第8話『リタルダント』
リタルダントとは、「段々遅くなる」を意味する音楽記号です。
…気がつくと、夕方になっていた。
「…そろそろ帰らなきゃね…今頃、お母さんが私を捜して大騒ぎだよ。」
「え…何も言わずにここへ来たんですか…?」
「…うん。言っちゃうときっと外へ出してもらえないからさ…」
「そ、そうなんですか…まあ、そろそろ母も帰ってくる頃ですし…ここらでお開きにしましょうか。」
「うん、そうしよう!」
自分には、彼女の動きが若干ぎこちないように見えたが、あまり気にしないことにした。…きっと疲れていたのだろう…自分もヘトヘトだ。
「あ、ええっと…」
「?…どうしたの?」
「…これからは…」
「こんな風に、普通に喋ってもいい…かな?…普通の…“友達”同士みたいに…」
「!…もちろん!!」
「!…ちょ、ちょっと!」
すると彼女は、半ば倒れこむようにして、自分に抱きついて来た。…でも、不思議と悪い気分ではなかった…
「…雨宮クン…心を開いてくれて…ありがとう。…私を友達として見てくれて…本当にありがとう!…」
「キミに逢えて本当に良かったよ!」
「大橋奏…」
(…お礼を言うのはこっちの方だ…どこかに置いてきて、見失っていた“自分”を、少し思い出せた気がする…ありがとう…)
…それから自分は、彼女と別れの挨拶を交わし、自室に戻って軽い部屋掃除を始めた。
「…今日は…いい1日だったな。」
…数年ぶりに、心からそう思えた。
明日からまた地獄の5日間が始まる…大橋奏が学校に来るのかはわからないし、連中のいる学校へ行くのは無論嫌だった…が、もう奴らの奴隷になんかならない。彼らもまた、正義を理解する可能性を秘めた存在…自分は、彼らを改心させる事を絶対に諦めないと心に決めたんだ。自分は、彼らと戦い抜くことを決めた。…せめて、大橋奏に笑われないように…
そして、机の上の書きかけだった薄っぺらな『遺書』を、「こんなものはもう必要ない。」と破り捨てた。
__帰り道…
「…!」
「…ハァ...ハァ...」
(そろそろ我慢の限界…早く注射を…)
「ッ!…」
今日はこれで何本目なのだろうか…日に日に…着実に使用量が増えている…
“オマケ”付きの咳も、だんだん“オマケ”の量が増えていっている…
雨宮クンにはまだ悟られていないようだけど…いちいちトイレに行く私を見ていたら…いつこの作戦に気づかれちゃうかわかんないね…
「!!!!!」
ゴボッ!!!!
(…なんで…?…痛みが…消えない?)
それから、幾度と注射器を腕に刺すも、気分はあまり良くならなかった…
(…もう、おしまいなのかな。)
そうか…もうすぐだ…もうすぐ、私の作戦は終焉を迎えるんだ…私は、このゲームには絶対に負けられない…
「雨宮クン…キミを…絶対に先に死なせはしないから。」
「…」
「……」
「……………来ない。」
月曜日…結局、大橋奏が学校へ来ることはなかった…今日もいろいろあったけれど、彼女のことを考えると、なんとか乗り越えられた…
「…帰るか。」
家に帰宅し、自室へ戻ってから、携帯電話を開く…特に通知はない。
別に何というわけでもないが、彼女にメールを送ってみることにした。文面は、《次の土曜日、またどこかへ出かけよう》というものだった。
すると、30分後に返信が返ってきた。
“いいね!それじゃあこのまえみつけたきっさてんにはいってみようよ!ちゅうもんがむずかしいみたいだから、べんきょうしてきてね!”
「?…」
(恐らく、彼女が言っているのは“スターなんとか”とかいう名前の商店街にあったカフェのことを言っているのだろうけど…なぜ全ての文字が“ひらがな”なのだろう?…最近はこんなものが流行っているのだろうか…?)
しかし、自分はその点に関してはあまり気にせず、了承の意を込めたメッセージを返した。
次の日も…その次の日も…自分は彼女にメールを送った。そして彼女も、例のごとくオールひらがなの返信をよこしてくれた。ただ、少しずつ文量が減っているところが気がかりではあったが…さすがにしつこくて呆れられているのだろうか…
…木曜のことだ。
自分はいつものように、彼女にメールを送る…下らない世間話だ。…すると、彼女から奇妙な返事が返ってきた。
“そうだね。わた”
本文はこれで終わっている…きっと、『私は…』と続けて書きたかったのだろうけど、何故か途中で切れたまま送ってしまっている…その日は送った時間が少し遅かったため、きっと打つ途中で眠ってしまい、寝返りかなにかの拍子に送信ボタンが押されたのであろう…
…だが、金曜日にメールを送っても、あの奇妙なメール以降は、一切返信が送られることはなかった。
待ちに待った土曜日…大橋奏とカフェへ行く約束をしている日だ。この日に備え、自分はあらかじめそれ関連の知識を詰め込んでおいた。
だが、いつまで経っても、大橋奏は姿を現さなかった。
待ち合わせの確認のメールを何回か送ったが、依然として返信はない…ただただ、孤独な時間だけが過ぎていく…
日が暮れようとしたところでさすがに異変を感じ、家へ帰ろうとした…
その時…
(〜♪)
一件のメールが届いた。