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米が浜は大正の頃までは海に臨む景勝地であった。
観光や保養、あるいは接待で訪れる人も多く、旅館や料理屋が軒を連ねていた。
浜遊びの客に風呂と食事を提供する割烹旅館。
景観を活かした座敷の造作と山海の珍味を楽しませる本格志向の料亭。
新鮮な魚介を炭火で焼いて供するだけの磯焼き屋──
格式も規模も様々な店が、昼も夜も賑わいを見せていた。
「パイン」の愛称で海軍関係者に親しまれる有名な海軍料亭も大正十二年、米が浜に新しく店を開いている。
元は「長官山」の麓の聖徳寺坂下にあったが、安浦一帯の埋立てで海岸線が遠ざかったため移転したのだ。
しかし昭和に入ると、横須賀では市街地の開発と海岸の埋立てがさらに進展。
米が浜でも観光客相手の店は次々と暖簾を下ろした。
海軍高官との人脈作りに成功し、水交社の別館のように扱われた「パイン」は生き残りの稀有な例である。
こうした廃業旅館の一軒に「萬仙荘」があった。
鉄筋コンクリート造の湯殿を別棟で構える大きな宿であったが、時代の波には抗い得なかったのだ。
跡地には元海軍将校を創立者とする裁縫学校の校舎が昭和八年に建てられたが、湯殿の建物は残された。
最頂部に塔屋を据え、丸みを帯びたS型瓦で屋根を葺いた異国風の外観はそのまま。
内部の浴場設備を撤去して、事務棟として再利用することになったのである。
やがて昭和十六年に裁縫学校は、女子の高等教育を行なう高等女学校へ移行。
附属幼稚園も開園して、事務棟は幼稚園の園舎へ転用された。
そして近年、高等女学校は運動場の拡張のため久里浜へ移転し、合わせて附属幼稚園は閉園。
女学校の校舎は取り壊されることとなったが、園舎のみは、またもや解体を免れた。
すなわち、この地に新たに開校した海軍女学校の大浴場として再び浴場設備が整えられ──
竜宮城にも擬せられた「萬仙荘」自慢の湯殿は、新たな歴史を刻むこととなったのである。