。
「いや、元気だよ」
「ねぇ、一樹君」
「なに?」
「今度数学教えてよ」
一樹君、目丸くした。
「千夏に勉強教えるなんて、絶対やだ」
「なんで?」
「必要ないじゃん。教わらないとわからないところなんてあるの?」
「あるよ」
本当は時間を増やしたかっただけ。終わりが来るまでの時間を増やしたかった。
一樹
少しずつ暑くなる。少しずつ勉強以外のこと、部活とか、する時間が減っていって、勉強する時間が増えてくる。受験生だからね。やっぱり。
千夏が言い出して、週末に時々図書館で一緒に勉強するようになった。香港の中央図書館。あのほんのわずかな時期、まるでつきあってるみたいだった。
待ち合わせて一緒に図書館行って、別々の席で勉強して、一緒にお昼ご飯食べて、夕方になったら一緒に帰る。時々、学校の子で他にも勉強に来てる子がいて、見られたし噂になったけど、気にしなかった。
三井と星野にでくわしたこともあった。
「なんだ、結局お前らつきあってるのか」
面と向かって言われて、千夏が返答に窮してる。
「ご想像にお任せします」
と言うと、僕のかたわらでくすくす笑った。
「ね、お昼一緒に食べようよ」
星野に言われて、千夏が何か言う前に僕が遮った。
「ごめん。2人のほうが楽しいから。そっちも同じでしょ?」
え~と星野が言って、三井が笑って、それでまたそれぞれの席に戻る。あいつらにはまだ時間があるし、それにきっとあいつらはもし別れてもそれぞれすぐ次の恋ができるだろう。
僕の時間を奪わないでほしい。
「本当に俺に聞くの?」
「うん。解答見せてよ」
「いいよ」
僕の問題集に書かれた解答を見ている。
「あ、ここがちょっと違うな。わたしのと」
自分の問題集取り出した。
「やっぱりもう解答できてるんじゃん」
「え、でも、比べてみたかったんだよ」
にこにこしてる。
「一樹君って字きれいだね」
「そお?」
「女の子みたいな字書くね」
「それ、褒めてるの?」
「わたし、字きれいな人って好き。なんか丁寧に生きてる感じがする」
そう言って僕を見てきれいな笑顔を見せた。その笑顔はトモを尊敬してると言ったあの
笑顔には届かなかったけど、それでも、僕の願望を満たした。
「じゃあ、こんな僕にもちょっとは長所があるわけだ」
「え?何その卑下した言い方。いっぱいあるじゃん。いい所」
「別に顔がいいわけでも、頭がむちゃくちゃいいわけでも、特別な才能があるわけでもないのに?」
千夏が困った顔で僕を見た。まずい。言わないほうがよかったな。こういうこと。
「でも……」
千夏がその時、なにか言おうとした。
「でも、わたしは三井君なんかより一樹君のほうが全然いいと思うよ」
びっくりした。三井には悪いけど。そのいいって、男としていいって言ってるんだろうか?それとも?
「あいつのほうが全然もてるけど」
千夏はもう一回、口を開いた。この子が言い出すまで僕は待った。
「もう少し大人になったら、きっと、一樹君のほうがもてるようになるよ」
この子は自信のない友達を励ますためにこういうこと言ってるの?
「ありがとう」
それとも、今なら手ぐらいつないでも怒んないんだろうか。この子は。あの千夏が?
その日の帰り道。バスに並んで座っている時に試しに言ってみた。
「ねぇ、千夏」
「なに?」
外見ていた顔をこっちへ向けた。
「手、つないでもいい?」
何も言わずにじっと見られた。うん。やっぱりだめだ。これは。
「ごめん。なんでもない」
そう言って前見た。あれは友達へのエールだったんだ。早とちりした。
「いいよ」
空耳だろうか。彼女をもう一度見る。
「いいの?気持ち悪いんじゃなかったっけ、こういうの」
口開けて何か言おうとしている。うん。苦労しながら話してる。今、この人。
「一樹君は」
「はい」
「気持ち悪くないです」
それを、その言葉を聞いて、この人はもしかしたら僕のことを好きなのかもしれない。僕の気持ちの重さに対してきっとそれは軽いのだけれど、初めてそう思った。
千夏の手は、僕にとって特別な手だった。それまでに触れた誰のどんな手よりも。そして、その後に触れた、握った女の人たちの手より、指より。
僕は彼女が好きで、そして彼女の手も好きだった。
つないだ手から言葉にしない何かが伝わる気がした。言うまでもなく僕が彼女を好きだというその気持ちが。
時間が過ぎていく。みんなが見てない所で彼女と手をつないでいる間に。束の間の幸福な時間だった。終わることを忘れていたい幸福な時間。
でも、夏休みが始まるその時に、僕はもう一度絶望した。
「ごめん。一樹、ごめんね。本当にこんな大切な時期に」
母方の祖母が突然の病で倒れてしまい、僕たちは帰国を余儀なくされた。
僕は香港で卒業式を迎えることができなくなった。
***
「何聞いてるの?」
千夏の最寄りのバス停まで歩いて行って、ベンチに座って、僕はいつも彼女を待った。
「音楽」
「わたしにも聴かせて」
イヤホン外してつけてあげる。音楽聴いてる彼女の片手を取って、両手で包んだ。
「ああ、これ、TVのCMで聴いたことある。結構好き」
ふと思いついた。そうだ。最後にもう一回千夏と出かけたい。
「来月来るんだよ。香港に。一緒にコンサート行かない?」
「え、そうなの?」
「前言ってたじゃん。わたしの興味ないことに一回つきあうって」
「ああ、映画の代わりに?いいよ」
簡単にOKした。
「じゃあさ、全然知らないままいくとつまんないからさ。わたしもダウンロードするよ。何買えばいいのかな?」
そう言いながら、僕のスマホ勝手にいじってアルバムを見ている。その横顔を見ながら思う。あと半年は一緒にいられるはずだったのに。折角手、つないでもらえるようになったのに。何か、僕、前世で悪いことでもしたのかな?神様は意地悪だね。
***
「一真、元気?」
「ああ、一樹か。珍しいな。お前からかけてくるなんて」
そう言われて、ふと気づく。そういえばそうだな。俺、いつもこいつの電話を待ってるばっかりだった。
「あのさ、俺、東京戻るよ。来月」
「そうなの?」
「うん。ばあちゃん倒れちゃってさ」
「そっか」
「うん」
ふと話すことがなくなる。ほんとはある。千夏のこと。一真に話したかった。切り出し方がわからなかった。
「なんか変わったことあった?最近」
「そうだな。受験生になったな」
一真が電話の向こうで笑ってる。今日は元気みたい。こいつ。
「それ以外には?」
「彼女ができたみたい」
え~。と騒いでいる。
「よかったじゃん。前言ってた子?」
「うん。でもさ、よくないんだよ。これが」
「なんで?」
「彼女は高校、香港で行くから離れ離れなっちゃうんで」
「ああ」
ちょっと沈黙。
「遠恋すればいいんじゃないの?」
「ああ……」
一年に一回か二回しか会えない関係か。電話やラインでつながって?
「いつまで離れ離れっていうのがはっきりしてたらな。いいんだけど。三年もばらばらは確実だし」
はははと笑う。
「ちょっと想像つかないなー」
千夏はどう思うんだろう?彼女はそんなに長い間、そんなめんどくさいことしたいほど、僕のことが好きだろうか?それはさすがにないと思う。
「なぁ、女の子ってどうすれば忘れられるんだ?」
「簡単だ」
「うん」
「新しい女を作ればいい」
「なるほど」
「俺が紹介してやる」
「いや、それはやだ。それ、お前のおさがりってことだろ?絶対やだ。断る」
一真が大笑いしている。それを聞いていて、少しだけ心が軽くなった。
「なぁ、お前はさ、忘れられないような女の子っていた?今まで」
「え~?ちょっと待てよ。思い返すから」
「いや、そう言ってる時点でいないんだよ」
もう一回2人で笑った。
「羨ましいな。お前が」
え?なんか言ったか?と言っている。
千夏
クローゼットからいろいろ服取り出した。ひとつひとつ鏡の前であててみる。なんかいまいちぴんとこないな。
「何やってんの?」
お母さん来た。
「ああ、明日何着てこっかなって」
「ああ、友達の一樹君とでかけるんだっけ、コンサート?」
母を振り返る。にこにこしてる。ほっとくか。取りあえず。
「ちょっとだけお化粧しちゃおうかなぁ」
「ちょっとだけにしときなよ」
「なんで?」
「お母さんの知ってる限りでは、男の人ってわりと化粧してない顔好きな人多いの。それで、若い子なんてさ。学生の子ね。まだ、化粧してる顔見慣れてないから、きれいよりなんか違和感?みたく思うんじゃない」
「ああ、そうなんだ。じゃ、やめた」
一樹君はどんな服着てる子が好きなのかな?聞いときゃよかったな。
時間見た。まだ早い。電話してみようかな?と思って、やめた。ばかみたい。自分で着る服自分で決められないなんて。
「お母さん、まだいたの?」
「だめ?」
「忙しくないの?」
「食器洗わないとだめだね」
「じゃ、洗ってきなよ」
出てった。化粧はしない。じゃあ、髪は?おろしてるほうが好きなのかな?あげてる方が好きなのかな?それも知らない。ああ、知らないことだらけだな。
途中でちょっと倒れこんだ。ああ、結構疲れるな。わたし出かける前の日にここまで悩んだことあったっけ?今まで。
軽く目を閉じて、もう一回開いた。
さっさと決めてしまえ。わたしらしくない。
とりあえず服は、わたしが持っている中でいちばんひらひらしているのにした。星野ちゃんにあやかってみよう。だから、髪もくるくるだ。明日は。いつもと違う感じってことで、よし、寝よう。
一樹
結局、予定より早く日本に帰るということを言いそびれたまま、約束したコンサートの日になった。母親は妹連れて一足先に帰国していて、僕だけわがまま言って、父親と一緒に数日残った。コンサートの次の日の便で1人、東京へ帰る。空港まで誰か迎えに来ているはずだった。
荷物はもうほとんど送ったり、スーツケースにまとめてあった。荷物を整理する作業のうちに、ああ、もうここを離れるんだって心も整理した。
千夏は何ていうだろう?想像つかなかった。笑って明るくバイバイがいいな。こうなったらもう、軽く終わらせたい。
そして、たまに連絡取り合って、久しぶりなつかしいみたいにたまに会って……。
そうだ、だから、僕が好きだってことは言わないほうがいい。
きっともう、彼女もわかってるだろうけど。
好きだというときに僕はきっと僕の気持ちの重さを見せてしまう。だから、それをやめよう。
「一樹君」
考え込んでたら、千夏が来ていた。気がつかなかった。
「あ」
顔をあげた。なんか今日はいつもとちょっと違った。
「なんか今日かわいらしいね」
「うん。星野ちゃんの真似してみた」
そう言って笑った。なんか千夏らしくないかっこだったけど、なんていうのかな、それはそれでよかった。彼女がいれば僕はそれでよかったから。
手つないでバス乗って、千夏のおしゃべり聞いて、明るい午後の日差しの中を、バスの窓から昼寝をしている犬を見た。杖ついて歩くおばあさん。髪の毛がいつもよりくるくるして、星野みたいに見える千夏。
僕はここを明日離れたら、いつかまた大人になってから香港を訪れることがあるだろうか?意外とないかもしれない、そんなふうに思う。
コンサートの前にお茶して、コンサート聴いて、帰りに軽くご飯食べて帰る。彼女の家に着くまで僕は話を切り出さなかった。
バスがバス停に着いて、僕は彼女にくっついて降りる。
「ここで降りるの?」
「千夏、まだ話があるの。今日は」
彼女はご機嫌に笑っていた。僕はきっとおなかでも痛むような顔してたと思う。
「君の家の周りを散歩しながら、ぐるっと」
明るい顔を見ながら言う。
「僕の話聞いてくれない?」
小首を傾げながら、
「何の話?まあ、でもいいよ」
と言った。
笑って明るくバイバイがいいな。深刻にならないように終わろう。僕は苦しみたくない。
「実は、おばあちゃんが倒れちゃってね。日本の」
やっぱり手をつなぎながら、僕の好きな千夏の手を。
「卒業を待たずに日本に帰国することになったの」
彼女は足を止めて、そして顔から笑みを消した。
「いつ?」
言いづらかった。これ、僕、騙してたみたいなことになるのかなぁ。
「明日」
彼女は黙って口を閉じて、僕をじっと見て、そして、泣き出してしまった。
「ごめんなさい。もっと早く言ったほうがよかったかな」
早く言っても、長く一緒にいられないのは変わらない事実で、悲しいのも。
「誕生日のプレゼントあげるの約束してたのに、明日じゃ間に合わない」
でも、泣きたいぐらい悲しいのは僕だけだと思ってた。今日まで。
「一樹君に何色が似合うのか何度も何度も考えてたのに」
「ごめんなさい」
僕が思っている以上に千夏は僕のことを大切に思っていてくれたのかもしれない。もしかしたら。僕の気持ちをきちんと彼女に言わず、そして彼女の気持ちをちゃんと確かめたことがなかった。今まで。ただ、想像するばかりで。
「ごめん。ずっと好きだった。千夏のこと」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったの?」
「忘れちゃった?」
泣きながらきょとんとした。
「初めてまともに口きいた日に、千夏、男の子がこわいって、友達として接してくれるならこわくないって言ったでしょ?千夏の嫌なことはしたくなかったから」
だからずっと、千夏が平気になるまで、準備ができるまで待っていた。
「もう会えなくなるから言っちゃったけど」
「わたし、でも、知ってたよ。言われなくても」
「そっか」
聞いてもいいのかな?やっぱり最後だし、聞きたいな。
「千夏は?」
彼女が顔をあげた。かばんからハンカチ出して、涙ふいてあげた。
「千夏は僕のこと好きだった?」
夜の街の灯りが彼女を照らしていて、彼女の瞳の中にもきらきらとなにか光が見えた。
「うん」
小さい声でそれだけ。それが彼女の精一杯で、それで、僕には十分でした。
「連絡は取らないほうがいいのかな?」
「連絡が来ると」
ぽつりぽつりと彼女は話した。
「会えないのが苦しくなると思う」
そして彼女は目を閉じた。
「もし、わたしに新しい好きな人ができたとしても、あなたから連絡が来たら、きっとその人のことはどうでもよくなってしまうと思う」
目を開いて悲しい目で僕を見た。
「どうすればいいんだろうね?」
そう言って笑った。どうして僕たちは一緒にいられないんだろう?きっと若すぎるからなんだよね。大人じゃないから。
「君が思い出になったら、僕は君に連絡をするよ」
連絡をして、会えないことが僕を貫いて苦しまないくらいに、千夏が思い出になったなら。
「それはいつなんだろうね」
「きっとすぐだよ」
「ひどいなぁ」
笑った。そして、僕を軽くたたいた。僕をたたく手をつかまえて、右手と左手。最後に彼女を抱きしめた。
「頭の片隅でいいから、僕のこと忘れないで」
彼女のほっそりとした体を抱きしめて、そして不思議だった。その瞬間、ほんとうに、僕はきっと生きていけると知った。新しい人と出会ってまた恋をする。
どんなに苦しくても、彼女を思い出にして生きていくのが見えた。
彼女をきれいな思い出にして。
「わたしのことも忘れないでね」
言うまでもない。僕はあなたを忘れない。