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再会

作者: 喜久 多怜

毎日の移り変わりの中で、大切なものを忘れてきた気がしていた。

何か、足りない。


でも、その欠けている何かを埋めることができるきっかけは、意外とすぐそばにあるのかもしれませんね。

 電車が駅に停まるたびに、ドアから人が流れ込んでくる。走り出すころには、それぞれが自分の居場所を見つけて、落ち着く。ドアが閉まる度に、ホームの喧騒から隔離され、電車の次の駅へと向かい走り出す。僕はその揺れに身を任せながら、まるでそのまま自分の体が振動に合わせて溶けていくような気怠さを感じていた。

 ドアの傍に立っていた僕は、ぼんやりと揺れる頭を眺めていた。今年の梅雨は絵にかいたような梅雨空だった。派手に降ることもなければ、晴れ間がさすこともない。天気予報は毎日のように折り畳み傘を持っていくことを奨励する。洗濯物は溜まり、気分までどんよりとしていく。

 新年度が始まったばかりの新鮮な気持ちなんてどこえやら、いつもと変わらぬルートを、決まったサイクルで往復する。こんなはずではない、そんな気怠さから吐き出した人々のため息が、梅雨前線を生み出している、といっても過言ではないかもしれない。電車の中はそれほど満員というわけではなかったが、湿り気の強い空気が、ほんの少し居心地の悪いものにしている、そんな気がしていた。

 小さな子供を抱っこひもを使って抱え、ベビーカーを押す女性。幸せそうに見えるのは、贔屓目だろうか。

 夢中になって漫画を読むスーツ姿の男性。いつか、自分にもあんな時期が来るのだろうか。

 近所まで散歩に出かけるようなとてもラフな格好でシートに腰かける老人。最早、想像もつかない。

 僕はこっそりと溜息をついた。

 少し離れた席では女子高生の二人組が、二人並んでスマホをいじっていた。ブラウスもカーディガンの色も違っているが、スカートが同じ色のチェックだから、きっと同じ高校なのだろうが、シートに並んで腰を下ろしている二人の間にほとんど会話はなかった。高校生の登校時間にしては少し遅い。この時間に電車で移動している高校生がこの後どんな一日を過ごすのか、さっぱりわからなかった。僕が高校に通っていた頃は、部活、それから大学受験と、進学校に通う多くの生徒がそうであるように、規則正しく登校をし、呼吸のリズムが意識しなければ一定のリズムであるように、毎日同じリズムで日々は流れていった。

 単調な日々だったとも言えるかも知れない。それでも、もっと、毎日楽しそうに生活していた気がする、彼女たちよりも、自分自身は。思えば周りに迷惑をかけていたこともあっただろう。同じ部活のメンバーと、無駄に騒ぎなら登下校していた。疲れて寝てしまうこともあったが、電車の中は部活中心の生活をしていた僕にとっては同級生と過ごす大切な余暇の時間だった。

それほど特別な思い出があるわけではないが、その二人の女子高生を見て、思った。メイクもしっかりして、制服をファッションとして着こなす。頭髪検査があり、メイクも禁止、そして制服も着崩すことが許されない僕の母校にはまずはいないタイプだ。校則の厳しい学校より、自由で楽しんでいそうな二人が、どうしてあんなに退屈そうに二人並んでスマホをいじっているのだろう。

 そこまで考えてから、もう一度、大きく息を吐いた。

 今の僕だって同じではないか。

 高校を卒業して、大学へ進んだ今の自分もきっと彼女たちと大差はない。時間も、自由にできるお金も少しは多くなった。スケジュールもある程度自分で管理しているし、バイトをするようになって、多少は好きなものも買えるようになった。

 高校生の頃より、人生は前に進んでいるはずだ。

 前に進んでいるはずだ?

 本当にそうか?

 彼女たちのように、誰かの目には今の僕は退屈そうに見えているのかもしれない。あの頃の充実感があるかと言われたら、疑問符が付く。わかっている、過去を美化しているだけなのかもしれない。それでも、窓越しに曇り空を見上げていると、ふっと、あの頃の方が、太陽は明るく、もっと自分たちを照らしてくれていいたような気がするのだ。これからずっと下り坂、もちろんそんなことはないとは信じているが、彼女たちを見ていると、少し不安になった。

 今日はこれからどこに向かうんだい?楽しいことがあると、良いね。

 心の中で、僕は呟いた。



 いくつかの駅を通り過ぎた。そのたびに、人は入れ替わり、そしてまた居場所を見つける。僕はずっとドアの傍に立っていた。

“今日、授業いく?”

 途中でそんなLINEが友人から届いた。きっと、あいつのことだ、代返の依頼に違いない。既読をつけないようにメッセージの内容を確認したあと、小さく溜息をついた。なぜか、要領よく出席を確保している彼の方が大学での成績が良い。

ちょっと彼が羨ましい。成績が良いことではない。僕には真面目に大学に行くことしか選択肢がない。他に選択肢がないから、大学へと行く。彼は違う、代返を誰かに頼んだら、授業に出席するよりもやりたいことを、きっとやっている。バイトかもしれない、ゲームかもしれない、デートかもしれない。彼には他に選択肢がある。そんな奴だから、出席しなくても成績がいいのだ。逆に僕は、その選択肢を作れないまま、こうして電車に揺られている。そして、代わり映えのしない毎日にちょっとの不満と、このまま続くことに対する不安を少しだけ感じているのだ。

窓から空を見上げると、相変わらずどんよりとした曇り空が広がっていた。雨は降っているのかどうかわからない程度、この空のせいだ。きっと、こんなに気分が晴れずに、ネガティブな方へと心が傾いていくのは。電車は次の駅が近づき、ブレーキを踏み始めた。ゆっくりと減速していくことを感じながら、目を閉じた。

ドアが開いて、外の幾分澄んだ空気が吹き込んでくるのがわかった。人の気配があって、その気配が落ち着く、そしてドアが閉まる振動を感じて、また電車が進みだす直前に、僕は目を開けた。

 目の前に、彼女がいた。

 制服を着ていた頃と、変わらない、彼女がいた。



 青春らしい青春、そう聞かれたら、僕は高校三年の秋から冬を挙げると思う。進学校にいながら、野球漬けの日々が終わって、ユニホームを着ない毎日になんとなく慣れてきた頃だった。何も考えずにグランドを走り回っていた頃とは、みんなの顔が変わっていく。それぞれが卒業に向かって一斉に走り出すのだ。急に顔つきが大人っぽくなった人もいた。僕のように時間の流れに気おされて無表情を繕っている人もいる。これまでと変わらず淡々と過ごす人もいる。将来に向き合う時期は、人それぞれ濃度が違う。

 そんな同級生を横目に見ながら、僕はどこか取り残されたような気持ちになって、それでも参考書や問題集を抱えて学校の図書室に通っていた。

 次の目標は決まっていない。

 それでも、時間は流れていく。

 みんなが走っているから、合わせて走っている、特に次のステージがどこであるかは考えていなかった。

 とにかく、受験で必要な教科の勉強を手当たり次第にやって、疲れると食堂でココアを飲みながら、グラウンドを眺めた。夏が過ぎて、秋になり、だんだんと日が短くなると、グラウンドが照明で浮き上がって見える。浮き上がったグラウンドが別世界のように見えるたびに、自分たちがその場所で主役だったのは遠い昔のことだったように思えた。ついこないだまで、あの中心で声を張り上げていたというのに。

 彼女と、木下三咲と話すようになったのは些細なことがきっかけだった。野球部のマネージャーに古文の辞書を貸していた。僕は理系に進むつもりで、受験勉強ではほとんど使わないので、たいして気にも留めていなかったのだが、その辞書がどういうわけか、三咲の手元に届いたらしい。いつも、決まって食堂からグラウンドを眺めている僕に気づき、辞書を返してくれたのだ。

「又貸しなんてしてて、申し訳ないのだけど…。」

 僕自身が忘れかけていたくらい出し、いつ返してくれても良いことは伝えてあった。マネの明るく通る声が聞こえた気がした。

「良いの、良いの!絶対許してくれるから!」

 そのマネは指定校推薦を利用するらしいから、古文の勉強はもう必要ないのかもしれない。機会があったら、僕に直接返しといてくれると助かる、そう言われたから律儀に返しきてくれた、三咲が申し訳なさそうな顔をする必要はないし、今はあまりその辞書の活躍の場はないことを伝えると、結局、その場でそのまま貸してしまった。

「一生懸命に頑張ってる野球部って格好いいですよね。」

 たまに食堂で顔を合わすようになり、彼女が決まってその時間に顔を出すようになった頃、グランドの後輩の練習を眺めている僕に、彼女はそう言った。

その頃のことを思い出すと、彼女が足を揃えて背筋を伸ばしてきちんとイスに座っている姿が浮かぶ。そして、ストレートの髪はいつも綺麗に梳いてあった。髪が伸び、ようやく坊主頭から抜け出しつつあった僕が、ポケットに手を突っ込み、足を投げ出していることが多かったのとは対照的だっただろう、と思う。

「そう?」

 格好いいと言われて、悪い気はしなかったけど、卒業した今となっては、どこか他人事のような気がしながら、僕は聞き返した。

「うん、私はなんとなく高校生活を過ごしてしまったから、打ち込むことがあるってなんだかとっても羨ましい。」

 打ち込むことがある、そうか、野球に打ち込んでいたんだな、僕は。確かに、それ以外の思い出なんてほとんどなかった。逆に、運動部として過ごした僕にとって、部活のない高校生活がどのようなものなのか、さっぱり見当がつかなかった。

「だからね、私は大学ではやりたいことができるようになりたいな、そう思ってるの。」

 少し控えめに、ちょっと照れながら、それでもはっきりと彼女はそう言った。彼女とは一度も同じクラスになったことはなかったが、マネと仲が良いこともあって、何度か話したことはあった。この子はこんな顔をして笑うんだということを、その時初めて知った。

 それから、僕の休憩時間は正確になった。きっちり五時半から六時の間。彼女もその時間に必ず顔を出すようになった。約束しているわけでもない。何かルールがあるわけでもない。それでも、少なくとも僕はその時間に休憩をとれるように、学習計画を立てた。Yシャツ一枚で過ごせた時期を過ぎて、セーターを着るようになり、ブレザーを羽織るようになり、アイスココアがホットココアに代わっても、その学習計画は変わることがなかった。

「なぁ、剛?」

「ん?」

「お前、木下と付き合ってるの?」

 何回か、そんなことを聞かれた。笑って否定しながらも、悪い気はしなかった。

 推薦での試験結果がちらほらと出だした頃、また、少し学校の雰囲気が変わった。これまでよりも受験生の濃淡がはっきりとする。緊張感のある人はより悲壮感が増し、進路が決まった人は穏やかな顔になる。それでも、僕らの過ごす時間は、淡々と流れていた。

「木下さんと同じ大学、受けてみようかな…。」

 こんな時間が続けば良いのに。

 毎日、教室とグラウンドと自宅、その三箇所だけを行き来していた僕にとって、迫ってくる受験に不安はあれど、生活の中に特定の女の子の存在があること、それが新鮮で、それが心の中を温かくしていることを実感していた。先がどうなるかはわからない、受験だって、彼女との関係だって。

 僕自身、受験が終わった後のことを深く考えていたわけではなかった。単に、選択肢を残しておきたかったのだ。

「え?」

 綺麗に切りそろえられた前髪越しに、彼女の瞳が大きく見開かれたことを確認した後に、僕は言い訳のように付け足した。

「正直ね、行きたい大学がはっきりしてないんだ。学部はなんとなく決まってはいるんだけどね。僕が考えている学部もあるからさ。せっかくだから目指してみようかなって。」

「そうなんだぁ。杉下君なら、きっと大丈夫だよ。」

 彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔に思わず、ほっとした。

「まぁ、でもまだまだ偏差値的には届きそうにないけどね、記念受験になるかもしれないし。」

「それは私も同じだよ。まだまだ、頑張らないと届かないもん。」

 僕自身は、体育会系特有の追い込みにかけるしかなかった。これまでの勉強不足を自覚している分、必死に頑張るしかなった。謙虚な言い方をしてはいたものの、彼女は十分に手が届く範囲まで成績を上げていることはこれまでの会話の中から知っていた。

 不思議なことに、中々簡単ではないとは言え、目標がはっきりすると、気持ちが楽になった。きっと、どんな理由でもよかったのだ。僕はそれまで設定できずにいたゴールを、とりあえず設定することができたのだ。

 そこから、ただ突っ走るだけの日々が始まった。高校野球の時と同じく、その先のことを考えていたわけではなかった。プロ野球選手になりたい、社会人になっても、大学生になっても、野球が続けたい。そんな思いがあるわけでもないのに、ただひたすら、バットを振っていた、あの頃と同じように。



 私服姿の彼女は時間が経っても見慣れない。

 僕の中の彼女は、制服のまま時間が止まっているからだ。モスグリーンのブレザーに、同じグリーンと臙脂のチェックのリボンをつけたあの頃のまま。

 髪をほんの少し染めて、高校生の時は真っすぐだった髪は軽くウェーブがかかった。メイクもするようになったのだろう。一年とちょっとの時間が流れているのだ。真っ白なワンピースに、デニムのジャケット。ほんの何回か見たことがある彼女の私服とそれほど変わりはないような気がする。背中にギターを背負っているのが、一番の変化かもしれない。

「あ…。」

 目が合ってすぐに、彼女は僕のことに気づいたようだった。

 そこまで、僕は変わっていないのか、そう思いながらも、咄嗟のことに何もリアクションが取れない。彼女はドアの目の前に立って、僕の方に体を向けたまま、顔だけを窓の方へと向けた。一人分、僕と彼女の間にはスペースがあった。隣に立った彼女は窓の外をぼんやりと眺めていた。僕の正面に立ちながら、僕とは目を合わせようとはしない。しかし、何とかしてこの場から逃げ出したい、そんな感じも受けなかった。

僕の乗り換えの駅までは、あと二駅。

そして、彼女の乗り換えも同じ駅のはずだった。

 彼女の瞳には今、何が映っているのだろう。ほんの少し、大人になった彼女の横顔が目の前にはあった。相変わらず、ぱっちりとした二重瞼。それでもどこか伏し目がちなので眠たそうに見える。眉毛のところで綺麗に揃えられた前髪も、あの頃のままだった。困ると右下に視線を逸らすクセも、お腹の前で手を無意識に組んでしまうのも、変わっていなかった。

 あの頃と、何も変わらない。

 僕は彼女の傍で声をかけることができずにいた。彼女の考えていることも、思いも何もわからぬまま。

 次の駅に着き、また人が乗り込んでくる。それほど人の出入りは多くはなかったが、それでも彼女の後ろを人がすり抜けようとした時に、ギターケースの分のスペースをあける為に、彼女は僕の方へと体を寄せた。

ふっと、懐かしいシャンプーの香りがした、そんな気がした。



 年が明けると、あっという間に受験シーズンに突入した。それまではゆっくり流れていた時間も、急に駆け足で走り出す。僕らの通っていた高校では、十一月の頭あたりから、自由登校になっていた。受験までは好きなように時間を使えということだ。もちろん、学校に来れば様々な形で協力はしてくれる。しかし、受験は個人によってやらなければならないことがバラバラだ。自分の受験にあった方法は自分でプランニングをするのが一番。多くの生徒は学校へは姿を見せなくなっていた。

 いつもより静かな三年生の教室。まるで校舎の一部分だけが異次元に飛ばされてしまったかのような静けさに覆われる。もちろん、まったく誰もいないというわけではないが、まるで次々と戦地に派遣されていくが如く、段々と生徒が減っていく様は、いやでも受験が近づいていることを感じさせられた。しかし、ばたばたと本格的に入試が動き出すと、それどころではなかった。そう、まさに戦地に送り込まれたのだ、自分自身が。

 気づけば、センター試験が直前に迫り、願書の準備だなんだとやらなければならないことは次から次へと襲ってくる。果たして合格できるのだろうか、そんな不安との戦いも当然あったが、それに加えて、勉強以外にも神経を張らなければならないことが多いことに、正直驚いた。

 その頃の思い出と言えば、顔に当たる空気の冷たさ、顔を埋めるマフラーの温かさ、下校の際の通学路の暗さ。そして、漠然とした不安。毎年、冬は来るのだけど、本当に春が来るのだろうかと不安になったのは、後にも先にもあの時だけだった。

 僕は同じ生活のリズムを貫いた。直前に予備校の講習を受けたりすることもあったので、毎日ではなかったが、学校へはできるだけ通った。なるべく余計なことに頭は使いたくなかっただけだ。同じ時間に起きて、同じ時間に家を出て、同じ時間に帰宅する。そのリズムに外れるようなことがある日だけ、スケジュールを変えればいい。

 彼女との休憩は、まるで約束のように続いた。

 心配なことがあった。

 入試が近づくにつれて、彼女はより色が白く、小さくなっていくようなそんな気がした。僕と向き合っている時は笑顔を見せてくれていたが、ふとしたタイミングで彼女が人目を気にしていないときに偶然見かけたりすると、見えない何かを背負っているかのように、下を向いて歩いていたり、眠たそうな目をして、ぼんやりとしていたり。思い詰めて何かを考え込んでいる、そんな風に僕には見えた。

 ただ、彼女のことを気にすることができたのも、センター試験の始まる前日までだった。その日は珍しく、一緒に駅までバスに乗った。

「明日、寝坊しないかな?」

 彼女はバスのシートの座っていて、僕はその真横に立っていた。

バスの中にはちょうど部活が終わった下級生でがやがやとしていて、学校生活の活気を久しぶりに感じていた。

「私は、寝れるかな?」

 そう言った彼女の言葉は、バス内の喧騒に負けそうなくらい、小さかった。

「最近、寝れてないの?」

 僕の言葉に、彼女は視線を上げて、僕を見上げるとどちらともなく、笑った。

「木下さん。」

 彼女は返事をせずに、首を傾げた。僕は掴んでいた吊革に体重を預けてぶら下がるようにして、彼女に顔を近づけた。

「大丈夫だよ、これまで一生懸命頑張ってきたんだもん。きっと、大丈夫。どんな結果になるにしても、きっと悪いようにはならないからさ。これで良いんだっていう結果に、きっとなるって。」

 別に他意があったわけではなかった。その時の僕は彼女の不安を少しでも減らすことができるなら、そう思っただけだった。

「そうだよね、きっと、大丈夫だよね。」

 彼女は、同じ笑顔で笑った。

 そこからは、必死になって駆け抜けた。あっという間にすべての日程が終わっていた。あまり馴染みのない土地へ足を運び、試験を受ける、その繰り返し。結果はそのスケジュールの合間に飛びこんできた。一喜一憂している暇なんてない。ふっと大きく息を吐けるようになった時には二月も下旬を迎えていた。

今でもあのバスの中での会話を思い出すことがある、僕が選んだ言葉は正しかったのだろうかと。運命なんて、残酷なもんだ。彼女は第一志望の大学以外全てに合格して、僕は第一志望の大学と滑り止めの大学にだけ受かった。わかりやすく言えば、二人で目指していた大学に、彼女は落ちて、僕は合格したのだ。



「元気?」

 彼女は黙って、顔を上げた。

「うん…。」

「そっか、それなら、良かった。」

 代わり映えのしない毎日に嫌気がさしていたクセに、突発的な出来事があれば結局何もできない。何にも変わっちゃいない。高校卒業した頃と。

ふと、年末に野球部のメンバーで集まった時に、マネージャーに言われた言葉を思い出した。

「女の子は運命を勝手につくるものなのよ。三咲もきっとそう。自分と同じ大学を目指して頑張ってくれる人が現れた。嬉しかったと思うよ。だからね、彼女はそこで賭けたのだと思う。もし、杉下と縁があるなら、二人とも同じ大学に受かるはずだって。彼女の場合、自分に自信がないってよく言ってたからね。一歩踏み出す勇気が欲しかったんだと思うのよ。それが完全に裏目に出ちゃった。あなたが受かって、あの子はダメだった。やっぱり私じゃダメなんだ、このまま自分の気持ちはしまっておけばいいんだ、離れ離れになるんだから、それで良いんだ、それが運命だったんだ、ってね。そう思うには十分な結果だったのよ。そして、自分で運命って思ったことに、逆らって進める強い女の子って、そんなにいないんだから。」

 いつも強気そうな顔をしているマネは、その時ばかりは寂しそうに笑った。

 運命か…。

 その彼女のつくった運命を後押ししてしまったのは、他ならぬ、僕だ。

“これで良いんだっていう結果に、きっとなるって。”

 自分の言葉が恨めしい。

 ただ、同時に気付いていた。彼女が選んだ運命を僕自身抵抗もせずに飲み込んでしまったのだということを。僕自身、運命に逆らおうとしなかったのだと言う事を。

 もうすぐ、電車は乗り換えの駅に着く。ゆっくりと減速を始めたことを全身で感じる。このまま、ドアが開いて、彼女がそのまま歩きだしたら、また僕の手の届かないところに行ってしまう。



 彼女の結果を知ることができたのは彼女と直接会った時だったが、会おうとして会ったわけではなく、それは本当に偶然だった。そんな時ばかり、偶然は起きる。入試の全日程が終わり、担任に結果の報告をしに職員室に行った日、その日が一日前でも、後でも、その日のうちでもその時間でなければ、きっと彼女には会えなかった。彼女もたまたま、報告に来ていたのだ。その日、その時間に。

 担任の笑顔で、改めて入試が終わったことを実感し、ふらっと食堂に立ち寄ったことだ。いつも二人で座っていたテーブルに彼女がいた。昼休みにはまだ早い時間帯で、食堂にはほとんど人気がなかった。一、二年生はまだ授業の時間帯、昼休みに備えて準備をすすめる彼女は誰もいないグランドをぼんやりと眺めていた。

 いつも僕が先に座っていたので、何だか新鮮な気持ちだった。何も言わずに彼女の前に座る。すると、これまで見たことがないくらい、彼女の目が大きくなった後、寂しそうに笑った。

 僕は、その笑顔で結果を察した。

 どんなことを話したのか、それほど覚えていない。覚えているのは、彼女はやんわりと入試が希望通りにいかなかったことを言い、そして、僕におめでとうと言った。僕の結果は、マネージャーを通して知っていたようだった。彼女が本当に嬉しそうにおめでとうと言ってくれたので、僕も何とか、笑顔を作ったことを覚えている。

「きっとね、意味のないことなんてないよね。」

 味のしないココアを飲み干して、紙コップの底を眺めていた僕に、彼女はぽつりと言った。

「きっと、こうなったことにも意味があるんだよね。」

 僕は何も答えることができなかった。

 それから、なんとなく別れ、卒業式の日まで、顔を合わせることはなかった。式の終わりに、ちらりと見かけた彼女はいつもと変わらぬ笑顔で、クラスの友達をじゃれあっていた。僕が彼女を見かけたのは、それが最後だった。

 何も気にしていなかった、と言ったら大嘘になる。ずっと、考えていた。何も考えずにただ走り続けた先にたどり着いた未来を、僕は受け止められずにいた。辿り着いた後に考える、それでは遅かったのかもしれない。それでも、その時の僕にはそのまま何も考えずに流れに身を任すことはできなかったのだ。

結局答えが出ないままだったが、心配せずとも例年通りに春は来た。バタバタと春を迎えて、桜が散った頃、意を決して、僕は彼女にメールを送った。そのまま放置してしまえば、どんどんと距離が離れてしまう。僕はまだ、お礼すら言えずにいたのだ。受験を乗り越えることができたのは、間違いなく彼女の存在があったからだ。それだけは確かなことだと、それだけは伝えたいと、思っていた。

時間の流れのスピードに僕のメッセージのスピードは勝てなかった。彼女のアドレスは変更されていて、メールは届かなかったのだ。

これが、彼女の選んだ結末、そう思い込むことを選んだ。そう、だからその彼女の意思を尊重してあげることが、僕に出来る精一杯のこと、そう信じた。

いや、違う。

痛かった、彼女にメールが届かなくなっている現実が。だから、追いかけない理由を彼女のせいにした、そう、それだけだった。



 ドアが開き、彼女が先にホームに降りた。そして、遅れて降りた僕に彼女は振り返って、一言だけ、

「それじゃ。」

 と言って、歩き出した。彼女の乗り換えのホームへと続く階段に向かって。僕が利用するホームはそのちょうど向かいのホーム。階段も逆にある。

 後悔、していた。

 彼女を追いかけなかったことを、いや、そうじゃない。彼女のせいにしてしまったことを。

「木下さん。」

 僕は階段へと踏み出さず、ゆっくりと遠ざかる背中に声をかけた。人混みに紛れてしまう前に、僕は彼女に伝えなくてはいけないことがある。

彼女は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。ギターケース越しに彼女の顔が見えた。

「きっと、今日会えたのも、意味があると思うから。だから、連絡待ってる。僕のアドレスは、変わってないから!」

 彼女の目が大きくなった。その表情、久しぶりだった。

 一瞬、何かを考えるような顔をした後、彼女はぺこりと頭を下げると、何も言わずに階段を上がっていった。彼女の姿が見えなくなるまで見送った後、僕は逆の階段を上った。タイミングよく、彼女の乗る電車がホームに流れ込んでいて、ホームに上がっても向かいのホームに彼女を見つけることができなかった。

 これで良かったのだろうか、とも思う。でも、これで良かったのだ、とも思う。

彼女の乗った電車は無機質に走り去っていった。僕はいつもと同じ場所で自分の電車が来るのをぼんやりと待っていた。

 今日会えたこと。

 もし、大学が別々になって、また今日こうして再会するまでに一つの意味があるとしたら、今度は違う答えを出したいと、思う。

 ホームに電車が駆け込んできた。ここからはいつもと同じ時間の流れに戻るのだ。走り出す電車、窓の外には相変わらずの曇り空が広がっていた。やっぱり雨は降っているか、わからない。

 ズボンのポケットで、携帯が震えた。知らないアドレスからのメールだった。

 go-go-misaki1202@…。

 メールの中身は確認せずに、一度携帯をポケットにしまった。

 彼女は、僕のアドレスを消さずにいてくれたのだ。その事実だけで、ほっとした。

 ようやく、前に進んだのだろうか。いや、それは、きっとまだだろう。止まっていた時間軸の上に、ようやく立てたのに過ぎないのだ。動き出すのは、きっとこれからだ。そして、それが、前だろうと、後ろだろうと、移動して景色が変わればそれでいい。

 もう一度、窓の外を見ると、ほんの少し空が明るくなった気がする。と、同時に窓ガラスに斜めに雨の跡が残った。

 意を決して、ポケットの携帯に手を伸ばす。

 僕は一度大きく息を吐いた後、メールを開封した。


返信にこんなに緊張したのは初めてだったかもしれない。

これはあなたにも起きうる物語。


あなたにとって、私の作品と出会って頂けた意味とは何でしょう?

少しでも、あなたに寄り添える作品になれたら幸いです。

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