自我
人は考える動物だ。
人は考えるのを止めた時、一体何になるのか。
不快に響く音。
金属同士を強く擦り合わせたかのようなそれは人の神経を逆撫でし、震えさせるに足るような雑音だ。
では、何故それは断続的に響いているのか。
実に血生臭い理由がそこにある。
窓も無い、生活感も無い、敢えて例えるならば学園の理科室のようなただ不気味で薬品の冷え臭い匂いの漂う、それでいて無駄に広い部屋。
引きちぎられた何らかの機材だった物や、ガラスの破片が散乱しているその部屋には、同時に真新しい赤黒い染みや新鮮な肉のような物が床天井壁問わずにへばりついている。
その正体は言わずもがな、と言ったところだろう。
不快な音も、何かを叩き潰すようなそれまでとは違う肉感的な生々しい音を最後に、もう聞こえなくなっている。
「僕は、誰だ?」
ちらりと、光源のほとんど無い部屋の中に、赤く光る2つの光源が現れる。
それは『眼』だった。
人間のそれに形や特徴は間違い無いが、人間の眼はクラゲやホタルのように光ったりしない。
故に、それはもう『人として怪しい物』である。
金属を裂くような音と生々しい音の2つが消え静寂に包まれた部屋をパリッ、パリッとガラスの破片を踏み潰しながら歩く何者かが、闇の中に居る。
確かに『居る』。
もしこの部屋を客観的な視点で見る者がいたとしたら、暗闇で何か二足歩行の動物が動くシルエットが微かに見えただろう。
ただし、それは『人間』の最大の特徴であり。
人間でありながら、人間では有り得ない『それ』はまだ執念深く何かの画面を映す為に光を放つ、床に落ちたパソコンの前に立つ。
光が、シルエットだけだった『それ』をぼんやりとだが、照らす。
光を浴びて細やかに反射する髪は長く、濃藍色であるのがわかる。
シルエット通り、一見手足が長く華奢な色白な身体は実は鋼の如き強靭さと鞭のようなしなやかさを兼ね備えた物であった。
それでいて身体のラインにはメリハリがあると云う贅沢な身体つきだ。
赤く輝く両面を持つ、間違い無く美形に分類されるであろうそれは、一糸纏わぬ裸身の少女だった。
凛々しい顔付きから中性的な印象を与え美形の少年にも見えるが、惜し気も無く晒されたバストがそれを否定して余りある。
ここまでなら何でもない、ただの美形変態痴女だ。
そうでないと断定出来るのは、その両手と身体のあちこちに、べっとりと赤い液体が付いているからだ。
少女はただ疑問の言葉を呟き、物言わぬパソコンを見下ろす。
自分に『何が出来る』のかはわかるが、自分は『何者で何をすればいいのか』がわからない。
少女の状況を端的に説明したら、こうなるだろう。
猟奇的変態美少女は周囲の惨事には興味を示さず、ただ命令を与えられるのを待つかのようにその場に立ったままになっている。
つまり、それはこの惨事を引き起こしたのがこの少女自身であることを物語っている。
それから数分後、パソコンの画面に変化が現れた。
何か赤い文字が点滅していた画面は一旦真っ暗になると、今度は青い画面に変わり白い文字を次々に表示し始める。
『アリス』
『Zero-systemを解除せよ』
それが表示されたと同時に、少女の不気味に輝く赤色の眼はその色を輝く青色に変える。
それは不気味さと禍々しさとは無縁の、清浄さを感じさせるような『青』。
『基礎知識プログラムをインストール開始』
『学習プログラムを再インストール、構築』
『プログラムの破損を修復』
『身体ヴァイタルサインの確認、全て基準値』
『記憶メモリーに重大な破損あり、復帰は不可。』
『記憶メモリーのローレベルフォーマット開始、終了後にAR-01は再起動』
パソコンに次々に文字列が打ち込まれ、最後の1行が書き込まれた時、少女の眼から光が消える(当然この状態が人間として普通なのだが)。
数十秒後、再び少女の瞳に青色の光が灯る。
「『AR-01アリス』修復プログラムにより再起動完了。なお重大な問題は解決されず。」
極めて事務的な、まるでコンピューターのような口調で少女は独り呟く。
「当面は問題修復の為に行動、現在地から脱出。」
言うなり少女は部屋の壁に手をかけ、あろうことかその壁を『まるで壁紙を剥がす』かのように軽々と引き剥がしてしまった。
勿論、こんなものは到底人間の腕力ではない。
外はまるで大学のキャンバスのようだが深夜らしく、人影は全くと言って良いほど存在しない。
雲は出ていない為、照明は無くとも月明かりだけで薄暗いが十分視野は確保出来る。
「疑似人格を構成。完了後、基本オペレーティングOSは休止。」
裸身の少女はそんな言葉を溢しながら、跳ぶ。
驚異的な脚力は少女の身体を宙へと運び、夜の闇に包まれた空で1回転、キャンパス内の建物の屋上に着地する。
疑問が確信へ変わる。
少女は人間ではない。
ただの人間が地上から建物の屋上へと『生身』で跳び移るなど、どう考えても有り得る現象ではない。
そんな物はファンタジーの中だけで十分だ。
矮小な『常識』とやらを嘲笑うかのように、少女は再び跳躍する。
濃藍の髪が月光を弾きキラキラと輝き、暗闇で蒼く光る眼が残光を引きながら宙を舞う。
少女は更に隣の建物の屋上に着地すると、すぐさま別の建物へと跳ぶ。
高層ビルのある街の空は、格好の死角だ。
何度も跳躍を繰り返す内に、少女は夜の闇の中へと消えて行った。