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貸切バスの車窓から見えるのは「海軍の街」だった。
夏らしい白ジャケットの士官や、白いセーラー服の水兵。
作業着姿で碇の紋章の帽子をかぶっているのは機関兵か、工廠の作業員か。
道を行く人の多くが海軍関係者で、道沿いに並ぶ建物の多くが海軍の施設と思われた。
江ノ島から来た女子小学生たちにはそれが珍しく、皆、熱心に見入っている。
「軍人さんは、男の人がほとんどなんだね」
二人掛けの席の窓側に座る百合子が言って、隣に座る繭子は笑って頷き、
「陸軍でもようやく女性の士官が任官され始めたの。海軍は、もっと遅れているわ」
「あ……でも、見て。あれは女性の軍人さんじゃないの?」
百合子が指差した先に、紺色の肩章のついた白いブラウスと白のスカート姿の女性が歩いていた。
そういえば海軍にも女性士官がいないわけではなかった。
繭子は、ばつが悪くなって頬を赤らめ、
「あれは主計科か秘書科ね。海軍でも経理学校は一足早く女性を採用したから」
「海軍に経理の学校なんてあるの?」
眼を丸くする百合子に、繭子は苦笑いで、
「経理といっても軍艦の中で燃料や食糧の管理をするのよ。あとは司令官や参謀の秘書の仕事もあるわ」
「その人たちも海軍士官なの?」
「士官だけど将校とは呼ばないわ。海軍で将校は砲術科とか水雷科とか直接戦闘に関わる士官だけだから」
「繭子ちゃん、海軍にも詳しいんだね」
「少し勉強したのよ。陸軍をより深く理解するために、海軍と比較することも必要と思って」
繭子は苦笑いのまま言う。
付け焼き刃の知識だから、海軍にも女性士官がいたことがすっかり抜け落ちていたけど。
とはいえ、まだ海軍に女性の兵科将校はいない。
女子士官学校の第一期生から歩兵科や戦車兵科の将校が誕生している陸軍のほうが先を行っている。
やがて、バスは開けた場所に出た。
青い空と海を背景にした芝生の広場で、その中心に軍艦が二隻、並んでいた。
奥の軍艦は手前の軍艦より長さも上甲板の高さも倍ほどあるので、横並びでも姿は隠れていない。
舳先は揃って、こちらから見て左手に向けている。
軍艦が《三笠》であるのなら──間違いなく奥の軍艦がそうなのだけど──、その先には皇居がある。
子供や大人、女性や男性、若者や年配の人が、二隻の軍艦の上甲板に上がったり芝生で休んだりしている。
平日の昼間なのに、なかなか賑わっている。
手前の軍艦は長さが六十メートルほどだろう。
省線の電車一両が約二十メートルなので、何両分かと考えれば、おおよそ見当がつく。
煙突を一本と帆柱を三本備えているけど、他に目立つ上部構造物──例えば艦橋──は、ない。
昔ながらの汽帆船の姿だけど、艤装は全て真新しく見え、黒塗りの艦体は陽光に照り輝いている。
上甲板には椅子と卓子が並べてあり、見学者がお茶を飲んだり弁当を広げている。
どうやら本物の軍艦が保存されているのではなく、姿を似せて復元されたもののようだ。
しかし奥にあるのは、本物の《三笠》だった。
教科書に載っているのと全く同じ姿だ。
長さは手前の軍艦の倍以上。横須賀線の六両編成、約百二十メートルよりも長いだろう。
上甲板には連装の主砲塔が二門、据えられており、舷側には副砲が並んでいる。
艦橋の上には帆柱が立つけど、これは帆走用ではなく信号用だ。
一番高い帆桁にたなびく旗は、あの「Z旗」だろう。
見学者は上甲板で記念写真を撮ったり周囲を見渡しているけど、さすがに飲食している者はいない。
バスは広場の前で停まり、引率の先生が、皆に呼びかけた。
「ではバスを降りて、二列になって《三笠》の前まで移動して下さい」
みんなで指示された通りに歩いて行く。
小さな軍艦の後ろを回り、《三笠》へ左舷後方から近づくかたちだ。
繭子は百合子と並んでいたけど、すぐ後ろに友子と幸子がいて、
「バスのエンジンってうるさいわよね。乗っていて耳障りだもの」
「トラックの走る音もうるさいわよ。自家用車はそんなことないのにね」
「冷房が効いていたから窓は閉めていたけど、排気ガスもヒドいのよ」
「バスやトラックって迷惑よね。公害だわ」
繭子は、じろりと二人を睨みつけ、
「だったら歩いて来ればいいのに。バスに乗るだけ乗って文句を言うなんて図々しい」
「なーに? 私たち、二人で話してるのに」
「よそ見しないで、ちゃんと前を向いて歩きなさいよね」
友子と幸子が睨み返してくる。
険悪な空気が漂い始めたところで、百合子が話題を変えようと声をかけてきた。
「……ほら、繭子ちゃん。軍艦の前に、女性の軍人さんたちが並んでいるわ」
振り向くと、《三笠》の前に白いジャケットに制帽姿の女性たちが横一列に並んでいるのが見えた。
《三笠》を案内してくれる海軍女学校の生徒だろう。バスからは手前の軍艦に隠れて姿が見えなかった。
彼女たちの後ろには舷梯があり、そこから《三笠》の後甲板へ上がれるようになっている。
そして近づいてみてわかったけど、やはり手前の軍艦は本物ではないようだ。
喫水線より上の外観だけを地面の上に再現したらしい。
舷側に自動扉の入口があり、その上に看板が掲げられている。
『三笠乗艦記念品・海軍弁当販売 清輝亭』──
どうやら上甲板が見学者の休憩場所に解放されている一方、艦内は売店になっているらしい。
そして《三笠》のほうはというと、こちらはほぼ完全と思われる姿で乾船渠に収まっていた。
船渠の内壁は、お城の石垣やお堀のように石で組んである。
水が張られていないから空堀と呼ぶべきか。それにしても軍艦が収まるほどなので、かなりの大きさだ。
周囲は柵で囲われているけど、そこから身を乗り出して何人かの見物客が底を覗き込んでいる。
そうしたくなるほど、底も深いということだろう。
繭子たちは海軍女学校の生徒の前まで来ると、相手と向かい合うよう、先生の指示で横一列に広がった。
隣に友子が並んだのが繭子には気に入らないけど、並び直している暇はない。
さらに先生が指示をする。
「委員長、号令」
「気をつけ!」
学級委員長の百合子が号令した。
「よろしくお願いします!」
「よろしくお願いしまーす!」
みんな揃ってお辞儀した。
顔を上げると、海軍女学校の生徒たちは皆、にこにこと微笑んでいる。
どの顔も、若い。海軍女学校には、まだ第一期生しかいないから、全員が四月に入校したばかりだ。
そして、ほとんどの生徒は高等女学校を卒業して間もないのだろう。
採用基準では四月一日の入校時点で満十六歳から十九歳までと決められていたはずである。
「湘南静堂小学校の皆さん、ようこそ《三笠》へ」
生徒の列の真ん中に立っていた、すらりとした長身の人が言った。
制帽の下は短髪で、歌劇団の主演男役のような整った容姿。
声もよく通って、聞きとりやすい。
「これから我々、海軍女学校の生徒が、皆さんを《三笠》の艦内に案内します」
長身の生徒は、隣に立つ生徒を手で指し示し、
「ですが、まず最初にこの場所で説明できることを、こちらの小栗から、お話しします」
紹介された生徒もまた、制帽の下は短髪だった。
くりくりとした眼の可愛らしい人で、最初に挨拶した人が歌劇団なら、こちらは「歌のお姉さん」だ。
子供番組で歌っているのが似合いそうな、優しげで親しみやすい雰囲気である。
ちなみに生徒は全員が短髪ではなく、むしろ髪の長い人のほうが多い。
さすがにパーマネントをかけている生徒はいないようだけど、頭髪に関する規則はゆるやからしい。
「はい、えっと、こんにちは」
小栗さんと呼ばれた「歌のお姉さん」が話し始めた。はきはきとして元気のいい声だ。
「これからボクたちが《三笠》を案内するけど、隣にもう一隻、見慣れない艦があるよね──」