似てない親子と暗殺者
王都で吸血鬼事件が発生してから数日、ディデアはウィリアムの忠告に従って、極力外出を控えた日々を過ごしていた。フィアンも夜会やサロンには出席せず、屋敷で大人しくしている。
犯人はまだ捕まっておらず、国は情報提供を求めているが捜査は難航しているらしい。
そんな折だが、一つ朗報もあった。
七年ほど前から体調を崩し床に伏していた国王の調子が、最近になって少し回復したらしい。
ウィリアムからその話を聞いたディデアは、それは国民にとってめでたい事だと思うと同時に、憂鬱になって、ついため息を漏らしてしまった。
国王の体調が良くなったのなら、王太子の婚約者役としてお見舞いに訪れないわけにはいかないではないか。国王本人も、息子の婚約者がどんな人物なのか知りたがっているらしい。
そんなわけでまたディデアは貴族の令嬢らしい煌びやかなドレスを着て、スカイと共に王宮の回廊を歩いていた。ここに来てからというものずっと微妙な顔をしているディデアに、スカイが声をかける。
「どうした、さっきから浮かない表情ばかりして。何か不満でもあるのか」
「不満があるかないかで言えば、あなたには不満しかな……」
つい素直に答えそうになり、ディデアははっと口を押さえる。
数日前にウィリアムに、スカイと仲良くする努力をしてみると言ったばかりではないか。自分から喧嘩を売ってどうする。
スカイを見るとどうしても彼がフィアンのことを悪く言ったときのことが蘇り、憎まれ口を叩いてしまう。気を付けなければ。
第一印象は最悪だったが、ウィリアムからスカイの話を聞いて、少しは彼のことを見直したのだから。
咳払いでごまかしてから、ディデアはちらりと横目でスカイを見上げた。
「なんだ?」
「――いえ、なんでもありません。……それより殿下は、国王陛下に対して偽物の婚約者を紹介するということについて、なんとも思われないのですか? 実の父親を騙すということですよ」
スカイは鼻を鳴らす。
「今さらだな。お前のことはもう貴族たちに紹介して、国民にも知れ渡っている。すでに国中を騙しているのだから、今さら父に偽の婚約者を紹介しようとも、なんとも思わないな」
「本当に? 少しも心は痛まないのですか?」
「痛まないな。要はこれは戦略だ。縁談話に俺が煩わされず、政に集中するための。誰にも迷惑はかけていないのだから、そのおかげで国が滞りなく回るのなら、皆喜んで騙されてくれるだろう」
――いや主に私が迷惑を被っているんだけど。
即座に心の中でツッコんだが、口に出すのは堪えた。
国のためなら民草だろうと実の父親だろうとためらいなく謀る。為政者としては正しいのだろうが、人としてはどうなのだろう。
「……国王陛下はどういった方なのですか?」
ディデアは興味本位で訊ねる。
ディデアは基本的にリーズレット伯爵家の人たち以外には興味がない。だからスカイのこともあまり知らなかったわけだが、それは他の王族についても同じである。
このスカイの父親だから、同じように冷淡な雰囲気の、頭の切れるやり手の王を想像していたが……。
「陛下は息子である俺とは正反対のお方だ。誰にでも優しく、苦手な虫すら殺せないような、絵に描いたようなお人好しだった」
「そう……なのですか? 意外です。もっと厳格な方かと思っておりました」
「……そうだったなら、陛下は体調を崩すこともなかっただろうな」
「え……?」
ディデアは首を傾げる。
今のスカイの言葉はどういう意味だろう。国王が優しいことと体調不良に、いったいどういう関係が?
スカイは前を向いたまま話を続けた。
「陛下は優しい、平民にも貴族にも。だがそれだけだ。精神的な強靭さは持ち合わせていなかった。ただ優しいだけでは王は務まらない。宮廷は悪意と陰謀の渦巻く場所だ。それに耐えられる精神でなければやっていけない。だから陛下は心を病んでしまい、やがてその闇は肉体までをも蝕んだ。あの方は王には向いていなかった」
淡々と淀みなく語るスカイに、ディデアは違和感を覚える。
肉親が精神を病み体調まで崩したとなれば、普通は心穏やかではいられないだろう。それなのにスカイはまるで、自分には関係ないことのように語る。心配するそぶりすら見せない。いくらなんでも冷たすぎやしないか。
聞くに国王は心優しい人物だったようだが、もしかして息子とは仲が悪かったのだろうか。
スカイに訊いてみたい気もしたが、少し悩んで止めた。
家族の事情に深く立ち入るのはよくないだろう。本物の婚約者なら別だが、ディデアは期間限定の偽物の婚約者だ。そこまで知る必要は、きっとない。
そんなことを話しているうちに、国王の居室へとたどり着く。
国王は寝台の上で座って読書をしていた。二人が寝室に入っていくと、彼は本をパタンと閉じた。
スカイが口を開く。
「体調はいかがですか? 医師からは経過は良好と聞きましたが」
「ああ、最近暖かいからか、身体が楽だ。この調子が続けば、散歩くらいなら外に出られるかもしれない」
「それはなによりです。……陛下、今日はお望みの私の婚約者をお連れしました」
国王が、スカイの後ろにいるディデアを見た。
真っ直ぐに向けられた薄茶色の眼差しは、穏やかな光を孕んでいる。瞳と同じく薄茶色の髪は綺麗に切りそろえられているが、その顔には疲れの色が刻まれていた。御年四十五だと聞いているが、漂う雰囲気はまるで隠居した老人のようだった。
スカイは母親似なのだろうか。彼と国王はあまり似ていなかった。
「お初にお目にかかります、ディデアと申します」
宮廷舞踏会で貴族たちにしたのと同じように、国王にも挨拶をする。
そんな息子の婚約者を見て、彼は目を細めた。
「これは可愛らしいご令嬢だ。どこの家柄の娘さんかな?」
「え……っと、それは……」
「ああすまない、それは秘密にしているんだったね。たしかリーズレット伯爵家の親戚だったかな」
「……はい。フィアン様とウィリアム様とは、仲良くさせていただいております」
「ウィリアムといえば、スカイのあの近衛騎士だね。あの青年は信頼できる。彼の知り合いなら、まあ安心かな」
国王は顎を撫でながら観察するようにディデアを眺めた。
「趣味はあるかい?」
「え、趣味……ですか?」
唐突すぎる質問に、ディデアは言葉を詰まらせる。
まさかここで、フィアン様のお世話をすることです、とは言えない。
ディデアは頭をフル回転させ考え抜いた結果、こう答えた。
「刺繍、でしょうか。あとときどき乗馬もします」
ほつれた衣服を手直しすることもあるし、フィアンに何かあったときのためにウィリアムには武闘と馬術を習っている。だから嘘は言っていない。
ディデアの趣味を聞いた国王はなぜか顔を輝かせた。
「乗馬が好きなのかい? 本当に?」
「はい」
「奇遇だねえ、スカイも乗馬が趣味なんだ。書類仕事ばかりが続いて鬱々としたときには馬に乗って王宮の敷地内をよく走っていると、家臣から聞いているよ」
「そ、そうですか……」
「最近は馬なんて臭くて粗野で嫌いだという女性も多いが、全然そんなことないよね。きちんと毎日手入れしてやっていれば臭わないし、愛情を持って接してやれば忠実に言うことを聞いてくれる。馬はとても賢い生き物で可愛い動物だ。――そうだ、今度スカイと一緒に遠乗りにでも出かけたらどうだい? 私が王の仕事をスカイに丸投げしているから、忙しくて時間をつくるのは難しいかもしれないが……たまには息抜きだって必要だろう」
「はあ……」
「ところで、スカイとは恋愛婚約かい? それとも政略婚約?」
「……」
「言いづらいかい? じゃあ、スカイの好感の持てるところとかは? 息子は案外こう見えて、いいところがいっぱいあるんだよ。君も知れば、スカイのことが今よりもっと好きになるはずだ」
「陛下」
怒涛の質問攻撃にディデアが呆気にとられていると、スカイが国王の話を遮った。ディデアと国王の間に割って入り、寝台の上の父親を冷静に見据える。
「彼女が困っているでしょう。そう矢継ぎ早に質問されては、答えられるものも答えられません。陛下のお身体への負担も鑑み、元々は顔合わせだけのつもりでしたし、今日はそれくらいにして込み入った話は後日またということにされては?」
スカイに諭されて国王は眉尻を下げた。
「ああ申し訳ない、無意識に熱が入ってしまった。もう二十五になるというのに縁談を片っ端から突っぱねていたスカイが、何の前触れもなく唐突に婚約を決めたと聞いたものだから。あの息子にもついに春がやってきたのかと、婚約者である君にとても興味が湧いてしまった」
「やめてください。彼女とは完全に政略で婚約しました、私情はいっさい含んでおりません」
「そうなのかい? ……しかしお前も悪いんだよ、息子の婚約を本人からではなく家臣から聞いた父親の気持ちがわかるかい? そのあとでお前を呼び出し詳しく話を聞こうとしても、婚約したという事実以外まったく詳細は教えてくれないんだから、気になってしまうのは当然だろう」
「だからこうして彼女を連れてきて、顔合わせの場を作ったではありませんか。今日はそれだけで十分でしょう。私たちはもう失礼します」
スカイが身を翻して部屋を出て行こうとする。
ディデアも慌てて一礼して彼の後に続こうとしたが、呼び止められて振り返った。
見ると国王が優しく微笑んでいた。
「ディデアさん、この通り冷たくてそっけない息子だが、仲良くしてやってほしい。根は国民想いのとても良い子なんだ。私なんかよりよっぽど良い王になるに違いないから、どうか傍で末永く支えてやってほしい」
切実な想いを含んだ国王のその言葉に、ディデアは頷くこともできなかった。
「お前、乗馬が趣味なのか」
国王の居室を辞してすぐ、スカイが口を開いた。
「いえ、趣味というか……まあ馬に乗るのは嫌いではありません」
「腕前はどのくらいだ?」
「走らせるくらいなら……」
「そうか。……よし、これから馬に乗って王宮の周囲を散策でもするか」
「えっ……、それって私もですか?」
「そうだ」
「殿下はお忙しいのでは? それなのに私なんかと一緒に乗馬などしていて大丈夫なのですか?」
「少しくらいならば問題ない。そろそろ仲睦まじくしているところを周りの奴らに見せつけておかねばと思っていたところだ。不仲だと思われて、再び縁談が殺到する事態になることのほうが問題だからな」
そういうことで二人はそのまま厩舎へ向かった。
スカイは白い毛並みの立派な馬を選び、ディデアは栗色の少し小さめの馬を選んだ。王家の持っている馬だけあって手入れが行き届いており、シルエットが美しく、力強さを感じさせる。
栗色の毛並みの馬を選んだのはなんとなくだ。自分の髪色に似ていて、親近感を覚えたからかもしれない。
スカイは馬に跨るやいなや腹を強く蹴り、全速力で駆け出した。
ディデアは呆気にとられる。
「でっ、殿下!?」
――なんでいきなり全力疾走!?
少し周囲を散策するだけではなかったのか。ディデアはわけがわからないながらも、慌ててスカイを追いかけた。
手綱を握りしめ、必死で馬を操る。それでも追いつくのは無理だった。これ以上距離を離されないようにするのが精一杯だ。
せっかく令嬢らしく見えるようにと整えてきた髪が、風に煽られ乱れてゆく。前を走るサラサラの金髪が、無性に恨めしく思えた。
やがてスカイが速度を落とし、ようやくディデアは追いついた。
「いったい何なんですかっ、仲睦まじいところを見せつけるって言ったのはそっちなのに、明らかに私を置いて行こうとしましたよね!?」
「お前の馬術の腕を確かめたかっただけだ。そう怒るな」
「怒りますよ! こっちはわけもわからず全速力で逃げられたんですから」
「全速力ではない。あれくらいのスピード、俺の実力の半分くらいだ」
急いで髪型を整えるディデアを横目に、スカイは涼しげに言ってのける。なぜか彼は楽しそうだった。
二人は轡を並べ、歩みを揃える。
「だが驚いたな。その小さな馬と女の身で、先程の俺に付いてこられるとは。息切れもしていないじゃないか」
「……体力には自信があるんです。それに、武闘と馬術はウィリアム様に習いましたから」
「ウィリアムに……? なるほど、だからか」
スカイは納得したように一人で頷いている。そんな彼も、息一つ乱していない。
金髪碧眼で外見だけは文句の付けどころのないスカイが白馬に跨って颯爽と駆ける姿は、さすがというべきか、まるで絵になるように美しかった。
そんな彼とはあまり似ていなかった国王の顔が、ディデアは思い浮かぶ。
「……国王陛下、聞いていた通りのお優しそうな方でした。『王』というよりも『子供を持つ普通の父親』という感じで。心を病んでいるとのことでしたが、全然そんな風には見えませんでした」
自由自在に馬を操り楽しげにしていたスカイは、国王の話を持ち出されると雰囲気を一変させ、元の無表情に戻った。そのまま無感情に語り出す。
「前はもっとひどい精神状態だったがな。宮廷にいる者全員が自分の悪口を言っているなどという被害妄想に始まり、塞ぎがちになって食事もまったく摂れなくなり、ストレスから周囲の人間や物に当たり散らすようになった。俺もかなり苦労させられたものだ」
「そんな……先程会った陛下からは、想像もできません」
「俺に王としての権限を全て託し、必要最低限の人間しかいない静かな離宮で療養に専念するようになってから、だいぶ回復した。だが陛下も歳をとって少し人恋しくなったのか、半年前に王宮に戻り、息子の俺を必要以上にかまうようになった」
そこでスカイはため息をつく。
「あきれたものだ。子供が一番愛情を欲している幼い時期にはそっけなくしておきながら、大人になってからかまい倒すなど。俺には迷惑でしかない」
「陛下のほうが、そっけなかったのですか……?」
先程の場面を見る限りでは、国王は息子に愛情を持っていて、スカイのほうが国王にそっけなくしているように思えた。それも心を病んだ父親に、冷たすぎるくらいに。
「俺と陛下は血が繋がっていないからな」
「え……」
ディデアは目を丸くする。
「もちろん公式の記録には、俺は陛下の本当の子供だということになっている。俺も寄宿学校を卒業するまではそうだと信じ込んでいた。だが実際には、俺は二十四年前に他界した王妃と、その姦通相手との子供だ」
衝撃の事実に、ディデアは思わず口を手で覆った。
ただの偽物の婚約者である自分が、耳にしてはいけないことを聞いてしまった気がした。
「陛下が精神を病んだのは、俺と俺の母親のせいでもある。その事実を知っている数少ない者は、俺が陛下を冷たくあしらうと、もう少し優しく接してやってはどうかと言う。だが俺はどうしてもそれができない。陛下のことが理解できないんだ。心身を病むほどに俺と俺の母親が憎いはずなのに、どうして今さら俺にかまう? 人恋しいなら側近たちにでも話し相手になってもらえばいいじゃないか。王太子だと言っても所詮俺は他の奴らと変わらない――陛下とは他人なのだから」
ディデアは返す言葉が見つからず、黙ったままうつむいた。
もしそれが本当なら、スカイが国王に対して一歩線を引いた態度なのも頷ける。スカイは非常に複雑な立場だ。
ずっと血の繋がった父親だと思っていた人が、実はそうではなかった。しかもその人は自分と自分の母親のせいで、心を病んだ。国王に対しどう接したらいいかわからなくなって当然だ。
だが、スカイのせい?
本当に、国王が心を病んだのはスカイのせいなのだろうか?
たしかに王妃には原因があると思う。だが、産まれてくる子供に罪はないのではないか。
ディデアはうつむいたまま、ぽつりと言葉を紡ぐ。
「私……殿下は冷血漢だと思っていました」
「……おい」
「フィアン様のことをあの女呼ばわりするし、上から目線で尊大な態度が何か鼻につくし、絶対にこの人と私は相性が悪いと。殿下のことを心の中で罵ったこともあります」
「喧嘩を売っているのか?」
「ですが、殿下は第一印象とは少し違う方なのだとわかりました」
ディデアは顔を上げて隣を見上げる。アイスブルーの瞳としっかり視線を合わせた。
「殿下、陛下が心を病まれたのはあなたのせいではありません。陛下はちゃんと、あなたのことを愛しておられます」
「何を根拠に馬鹿なことを……」
「陛下があなたを見る目は、とても穏やかで温かかった。まるでリーズレット伯爵夫妻やウィリアム様が、フィアン様を見つめるときのように」
今度はスカイが目を見張る番だった。
ディデアは口元を緩ませる。彼に微笑みかける時が来ようとは、初対面のときは思いもしなかった。
「つまり、そういうことです。昔がどうだったか私にはわかりませんが、今の陛下は絶対に殿下のことを愛おしく思っているはずです」
「……」
「どうか、陛下とは仲良くしてください。――いえ、それが無理でも、お二人は一度腹を割って話をするべきです。血は繋がっていなくても、親子なんでしょう? 少なくとも殿下は、大人になるまではそう思っていたはずです。……私には両親がいません。父親は私が生まれる前にこの世を去りました。母親も私が幼い頃に亡くなりました。二人とは話がしたくても、もうできないんです。手が届かなくなってからでは遅いんです。手が届くうちにたくさん話をするべきです。陛下との関係が今のままでは、きっと殿下は後悔します」
スカイは何も答えなかった。しばらくの間二人は無言で見つめ合う。
やがてスカイが、急にうろんげに目を細めた。
「……いったいどういう心境の変化だ」
「え?」
「ついこの間まで、お前は俺に反抗的だっただろう。さっき自分でも言っていたではないか。それが急にどうした」
「ですから、あなたに対する見解が変化したと……」
「ウィリアムの妹に何か言われたのか? まさか俺に取り入って、何か弱みを握るつもりではないだろうな」
「フィアン様はそんな命令はしません!」
まったく人の話を聞こうとしないスカイに、ディデアは婚約者の演技も忘れてつい大声で叫んでしまった。
それでもなお彼は疑わしげにディデアを見ている。なんて失礼な人なのか。
――彼を心配した私が馬鹿だったわ!
スカイが彼に似合わず落ち込んでいるように見えたから、励まそうとしただけなのに。その結果、またしてもフィアンのことを悪く言われることになろうとは。
ディデアの中で彼の評価が多少変わったとはいえ、仲良くするのは至難の業かもしれない。ウィリアムはよくこの男と友人をやれているものだ。
ディデアがげっそりとしていると。
「……少し遠くまで来てしまったな。一旦休憩にするか」
スカイの言葉にディデアも辺りを見回す。
たしかに、話をしながらあてもなく馬を進めているうちに、いつの間にか森の中に入ってしまっていた。二人とも話に気を取られていて、辺りの景色に注目していなかったからだ。王城の尖塔すら木々に遮られて見えなくなってしまっている。
適当なところで地面に降り、近くの木に馬を繋ぐ。
「……殿下、私はあっちのほうで休憩してきます」
一人きりのほうが休めるからと、ディデアはスカイから離れようとした。
しかし馬を繋いでいる途中だったスカイが、慌てたように声を上げる。
「待て……! こんな人気のないところで俺から離れるなっ」
そのときだった。
木々の間から何の前触れもなく現れた人影が、ディデアを突然後ろから羽交い絞めにした。
「何……!?」
大声を出せないよう口を布で塞がれ、視界に銀色の光が反射する。それは剣の鋭い切っ先だった。
ディデアを追いかけてきたスカイが舌打ちする。
木々の向こうに、離れて付いて来ていた護衛が倒れているのが見えた。
ディデアを拘束している者の他にも七つの人影が現れ、スカイを取り囲む。いずれもフードを深く被り、顔の下半分を布で覆った男たちだった。手にはそれぞれの剣を構えている。
そのうちの一人が言葉を発した。
「王太子殿下、腰の剣を鞘に収めたままこちらに渡してください」
「俺が王太子だとわかっていての犯行か。……まあそうだろうな」
スカイがゆっくりと腰の剣に手で触れる。だがどうすべきか迷っているのか、それ以上は手を動かそうとしない。
――この人たち、まさか前に殿下が言っていた暗殺者……!?
ディデアは拘束されながらも男たちを睨んだ。
自分が捕まっている限り、スカイは一歩も動けないだろう。どれだけ時間を稼ごうと、どのみち言いなりになるしかない。
だがそれは、ディデアが普通の令嬢(正しくは使用人だが)だった場合の話だ。
――殿下の足手まといになるなんて、ごめんだわ!
ディデアは一瞬の隙を突いて、すぐ後ろにある男の腹に力いっぱい肘をめり込ませた。
「がっ……!!」
狙い通りみぞおちにヒットしたようで、男は力を失って地面にくずおれる。ディデアを単なる箱入りの令嬢だと侮って、緩い拘束しかしなかったことが彼の運の尽きだ。
スカイも含めた周りの者が驚いた様子を見せた。
拘束から逃れたディデアはスカートの中に隠し持っていた短剣を逆手に取り、すばやくスカイの元へ移動した。背中合わせになり、敵からの攻撃に備える。
「お前……ドレスの中にそんな物を忍ばせていたのか」
「どんな緊急時でもフィアン様を護れるように、念のため常に武器は持ち歩いています。物騒な女だと笑いたいならいくらでもどうぞ」
「笑いはしない。……たしかウィリアムに武闘を習っていると言っていたな。闘えるか?」
「訊かれなくても、もとよりそのつもりです」
「頼もしくて何よりだ」
スカイが抜刀し、剣を構えて地を蹴った。敵一人の武器を、目にも留まらぬ太刀筋で弾き飛ばす。獲物を失った男が怯んだように後ずさった。
ディデアの令嬢らしからぬ振る舞いに呆気に取られていた他の男たちが、我に返ったように剣を握り直す。そして三人同時にディデアに斬りかかってきた。
ディデアはまず姿勢を低くして、三本の刃が振り下ろされる前に彼らの間を器用にすり抜ける。間髪を入れず隣り合った二人に足払いをかけ転倒させた。その二人の項に短剣の柄を強く打ち込み気絶させる。もう一人はというと、ディデアの戦闘に危機感を感じたのかジリジリと後退して距離を取った。
一方四人を相手にしているスカイのほうは大丈夫かとディデアが振り返ると、彼も二人の足を斬りつけ戦闘不能にしたところだった。
残りは三人。ディデアとスカイは再び背中合わせになる。
闘いながらこちらを横目で視野に入れていたらしいスカイが、肩越しに小声で言った。
「……お前、本当にただの侍女か? とてもそうは思えないんだが」
「ただの侍女ですよ。心から主人への忠誠を誓っている、忠実な、ただの侍女です」
「その盲目的なほどの忠誠心といい剣捌きといい、俺の部下に欲しいくらいだ」
「私は鞍替えなどしません。死ぬまでフィアン様一筋です」
「知っている」
二人は協力してさらに敵を倒していく。
残りの一人はどこかとディデアが視線を巡らせると、木の陰に先程スカイに剣をはじかれた男が、拳大の大きな石を握っていた。はっとしてディデアが叫んだのと男が腕を振りかぶったのは同時だった。
「殿下後ろ!」
「!」
ディデアの声に反応したスカイが大きくしゃがむ。さっきまで彼の頭があったところを拳大の石が高速で通り過ぎていった。
危機一髪だった。
もしほんの少しでもスカイの反応が遅れていれば、彼の頭蓋骨は粉々になっていただろう。
そうならなかったことに、ディデアは心底安堵した。
最後の一人を倒したスカイがこちらを振り返る。
「お前のおかげで助かった。礼を言う」
「いえ……、……この人たち、どうするんですか?」
地面に伏してまったく動かなくなった八人の男たちにディデアは目をやる。
「急いで王宮に戻り、兵士たちに回収させる。どうやら馬は無事のようだしな」
スカイの視線を追うと、たしかに二頭の馬は少し離れたところで、戦闘前と同じく木の幹に繋がれたままだった。乱闘のせいでわずかに気が荒ぶっているようだったが。
逞しい身体を撫でてやりどうにか馬を落ち着かせ、二人は来た道を急いで戻る。
馬を駆けさせながら、ディデアは思いを巡らせていた。
――殿下の傍にいることがこんなに危険だったなんて……。婚約者になったのがフィアン様でなくてよかったわ。
まさか王宮の敷地内で暗殺者に出くわし、人質に取られるなんて。もしディデアでなかったらあの窮地を打破できたかどうか怪しい。
もしかしてフィアンはこういうことも予想して、スカイの婚約者役としてディデアを推薦したのだろうか。ディデアならばその辺の暗殺者に負けることは滅多にないだろうから……。
森から離れ王宮が近付いてきたとき、スカイは流れゆく風を感じながら、隣を走っているディデアを盗み見た。
――おもしろい女だ。
まさか自分が九つも歳の離れた娘に背中を預ける日がこようとは。スカイも目を見張るほどの戦闘技術だった。乗馬の腕もなかなかだ。
宮廷舞踏会の日に初めて顔を合わせたときには、どこにでもいる普通の小娘だと思ったのに。
スカイは人知れず口端を上げる。
ディデア・エーデン――とてもただの侍女とは思えない。
女に対しこれほど興味がそそられるのは初めてだった。