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悪魔の王子の婚約者  作者: 皇 英利
第一章
3/10

王都、吸血鬼事件!

「ウィリアム、お前舞踏会の間仕事をほっぽり出して、ずっと妹の傍にくっついていただろう。シスコンなのはけっこうだが、仕事に支障がでるのは問題だぞ」


 ディデアとフィアンを乗せた馬車を見送った後、スカイの自室でウィリアムはディデアが心配した通り職務怠慢の件について追及されていた。


 目聡いスカイはウィリアムが妹に若い男を近づけさせまいと、番犬のごとく睨みをきかせていたのをちゃんと視野におさめていたのだ。 

 スカイに睨まれればたいていの人は怖気づきすっかり平身低頭になるのだが、ウィリアムはまったく意に介さず、さも真剣そうに言い訳を口にする。


「何を言うスカイ、最愛の妹が軟派な男にたぶらかされて、もし万が一のことがあったらどうする! それを未然に防ごうと尽力するのは、立派な兄としての務めではないかっ」

「俺は騎士としての仕事について言っているんだ。お前は今夜、伯爵家の令息として舞踏会に参加していたのではなく、近衛騎士として警護の任務にあたっていたのだろう。自分の今の服装を見てみろ」


 スカイの言う通り今のウィリアムは夜会用の正装ではなく、濃紺の地に銀の装飾、同じく銀の肩章といった騎士の制服を身に纏っている。腰には剣を携え、おまけに胸元には近衛騎士の証であるバッジが堂々と光り輝いていた。

 そんな格好をしていながら、よく職務を放棄できたものだ。

 スカイは辟易とする。

 しかしウィリアムは胸を張って言った。


「安心しろスカイ、城内に怪しい人物がいないかどうか、ちゃんと目を光らせてはいた」

「ほう。……で、どうだったんだ、怪しい奴はいたか?」

「とりあえず俺が見ていた限りでは、不審人物はいないようだったな。他の騎士からもそんな報告は上がっていない」

「そうか」

「それよりもディデアとはどうだったんだ? 仲良くやっていけそうか?」

「は?」


 いきなりの話題変換に、スカイは間の抜けた返事をしてしまった。


「……なぜそんなことを訊く? あの娘と仲良くする必要などないだろう。婚約者役さえ完璧にやり遂げてもらえれば、俺は満足だ」

「お前なあ、仮にもディデアはお前のためにわざわざ婚約者役を引き受けてくれたんだぞ。善意で協力してくれている相手に対して、冷たすぎだぞ」

「それに見合った報酬はきちんと相手に支払うつもりだ」

「そういうことじゃなくて……」


 ウィリアムがため息を吐く。


「そんな調子だから俺以外に友人ができないんだぞ、お前」

「友人などお前だけで十分だ。俺は次期国王なのだから周囲になめられるわけにはいかない。この国に今必要なのは、親しみやすい王ではなく、国を正しく導くことのできる強い王なのだから」


 そう、自分は強くあらねばならない。父がそうできなかった代わりに。


 ウィリアムが何か言いたそうに口を開きかけたが、そのとき扉が叩かれて、二人は同時にそちらを振り返った。


「王太子殿下、ウィリアム様、こちらにおられますか?」


 訊ねる声に、ウィリアムが入室の許可を出す。


「どうした、入れ」


 慌ただしく入ってきたのはウィリアムの部下の少年だった。ウィリアムの隣にいるスカイに向かって一礼すると、その少年は開口一番こう言った。


「ボロディン子爵夫人が、王太子殿下に話があるとお見えになっています」


 スカイとウィリアムが顔を見合わせる。


「ボロディン子爵夫妻といえば……あれだよな、今回の舞踏会は急遽欠席すると、直前に手紙の届いた……」

「ああ。その夫人が、舞踏会の終わりを見計らってわざわざ王宮を訪ねてきて、いったい俺に何の用だ?」


 騎士の少年が説明する。


「なんでも、昨日から行方がわからなくなっていたご令嬢が今日、王都の人気のない路地裏で遺体で発見されたとのことで……そのことで殿下にご相談があると」

「子爵令嬢が遺体で? いったい何があった、金品を狙った強盗にでも襲われたのか?」

「いえ、そうではなく……夫人が言うには……そのう……」


 少年はなぜか言いにくそうに口をもごもごと動かし、要領を得なかった。スカイはしだいにもどかしくなって、つい少年に説教してしまう。


「騎士ならばもっと物事をはっきりと言え! そんななよなよとした態度で、国が護れるか!」


 スカイに睨まれ怒鳴られた少年はびくっと肩を震わせ、即座に「はい! すみませんでしたっ!」と実に気持ちのいい謝罪をした。身体を直角に折り曲げたまま青ざめる部下が可哀想になったのか、ウィリアムが「まあまあ」とその場をなだめる。

 そしてウィリアムは痛ましげな顔をした。


「そうか、ボロディン子爵令嬢が……。そりゃ舞踏会なんかに参加している場合じゃないよな。娘さん、可哀想に……」


 頭を上げた少年が、スカイに言われた通りきびきびと告げる。


「詳細は夫人から聞かれたほうが、よいかと思います」


 スカイは束の間考える間をおいてから、口を開いた。


「わかった、ボロディン子爵夫人と会おう。夫人はどこだ?」

「応接室で待ってもらっています」


 スカイとウィリアムは部屋を移動し、ボロディン夫人のいる応接室へと移った。

 夫人は落ち着かないようで、椅子には座らず部屋の中をうろうろしていた。スカイが姿を見せるなり、はっとしてこちらに駆け寄ってくる。


「王太子殿下! こんな夜更けに呼び出してしまったこと、どうかお許しください」


 許しを請うボロディン夫人は、前に見たときよりもいくらかやつれて見えた。やはり娘を亡くしたことが相当ショックだったようだ。


「別にかまわない。さっそくだが、話を聞こう。報告では、令嬢が遺体となって発見されたとか」


 ボロディン夫人は立ったまま話し始めた。


「娘は昨日の午後に出かけてから、夜になっても屋敷に帰ってきませんでした。私は心配ですぐにでも捜しに行こうとしましたが、そのうちひょっこりと帰ってくるかもしれないから朝まで待とうと主人に言われ、私は娘の無事を祈りつつ、眠らずに朝まで待っていました。ですが結局、娘は帰ってきませんでした」

「令嬢は一人で出かけたのか?」

「いえ、侍女を一人連れて行きましたが、その侍女を途中で撒いたらしいのです。娘を見失ったまま見つけられなかった侍女だけが、夕方帰ってきました。そして翌日、屋敷の使用人を総動員で王都中捜させたところ、人気のない路地裏で息絶えた娘を見つけたのです……っ」


 ボロディン夫人は涙を堪えるように目元に力を入れた。


「やはり朝まで待たず、すぐにでも捜しに行くべきでしたわっ。楽観主義者の主人の言うことを聞いた私が馬鹿でした! ――王太子殿下! どうか、どうか娘を殺した犯人を捕まえてくださいませ!」

「気持ちはわかるが、捕まえるのは私ではなく憲兵隊の仕事だな」

「憲兵隊では無理です! だって……犯人は人間ではなく、恐ろしい怪物ですもの!」


 叫んだ夫人の言葉に、スカイは一瞬ぽかんとする。


「……怪物? どういうことだ、犯人に心当たりがあるのか?」

「きっと……きっと、あの男に違いありません。名前は教えてくれませんでしたが、少し前に、娘はとても優しい男の人に出会ったと嬉しそうに話していました。それからというもの、娘はその人の話ばかり。貴族の娘が特定の男の人と仲良くするだなんてと、私は注意しましたが、娘は聞く耳を持たず……。きっとその男が娘をたぶらかして殺したんです! 吸血鬼の妖力で!」


 スカイもウィリアムも息を呑む。

 聞き慣れない言葉に、スカイは一瞬自分の耳が聞き間違えたのではないかと疑った。

 夫人は娘を亡くした直後で錯乱状態にある。彼女が興奮のあまり、言い間違えたのではないかと。

 スカイは夫人に訊き返す。


「……吸血鬼?」

「ええ、吸血鬼です。それが娘を殺した犯人です!」

「そう思う根拠は?」

「発見された娘の遺体には、首筋に血を吸われたような小さな穴が二つ並んであったのです」

「それだけか?」

「娘は親に反抗もしたことがない、真面目でとても良い子でした。そんな子が、普通の精神状態で侍女を撒いたりなんかするはずがありませんっ。なにか不思議な力で、惑わせられていたのです。娘は……吸血鬼の餌にされたんです!」


 目元をハンカチで押さえる夫人に、スカイはどう対応するべきか迷う。

 なるほど、騎士の少年が言いよどんでいた理由がわかった。娘を殺した犯人は吸血鬼だなどと喚かれて、どう受け取るべきか彼も相当戸惑ったことだろう。

 今の状態の夫人に吸血鬼など現実には存在しないと言ったところで、きっと無駄だ。むしろ逆効果になりかねない。意固地になった彼女はますます犯人は吸血鬼だと言い張るだろう。

 スカイは頭を悩ませながら、夫人に訊ねる。


「……その娘と仲の良かった男の特徴は、何かわからないのか? 些細なことでもいい」

「わかりません。娘は詳しいことは何も教えてくれませんでしたから」

「そうか……」

「殿下お願いです! このままでは娘も浮かばれませんっ。罪のない無垢な命を不当に奪った魔物に、どうか天罰を!」


 この夫人の様子では、きっとスカイが犯人捜しを承諾するまで帰ってくれなさそうだ。何度それは王太子の仕事ではないと言ったところで、彼女は首を縦には振らないだろう。泣いて足に縋りつかれそうだ。

 それにこんなに心身を弱らせている夫人を邪険にするのは、さすがのスカイも良心が痛む。

 ひとまず夫人を帰らせるために、スカイはしぶしぶ頷いた。


「わかった。犯人について、こちらでも調べることにする」

「殿下……!」


 夫人が目を潤ませたままこちらを見上げる。


「今日はもう遅い時間だ。帰ってゆっくり休むといい。あとのことはこちらに任せておけ」

「ああ、ありがとうございます! 娘を殺した忌々しい魔物を、どうか退治してくださいませ!」

「善処しよう」


 ボロディン夫人は何度も頭を下げながら、部屋から出て行った。

 夫人が退出した途端、スカイはチッと舌打ちする。


「婚約しろとうるさかった大臣たちをようやく黙らせることができると思ったら、次から次へと……」


 ただでさえ忙しいというのに、と苦虫を噛み潰したように口を歪める。

 そんなスカイの態度を、ウィリアムが諫めた。


「こらスカイ、人が一人死んだんだぞ。その態度はないんじゃないか?」

「夫人やその娘に対してじゃなく、犯人に対しての悪態だ。遺体の首筋に二つの穴など、余計な小細工をしてくれたおかげで俺の仕事が増えた。――どうせ犯人はただの人間だろう。きっと殺人を犯した者が罪を逃れようと、存在しない吸血鬼に濡れ衣を着せようとしただけだ。首筋の穴は注射器の針などを使って、あたかも吸血鬼の牙の痕のように偽装したのだろう。きっとそうに決まっている」


 スカイは二回目の舌打ちをした。


「こうなったら絶対に犯人を捕まえて、死ぬよりも辛い地獄を味わわせてやる……。殺人を犯したことを、死んでも後悔するほどにな」

「相変わらず悪人に対しては悪魔のように怖い奴だな。そんなことを言うから、悪魔の王子などと呼ばれるんだぞ」

「悪魔でけっこう。優しいだけの王などこの国には必要ない」

「またそんなことを言って……」


 ウィリアムが呆れたように息をついたが、スカイは無視する。


 ――とりあえず王都の治安維持のため、巡回する兵士の数を増やすか。あと犯人の追跡にも人員を割かねば……。


 スカイは皺の刻まれた眉間を揉みながら、今夜は徹夜だなと覚悟した。



 ―――――――――――――



 人生初の宮廷舞踏会を味わった翌日、フィアンの命令通り盛大な朝寝坊をしたディデアは、今日もまたなぜか王宮に来ていた。

 ただし身に纏っているのはドレスではなく使用人用のお仕着せだ。


 馬車から降り、そびえ立つ豪華な建物を複雑な気持ちで見上げる。


 ――まさか今日もここに来ることになるなんて思わなかったわ。


 門番に事情を説明し城内に入れてもらい、女官に案内されながら長い回廊を歩いていく。


 王宮を訪れた理由は、ひとえにウィリアムの忘れ物を届けるためだ。

 ウィリアムは昨夜遅くに帰宅し、今朝も朝食を食べ終えるやいなや慌ただしく出かけて行ったそうだ。慌てていたためか仕事に必要な書類を忘れたらしく、それを王宮まで届けてほしいとの連絡があった。しかし今日に限って伯爵家の使用人たちは皆忙しそうで、だから仕方なくディデアがこうして届けに来たというわけである。


 昨日の舞踏会では化粧をしていたし髪型も違うから、同一人物だとは思われないだろう。多少『あれ? なんだか王太子殿下の婚約者に似ているな?』と思われても、まさか王太子の婚約者が使用人なわけがないので、単なる他人の空似で終わる。

 おどおどとしていたら余計に怪しまれるであろうから、ディデアは背筋を伸ばして堂々としていた。


 ウィリアムに忘れ物を届けてさっさと帰ろう。そう思った矢先――。


 ――げっ!


 ディデアは思わず声を出しそうになった。

 角を曲がったその先にいたのは、今一番鉢合わせたくない人物――昨夜晴れてディデアの中で敵と認定された、スカイだった。

 ここは王宮で彼は王族だ。だから彼がいるのは当然なのだが、できれば会いたくはなかった。

 

 いや待て自分。落ち着け自分。昨日と今日とではディデアの雰囲気は全く違う。服装も髪型も何もかもが違うのだから、いくら鋭いスカイでもディデアには気付かないはずだ。こう女官と並んで頭を下げて、いかにも使用人然として気配を殺していれば……。


 どうかこのままディデアには気付かず通り過ぎて行ってくれますようにと祈っていると。


「ん?」


 あろうことかスカイはディデアの目の前で立ち止まった。

 つむじに鋭い視線をビシバシ感じて、冷や汗が滲み出す。


「お前……」


 スカイはディデアのほうに向かって何かを言いかける。だが途中で口を閉ざし、代わりに女官に声をかけた。


「この使用人の娘と少し話がしたい。お前はもう下がっていい」


 女官が言われた通りに姿を消すと、スカイは今度こそディデアに話しかけた。


「顔を上げろ、ディデア・エーデン。必要以上に頭を下げられるのはうっとおしいと、昨夜言ったばかりだろう」

「なんでわかったんですか――!?」


 顔を上げてディデアは叫んだ。

 スカイは訝しげな表情をする。


「何のことだ?」

「昨日の婚約者に扮した私と、今の私が、同一人物だとなぜ気付いたんですか!? 服も髪型も違うし、顔だって最大限伏せて見えないようにしていたのに」

「気付くに決まっているだろう。足を踏まれたのは昨夜が初めてだったからな。後にも先にもそんな奴はきっとお前ひとりだけだ。生涯忘れない」

「なっ……!」


 スカイがこんなに根に持つ性格だったなんて。

 昨夜余計なことをしなければよかったと、ディデアは心底後悔した。

 偉そうで傲慢でねちっこい性格だなんて、この男、やはり最悪だ。


「そう叫ぶな、誰かに聞かれたらどうする。……場所を変えるぞ」


 そう言って、スカイはディデアを連れて中庭の木陰に移動した。


「この時間に中庭に来る者はほとんどいない。一人になりたいときの絶好の穴場だ。ここなら安心して話せるだろう」


 ディデアは木を見上げる。

 たしかにこの場所なら木の葉が生い茂っているから、上の階から誰かに見られる心配もないだろう。


「さて、お前が今日王宮を訪れた理由を聞こうか。俺のためにまた婚約者役を演じてくれるため――ではなさそうだな」


 スカイは腕を組んで木の幹にもたれかかりながら、ディデアの服装を上から下まで一瞥する。


「お前、伯爵令嬢の侍女だろう。なぜそんな下女のような恰好をしている?」


 一般的に王侯貴族に仕える侍女は、下級使用人のような服装はしない。侍女という役柄には、中流階級以上の娘が選ばれることがほとんどだからだ。

 スカイの疑問はもっともだが……。

 詰問するようなスカイの雰囲気に昨夜と同じく居心地の悪さを感じながら、ディデアは答えた。


「……私はもともと良家の子女でもなんでもなく、薄汚れた孤児で、本来ならフィアン様の侍女をやらせてもらえるような人間ではないんです。運よくフィアン様に拾ってもらえましたが、侍女のような小綺麗な服をもらうのは恐れ多く、使用人用のお仕着せで十分だと、私が言ったのです。それに伯爵家には多大な恩がありますから、侍女としての仕事以外にも掃除に洗濯、細々とした雑用まで何でもします。だから、常にエプロンを身に着けている方が便利なんです」

「なんだ、そんな理由か」


 拍子抜けしたようにスカイが肩を竦める。


「いったいどんな理由だと思ったのですか」

「てっきり王宮に紛れ込むために下女に扮し、俺を暗殺しに来たのかと思った」


 さらりと言われた言葉にディデアは絶句した。


「なっ……、そんなわけないじゃないですか! ありえないわ!」

「どうだかな」

「まさか、私がフィアン様に命令されてあなたを殺しに来たと思っているの?」

「フィアン嬢のことは疑っていない。お前が別の誰かと繋がっているのではないかと、一瞬思っただけだ」

「どうしてそんなこと……」

「ありえない話ではない。生憎(あいにく)と、俺がいなくなったほうが都合がいい人間はいくらでもいるからな」


 何でもない事のように吐き出された言葉に、ディデアは虚を衝かれる。


 誰かの命がなくなったほうが都合がいいなんて、そんなのあんまりだ。まさかスカイは暗殺されかけることに慣れているのだろうか。今までにそんなことを何度も体験してきたと?

 そんなの……悲しすぎる。


 不覚にもスカイに同情してしまいそうになり、彼が自分の敵だと思い出したディデアは、はっとして彼から目をそらした。


「私はリーズレット伯爵家の人以外には従わないわ。今日王宮にやって来たのは、ただウィリアム様の忘れ物を届けに来ただけです」


 持っている封筒をスカイの目の前に突き出す。

 スカイは封筒を受け取り、中身を確認した。


「……どうやらそのようだな。これは俺からウィリアムに渡しておく」


 用事も済んだことだし、もう帰ってもいいだろうかとスカイに訊ねようとしたところ、ふと彼の完璧な美貌に翳が差していることに気が付いた。


「……殿下、もしかして昨日の夜寝てないんですか?」


 そう訊ねた瞬間スカイの顔が一瞬強張ったように見えたが、気のせいだろうか。

 彼が何も答えないので、ディデアは続ける。


「目の下にうっすらと隈が。それと、昨日にも増してなんだか疲れているように見えます」


 スカイはなぜか探るようにディデアを見つめた後、観念したかのように息をついて眉間を押さえた。


「……お前の言う通り、昨日は一睡もしていない。吸血鬼事件のせいでな」


 ディデアの心臓がドクンッと音を立てる。


「え……?」

「なんだ、まだ知らなかったのか。てっきりもう耳に入っているかと思っていた」


 知らない。なんだそれは、初耳だ。

 吸血鬼事件? もしかして自分の耳が聞き間違えたのだろうか。


「昨日ボロディン子爵令嬢の遺体が王都の路地裏で発見されてな。どうやらその犯人が吸血鬼かもしれないという理由で、吸血鬼事件などという名前が定着してしまった」


 ディデアは何も言えず、ただ身体を硬直させる。そんな彼女をスカイがちらりと見た。


「お前がそんな反応になるのも無理はない。吸血鬼などという単語を耳にしたときは、俺もそんな反応をしてしまった。吸血鬼など現実にいるわけがないからな。そんな種族は人間の想像力による産物だ。今回の事件だって、蓋を開けてみれば犯人は普通の人間に違いない。お前もそう思うのだろう?」


 スカイはどうやらディデアが吸血鬼事件などという名前を聞いて、呆れてものも言えなくなっていると思ったらしい。

 実際は違うのだが、ディデアは一応頷いておくことにした。


「……それも、そうですね」

「しかも被害者が貴族の若い令嬢なものだから、ゴシップ紙が面白おかしく騒ぎ立てて皆浮き足立っている。……まったくもって時代錯誤も甚だしい。遠い過去ならいざ知らず、吸血鬼など現代にいない。少し頭を使えばわかるはずなのに……俺の仕事が増えて本当にかなわん」


 ディデアは理解した。ウィリアムが忘れ物をするほど慌ただしく屋敷を出て行ったのは、これが原因だったのだ。

 類まれな事件のうえに殺害されたのが貴族の令嬢だから、王都を預かる王宮は、事件の調査に犯人の追跡、王都の治安維持のための対策にと、やることは山積みだ。騎士団の人員も駆り出されることになるだろう。


 ディデアがこの事件について知らなかったのは、今朝は太陽が高く昇るまで寝ていたからだ。だから今日の新聞を見かけてもいないし、他の使用人たちともあまり話をしていない。ディデアが事件について知らないのは当然だった。


 騒いでいる心臓を落ち着かせるために、ディデアは深呼吸する。


「……あの、私はこの後も伯爵家での仕事がありますので、もう帰ってもよろしいでしょうか?」

「ああ、話の流れとはいえ血生臭い話をしてしまったな。気を付けて帰れ」

「はい。……失礼します」


 一礼してから、ディデアはスカイに背を向けた。


 スカイはディデアの背中が見えなくなった後も、しばらく中庭に佇んでいた。木に寄りかかったまま目を休ませるために閉じていた瞼を、ゆっくりと上げる。


 疲労を指摘されたときは正直驚いた。自分の内心や弱っている姿を隠すことには長けていると自負している。実際長い付き合いのウィリアム以外にはばれたことなど一度もない。あの余計なことには目聡いフィアンにすら。

 それなのに、昨日会ったばかりの娘に気付かれるとは。


 ――不思議な娘だ。あの透明感のある紅い瞳が、やけに印象に残る。


 あの娘のことなど、婚約者役さえ全うしてくれるならば、それ以外はどうでもよかったはずなのに。

 スカイは長い前髪を無造作にかき上げる。

 なぜこんなにディデアの瞳が記憶に残るのか自分でも不思議に思いながら、スカイはその場を離れたのだった。

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