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「あのね、繭子ちゃん。国家の主兵は陸軍でもなければ、海軍でもないよ」
順は、言った。
「お百姓さんだよ」
「……え……?」
繭子という名の少女は、ぱちぱちと瞬きしながら、逸らしていた眼を合わせてくる。
順は、にっこりとして、
「海軍も陸軍も、将校も下士官兵も、偉い大将様も怖い鬼軍曹もみんな、ごはんを食べなきゃ働けないんだ」
「…………」
きょとんとしている繭子の肩を、ぽんぽんと軽く叩いてから、順は、ほかの小学生たちに向き直る。
百合子と呼ばれていた、学級委員長の少女。
そして、どうやら繭子と仲が悪いらしい、あとの二人の少女。
呆気にとられている彼女たちに、順は、くすっと笑って、
「これは海軍女学校で、そう教えているというわけではなく、あくまでボク個人の考えだけどね」
「いえ……でも、そうですわ」
麟子が、うんうんと頷きながら、
「ですから海軍と陸軍、どちらが上ということは、ないですのよ」
「どっちも大事♪ いこーりんばりゅ♪("Equal in value.")」
にこにこしながら千代も言って、陽子が、
「腹が減っては戦ができぬ、なのです」
「…………」
何も言えないままの繭子に、順はもう一度、にっこりと笑いかけ、
「それにね、みんなが通う静堂小学校は、実のところ海軍とも、この《三笠》とも縁が深いんだ」
「そう……なんですか……?」
おずおずと訊き返す繭子に、順は笑顔で頷き、
「みんなの学校は、女子修道会によって設立されて、いまも教職員の多くは修道女たちだよね」
「はい……」
「その修道会が、江ノ島に僧院を開くのを支援したのは、もと《三笠》の分隊長だった海軍軍人なんだ──」
* * *
その人──山本少将は江ノ島の出身で、伝道局系の名門、暁星中学に学んだ基督教徒だった。
山本家は湘南一帯の開発を担った実業家で、保養で湘南を訪れる内外の名士と交流があった。
学習院の生徒の臨海学校に宿舎として自宅を開放して、学習院長を勤めた晩年の乃木大将とも縁ができた。
仏蘭西出身の暁星の学園長も、山本家と親交があった一人でね。
その繋がりから山本少将は暁星中学に進んで、在学中に洗礼を受けて基督教徒になったんだ。
中学卒業後は海軍兵学校を経て海軍士官となり、《三笠》分隊長として日本海海戦を経験。
露西亜艦隊の降伏交渉では暁星仕込みの仏蘭西語で通訳を務めた。
西洋では仏蘭西語と仏蘭西文学が上流階級の必須教養とされていたからね。
露西亜貴族が日常会話でも仏蘭西語を使ったことはトルストイの『戦争と平和』に描かれているよ。
当然、帝政露西亜の高級軍人には仏蘭西語が通じたわけだ。
その後、山本少将は東郷元帥の副官などを経て、東宮御用掛を拝命。
当時東宮だった今上陛下の西欧歴訪に供奉した。
羅馬教皇ベネディクトゥス十五世との会見では、やはり仏蘭西語で通訳をしたんだ。
会見自体、山本少将と、同じく基督教徒で外交官の珍田捨巳が供奉したことで実現したともいわれるよ。
珍田というのも随分と変わった名前だけど、のちに侍従長まで務めた人物だよ。それはともかく。
そういう山本少将だから、基督教の布教活動の支援に熱心でね。
故郷の江ノ島での女子修道院の創設を援助して、それが君たちの学ぶ静堂小学校の創立に結びつくんだ。
ちなみにだけど、ベネディクトゥス十五世は、あのジャンヌ・ダルクを列聖した教皇だよ──
* * *
「…………」
ぽかんと口を開けたまま、順の話を聞いていた繭子は、ようやく振り絞るように言った。
「そう……なんですか」
そして頭を下げる。
「すいません……でした、生意気な……失礼なこと、言っちゃって」
「気にしないでいいよ。つい口を滑らせちゃうことなんて誰にでもあるさ。ね、麟子?」
にっこりと順に笑いかけられて、麟子は、ぎょっと眼を丸くして、
「わ……わたくしは、べつに失言癖なんてないですわよ」
「麟子がそうだとは言ってないよ、世間一般の話だよ」
順は笑って、
「それとも麟子、何かマズいことを言っちゃった心当たりでもあるの?」
「あ……ありませんですわ!」
ぷいっと麟子は、そっぽを向いて、順は、くすくすと笑う。
それから小学生たちに向き直り、
「それじゃあ、この昇降口から艦内に入るよ。次は下甲板の見学だ」
「……はい!」
繭子は元気を取り戻して答え、百合子と顔を見交わして、微笑み合った。




