それぞれの胸の内
夜会でスカイと一悶着あった次の日、ディデアは王宮へは行かず、一日中リーズレット伯爵家で本来の仕事に励んでいた。
ディデアは朝から無心に屋敷を隅から隅まで磨いている。何かに集中していないと昨夜のことを思い出して、気が変になりそうだった。
午後のお茶の時間には塵ひとつ落ちていない、とても清潔で快適な屋内になった。そんなピカピカになった屋敷を眺めて、フィアンが訊ねる。
「昨日の夜会でスカイ殿下と何かあった?」
フィアンのためにお茶を注ごうとしたディデアの動きが一瞬止まる。
「…………いえ、何もありませんでした」
動きを再開し、ティーカップに向けてポットを傾ける。が、フィアンはディデアに走ったほんのわずかな動揺を見逃さなかった。
「ディデア、私があなたといったい何年一緒にいると思っているの? ごまかそうとしても無駄だということは、あなたが一番よくわかっているでしょう? 殿下とのことで何か悩んでいるのなら、気兼ねなく相談してちょうだい。あなたを婚約者役に推薦した私には、その責任があると思うの」
フィアンはディデアの目を見ながら、柔らかく頬をほころばせた。彼女に相談するほどのことでもないとディデアはわかっていたが、主人に逆らえるはずもなく、ぽつりと胸の内をこぼす。
「……昨夜、殿下にわけのわからないことで責められました。私は、何も悪いことはしていないのに」
「わけのわからないこと?」
ディデアは昨日の夜会で、サージェと二人きりで話したことをフィアンに説明した。サージェと話していたら急にスカイが現れて、ディデアのことを責めだしたのだと。
するとフィアンは納得したように何度か頷いた。
「それは……たしかに私が殿下の立場でも、同じことを言うかもしれないわね」
「ど、どうしてですか?」
「殿下の婚約者としてのディデアは高貴な令嬢という設定だから、そういう女性が男性と二人きりになるのは、あまり褒められたことではないもの。ディデアに何かよくない噂がたてば、殿下の名誉にも傷がつくわ。だからそういうことが起こらないように、忠告のつもりで殿下は男性と二人きりにはなるなと言ったんじゃないかしら」
……完全に盲点だった。たしかにフィアンが男性と二人きりになっていたら、ディデアだってやんわりと注意するかもしれない。もちろんフィアンはそんな軽はずみなことはしないだろうが。
実際のところディデアは令嬢ではなく根っからの使用人なので、そんなところにまで気が回らなかった。
人前では完璧に婚約者を演じていたつもりだったのに。完璧でなかったというのは、少しショックだ。
「……だったら、あの場できちんとそう説明してくれたらよかったのに……」
そしたらディデアも納得して、頑なにスカイの言うことを拒んだりはしなかったのに。
きっとディデアが言うことを聞かなかったから彼は怒って、忠告のためにわざわざあんな嫌がらせをしてきたのだろう。
唇に触れた生温かい感触を思いだし、胸がざわめいて、不快になったディデアは手の甲で唇を強くこすった。
――忠告のためだけにあんなことをするなんて、やっぱり最低っ。
「だからって、あんなに怒ることないじゃない」
「え、殿下は怒っていたの?」
ディデアの独り言に、フィアンが食いつく。
「怒るというか、とても不機嫌でした。夜会の前半は、いつも通りだったというのに……」
「それは、ディデアとサージェ様が二人で話しているのを目撃してから、ということ?」
「たぶん、そうです。私の手首を痛いくらい強く掴んで、私をサージェ様から引き離しました」
「ねえディデア、殿下は他に何か言っていなかった?」
なぜかフィアンの双眸がきらきらと輝いている。何にそんなに興味を惹かれたのか不思議に思いながら、ディデアは素直に答えた。もちろん、スカイが自身の唇をディデアのそれにくっつけてきたということを除いて。
「私がサージェ様のことを名前で呼んだことに強く反応して、自分のことも名前で呼べ、と言ってきました。なぜか私を非難するような目で」
「まあ、まあまあまあ!」
フィアンは自分の頬に両手の平をあてて立ち上がった。その頬は若干薄桃色に染まっている。
「あの殿下が、まさか、ついに! ディデアを婚約者役に推薦したのは純粋にその役にぴったりだと思ったからだけど、ディデアなら殿下の興味を惹けるんじゃないかという思いも少しはあったのよね。私の読みは間違っていなかったわ。どうしましょう、これからの展開がとても楽しみ!」
「フィ、フィアン様?」
何がそんなに楽しみなのだろうか?
フィアンの勢いに、ディデアは目を白黒させる。
「あ、あの……」
「婚約者が他の男性と二人きりで話しているところに直面して、とたんに不機嫌になる殿下……私も見たかったわその場面。すごく残念だわ! ……でもそういうことなら、これからそんな殿下を見られる可能性はいくらでもあるはずよね。次の夜会には私も一緒に参加しようかしら? ああでも吸血鬼事件がまだ解決していないから、兄様に反対されそう……どうしたものかしら。――御年二十五歳にして、殿下にもようやく春がきたのねぇ」
「春はもう過ぎましたが……」
「二人の道は厳しいかもしれないけれど、私は全力で応援するわ!」
フィアンにディデアの声は、もうすでに届いていなかった。
――――――――――――
ここ数日のスカイは妙にイライラしているようだった。
執務中にもかかわらず貧乏揺すりをしていたり、ペンを書く手が止まっていると思えば唐突に舌打ちしたり。集中力が切れたから剣の相手をしろとウィリアムに言ってきたのも、一度や二度ではない。
王太子という立場柄ストレスが溜まることはよくあるが、今回の様子は何やらいつもと違っていた。長い付き合いのウィリアムにはわかる。
この状態のスカイを放っておくと周りの者が怯えきって仕事にならないので、ウィリアムはスカイに訊ねることにした。
「スカイ、数日前から何をそんなにイライラしているんだ?」
「ああ?」
返ってきたのは地を這うような低い声と、鬼のような形相。こんな顔をしていては、誰も近付きたくなくなるのも当然だ。
スカイが不機嫌なときは、彼の周りからは人がいなくなる。だから今も二時間前からずっと執務室に二人きりの状態だ。その間、他の誰もこの部屋には足を踏み入れてはいない。
そんな顔でも冷艶な美貌は損なわれていないことに若干の妬みを覚えながらも、ウィリアムは言う。
「その顔をやめろ、お前はただでさえ怖がられているんだから。他の者が怯えて仕事にならんだろう」
たしなめられて、スカイが咳払いをした。
「……悪かった。お前に当たるつもりではなかったんだが、つい……」
「どうしたんだ? うっとおしがっていた縁談の問題は、ディデアのおかげで片付いただろう」
「その名前を出すな、イライラする」
スカイはとたんに不愉快そうに、机を人差し指で叩き始める。
ウィリアムはそういえば、とここ数日間を思い返した。
「ディデアのやつ、最近王宮に姿を見せないな。一時は毎日のように来ていたのに」
「……」
「スカイ、ディデアに何かしたのか?」
「なぜあいつではなく最初に俺を疑うんだ。お前は俺の味方じゃないのか」
はあ、とスカイはため息をはく。
「先に不用心な行動を取ったのはあいつのほうだ。俺はそれを注意しただけだというのに……」
なぜあんな盛大な口喧嘩になってしまったのだろう。……いや、口喧嘩ではないか。ディデアは物を投げてきた。しかも力の限りで投げるものだから、それなりに痛い思いをした。
もちろん彼女がそんな暴挙に出たのは、スカイのせいではあるが……。
「……俺はなぜ、あいつにあんなことをしたのだ……?」
あの夜会でスカイがエングスハイム侯爵と仕事の話を終えて会場に戻ると、ディデアの姿が見当たらなかった。探していると薄暗い庭園でサージェと二人きりでいるのを発見し、早くサージェからディデアを引き離さなければと思った。吸血鬼事件を探っているうちに、犯人の一人としてサージェの名前が挙がったからだ。侯爵との話は、養子のサージェについてさりげなく探りを入れるためでもあった。
だが、あのときスカイが思ったのは、本当にそれだけだっただろうか。ディデアを危険人物から遠ざけなければと考えると同時に、腹が立った気もする。彼女がサージェに、社交辞令ではない素の笑顔を見せて微笑み合っていたから。
――俺だってあいつに笑いかけられたのは一度しかないというのに、初対面のやつにあんな簡単に……。
それがなんだか面白くなかった。しかもサージェのことは名前で呼ぶのに、スカイのことは名前で呼んだことすらない。
他の男と二人きりになるなと言うスカイにディデアが食い下がって反論するから、スカイもヒートアップして、ついにあんならしくもない行動に出てしまった。
ディデアの桜色の小さな唇を思い出す。
――本当に、俺らしくもない。怒りが収まらないからと、自分のほうから口づけるなど……どうかしている。
女性との口づけは初めてではない。どうにかして王太子妃の座に就きたい者が、事故に見せかけてスカイの唇を奪うことも過去に何度かあった。なかには既成事実を作ろうと、ドレスを自らはだけさせ迫ってくる強者もいた。あのときは全身に怖気が走ったものだ。
嫌なことを思い出し、スカイは首を軽く振る。
とにかく、スカイが自分から女性に口づけたことなど、今まで一度もなかったのだ。したいとも思わなかった。それなのに……。
ディデアからスカイに向かって吐き出された『大嫌い』という言葉が耳に残って離れない。あの娘に好かれようが嫌われようが、婚約者役を全うしてくれるならどうでもいいことのはずなのに。
頭の中でその言葉が繰り返されるたびに、無性にイライラする。
スカイは自分でも自分のことがわからなくなって、前髪を乱暴にかき上げた。
「もういいっ、あいつのことなど知らん。顔を見せようが見せまいが、どっちでもいい。どうせ当分婚約者役は必要ないのだから」
「もういいって……俺には何の事だかさっぱりわからないんだが」
「この話はもう終わりだ。俺は仕事に集中する」
「いや、集中できていないようだったから、俺はお前に訊ねたんだが……。だがそうか、仕事に集中するというのなら、俺も仕事の話をしよう。――スカイ、吸血鬼事件の犯人のことなんだが……」
「何かわかったのか?」
仕事モードに頭を切り替え、スカイは真剣に訊ねる。
「兵士たちの間ではただの通り魔や愉快犯なのではないかという意見も出たが、俺はやはりエングスハイム侯爵の息子が一番怪しいと思う。ボロディン子爵令嬢と最近親しくしていた男というのがその息子らしいし、そいつと出会ってから令嬢は人が変わったように夢見がちになって、空想に耽ることが多くなったらしい。事件が起こったあの日、彼女は友人たちに『これから男の人と二人きりでこっそり街中でデートをする』と話していたらしい。その点からいろいろとサージェ・エングスハイムのことを調べてみたが、怪しい点が多々あった」
「それは?」
「一番怪しいのは、どれだけ調べても奴の過去が一切わからないということだ。サージェは息子のいない侯爵家に、最近養子として迎えられた男だが、それ以前の記録が全くない。どこで生まれたのか、養子になる前は何をしていたのか、全部空白なんだ」
スカイは執務机の一点を無意味に見つめて熟考する。
「俺もその男が怪しいと思っていた。……侯爵といえば、そういえば彼も少し様子がおかしかったな」
「侯爵の様子が?」
「先日の夜会で、仕事の話をするついでにさりげなく息子のサージェについて探りを入れたんだが、どんな男かと訊くと侯爵は手放しで息子のことを褒めちぎっていた。身振り手振りをまじえて、大袈裟なくらいに」
「本当か!? あの厳格で自分にも他人にも厳しい侯爵が!?」
「ああ。息子の話をするときだけ、それこそ人が変わったように」
「それはもう……サージェ・エングスハイムは限りなく黒に近いんじゃないのか? 証拠がないから何とも言えんが」
そう、証拠がないのだ。証拠がない限り、人を裁くことはできない。
「……一度本人と話してみる必要があるか。それでなにかボロを出してくれればいいんだが」
「じゃあ近いうちにそういう機会を作るか。スケジュールの調整は、俺のほうでやっておくよ」
「そうか。……すまないなウィリアム、お前だって連日の残業で疲れているのに」
いつになく殊勝な態度のスカイに、ウィリアムは胸を張って言った。
「俺はお前に忠誠を誓った近衛騎士だろ。お前がノブレス・オブリージュを忘れない限り、俺はお前の剣となり盾となり、お前のために動こう。この国を護る為に」
頼もしい親友に、スカイは口角を上げた。
「――ああ、絶対にこの国を危険にはさらさせない。相手が何者であろうとも」