無自覚な嫉妬
「ディデア、スカイ殿下から手紙が届いているわよ」
「えっ、私にですか?」
リーズレット伯爵邸にて、手紙の束をひとつひとつ確認していたフィアンの言葉に、ディデアは驚いて顔を上げる。
「宛名は私宛てだけど、中身はディデア宛てになっているわ。ほらここ、ディデア・エーデンへ、って」
渡された手紙を見てみると、たしかに流れるような文字でディデアの名前が書かれていた。
スカイから自分宛てに手紙なんて、と訝しみながら文字を追うと、内容は昨日の暗殺者についてだった。
スカイとディデアが協力して倒した八人の暗殺者の正体は、王宮で働いていた下男だったらしい。スカイを失脚させたい者に多額の金を積まれてつい心が動いてしまい、悪事を働いてしまった、ただ自分たちにその話を持ちかけてきた者も金で雇われた者らしく、黒幕は誰かはわからない、と証言しているという。
手紙に書かれていたのは、ただそれだけだった。
たったそれだけのためにわざわざ手紙を寄こすなんて、案外律儀なところもあるものだ。もしかしてディデアがスカイの事情に巻き込まれたから、それを気にしているのだろうか。
別にディデアはかすり傷ひとつ負っていないし、そんなこと気にしなくていいのに。
横から手紙を読んでいたフィアンが、びっくりしたように声を上げた。
「えっ! ディデア、この間八人もの暗殺者に襲われたの!?」
「はい。殿下にとっては日常茶飯事のようでした」
「そうなの!? ……知らなかったわ。兄様、そういう話は私にあまりしてくれないから」
「フィアン様にあまり心配をかけたくないのでしょう」
「兄様ったら、いつまでも私を子供扱いするんだから……。……でも、ってことは私、ディデアにとても危険な役目を押し付けちゃったことになるのかしら!? 殿下の婚約者役を続けていたら当然、またそういう目に遭う可能性もあるってことよね!?」
「フィアン様はそういうことを見越して、私を殿下の婚約者役に推薦したのでは……?」
「違うわ! あなたに危険な目に遭ってほしいなんて、私が思うわけないじゃないっ。本当に知らなかったのよ……ごめんなさい、あなたに大変な役目を押し付けて」
「フィアン様のせいではないですよ。私は別に危険な目に遭ったとは思っていません。かすり傷ひとつ負っていませんしね、私はウィリアム様と同じくらい強いですから。……それに気になることもあるので、今では殿下の婚約者役を続けたい気持ちになっています」
フィアンがディデアを探るように見る。
「…………それって、吸血鬼事件のこと?」
ディデアは黙ったまま頷いた。
「……そう、やっぱり気にしていたのね。あの事件のことを聞いてからディデア、何かを考え込んでいることが増えたもの。――気になるのは当たり前よね、だってディデアのお母様は、吸血鬼に殺されたのだもの」
一瞬ちくりとした痛みが胸に生まれ、ディデアは眉をひそめた。
母親が殺されたときの光景は、今でも鮮明に思い出せる。脳裏に焼き付いて離れない、滴り落ちる鮮血の紅。みるみる血の気の失せていく、母親の青白い顔。そんな母親の首筋に齧りついた男の姿。男の眼は、血のような鮮やかな紅色だった。
もう十年も前のことだけれど、思い出すたびに今でも憎しみの炎が心に宿る。
けれどそれに囚われてはいけないと、ディデアは深呼吸して己を鎮める。
今のディデアはフィアンの侍女だ。フィアンのことを絶対に護ると、ウィリアムにも約束した。約束を破るわけにはいかない。
そんなディデアを見て、フィアンが言った。
「ディデア、吸血鬼事件のことは、殿下が調べているのよね? だったらディデアは毎日でも王宮に通っていいのよ? そうしたら犯人のことがわかったとき、いち早くその情報を掴むことができるわ。事件の犯人が本当に吸血鬼かどうか、ディデアのお母様を殺した吸血鬼なのかどうかも。あなたは殿下の婚約者ですもの、毎日のように殿下の傍にいても、誰も何も言わないわ」
「フィアン様、私の一番の務めは……望みは、フィアン様を護ることです。ウィリアム様ともそう約束を――」
「私は事件が解決するまでお屋敷から出ないわ。被害者が貴族のご令嬢だったから、次に第二の犠牲者が出るとしたらまた貴族の若い娘かもしれないって、兄様にきつく言われたもの。だからディデアがいなくても私は大丈夫よ。安心して王宮へ通っていいわ」
「フィアン様……」
「むしろ私はあなたのことが心配よ。また暗殺者に狙われるかもしれないし。……でもディデアは強いから、私より先には死なないって信じてる。だから、あなたの好きなように動いて?」
真っ直ぐにディデアを見て微笑むフィアンに、ディデアは目頭が熱くなるのを感じた。
やはり自分は幸せ者だ。復讐なんかに囚われている場合ではない。
だけど吸血鬼事件のことは気になるから、身内が無惨に殺されることの悲しみはわかるから、犯人のことは放っておけない。
自分のためではなくこれ以上被害者を出さないために、ディデアは明日から王宮に通うことに決めた。
次の犠牲者が出る前に、自分が必ず犯人を捕まえてみせる。そう心に誓って。
「ありがとうございます……フィアン様」
「でも本当に気を付けてね、何が起こるかわからないし」
「はい、フィアン様より先には死にません」
ディデアは笑顔でそう言った。
―――――――――――――
「最近王太子殿下とディデア様、よく一緒にいるところをお見かけするわ」
「仲睦まじそうで何よりね」
「あの殿下が、婚約者と別れた直後に一人で微笑んだのを見たわ!」
「完全なる政略婚約だと思っていたけれど、案外殿下がディデア様に一目惚れとかしたのかもしれないわね」
いつしか王城の使用人たちの間には、そんな噂がたつようになっていた……。
―――――――――――――
――最近ディデアの様子がおかしい。
執務室で書類を眺めながら、スカイは考え込んでいた。
具体的にいつから彼女の様子がおかしいのかというと、七人の暗殺者と闘ったあの日からだ。あれから彼女はスカイが婚約者役を頼まなくても、王宮を訪れてスカイの傍に寄り添うようになった。
最初は主人であるフィアンに頼まれたから仕方なく、という感じだったのに、最近は見るからに婚約者役を演じることに意欲的になっている。
――明らかにおかしいだろう。暗殺者に出くわしたのだから、普通ならさらに俺に会うことが嫌になってもおかしくはないのに。
昨日の出来事を思い出す。
婚約者役を引き受けてくれたからには、言うまでもなくディデアのことは護るつもりだった。だがあのときは油断した。彼女が、国王はスカイに対して愛情を持っているだなんて言って、似合いもせずスカイに微笑みかけたから。
その結果、一瞬でもディデアを人質に取られることになってしまった。危険な目に遭わせてしまったのは不覚だ。今では婚約者役がディデアでよかったと思っている。
人質に取られたのがもし普通の令嬢だったなら、あの場ではただ怯えて震えるだけだっただろう。正直言って、そんな女は足手まといだ。
――怯えるどころか自ら俺に会いに来るとは、いったいどういう状況なんだ、これは。
もちろんディデアが暗殺者ごときに怯えるような玉でないことは、すでに理解しているが。
今も彼女は執務室の片隅で、スカイの仕事の邪魔をしないように静かに本を読んでいる。執務の間など、婚約者役など必要ないのに、まるでスカイのことを見張るがごとくだ。
王宮では王太子と婚約者の仲の良さが徐々に広まりつつある。スカイにとっては好都合なので、今のところディデアの好きにさせていた。
――まあいいか。俺の邪魔をするわけでもないし、他の女のようにうるさく囀ることもないから。
ディデアのことは不思議と目障りには感じない。
スカイは余計な思考は中断させて、執務に集中することにした。
――――――――――――
新月の夜、スカイが情報収集のため夜会に出席するとのことで、当然のごとくディデアも婚約者として参加していた。
スカイは主催者である貴族と仕事の話があるとかで、別室へと移動してしまった。婚約者が同席するわけにもいかないので、仕方なくディデアは夜会の会場に残り、談笑する貴族たちを眺める。
王都ではまだ吸血鬼事件のことが囁かれているというのに、貴族たちは呑気なものだ。
事件の犯人はまだ誰なのかわかっていない。
身分の高い人の周囲には常に付き人や護衛がいるから、まさか自分が次の被害者になるかもしれないなどとは夢にも思わないのだろう。
夜会の場に一人でいて誰かに話しかけられても面倒なので、ディデアは庭園のほうへと移動することにした。新月なので月明かりはないが、夜会の参加者たちが花を見て楽しめるくらいには灯りが灯されていた。
豪華絢爛な夜会よりも、自然に囲まれているほうがディデアは癒される。
アネモネ、スイートピー、マリーゴールド。ディデアが可憐な花たちを観賞していると、
「失礼、王太子殿下の婚約者殿でしょうか?」
そう声をかけられて顔を上げる。
声がした方向を向くと、見慣れない風貌の青年が庭園の中に佇んでいた。老人でもないのに白髪で、金の瞳をしている。肌も雪のように真っ白で、色素の薄い見た目のせいか、儚げな印象を漂わせていた。
「そうですけど……」
ディデアが頷くと、青年は優雅に微笑んだ。
「初めまして、僕はサージェ・エングスハイムと申します」
「エングスハイム……ということは、今回の夜会に招待してくださったエングスハイム侯爵の息子さん?」
「はい……といっても、養子なんですけどね」
まさか主催者の息子もこの場にいたなんて、とディデアは慌てて挨拶しようとする。
「す、すみません、ご挨拶が遅れて。私は……」
「名前は存じ上げていますよ。ディデア殿、でしょう?」
頑なに婚約を拒んでいた王太子が急に独断で婚約を結んだのだ。当然その婚約者は注目を集めることになる。おかげでディデアはすっかり社交界では有名人になっていた。サージェが名前を知っていても不思議ではない。
ディデアは苦笑いをした。
「……そうですよね、私のことは噂でご存じですよね」
「夜風に当たろうと外に出てきたら、貴女と鉢合わせるなんて思わなかったな。幸運だ」
「幸運?」
「ずっと貴女と二人きりで話してみたいと思っていたんですよ。ですが貴女の隣にはいつも王太子殿下が居たので、近寄りがたくて」
「あなたも、殿下のことが怖いのですか?」
「怖いというか……ほら、悪魔の王子などと呼ばれていて底知れないですし、歯向かった者には容赦がなく、父親である国王にすら冷たいと評判の方ですから」
容赦がないのはその者が不正を犯したからだし、国王に冷たいのは複雑な事情があるからだ。国王とスカイに血の繋がりがないことは皆知らないことだから、仕方ないのかもしれないが。
ディデアはサージェが言った言葉をやんわりと訂正する。
「殿下は……たしかに人によっては怖いと感じるかもしれませんが、間違ったことはしていません。正しくないことをした者が罰を受けるのは必要なことです。でないと、この世から秩序は失われ、平和という概念の存在しない世界となってしまう。そんな世界、私は嫌です。あなたもそうではありませんか?」
そんなふうに返されるとは思わなかったのだろう。サージェが一瞬、狐につままれたような顔をした。
「……それは、そうですね。すみません……」
「理解していただけたのならいいんです」
「……驚いたな。てっきり貴女は今回の婚約に関して乗り気ではないと、弱みなどを握られて、嫌々殿下の婚約者になったのだと思っておりました」
ディデアはぎくりとする。
――まさか、最初の宮廷舞踏会で内心スカイに反抗的だったのがばれてる?
侯爵の息子なら、宮廷舞踏会に参加していてもおかしくはない。
しかし、いや待て、とディデアは記憶を遡らせた。
あの舞踏会では内心がどうあれ、ディデアの高貴な令嬢の演技は完璧だったはずだ。とくに目立ったミスもしていないし、ダンスもきちんと踊れていた。王太子に選ばれた婚約者として、終始幸福そうに微笑んでいた。明日は表情筋が筋肉痛になるかと思ったほどだ。
唯一心当たりがあるとすれば……。
――私、踊りの最中に殿下の足を思いっきり踏んづけたんだったわ!
サージェはそれを見ていたのだろうか。だからディデアがスカイの婚約者役を嫌がっていることに感づいたのか。
誰にも見えないように上手いことスカイの足を踏んだつもりだったが、甘かった。
今ならまだ誤魔化せる。そう信じて、ディデアはにっこりと笑顔をつくった。
「私が殿下との婚約を嫌がっているなどと、そんなことはありえません。殿下に選んでもらえたことは私にとって名誉なことであり、至上の慶びです。嫌っているどころか、殿下のことは心の底から尊敬していますわ。国のことを一番に考えておいでで、きっと良き王になられると信じております」
若干ディデアの頬は引きつっていたが、幸いにもサージェには気付かれなかったようだ。
「そうですか……。案外、貴女は殿下のことを好意的に思っているようだ」
「もちろんです」
「なんだ、じゃあ僕の心配は杞憂だったんですね。よかった。……か弱く美しい女性が困っている姿を見ると、どうも放っておけない性分でして。余計なおせっかいみたいになってしまって、申し訳ないです」
か弱く美しい女性。それは、ディデアのことを指しているのだろうか。
あまりにも自分に似合わなさすぎて、ついディデアは笑ってしまった。サージェも微笑んでいるから、傍から見れば二人は笑い合っているように見えただろう。
「心配してくださりありがとうございます。ですがこのとおり、私は大丈夫です」
「そのようですね。未来の夫に何か不満がでたときは、僕でよければ愚痴くらい聞きますよ。王宮の者に殿下の悪口は言いにくいでしょうから」
「はい、そのときはぜひよろしくお願いします」
ディデアが彼にスカイのことを相談する日はおそらく一生来ないだろうが、とりあえず頷いておく。
そのとき、ふいにサージェの右手がディデアに伸ばされた。
――え……?
無防備な頬に触れられそうになる。
反射的に身を引こうとしたとき、ディデアが動くよりも早く、彼女の身体が後ろに傾いた。誰かがディデアの両肩を掴んで、後ろに引いたからである。
背中が弾力のある硬いものに触れた。
肩越しに振り返ると、満月のように輝く金髪が目に入る。スカイだ。ディデアの背中に触れているのは、彼の鍛えられた胸板だった。
スカイは真っ直ぐにサージェを睨んでいる。
「俺の婚約者に何の用だ」
サージェは行き場の失った右手をゆっくりと下ろした。
「ただ挨拶をしていただけですよ。そんなに怖い顔をしないでください」
困った顔をしながら言ったサージェに、スカイが舌打ちする。
スカイはディデアの手首を掴むと身を翻し、大股で歩き出した。
「行くぞ」
「えっ、殿下……っ?」
転ばないようにディデアも急いで足を動かす。
スカイに引っ張られながらもちらりと後ろを見ると、サージェもまたこちらを見ながら優雅に微笑んでいた。
スカイが早足で進むものだから、ディデアは小走りになるしかない。彼にしっかりと握られた手首が少し痛かった。
「殿下、いきなりどうしたんですか?」
訊ねるが、スカイは答えない。進む速度を変えないまま屋内に戻り、彼は休憩用に開かれている小部屋へと入った。そして隙間なく扉を閉じる。
ようやく手を離してくれて、ディデアは自分の手首をさすった。
「あの男と知り合いなのか」
「え? ……いえ、違いますけど。さっきたまたま庭園で会っただけです」
「あの男にはあまり近付くな」
「な、なんでですか? サージェ様のことを何か知っているんですか……?」
「サージェ様?」
スカイが低い声で反芻して、眉間に皺を寄せる。ぞくりとして、ディデアは小さく肩を揺らした。
――どうして? 今まで殿下のことを怖いと思ったことなんて、一度もなかったのに。
彼の今までとはどこか違う威圧感に、ディデアはたじろぐ。
不遜な態度なのはいつものことだ。だが今回はいつにも増して不機嫌だった。この夜会に来たばかりのときは、ここまで機嫌は悪くなかったのに……。
エングスハイム侯爵との仕事の話の中で、何かあったのだろうか?
「気に入らないな」
「は?」
「俺のことは『殿下』で、あいつのことはなぜ名前呼びなんだ」
「それは、あなたが王太子だから……」
「俺のことも名前で呼べ、もし不仲だと思われたらどうする。婚約者の意味がないではないか。お前は俺の婚約者なのだから、他の男と二人きりになるな」
「名前で、って……。ていうか他の男って、サージェ様は今回の夜会の主催者の息子でしょう? 私はあなたの婚約者として普通に挨拶していただけなのに、どうしてそんなに怒っているの?」
二人きりとは言っても、あそこは夜会の会場からも見える位置だった。それにサージェからも殺気は感じなかった。とくに危険ではなかったはずなのに、スカイは何がそんなに気に入らないのだろう。
たとえ一瞬でも彼に怯んでしまったのが悔しくて、ディデアは負けじと睨み返す。
するとスカイがため息をついた。
「か弱く美しいと評されて、ほだされたか」
「なっ……! 盗み聞きしていたの!?」
「たまたま聞こえただけだ」
「あれは単なる社交辞令でしょう? それくらい理解しているわ。私を見て本気でそう言う人が現れたら、眼のお医者様に掛かったほうがいいって助言をするもの。か弱く美しいというのは、フィアン様みたいな人のことを言うのよ」
「あの娘も”か弱い”という単語には当てはまらない気がするが」
スカイが一歩こちらに詰め寄る。
「とにかく、他の男とは二人きりにはなるな。しかもあんな暗がりで、もし何かあったらどうする」
なぜディデアが責められているのだろう。ディデアにはわけがわからない。
「何かあったとしても、私なら自分で対処できるわ。あなたも私が強いのは知っているでしょう? 男の人一人くらい、どうってことない」
「本気で言っているのか? ……そもそもお前、意味がわかっているのか?」
「え? ……ええ」
勢いのまま頷いてしまったが、内心首を傾げる。意味ってなんだろう……?
スカイがすっと目を細めた。
「では、試してみよう」
スカイの細長い指がディデアの顎に触れ、彼の端整な顔がせまってくる。
金色の長い睫毛がぼやけるほど近づいたとき、唇に柔らかいものがそっと触れた。
――え……?
ディデアは何が起こったのか理解できず、呆然とする。
やがてスカイの顔が離れると共に、唇に触れていたものの感触もなくなった。
スカイがディデアを見下ろし、口を開く。
「ほら、振り払うどころか、指一本も動かせていないじゃないか。……どうするんだ? 俺にまんまと唇を奪われたぞ」
「……」
ディデアは何も答えない。――いや、答えられない、が正しい。ディデアの思考は完全に停止していた。
相手の反応がまったくないので、たまりかねたスカイがもう一度顔を近づけようとする。
そこではっと我を取り戻したディデアが、スカイのことを思い切り突き飛ばした。
彼から距離をとって、長椅子の上にあったクッションを力いっぱい投げつける。見事にクッションは金色の頭に命中した。
「……お前、たかがクッションだと思って投げつけても痛くないと思ったら、大間違いだからな」
「痛くなるようにわざと力いっぱい投げたんです! それとも分厚い辞書のほうがよかったですか?」
今度は本棚のほうへ行き、辞書を引き抜いて高く掲げてみせる。牽制は効いたようで、こちらへ近寄ろうとしていたスカイは歩みを止めた。
ディデアは口をわなわなと震わせる。
「い、今……、あなた私にいったい何をしたんですか……!」
「自分が何をされたかわかっていないのか? お前は頭のいい娘だと思っていたが、実は頭が悪かったのか……、っ……」
ディデアはもう一回スカイに物を投げつけてやった。辞書ではなく、薄い本だ。殺意を覚えたが、辞書を投げる直前に思いとどまったことを感謝してもらいたい。
スカイの横をすり抜けて、ディデアは小部屋を飛び出そうとした。
「待て! 一人でどこへ行くつもりだ」
「どこでもいいでしょう!?」
「俺にひどいことをされたと、あの男に愚痴りに行くのか?」
この期に及んでの当てこすりにディデアは絶句し、ついに彼女の怒りは頂点に達した。
「付いて来ないでっ、そして二度と私にあんなことをしないで! あなたなんて大っ嫌いっ!!」
ディデアは走り出す。彼は追い駆けて来なかった。
スカイとは王宮から一台の馬車で来たので、彼から離れても結局最後は同じ馬車に乗らなければならないのだが、それでもディデアは一度彼から離れて、湧き上がった頭を冷やしたかった。
帰りの馬車の中で、二人は一言も喋らなかった。