王太子殿下の婚約者
短い顔合わせを終えたディデアとスカイは、宮廷舞踏会の会場となっている王宮の大広間へと向かった。
王宮まで一緒に馬車に乗ってきたフィアンは、もうすでに舞踏会に参加していることだろう。
大広間へ入る直前に、ディデアはパートナーであるスカイの腕に手を添える。王宮の使用人が大きな両開きの扉を恭しく開けると、そこには目が眩まんばかりの光に包まれた空間が広がっていた。
リーズレット伯爵邸でときおり開かれる舞踏会も素晴らしいものだが、宮廷舞踏会ともなるとレベルの桁が違った。
庶民の家が何軒も納まりそうなだだっ広い空間。その隅々まで明るく照らし出す無数のシャンデリア。会場を埋め尽くす、色とりどりの衣装で着飾った紳士淑女たち。言葉を交わし上品に笑いあう人々が宝石のようで、煌びやかな最上級の空間はまるで宝石箱のようだとディデアは思った。
つい先ほどまで自分の着ているドレスが派手すぎやしないかと心配していたのだが、杞憂だったようだ。むしろ胸元があまり見えないデザインだから、控えめな印象に見えるくらいだ。
豪華すぎる雰囲気に圧倒されながら、ディデアはスカイとともに一歩踏み出す。
すると今まで楽しそうに談笑していた人々がぴたりと口を閉じ、一斉にこちらを振り返った。
スカイはそんな彼らの反応をものともせず、階段を静かに降りて行く。一瞬は立ち止まりかけたディデアも、彼が進み続けるのでそれに付いて行くしかない。
静寂に包まれた大広間に、やがてさざ波のような人々の声が広がっていく。
「王太子殿下だ」
「いつもはお独りで参加なさるのに、今夜はパートナーがいらっしゃるのね」
「あの女性は誰だ?」
「見たことのない顔ですわ。どこのご令嬢でしょう?」
自分に注目が集まっているのが嫌でもわかる。視線が痛い。
注目を集めることに慣れていないディデアは居たたまれない気持ちになりながらも、それを表には出さなかった。
二人を遠巻きに見守る人たちばかりの中、一人の中年の男性が恐る恐るといった様子でスカイに話しかけてくる。スカイと男性が軽くあいさつを交わすと、当然話題の矛先はディデアへと向いた。
「……ところで、そちらの女性は?」
男性はモーラン公爵というらしい。スカイが女性を連れているのがよほど珍しいのだろう、公爵は無礼になるのもかまわずに、ディデアのことを頭からつま先までまじまじと見た。
スカイがディデアを紹介する。
「私の婚約者だ」
「こっ、婚約者!?」
目を丸くして驚く公爵の前へ一歩進み出て、ディデアはスカートを軽く持ち上げながら膝を折りお辞儀をした。
「お初にお目にかかります、モーラン公爵様。このたび王太子殿下と婚約を結ばせていただいた、ディデアと申します」
あいさつは完璧だ。伊達に何年もフィアンの侍女をしていない。常日頃からフィアンの所作の一つ一つを見ているから、貴族の娘としての振る舞い方には自信がある。フィアンの真似をしていればまず間違いはないだろう。
スカイに婚約者役としてディデアを推薦したのは、他ならぬフィアンだ。主人の顔に泥を塗らないためにも、王太子の婚約者にふさわしい高貴な令嬢として終始振る舞わなければ。
自分が偽の、張りぼての婚約者だとばれてはいけない。
ディデアはゆっくりと顔を上げ、フィアンを思い出しながらたおやかに微笑んでみせた。
公爵が息を呑む。しかしはっとしたように、彼は慌てた様子でスカイに詰め寄った。
「ど、どういうことです殿下? この女性と婚約などとはっ」
「どういうこととは?」
「私の娘……フレデリカを妃にという話は……」
「それは他の者たちが勝手に騒いでいただけだ。私は貴殿の娘を妃にするつもりは毛頭ないし、現に結婚の約束もしていなかった。それで私が貴殿の娘以外の女性と婚約することに――何か問題でも?」
取りつく島もないスカイのきっぱりとした態度に、公爵はうぐっと言葉を詰まらせた。反論もできないようで、やがて彼はあきらめて、肩を落として呟いた。
「……わかりました、娘のことはあきらめます。他の結婚相手を探してやることにしましょう」
「賢明な判断だ。私よりいい男など、他にいくらでもいる」
「ええと……ディデア殿、とおっしゃいましたか。ファミリーネームはなんと?」
訊かれてディデアは、あらかじめ用意していた理由をすらすらと述べた。
「申し訳ありません。王太子殿下の婚約者ともなるとどうしても注目を集めてしまうため、騒がしいことを嫌う家族のためにも、詳しい素性は正式に結婚するまで伏せさせていただこうと思っております」
眉をわずかにひそめ、さも申し訳なさそうな表情をつくる。
実際騙しているわけだから、心苦しいには心苦しいのだ。今夜はこうして紹介される度に、何度も謝ることになるのだろう。
スカイが間に入り、さらに説明を付け足す。
「彼女はリーズレット伯爵家の親戚だ。あまり詮索はしないでほしい。婚約者である彼女を通して王家との繋がりが得られるかもしれない、などと彼女の家にまで押しかけようとする者もいるだろう。それくらいならまだいいが、彼女に危害を加えようとする者が現れないとも限らない。それらの点を、どうか理解してほしい」
感情のこもらない淡々とした声だったが、スカイの言葉に公爵は戸惑いながらも「はあ……」とうなずいた。
「……たしかに、殿下のおっしゃることも一理ありますな。まあリーズレット伯爵家の親戚ということですし、たしかな血筋のご令嬢には違いないのでしょう」
「ええ、もちろん」
「結婚式を楽しみにしていますよ」
モーラン公爵と話したのを皮切りに、スカイはどんどん貴族たちに婚約者を紹介して回った。
ディデアが詳しい素性は今は伏せさせてもらうと告げれば皆訝しげな視線を送るのに、スカイが詮索はしないでほしいと一言発するだけで、あっさり頷いてそそくさと立ち去っていく。なかには逃げるように離れていく人もいた。
皆やたら腰が低くて、まるでスカイの機嫌を損ねないことに全神経を尖らせているようである。
――もしかして、皆殿下のことを恐れているの……?
スカイより一回り以上年上の男性もいたというのに。
ふと一週間前、朝食の席でウィリアムが口にした『冷酷』という表現を思い出した。皆、スカイのことをそう思っているのだろうか。
ディデアもスカイのことを冷たそうな人だとは思っているが、恐いとは思わない。ディデアにとって恐ろしいことといえばただ一つ、フィアンを失うことだけだからだ。
いったい皆、スカイの何をそんなに恐れているのかと疑問に思う。
まさかこの男は、機嫌が悪くなっただけで目の前の者に暴力を振るったり、無理難題な命令を突きつけたり、最悪の場合は処刑したりという権力を不当に振りかざす暴君だとでもいうのだろうか。
少し考えて、ディデアはすぐ首を横に振った。
もしスカイがそんなろくでもない男なら、ウィリアムとフィアンが彼の心配をするはずがない。なにせあの二人は有力貴族の跡取りと令嬢でありながら、驕ったところのひとつもない素晴らしい人格の持ち主なのだから。屋敷の使用人たちにすら優しく声をかけお礼を言う姿を、ディデアは何度も目にしたことがある。
そういえばその二人をまだこの会場で見かけていないが、どこにいるのだろうとディデアが視線だけでまわりを見渡していると、
「婚約の挨拶はこれくらいでいいだろう。あとは噂でいくらでも広がる。……今宵は舞踏会だ、一曲くらいは踊って見せびらかしておくか」
とスカイに大広間の中央にまで連れ出される。
一応ここ数日間舞踏の練習はしたものの、まだ上手く踊ることができないディデアは焦った。
「で、殿下っ、己の至らぬところで真に申し訳ないのですが、私はまだ上手に舞踏を披露することはできません」
「……ステップの基礎練習はしたか?」
「しました。ですが間違えないようにするのが精いっぱいで、とても様になっているとは……」
「なら問題ない」
――えぇ!?
スカイが楽団に指示を出し、ディデアの腰を引き寄せる。
問題ないって、いや大アリだろう。婚約を表明した舞踏会で、もし盛大な失敗をしたら……。
今度は、あの娘は王太子の婚約者にふさわしくないなどと騒がれるのではないだろうか。スカイの周りを落ち着かせるための偽の婚約なのに、そうなってはなぜディデアがわざわざ貴族の娘の格好をして、偽の婚約者を演じているのか、わからなくなるではないか。
今夜踊るのは絶対止めたほうがいい。
そう言おうとディデアが顔を上げたとき、アイスブルーの瞳と間近で目が合い、思わず息を呑む。
「難しいことは考えるな。基本的なステップをとりあえず覚えているのなら、踊れるはずだ。俺にただ身をまかせ、ついて来ればいい」
失敗することなど微塵も考えていないようなスカイの口ぶり。
そして楽団の美しい旋律が流れ始める。
「っ……!」
踊り出してすぐ、ディデアは驚いた。
スカイの言った通り、ちゃんと踊れているのだ。流れるように自然に、美しく。
何も考えなくても足が動く。膨らんだスカートが優美に揺れる。ディデアとスカイを見守る人たちが感嘆のため息をもらす。
自分はいったい、いつの間にこんなに踊れるようになっていたのだろう。昨日伯爵家で舞踏の教師を相手に練習したときはまだ動きがぎこちなく、何度も相手の足を踏みそうになっていたというのに。
ターンをするため、腰に添えられたスカイの手に一瞬力がこもる。そこでディデアははっとした。
ディデアの踊りが上手くなったのではなく、スカイのリードが完璧なのだ。だからディデアは次にどう動けばいいのか頭で考えなくても、直感的に足を踏み出せる。
踊れる、と自信満々に言い切ったのは、伊達ではなかったということか。
ディデアが素直に感心していると、スカイが大きく息を吐き出した。そして独り言のようにつぶやく。
「これでようやくあの大臣らを、しばらくは黙らせることができる。毎日のように届いていた縁談の手紙も収まるだろう。偽の婚約者役を提供してくれたのはありがたいが、あの女にひとつ借りを作ってしまったのは不覚だな。今後はウィリアムに愚痴るのも控えなければ……」
ぴくり、とディデアの耳が反応する。
――あの女? ……今この人は、まさかフィアン様のことをあの女呼ばわりした?
感情を抑えながら、努めて冷静にディデアはスカイに問うた。
「王太子殿下、失礼ながら『あの女』とは……?」
「リーズレット伯爵令嬢のことだ。……そういえばお前は彼女の侍女なのだったか。あのような主人を持つと大変だろう」
「……どうしてそうお思いになられるのです?」
「一見大人しそうに見えて、実際は狡猾で腹の中で何を企んでいるのかわからないからだ。人畜無害な振りをして近付き、こちらの内情を掻き回す。そんな女はやっかいなことこの上ない。俺を怖がって必要以上に怯える女や、この見た目と地位目当てにすり寄ってくる女に比べればまだましだが、できるだけ関わりたくない相手には変わりない。もし俺が使用人だったなら、あんな女に仕えたいなどとは思わないだろうな。ウィリアムの妹でなければ、とっくに縁を切っているところだ」
「……フィアン様は悪いことを企むようなお方ではありません、とてもお優しい方です。だからこそウィリアム様もフィアン様のことを心の底から愛しておられるのです」
「……あいつの妹への愛は深すぎて時々気持ち悪いがな。まあ身内の贔屓目という言葉もあることだし、あんな女でも身内なら可愛く思えるんだろう。俺には到底無理だが」
あくまでもフィアンの悪口を続けるスカイにディデアはとうとう我慢ができなくなって、わざと彼の足を踏みつけてやった。
「痛っ……、おい、今わざとステップを間違えなかったか?」
「申し訳ございません、先程も言ったように舞踏には慣れていないのです。ただでさえ普通に踊ることもままならないのにわざとステップを間違えるなど、そんな器用な真似、できるはずがないではありませんか。単純に間違えただけです」
「……とてもそうは見えなかったが」
スカイは訝しげな眼差しでしばらくこちらを見ていたが、ディデアは無視した。
フィアンのことを悪く言う人は、誰であろうとディデアの敵だ。たとえ相手が王太子であろうとも。
ディデアは先程一瞬でも彼と踊るのが楽しいかもしれない、などと思った過去の自分を記憶から削除した。
一曲踊り終えたディデアは、スカイに疲れたから少し休みたいと申し出、一人で王宮のバルコニーに佇んでいた。
人混みから逃れたことで、ようやくほっと息をつく。
慣れない場所で踊ったことでほんのりと上気した頬を、冷たい夜風が撫でて気持ちいい。
――まさか自分が王太子の婚約者になるなんて、夢にも思わなかったわ。
自分は一生をフィアンに捧げ、フィアンの傍で過ごし、ときには兄妹喧嘩を見守りつつ、死ぬまでフィアンの侍女として穏やかに日々を送っていくのだとばかり思っていた。
それがその主人の提案で、一国の王太子の婚約者として宮廷舞踏会に参加することになるなんて。
人生何が起こるかわからないものである。
――まあ期間限定の偽の婚約だから、しばらくの辛抱だけれど。フィアン様の頼みだし、一度引き受けたからには完璧にやり遂げてみせるわ。……あの人のことは嫌いだけれど。
王太子だからというだけで媚びへつらうつもりは毛頭ないし、ディデアは自身が認めた相手にしか従うつもりはない。スカイに協力するのは、あくまでもフィアンの頼みだからだ。
ディデアは手すりに寄りかかって上を見上げる。
一面が暗い藍色の空に、十六夜の月が昇っていた。満月を一日過ぎた今日でも、夜空に君臨した月は燦然と光り輝いている。
ディデアはその月に祈った。
どうか最後まで無事に、王太子の婚約者役を務め終えられますように、と。
やがて身体の熱が冷めたディデアは、大広間に戻ろうと身を翻した。
―――――――――――――
「……で、どうだった? 初めての舞踏会は?」
舞踏会が無事に終わり帰路についた馬車の中で、向かいに座ったフィアンが訊ねてきた。
「……疲れました、すごく。体力的にではなく、精神的に」
ディデアが答えると、フィアンはふふ、と微笑んだ。
「気疲れね。私も最初の社交界デビューのときはそれなりに緊張したものだわ」
「フィアン様もですか?」
「ええ、でも慣れれば楽しいものよ。たくさんの方とお話ができるし、楽団の演奏にのせて皆と踊るのは気分が高揚するわ。――そういえば、ディデアも殿下と楽しそうに踊っていたわね」
「…………楽しくなんてありません」
ダンス中のスカイの不愉快な言動を思い出して、ディデアは顔をむっつりとさせる。
王太子というからいったいどんな人なのかと思っていたが、実際に会ってみてがっかりだった。
――何かを期待していたわけではないけれど、それにしても酷すぎたわ。偉そうだし傲慢だしフィアン様のことを悪く言うし。
はっきり言って第一印象は最悪だ。かなりの女嫌いっぽいし、きっとディデアとの相性も最悪だろう。向こうもディデアに好感は抱かなかったはずだ。
もう今夜の婚約者役は終わったのだからいつまでもスカイのことを思い出していたくなくて、ディデアは話題を変える。
「ところで、フィアン様は舞踏会の間どこにいたのですか? ずっと目だけで探していましたが、見当たりませんでしたけど?」
「あら、私もちゃんと舞踏会の会場にいたわよ。ただし、あなたたちからは離れたところに。近くにいたら邪魔になるだろうし、うっかり話しかけてしまってあなたが偽物の婚約者だとばれてしまっては、全部台無しになってしまうから。今夜の主役はあなたたちだし、私は目立たないように壁の花に徹していたわ」
「……そうだったんですか」
「……なーんて、実際は兄様が私に近付こうとする殿方を片っ端から睨み倒して牽制していたから、誰にもダンスに誘われなかっただけなんだけど」
「…………どうりでウィリアム様も見当たらなかったはずです」
遠い目をしてつぶやくフィアンに、ディデアはそれしか言葉を返せない。
ディデアをスカイのところまで連れて行ってウィリアムがすぐ姿を消したのはそれが理由か。近衛騎士の仕事を放りだして何をやっているんだあの人は。普段はとても尊敬できる人なのに、フィアンが絡むと途端に残念な感じになってしまうのはなんとかならないだろうか。そうなってしまうのはフィアンへの愛情ゆえだと言えば聞こえはいいが。
そのうちそれが原因で近衛騎士をクビになってしまうのではないかと、少し心配になる。
「……まあ私の話は置いといて、ディデアの社交界デビューが無事に終わってよかったわ。今日は疲れたみたいだし、今夜はお屋敷に帰ったらすぐに自室に戻って休むといいわ。明日の朝も寝坊していいからね」
「いえ、そんなわけには……」
「だーめ! これは主人としての命令よ。あなたが体調を崩して何日も寝込むことになったら、私も殿下も困るんだから。ディデア、お屋敷についたら自分のベッドにすみやかに直行して、明日の朝は盛大に寝坊しなさい!」
人差し指をたてて命令するフィアンに、ディデアは感動した。
ディデアは人よりも身体が丈夫だ。風邪なんて生まれてこのかたひいたこともないし、多少疲れが溜まったところで寝込むなんてことにはならないだろう。
それはフィアンも承知のことのはずなのに。
スカイはいったいフィアンのどこを見て狡猾でやっかいなどと思ったのだろう。
今のフィアンの台詞をスカイに聞かせてやりたい。使用人思いのとびきり優しい最高の主人ではないか。生まれ変わっても仕え続けたい主人ランキングのアンケートをリーズレット伯爵家の使用人たちに採ったら、絶対に三年連続ナンバーワンで殿堂入りだ。間違いない。
ディデアは感服しながら頷いた。
「では、ありがたくそうさせていただきます」
「よろしい」
にっこりと笑うフィアンに、ディデアはああ幸せだな、としみじみ思った。
ディデアには血の繋がった家族は一人もいない。父はディデアが生まれる前に馬車の事故でこの世を去り、たったひとりの家族だった母も、ディデアが幼い頃に亡くなった。
けれどフィアンやウィリアム、リーズレット伯爵家の皆がもうひとつの家族みたいなものだ。皆ディデアによくしてくれ、伯爵家での日々は毎日穏やかで楽しく、居心地がいい。ここが自分の居場所だと思える。
――早くお屋敷に着かないかしら……。
明日はまたただの使用人に戻って、本来の仕事を頑張ろう。伯爵家に仕えることが、自分の至上の慶びなのだから。
ディデアは早くこの分不相応なドレスを脱いでいつものシンプルな服に着替え、泥のように眠りたかった。