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悪魔の王子の婚約者  作者: 皇 英利
第一章
8/10

満月の夜に閃く紅き閃光

 スカイと喧嘩してから数日が経ち、ディデアはそわそわし始めていた。

 日にちが経ってもスカイに対する怒りは収まらず、顔を合わせるのも気まずいので、あれ以来王宮へは行っていなかった。

 スカイには会いたくないが、吸血鬼事件のことはとても気になる。あれから犯人のことは何かわかったのだろうか。

 わざわざスカイに会いに行かなくても、屋敷に帰ってきたウィリアムに訊けば事件のことはわかる。だが最近のウィリアムは屋敷には寝に帰ってきているだけで、朝食も摂らずにフィアンの寝顔を確認だけして早朝に出かけて行ってしまうので、そんな彼の時間をとらせるのは忍びなく、ずっと訊けずにいるのだ。


 ――だけど、もう限界だわ。こうしている間にも、次の被害者が出るかもしれないもの。


 スカイではなく、ウィリアムに会いに王宮に行こう。仕事の合間の休憩時間になら、少しだけ話すくらいは可能だろう。

 それなら身なりを華美に飾り立てなくても、この使用人の格好のままで、今すぐ王宮へ行ける。

 さっそくディデアはその旨を伝えるため、フィアンの自室へと向かった。


「フィアン様、私、これからちょっと王宮へ出かけてきます」


 読書をしていたフィアンは、振り返って明るい声を出した。


「まあ、ついに殿下と仲直りする気になったのね!」

「いえ、そういうわけでは……。というか仲直りも何も、私と殿下が仲良かったことなど一度もありません」

「あらそう? でもきっと殿下のほうは、あなたに会いたがっていると思うわよ」


 にっこりと笑うフィアンに、ディデアはそんなはずはない、と心の中で否定した。

 スカイとはそもそも契約上の関係だ。もともと婚約者役が必要なときだけディデアがその役をやるという約束だったし、それ以外にスカイと会う必要はなかったわけだ。ディデアが個人的に気になることがあって、スカイの周りをうろついていただけで。


「それでは、行ってきます」

「え、その格好で行くの? 王宮へ行くなら、また私のドレスを貸してあげるけど……」

「いえ、このままで大丈夫です。今日は殿下に会いに行くわけではありませんから」


 フィアンの申し出を断って、ディデアは王宮へ行くための馬車を用意するために厩へ向かった。




 リーズレット伯爵家の使用人として王宮を訪れるのは二度目である。門番が前回訪れたときと同じ人だったので、すんなりと通してくれた。王宮の中の地図は、もうすっかりディデアの頭の中に入っている。案内役は不要だと言い、ディデアは一人で長い回廊を歩いていた。


 ウィリアムが前に話していたところによると、一日の労働時間が長い日は食事時以外にも午前と午後に一回ずつ、小休憩を挟むらしい。今がちょうどその午後の休憩時間のはずだが、騎士団の詰所にウィリアムはいるだろうか。


 ――もしいなくても、ウィリアム様が休憩に入るまで待たせてもらえばいいわよね。

 

 そんなことを考えながら足を進めていると、聞き覚えのある声が聞こえてきて、ディデアはぎくりと足を止めた。思わず柱の陰に隠れてしまう。

 そっと顔だけ出し声が聞こえた方を見てみると、案の定眩しい金髪の青年――スカイがいた。彼は誰かと話をしているようだ。スカイの声に加え、若い女性の声も聞こえてくる。

 さらにもう少しだけ身を乗り出すと、女性の姿も見えた。ディデアと歳のあまり変わらない令嬢だ。話の内容までは聞き取れないが、何やら楽しそうな感じである。

 スカイが女性と話しているなんて珍しい。そう思いながら二人のことを眺めていると、


「あのー……、どうかされましたか?」


 通りすがりの女官に声をかけられてしまった。きっとディデアが不審な行動をしていたからだ。

 ディデアは慌てて両手を振って弁明する。


「いえあの、私はリーズレット伯爵家の使用人でして、ウィリアム様に用事があって王宮を訪れたのですが、とてもお綺麗なご令嬢がいらしたのであれは誰かなーと眺めていただけですっ」


 不思議そうにディデアを見ていた女官はスカイたちのほうへ目をやって、納得したように頷いた。


「ああ、あれはモーラン公爵令嬢の、フレデリカ様ですね」

「モーラン公爵……フレデリカ様……」


 どこかで聞いたことのある名前だと、ディデアは記憶を探る。


「フレデリカ様は殿下がご婚約される前、王太子妃候補第一位のお方だったんですよ。まるで人形のように綺麗で愛らしいお方ですよね。うっとり眺めてしまう気持ちもわかります」


 思い出した。モーラン公爵といえば、宮廷舞踏会でディデアが婚約者として一番初めに挨拶をした人だ。たしか娘のことをフレデリカと呼んでいた。そしてフレデリカを妃に、とかそんな話をスカイとしていた気がする。


 ――王太子妃候補第一位……。


 女官は「ウィリアム様は今、騎士団の詰所にいらっしゃると思います。それでは、私は失礼します」と丁寧にディデアに教えてくれてから、去って行った。

 改めて二人のほうに視線を移したディデアは、信じられないものを見て目を丸くした。

 あのスカイが……ディデアの前では仏頂面しか見せないスカイが、笑っていたのだ。フレデリカに向かって。

 フレデリカもスカイに笑い返す。彼女は本当に美しかった。フィアンに負けず劣らず可愛らしく、清楚で、わずかな動作にも気品が溢れている。さすがは深窓の令嬢だ。美男美女の二人は、誰がどう見てもお似合いだった。


 ――なんだ、ちゃんと親しい女性がいるんじゃない。だったらなんで、フレデリカ様を婚約者にしなかったのかしら。


 ディデアは自分の両手を眺めてみる。

 手袋をはいていないその手は、細かい傷でいっぱいだった。

 この手の傷は、使用人の仕事をしている証。リーズレット伯爵家に全身全霊でお仕えできているという証。

 フィアン様の、伯爵家のお役に立てているという誇らしい手だ。そのはず……だったのに。

 なぜ今一瞬でも、この荒れた手を恥ずかしいなどと思ってしまったのだろう。

 スカイの隣に自分は似合わない。そんなこと、最初からわかっていたはずなのに。そもそも似合う必要はないのだ。ディデアは彼の本当の婚約者ではない。

 本来なら、一生言葉を交わすことさえなかった人。自分と彼とでは、生きている世界が違いすぎるのだから――。


 ディデアはそっとその場を離れた。

 静かに、目的地である騎士団の詰所へ向かう。

 人のいない回廊へ差し掛かったときだった、何者かの不穏な気配を感じ取ったのは。


「っ!」


 いきなり背後から口と鼻に布をあてられる。


 ――しまった、反応が遅れたわ!


 もがこうとして無意識に息を吸った瞬間、目の前がぐにゃりと歪んだ。布に薬が仕込まれていたのだと悟ったときにはもう遅い。

 身体から力が抜け、くずおれるように床に倒れ込む。

 ディデアはそのまま眠るように意識を失った。



 ―――――――――――――



 頬に冷たい感触を覚え、ディデアはぴくりと瞼を動かした。

 意識がだんだん覚醒し、鉛のように重たい瞼をゆっくりと上げる。

 ディデアは知らない部屋の硬い床にうつ伏せになって倒れていた。部屋は薄暗く、窓から射し込む月明かりだけが室内を淡く照らしていた。室内の装飾を見る限り、ここはどこかの貴族の屋敷なのだろう。

 そういえば王宮で何者かに奇襲を受けて意識を失ったんだったと思い出す。

 手首と足首は縄で縛られていて、動かせなかった。

 

「おや、もう目が覚めたの? もう少しゆっくり眠ってくれていてもよかったのに」


 上から優雅な声が降ってきて、ディデアは自由にならない手足に苦労しながらも上半身を起こす。

 目の前には、優雅に足を組んで椅子に座っている男がいた。


「あなたは……」


 ディデアの知っている男だった。珍しい真っ白な髪に、自信溢れる優雅な顔つき。間違いない、サージェ・エングスハイムだ。だがその双眸はどういうわけか金色ではなく、ディデアと同じ血のような紅。

 ディデアの心臓が不穏な音を立て始める。背中に一筋冷たい汗がつたった。

 それきり何も言わないディデアに、彼がまた口を開く。


「なんだ、つい先日会ったばかりだというのにもう僕のことを忘れてしまったのかな、婚約者殿?」


 ――やはり彼は、私が王太子の婚約者だと気付いていて攫ったんだわ。


 ディデアは深呼吸する。


「どうして私が王太子殿下の婚約者だと思ったの?」


 サージェが口端を上げた。


「気配が同じだったからだよ。どれだけ姿形を変えようと、気配までは変えられない。君の気配は、他の人間とはまったく異なるからなおさらだ。……まあ王太子の婚約者が使用人の格好をしていたのには、多少驚いたけど」

「……私が知っているサージェ・エングスハイムは、瞳の色が金だったわ」

「ああこれ? どういうわけか満月の夜にだけ紅に変わるんだ。おかげで人間の振りをして生活している今は、かなり不便をしている。今日みたいな満月の夜は、出歩けないからね」

「やはりあなたは……!」


 ディデアは確信する。

 サージェは吸血鬼なのだ。


「ボロディン子爵令嬢を殺したのは、あなたなのね!?」

「ご名答。人間を襲うのは最近は控えていたんだけど、若い娘の血が恋しくなってね。ほんのちょっと妖力を使っただけで、彼女は僕の操り人形になってくれたよ。高貴な血の味というのは極上だった」


 血の味を思い出したのか、サージェは舌なめずりをした。その瞬間、ちらりと鋭い牙が見える。

 紅い瞳の吸血鬼。ディデアの脳裏に昔の記憶が蘇る。

 忘れもしないディデアの母が殺された日、夜空には丸い月が昇っていた。母を殺したのはまさか……!


 ディデアは彼を睨みつけた。


「……私を攫ってどうするつもり? 今度は私を餌にするの?」

「君を餌にはしないさ。僕は君と仲良くなりたいんだ」

「誰があなたと仲良くなんか……!」

「まあ僕の餌にはしないけど、王太子をおびき出す餌にはなってもらう」


 なぜサージェがスカイをおびき出す必要があるのだろう。まさか彼もスカイの命を狙っているのだろうか。だが、なんのために? 吸血鬼である彼にとっては、誰が国王になろうともどうでもいいはずだ。


「私を人質にするために攫ったの? ……だけどお生憎さま、私を人質にしたって殿下は来ないわ。殿下にとって私はいくらでも代えのきく、ただの都合のいいだけの偽の婚約者だもの」

「それはどうかな。……おっと噂をすれば、王子様の到着だ」


 サージェが立ち上がり、窓の外を見る。


 ――王子様……? まさか、本当にスカイが来たの? どうして……。


 ディデアが別のことに気を取られている間に、サージェがゆっくりと部屋から出ていく。彼は扉を閉めた後、ご丁寧に鍵までかけていった。

 ディデアは這いずりながら窓に近付き、膝立ちになって外を覗く。

 この部屋は地面との距離から察するに三階だったらしく、遠い地面にスカイがたった一人で立っていた。誰かを探しているのか、辺りをきょろきょろと見回している。

 ディデアは今すぐ彼に向かって叫びたかった。ここにいては駄目だと、早く王宮へ帰れと。いくらスカイでも、たった一人で吸血鬼に敵うはずがない。

 だがここで叫んだとしてもディデアの声は彼に届かない。分厚い窓が邪魔をする。

 まずは手首に縛られた縄をどうにかするべく、ディデアは両腕に力を込めた。



 ―――――――――――



 エングスハイム侯爵家へやって来たスカイは、屋敷を見上げた。

 まだそこまで深い時間ではないというのに、どういうわけか屋敷の中は灯り一つついていない。

 空には最大にまで膨らんだ満月が、人間を見下すように堂々と鎮座していた。

 屋敷の正面玄関が開き、一人の男が白髪を夜風になびかせながらこちらに歩いてくる。月明かりに照らされた彼の瞳は、不気味に紅く輝いていた。

 彼のことは前に少し見ただけだから瞳の色まで覚えていなかったが、あんな色をしていただろうか。

 スカイはその男に鋭い眼光を送った。


「いったいどういうことだサージェ・エングスハイム。『婚約者を返してほしければ一人でエングスハイムの屋敷へ来い』などという陳腐でふざけた手紙を送りつけやがって。馬鹿にしているのか」

「そう言いながらもちゃんと来てくれたんだね。……まあ、さすがに一人ではないようだけど」


 サージェが横目で門のほうを見た。

 スカイは舌打ちする。


 ――もうばれているのか。


 スカイは相手に言われるがまま、敵地にのこのこと単独で乗り込むような愚者ではない。一人で来たと見せかけて、実はウィリアムを門のところで待機させていた。サージェにはお見通しだったようだが。


「……まあいい、お前とはちょうど話がしたかったところだ。わざわざ機会をつくる手間が省けたと感謝しよう」

「へえ、一国の王太子がいったい僕に何の話を?」

「その前に俺の婚約者はどこにいる」


 サージェはにい、と口角を上げると、いきなり地面を蹴ってスカイとの距離を詰めてきた。スカイは腰の剣をすばやく抜くが、目の前に迫ったサージェの姿が突然消える。


 ――なっ! どこに行った!?


 スカイが振り向く前に、耳元でサージェの声がした。


「あの子は屋敷の中にいるよ。心配しなくてもまだ傷ひとつつけていない。か弱いままのあの子を一方的に甚振ったって、ちっとも面白くないからね。僕を倒すことができれば返してあげる」


 スカイは振り向きざまに剣を大きく振った。

 スカイの真後ろにいたサージェは、軽く横に跳躍して刃を避ける。


 ――こいつ、何者だ。


 明らかに普通の人間の動きではない。過去をいくら調べても何も出てこないという時点で、怪しいとは思っていたが。

 スカイは満月を背に立つサージェを見据える。


「ボロディン子爵令嬢を殺したのはお前か」

「婚約者とまったく同じことを訊くんだね。そうだよ」

「なぜあんな小細工をした」

「小細工?」

「とぼけるな、令嬢の首筋に穴を二つ開けて、犯人があたかも吸血鬼かのように細工をしただろう」

「吸血鬼かのように……」


 呟いた彼は、次にくすくすと喉の奥で笑い出した。


「何がおかしいっ?」

「吸血鬼かのようにって、吸血鬼なんだから当たり前だろう? 牙で皮膚に穴を開けなければ、いったいどうやって血を飲めっていうのかな?」

「……何を言っている……?」


 サージェはまるで自分が本物の吸血鬼かのように言う。

 スカイは人を一人殺しておいて飄々としているサージェにイライラした。


「吸血鬼などいるわけがないだろうっ。もういい、罪を認めたのなら大人しくさっさと鉄格子の中へ入れ!」

「ああ、王太子殿下は吸血鬼をまったく信じていないタイプなんだ。……じゃあ、証拠を見せてあげようか?」


 そう言って、彼はまたも急速にスカイとの距離を詰めた。

 相手の動きの速さが常人離れしすぎていて、まったく反応のできなかったスカイは蹴り飛ばされる。近くの木の幹にしたたかに背を打ちつけ、スカイは短く呻いた。その隙に目の前に来たサージェがなぜか口を大きく開けて、スカイの首筋に喰らいつこうとする。

 危機感を覚えたスカイは手に持っていた剣を彼の喉元に突きつけた。


「おっと」


 たった今信じられないものを見た気がして、首を仰け反らせ動きを止めたサージェの口を、スカイは凝視する。

 そんなスカイに気付いたサージェが、唐突ににやりと笑った。白い八重歯を見せつけるように、わざとらしく。

 スカイは目を見張る。やはり見間違えなどではなかった。サージェの八重歯は人間のそれよりも明らかに長く鋭く――獲物に食らいつくための牙だった。

 スカイの鼓動が早くなる。

 常人離れした身体能力。獲物を狩るための鋭利な牙。目の前で実際に見せつけられて、スカイはこれまでの自分の価値観を覆さなければならなかった。


 ――まさか、本当に実在したのか?


 今まで空想上の生き物に過ぎないと信じ込んでいた。だが、スカイの眼前にいるサージェはまさしく……。

 サージェが己の喉元に突き付けられた刃を素手で掴んだ。その手から鮮血が滴り落ちる。


「この剣をどけてよ。一度味わってみたかったんだ、神に選ばれた王族の血ってやつを。できれば若い女の子がよかったけれど、贅沢は言っちゃいけないよね」

「……男に血を吸われるなど、死んでもごめんだっ。気持ちの悪い!」


 どうやってこの状況から抜け出すかスカイが必死で考えていたとき、


「スカイっ!」


 屋敷の門からずっと様子をうかがっていたウィリアムが、助太刀しようと剣を片手にこちらへ駆けて来た。

 はっとしたスカイはウィリアムに叫ぶ。


「来るな!」


 サージェが無感情にウィリアムを見る。ウィリアムとサージェの視線が交わった。サージェが口を開く。


「お前に興味はないよ。引っ込んでてくれる?」


 サージェがそう口にしたとたんウィリアムは急に立ち止まり、糸を失った操り人形のように地面にくずおれた。そのままぴくりとも動かない。

 何が起こったのか、スカイには理解できなかった。


「ウィリアムに何をした!?」

「しばらく眠っているように、指示しただけだよ。僕がととのえた舞台に、彼は必要ないからね」

「……その妖しい力を使って、エングスハイム侯爵にも取り入ったのか」

「貴族の優雅な暮らしに少し憧れてね。……けどまあ、思ってた以上に退屈だったなあ。彼らはよく飽きもせず、毎日お茶会だ夜会だと楽しめるもんだね。あんなののどこが楽しいんだろう? 理解に苦しむよ」


 そう言って肩をすくめるサージェの腹部を、スカイは渾身の力を込めて蹴り飛ばした。サージェがスカイから離れよろめくが、すぐに背筋を伸ばしてぴんと立つ。手から流れる自分の血を妖艶に舐めとると、その傷は見る見るうちに修復され元通りになった。

 スカイは剣を握りしめる。地を蹴り、細心の注意をはらって今度こそ相手を仕留めるつもりで刃を振るった。

 だがスカイの剣をひらりと華麗にかわしたサージェはスカイの首を掴み、そのままスカイを地面に引きずり倒す。

 後頭部を強打することは何とか免れたが、馬乗りになったサージェに身動きを封じられる。

 奥歯を噛みしめるが、スカイがどれだけ力を込めてもサージェを振り払えそうにない。

 心の中で舌打ちをした。


 ――やはり無理なのか。人間の力では吸血鬼には勝てないのか。吸血鬼なんていないと高を括っていた俺が吸血鬼に殺されて終わるなんて、笑い話にもほどがある。


 スカイは首を絞めてくるサージェの腕を、爪を立てて握りしめた。

 ……いやまだだ。まだ終わってはいない。自分はこんなところで死ぬわけにはいかない。

 血の繋がっていない父王が成し得なかったことを――数多の民が暮らすこのアルカディア王国を、護り導いていかねばならない。

 それがこの国の王子として生まれ、あらゆる特権を享受してきたスカイの責務だ。


 スカイは怪しく光る二つの紅色を、憎悪を込めて睨みつけた。



 ―――――――――――――



「ウィリアム様!!」


 地面に倒れそのまま動かなくなったウィリアムを見て、思わずディデアは叫んだ。

 次にサージェに馬乗りになられ手も足もでないスカイに、ディデアは歯を食いしばる。

 さっきから懸命に手首に縛られた縄を解こうとしているが、どれだけ頑丈な縄なのか、どれだけ足掻いても解ける気配が一向にしない。


 このままではスカイが危ない。サージェがスカイをどうするつもりなのかは知らないが、ディデアを人質にしてまで呼び出したということは、何かしらの害を与えるつもりなのだろう。

 ディデアは覚悟を決める。


 ――できれば、この力は使いたくなかったのだけれど……。


 先祖から与えられた、ディデアの奥底に眠る力。

 ディデアはずっと、この世で人間らしく生きてきた。自分が普通の人間とは違うことを自覚しながらも、必死に正体を隠し、人間と共存してきた。人の中で生きることが、ディデアの望みだったから。

 だって孤独は辛く悲しく寂しい。

 リーズレット伯爵家の使用人となり幸せを感じるようになってからは、なおさらこの力は使うまいと心に決めていた。力を使うことは、自分が人間でないことの証明だから。ディデアはずっと普通の人間になりたかった。きっと、一生叶わぬ夢だけれど……。


 だが今はそんなことを言っている場合ではない。一刻も早くスカイを助けに行かなければ。

 ディデアは目を閉じ息を吸うと、己の本来の力を解き放った。

 彼女の身体が黒い靄に変わり、手足を縛っていた縄がぽとりと床に落ちる。

 靄となった身体で窓のほんのわずかな隙間を通り抜けると、ディデアは猛スピードで地面に向かって降りていった。





「そこを退きなさい、サージェ!」


 地面ぎりぎりで元の姿に戻ったディデアはスカートの中に忍ばせていた短剣を握り、サージェの脳天めがけて振り下ろした。

 ディデアに気付いたサージェが、スカイの上から飛びのく。彼女の短剣は空を切った。

 ディデアが身軽に地面に舞い降り、スカイを護るようにサージェの前に立ちはだかる。


「スカイ、無事!?」


 振り返り訊ねるが、スカイは何も答えない。かわりにいつもは冷たいアイスブルーの瞳をいっぱいに見開いて、ディデアを凝視していた。その視線に射ぬかれて、ディデアの胸がちくりと痛む。

 しかたのないことだ。普通の人間ではあり得ない姿を見られてしまったのだ。


 ――殿下の婚約者役は、きっとクビね。


 けれど今はそんなことを気にしている場合ではない。

 ディデアは再びサージェを見据えた。


「ふっ……くくく、あははははは!」


 サージェがいきなり声を上げて笑い出す。


「なんだ、やっぱり君も吸血鬼なんじゃないか! 八人の暗殺者に一斉に襲われても力を使わなかったから、もしかしてそうじゃないのかとも思ったけれど、やはり僕の勘は正しかった」

「あの暗殺者もあなたの仕業だったの!?」

「だって君が本当に僕の同族かどうか確証がなかったから。調べるために、ちょっと王宮の下男を使わせてもらったよ。まあ下男たちが弱すぎて、何の意味もなかったけれど」


 ひとしきり笑ったサージェは、満足そうにひとつ大きく息を吐いた。


「僕は嬉しいよ、だって生まれて初めて自分と同じ同族に出会えたんだから」

「私は全然嬉しくないわ」

「前から不思議に思ってたんだけど、君、吸血鬼なのにどうして王太子の婚約者なんかやっているんだい? ……いや、婚約者役、だったかな」

「あなたには関係ない!」


 ディデアがサージェに斬りかかる。同じ吸血鬼であるディデア相手にさすがに素手では分が悪いと思ったのか、サージェは地面に落ちたままだったウィリアムの剣を拾って、ディデアの刃を受けとめた。

 刃同士がぎりぎりとこすれ合う、耳障りな音が辺りに響く。

 力が拮抗してどちらもまったく動かない中、ディデアはふとサージェの耳に光る物を見つけた。

 ディデアは目を丸くする。


「そのイヤリングは……!」


 深い海色のサファイアを(しずく)型に加工して、中央に埋め込んだデザイン。そのイヤリングは、ディデアの記憶のなかの母が、いつも大事に身につけていたもの。

 ディデアの反応に、サージェが不思議そうにする。


「このイヤリングがどうかしたの? これは昔の()が持っていたもので、気に入ったからもらったんだ。どう、綺麗でしょ」

「やはりあなたが私の母を殺した吸血鬼だったのね! それは私の父が母に送ったものよ、返して!」

「君の母親?」

「十年前の満月の夜、私の母は黒髪に紅い瞳をした吸血鬼に殺された。あなたが殺したんでしょう!?」


 サージェは斜め上を見て考えるそぶりをする。


「そういえば……昔は狩り(・・)をするのに目立たないよう、髪を黒に染めてた時期もあったっけ。髪が伸びる度に染め直すのが面倒で、すぐやめちゃったけど。そうか、このイヤリングを持ってたあの人間は、君の母親だったのか。……てことは、君は片親が吸血鬼のダンピール?」

「あなただけは……絶対に許さない! これ以上罪のない人たちの命を、奪わせはしない! あなたは、必ず仕留める!」


 人間の目では追えないほどの速さで、剣戟が繰り返される。甲高い音が夜空に何度もこだまし、木々が風に煽られてざわざわと騒いだ。

 ディデアと刃を交わしながら、サージェが心の底から楽しそうに笑う。


「いいねぇ、今夜は満月だから、純血の吸血鬼ではない君の力も大分高まっているだろう。思う存分やり合おうじゃないか、せっかく同族同士が相見(あいまみ)えたのだから。僕たちが紡ぎ出す名曲を、存分に夜空に響かせよう!」


 サージェの狂言を無視し、ディデアは一心不乱に刃を振り回した。二人の力は互角だった。正直、どちらが勝つかはわからない。けれどディデアは逃げず、果敢にサージェに立ち向かった。

 満月の光を反射する二人の瞳が紅い閃光となって残像を残し、夜の庭園を鮮やかに彩る。

 サージェの刃の切っ先が、ふいにディデアの髪を束ねている白いリボンをかすめた。切れたリボンが夜風と共にどこかへ消えていき、栗色の髪が、はらりとほどける。

 サージェが上着の内ポケットに手を差し入れた。そして彼はディデアに向かって何かを投げる。そのとき一瞬、サージェに隙が生まれた。ディデアはそれを見逃さず、彼の脇腹めがけて短剣を突き出した。

 サージェの脇腹にはディデアの短剣が、ディデアの左肩にはサージェの投げたナイフが、深々と突き刺さった。

 サージェが目を見張る。


「……驚いたな。てっきりナイフを避けるかと思ったのに」

「言ったでしょう? あなたのことは、必ず仕留めると」


 紅と紅が真っ直ぐ交わり、激しい火花を散らす。


「だけど残念。脇腹を刺されたくらいじゃ、僕は死なないよ」

「それはどうかしら」

「……どういうこと?」


 サージェが首を傾げた瞬間、その身体が何かの衝撃を受けたかのようにわずかに揺れた。

 彼がゆっくりと首だけで後ろを振り返る。

 サージェの後ろにはスカイがいた。そしてスカイの握った剣は、サージェの背中を貫いていた。心臓のある場所を狙って。

 サージェはディデアとの戦闘に夢中で、スカイの存在を完全に忘れていた。だがディデアはずっと視界の端に捉えていた。スカイがとっくに我を取り戻し、気配を消したまま虎視眈々とサージェを狙っていたことを。

 サージェの手からウィリアムの剣が滑り落ちる。


「まさか……この僕が、人間ごときに……」

「残念だったな。俺たちの勝ちだ」


 薄く開いたままのサージェの口から、血が一筋零れ出る。彼は儚げにふっと微笑んだ。


「そうか……やっと終わるのか。いつ潰えるとも知れぬ、永遠に近い退屈な時間が……やっと……」


 満足そうに呟いたサージェの身体が、一瞬にして灰と化した。

 彼の命は夜空に舞い上がり、身に着けていた衣服とイヤリングだけが地面に取り残される。


 ディデアは左肩に刺さったナイフを、自分の手で引き抜いた。

 赤黒い血が地面にぼたぼたと落ち、使用人用のお仕着せが、見る見るうちに血でべっとりと濡れていった。

 ……大丈夫だ。自分は吸血鬼なのだから。これくらいの傷、どうということはない。スカイが無事でよかった。


 荒い息を吐きながらディデアは引き抜いたナイフを放り捨て、身をかがめる。

 母の形見であるイヤリングを拾おうとして、ディデアはそのまま地面に倒れた。

 「ディデア!」と叫ぶスカイの声が、聞こえた気がした。

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