最悪な第一印象
吸血鬼が憎かった。
生きた人間の血を貪り喰う、おぞましい魔物。
憎くて憎くてたまらなくて、この手で殺そうとした。
けれど復讐を果たす前に、小さな心はズタボロに打ちひしがれた。
幼い子供の自分は無力で弱くて情けなくて、大切なものを護るには何もかもが足りなかった。
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ディデア・エーデンは今、猛烈に後悔していた。
なぜあのとき、敬愛する主人を多少強引にでも引き止めなかったのかと。
広く豊かな国土を誇るアルカディア王国。その王宮の一室に、ディデアはいた。
眩く煌めくシャンデリア。毛足の長いふかふかの絨毯。細かな意匠の凝らされた趣味のいい調度品類。諸外国の王侯貴族が訪問することもあるため、王宮は外観もさることながら、あまり使われてなさそうな個室の内装にいたるまで、どこもかしこも見る者の目を楽しませる工夫が施されていた。
ディデア自身も濃い栗色の髪を綺麗に結い上げ、上質でなめらかな布をたっぷり使った流行のドレスを着ている。白く華奢な首元には、耳飾りとおそろいのルビーの首飾りが紅い輝きを放っていた。紅い色はあまり好きではないのだが、瞳の色と同じほうが映えるからと主人に強く勧められ、しかたなく身につけたのだ。
腕には肘上まである長い純白の手袋をはいている。
そんな舞踏会にふさわしい豪華な出で立ちをしているというのに、ディデアの気分は一向に晴れなかった。
彼女の憂鬱の原因のひとつは、目の前に立つ青年にある。
ディデアはちらりと青年の顔を見上げた。
切れ長の目。高い鼻梁。清潔そうな唇は、横一直線に引き結ばれている。
何より目を惹くのは、シャンデリアよりも眩しく煌めく見事な金髪だ。切り揃えられた髪はさらりとしていて癖がなく、綺麗で、周りの者はつい目で追ってしまう。均整のとれたすらりと背の高い体躯と相まって、誰でも一目で彼が身分の高い者なのだと本能的に理解する。
ぴんと伸びた背筋は、自信に満ちている証拠。
青年は白と金を基調とした裾の長い上衣に、真っ白の下衣、黒の長靴という隙のない正装に身を包んでいた。
うら若い女性たちが騒ぎそうな整った顔立ちだが、冷たい美貌だなとディデアは思った。
彼のアイスブルーの瞳はずっと鋭い光を宿している。美術品のような端整な顔は表情筋がぴくりとも動かず、彼の笑っているところなど想像もつかない。
彼と言葉を交わしたことはまだ一度もないが、ディデアはこの青年の探るような眼差しに居心地の悪さを感じていた。正直、苦手なタイプの人かもしれない。
それなのに今日からしばらくの間、定期的に彼と顔を合わし話をしなければならない。そう思うと憂鬱でしかたがなかった。
なぜ貴族の令嬢でもないディデアがそんな事態に陥っているのかというと、事の発端は一週間前のリーズレット伯爵家の屋敷にさかのぼる。
長い髪を邪魔にならないようひとつに結んだディデアは、使用人用の黒いお仕着せとエプロンを身に纏い、いつも通りリーズレット伯爵家の食堂で朝食の給仕をしていた。
一流の料理長が作ったばかりのまだ熱い湯気が立ち昇る料理を、音を立てずに食卓に並べていく。
「今朝採れたばかりの新鮮な卵で作ったスクランブルエッグです、フィアン様」
「ありがとうディデア。とても美味しそう」
食事の席に着いているのは二人。ディデアが侍女としてお世話させてもらっている伯爵令嬢のフィアン様と、その兄であり伯爵家の跡継ぎでもあるウィリアム様だ。
ウィリアムの目の前にも同様に、スクランブルエッグが盛り付けられた皿を置く。
いつもならこの二人に加えて彼女らの両親である伯爵と伯爵夫人も同席しているのだが、伯爵夫妻は二日前から夫婦水入らずの旅行に出かけているので、今この屋敷にはいない。いろんな場所を巡ると言っていたので、おそらくあと十日ほどは帰ってこないだろう。
「兄様、昨日は夜番でもないのに遅くまで帰ってこなかったみたいだけど、いつもと同じ時間に起きて大丈夫なの?」
フィアンがナイフとフォークを握る手を止めてウィリアムに訊ねた。
ウィリアムは伯爵家の跡継ぎでありながら、王太子の近衛騎士を務めている。そのため、ときには夜屋敷にいないこともあるのだ。
フィアンが正面に座る兄の顔を見るため頭を少し動かすと、同時に彼女の緩くウェーブを描いた長い髪も揺れる。珍しいストロベリーブロンドは今日も絹のように美しくて、まるで芸術品のようだ。
ディデアは密かにため息をついて、可愛い主人に見惚れた。
「全然問題ないぞ。今は父上と母上がいないからな。愛する我が妹を一人で寂しく食事させるくらいなら、睡眠時間を削るくらいどうということはない」
父親似の黒髪をしたウィリアムが満面の笑みで答える。
それを聞いたフィアンもにっこりと笑う。
「私だってたまには一人でのんびり静かに食事がしたいときだってあるわ。だから兄様は昼ぐらいまで、存分に睡眠を貪ってくれてもいいのよ。むしろそのほうが私は嬉しいわ」
「兄に気を使ってくれているのだな、やさしいなぁお前は。だが俺は本当に大丈夫だぞ。生まれつきあまり寝なくても大丈夫な体質だし、今日は非番でゆっくりできるからな。兄想いな可愛い妹に恵まれて、俺は世界一幸せ者だなぁ。今日も愛しているぞフィアン!」
フィアンが引きつった笑顔で「永遠に眠っていてくれたらいいのに……」と小声で呟いたのが聞こえたが、兄妹の会話が微妙に噛み合っていないのはいつものことだ。ディデアは空になった別の皿を静かに取り下げながら聞き流す。
しばらく上機嫌に食事をしていたウィリアムが、ふと真面目な顔つきになって口を開いた。
「昨日はスカイに付き合って夜遅くまで王宮に居たんだ。あいつだいぶストレスが溜まっていたようでいつにも増して不機嫌だったから、酒を飲みながら愚痴を聞いてやっていた」
「まあ、スカイ殿下が?」
ウィリアムが話題に出した人物は、スカイ・セルバート・フォン・アイスバッハという名前の、このアルカディア王国の王太子だ。
近衛騎士のウィリアムとは寄宿学校時代からの友人らしく、ときどきウィリアムの口から話題に出るので、実際に会ったことはないがディデアも少しだけなら彼のことを知っている。恐ろしく整った美貌の持ち主で、彼の顔を一度でも見た者は忘れようとしても忘れられないらしい。
「スカイは俺と同い年だから、もう二十五歳だろう? だからそろそろ結婚――せめて婚約をしてくれって周りから口やかましく言われているらしい。大臣たちからは会う度に婚約の話を持ち出され、他の貴族からは縁談を勧める手紙が山のように届き、そのうえ父親である国王陛下からはもしや男が好きなのかと本気で心配される始末。毎日がそんな調子だから、いいかげん参っているんだと。あいつの精神状態を俺も心配している」
「そうなの……。でも兄様も独身よね? 兄様はそういうことはないの?」
「俺はスカイみたいな美形じゃないからなぁ。それに妹が結婚するまでは独身でいると公言しているから」
「そんなことを堂々と公言していないで、さっさと結婚して孫の顔をお父様とお母様に見せてあげてください。兄様も伯爵家の跡継ぎなんですから。……ともあれ、スカイ殿下はまだ誰とも婚約すらするつもりはないということ?」
「そうらしい。あいつは王太子だし、早めに結婚して跡継ぎとなる子供を作っておいたほうが国の安泰のためにはいいんだが。まぁ本人が嫌だと言うのだから、友人の俺からは無理強いするような言葉は言えん。しかし……ただでさえ多忙なあいつの現状を、このままただ黙って見ているのも気が引けてな。あいつの周囲を少しでも大人しくさせる、いい案があればいいんだが……」
「一国の王太子は大変そうね」
フィアンはスカイに対して気の毒そうな顔をしつつ、ディデアが淹れた食後のお茶を飲む。
「殿下に結婚の意思がないのは、兄様みたいなくだらないものではなく、きちんとした理由があるのでしょうけど……」
少しの間思案に耽っていたフィアンは、数秒後、唐突にティーカップを置き顔を上げた。
「そうだわ! それなら――当分結婚するのが嫌なら、いっそ婚約すればいいんじゃないかしら!」
フィアンが発した唐突な明るい声に、ウィリアムの動きが止まる。
「……ん? フィアン、俺の話を聞いてたか? スカイは結婚したくないんだぞ、それがどうして婚約すればいいなんて話になるんだ?」
「逆転の発想よ。すでに婚約者がいる人に縁談をしつこく迫る人はいないでしょう? だから縁談を勧められるのがうっとうしいなら、誰かと偽の婚約を秘密裏に結んで、その人に婚約者のふりをしてもらえばいいのよ。そうすれば今兄様が話した殿下の悩みは、一時解決ということになるわ」
ウィリアムが感心したように顎を何度か撫でて頷いた。
「なるほどな。たしかに仮でも婚約を結べばあいつの周りも少しは落ち着くか。……だが偽の婚約を頼める女性なんているかな? 独身で妙齢で後腐れがなくて信頼できる……。その上周りを納得させられるくらいのある程度の地位も必要だぞ」
「殿下には日頃兄様がお世話になっているし、私が力になってさしあげたいとも思うけれど……」
ウィリアムが急に血相を変えて食卓を両の拳で叩いた。ティーセットが揺れてガチャッと音をたてる。
「何っ!? それはお前がスカイの婚約者になるということか!? たしかにあいつは冷酷そうに見えて案外いいやつだが、……だがっ、俺は絶対に許さん! いくらあいつが女性に全く興味のない朴念仁だとしても、お前みたいな可愛い良い子がずっと傍にいたら手を出したくなるに決まっている、本気で好きになって手放したくなくなるに決まっている! たとえ偽装婚約だろうとお前に婚約はまだ早い、いやむしろ一生俺の傍にいてく――――ぅぶっ!?」
騒ぐウィリアムの顔面にフィアンが投げた新聞の束が直撃した。
「話はちゃんと最後まで聞いてください兄様。――私が殿下の婚約者役をやってもいいけれど、せっかくだからディデア、あなたがその役をやってみない?」
使用人である自分が口を挟んでいい話題ではないので、兄妹の会話を聞くともなしに聞いていたディデアは、急に自分の名前を出されて目を丸くする。
「えっ、私ですか?」
「ええ、王太子殿下の婚約者なんて滅多にできない経験だし、きっと新鮮で楽しいと思うわよ」
そりゃあ王太子の婚約者なんていう立場は一国に一つしかないから、かなりレアな体験だろうが。
「ディデアは私たちの家族も同然だけれど、立場はやっぱり使用人だから舞踏会には参加できないじゃない? けれど殿下の婚約者となったら、あなたも一緒に舞踏会に参加できるわ。豪華で可愛いドレスを着て、楽団の洗練された旋律を聴きながら美味しいお菓子をつまんだり、舞踏会に参加している殿方たちの中で誰が一番気になるか密かに語り合ったり! あぁ、想像しただけでなんだか楽しくなってきたわ!」
「フィアン様」
乗り気になっているフィアンには申し訳ないと思いながら、ディデアは水を差した。
「私はフィアン様の侍女で、フィアン様のお世話をするという役目があります。ですから、王太子殿下の婚約者になるというのは無理です」
「私のお世話なら他の使用人でもできるわ。だけどスカイ殿下の婚約者役は、きっとあなたにしか頼めないわ。私が婚約者になろうとすればさっきみたいに兄様が暴走するし、他の貴族の令嬢たちだとあわよくば本当の王太子妃に納まろうと躍起になるだろうし、何より婚約を解消した後の後腐れが心配だわ」
「ですが、フィアン様もおっしゃったように私は何の地位も肩書きも持たないただの使用人です。そんな娘が王太子殿下の婚約者だと言ったところで、誰も信じないのでは……?」
「リーズレット伯爵家の親戚、ということにして、名前以外の詳しい素性は結婚するまで公には明かさない、ということにすればいいわ。家族にまで注目が集まって迷惑をかけるのを避けるため、とでも理由をつけて」
「しかし……」
「何も本当に結婚するわけじゃないんだから、毎日じゃなくて必要なときだけ婚約者のふりをすればいいのよ。舞踏会や晩餐会でパートナーが必要なときと、あとはそうね……たまに王宮の庭園を仲睦まじく見えるように散歩したりだとか、それだけでいいんじゃないかしら。ここから王宮までは馬車で三十分もかからないし、それならディデアも使用人としてのお仕事と両立できるから大丈夫じゃない?」
可愛らしく小首を傾げてフィアンがディデアを見る。
「……それならまあ、大丈夫かもしれませんが……」
「じゃあ決まりね!」
すでに食後のお茶を飲み終えていたフィアンが立ち上がる。
「さっそく殿下にその旨を伝えるための手紙を書くわ。ええっと、便箋はどこにしまったんだったかしら……」
「えっ、フィアン様!?」
必要なときにのみ婚約者のふりをすればいいだけなら大丈夫かもしれないとは言ったが、婚約者役をする、とはディデアは言っていない。
誤解を解こうとディデアはフィアンを呼び止めるが、聞こえなかったのかフィアンはそのまま手紙を書くため自室へと向かって行ってしまった。
フィアンの背中へと伸ばされたディデアの右手は行き場を失い、しばらくしてから力を失ったかのようにだらりと下ろされたのだった。
「……おいどうした、聞こえていないのか?」
頭の上から低い声が降ってきて、ディデアはハッとした。あわてて上を見上げる。
するとこちらを見下ろすアイスブルーの瞳と目が合った。
ディデアは一瞬身体を固まらせる。
どうやらディデアは、なぜ自分がこんな格好で王宮にいて、王太子殿下と対面することになっているのかと物思いに耽ってしまい、何度か声をかけられたにもかかわらず気が付かなかったようだ。
声の主はまぎれもないこの国の王太子、スカイ・セルバート・フォン・アイスバッハだ。
ディデアはあわてて頭を下げる。
「も、申し訳ありません。私はリーズレット伯爵令嬢であるフィアン様にお仕えする侍女、ディデア・エーデンと……」
「自己紹介はいい。あらかたの素性はすでに聞いている。今日から必要なときだけ、俺の婚約者役として働いてくれるそうだな」
「はい」
「それに対しての報酬はお前本人と伯爵家にきっちりと支払うつもりだ。くれぐれも偽物だと勘付かれないように演じてくれ」
「心得ています、精一杯務めさせていただきます」
「……いいかげん頭を上げろ。うっとうしい」
ディデアは目を見張って頭を上げた。思わずスカイの綺麗な顔を凝視してしまう。
一瞬聞き間違いかと思った。これからスカイの婚約者として振る舞うことになるわけだが、自分の本来の身分は使用人だ。だから王族である彼に対し当然の敬意を示しただけだというのに。
頭を下げてうっとうしいなどと言われたのは生まれて初めてだ。
……なんなの、この人。
ディデアは表情は変えず、心の中だけで顔をしかめた。
この部屋に入ってきたときからなんとなく苦手な雰囲気の人だとは思っていたが。初めて対面して会話をして、やはり苦手な部類の人間だと確信した。
自分は身分が高くて偉いから、下の者にはどれだけ横柄で不遜な態度をとっても許される、むしろそれが正しいと思っているのだ。王侯貴族にはよくある性格である。
ウィリアムの友人をあまり悪く言いたくはないが、これからこの人と一緒に行動しなければならないのかと思うと、ディデアはさらに憂鬱が増すのを感じた。
スカイが待っているこの部屋までディデアを案内するだけ案内して、さっさと舞踏会場の警護に戻ってしまったウィリアムを、ほんのりと恨む。
スカイの近衛騎士なのだから、どうせならずっと傍で警護してくれてもよかったのに。
スカイがディデアから視線を逸らし、部屋の扉のほうを見た。
「もう舞踏会が始まった頃だ。さっそく大広間へ行き、お前を婚約者として皆に紹介する」
スタスタと歩き出したスカイに置いて行かれないように、ディデアも急いで足を動かす。使用人用の服と違って着慣れないせいなのか、このドレスでは動きづらいのだ。スカートを幾重もの布で大きく膨らませた舞踏会用のドレスは重く、しかもヒールの高い靴を履いているため、歩くのもやっとである。
婚約者役に徹している最中にいつどんな非常事態が起きても迅速に対応できるように、慣れておく必要があるかもしれない。そんなことを考えながらスカイの背中を追っていると――彼が急に扉の前で立ち止まる。
ディデアは危うく彼の背中に顔面をぶつけてしまうところだった。
「なっ……、どうかしたんですか?」
「一つ言い忘れていたことがあった」
くるりとスカイが振り向き、冷めた目でディデアを見下ろしながら言い放った。
「あくまでお前は偽の婚約者役にすぎない。あの兄妹二人が提案してきたことだから大丈夫だとは思うが……この機会に本当の王太子妃に納まってやろうなどとは、ゆめゆめ思わないことだ。俺はあの二人を信用しているのであって、お前のことを信用しているわけではない」
高圧的にそれだけ言って、スカイは一人で先に廊下へと出て行った。
開け放された扉の前で、ディデアは今度こそ開いた口が塞がらなかった。しばらくの間呆然とその場に立ち尽くす。
たしかに彼が今言ったことは、他の女性に頼む場合にフィアンも危惧していたことだ。
だがスカイ本人に直接面と向かって言われると、なんだか腹が立ってくる。仮にも自分に協力してくれる人を目の前にしてとる態度ではないはずだ。失礼すぎる。
やがてディデアは、相手が王太子だということも忘れて心の中で叫んだ。
――あなたの妃になりたいだなんて一生思わないわ! たとえ天地がひっくり返ったとしても……!
この日から、ディデアの波乱の日常が始まったのだった。