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(2016/7/14)浴場の広さについての描写を追加しました。
* * *
蛇口が並ぶ洗い場の真ん中に仁王立ちして、早苗は木桶に溜めた湯を、ざばっと頭からかぶった。
「……ふぅぅぅぅゥ……」
ぶるぶると首を振って水を撥ね飛ばす。まるでイヌ科の獣のように。
それから、手首にはめていたゴムで濡れた髪をかき上げるようにまとめる。
色気のある仕草になるはずが、手つきはかなり乱暴だ。淑やかとか優雅という言葉は、早苗には無縁だ。
そして、浴槽に大股に歩み寄った。
高等女学校時代に競泳で鍛えた体躯は、背中を見れば少年のように逞しい。
それでいて、胸は西洋の女神像のように形よく、豊かである。
六月下旬からの幾度かの水練を経て、うっすらと肌に残る日焼けの跡は、鋭角的な競泳水着のものである。
泳法技術をより高めたいと訴えたら、学校側も競泳水着の着用を許可してくれたのだ。
本音のところでは、学校指定の旧型水着なんて鈍くさくて格好悪いから着ていられない。
「海軍女学校第二分隊、千葉早苗! 本日の一番乗りィ!」
ざぼんと、湯に飛び込んだ。
「……ふぃぃぃぃィ……♪」
浴槽の縁に寄りかかり、満足げに眼を細める。
眼の前のタイル壁には江田島の古鷹山が描かれているが、早苗には特に感慨はない。
江田島の兵学校に範をとる海軍女学校だが、生徒の皆が江田島を模倣しようと意識しているわけではない。
早苗が満足しているのは、好み通りの熱めの湯加減についてである。
元「萬仙荘」の湯殿である大浴場の建物は、町中にある銭湯ほどの大きさである。
しかし銭湯と異なるのは男湯と女湯を分ける必要がなく、浴室が一つであることだ。
(男性の教職員用の浴場は別に用意されている)
このため浴槽も洗い場もそれなりの広さだが、第一期生の四十人が同時に入浴すると、さすがに混雑してしまう。
平日は時間も限られているから、癒やしであるはずの入浴が殺伐とした状況だ。
来年度以降は学年または分隊単位で入浴時間を変えることが検討されている。
しかし休日は入浴時間が長めに設定されているので、生徒の気持ちにも余裕がある。
早めの時間からのんびり湯に浸かりたい者、《倶楽部》でゆっくり過ごすため入浴は遅らせる者、様々である。
続いて浴場に入って来た弥生が、早苗に呆れ顔をして言った。
「我が分隊が一番乗りだからいいようなものの、もう少し静かにお入りになれなくて?」
「岩崎サン、きょうはアンタ、どうして前を隠してるのかねェ?」
早苗は、にィッと八重歯を剥き出して言い返す。
弥生は右手に洗顔用具を入れた金箔張りの桶を抱えながら、左手で手拭いを身体の前に下げていたのだ。
金リボンは解いて、髪を下ろしている。
「大きなお世話ではなくて? それとも千葉さんは私の裸体にご興味がおありでも?」
「はんッ! 興味なんざァないけどねェ、隠されたら気になるのが人情ってェもんじゃァないのかい?」
「先週は水練が台風で中止でござったろう? 岩崎殿は、お手入れを怠っておられるのよ」
あとから入って来た錦綺が言った。やはり木桶を抱え、手拭いは畳んで頭に載せ、眼鏡はかけたままである。
「ラッパに追われる平日の入浴は隠す暇もござらなんだが、日曜ばかりは心持ちに余裕もござろうて」
「莫っ……余計なことをおっしゃらないで……!」
弥生が顔を真っ赤にすると、早苗が怪訝そうに眉をしかめ、
「お手入れってェ、何のお手入れだい?」
「千葉殿には無用の話にござる。見事なまでの白桃ぶりにござる故」
錦綺の眼鏡は、すぐに湯気で曇ったが、慣れているのか気にした様子もなく洗い場へ向かう。
早苗は仏頂面で、
「だから何の話かァ、気になるじゃァないかねェ?」
弥生も洗い場へ行き、錦綺の隣で風呂椅子に腰掛けながら声をひそめ、
「千葉さんのあれ、わかって訊いていたのではなくて?」
「素のままでござろう。腹芸のできる御仁ではござらぬよ」
「ちなみに申し上げておきますけど私、水練がないからと手入れを怠ったわけではなくてよ」
弥生は頬を赤らめ口を尖らせながら、
「肌が敏感ですので、なるべく剃刀を当てるのを控えたいだけですわ」
「某は伯剌西爾より取り寄せた蜜蝋に独自処方の生薬を配合して用いてござる」
「…………」
弥生は思わず、錦綺の両脚の間に視線を向ける。
「……私も試させて頂いてよろしくて?」
「大歓迎にござるよ。治験を重ね、さらに効能を高めねばならぬ故」
錦綺は、にっこりとする。
がらりとガラス戸を開け、順が入って来た。
「あーっ、きょうは一番風呂を逃したかぁ」
その場で両手両足を大の字に広げ、あけっぴろげに伸びをして、
「……んーっ、でも、お休みの日のお風呂は伸び伸びできて、いいなぁ」
振り向いた早苗が、ニィッと笑う。
「小栗サン、アンタァいい色に焼けてるねェ」
そう言われた順の肌は、学校用水着の跡をくっきりと残して色濃く日焼けしている。
順は、両手を腰に当てて得意げに胸(そのものは控えめながら)を張ってみせ、
「えへへ、ちょっと自慢できちゃうかな」
「日焼けの自慢なんて小学生のようなことをなさらないで」
木桶を二つ、両手に持った麟子が入って来た。身体にはバスタオルを巻いて胸から腰までを隠している。
「小栗さん貴女、桶をお忘れよ」
「ありがとう麟子。でも、そのバスタオルは何?」
「気にするほどのことではありませんわ」
「隠したところで順クンや千代さんを見れば一目瞭然ですよ? きょう一日、一緒に行動していたですから」
「分隊みんな、こんがり小麦色だよ♪ びゅーりふりーたんだすきん♪("Beautifully tanned skin.")」
続いて入って来た陽子と千代が言う。順と同様、学校水着の形に日焼けの跡がくっきりだ。
順は眉をひそめて、
「ダメだよ麟子、日焼けは夏の勲章だよ? 隠すなんてもったいないよ」
「休みに日焼けしているなんて、いかにも遊んできたみたいでしょう? きょうは、このまま入浴いたしますわ」
「そうは言っても、バスタオルを巻いたまま湯船に入るなんてェ野暮は、なさいませんよねェ、勝サン?」
にやりと早苗が笑いかけ、麟子は顔を赤くして、
「わ……わかりましたわ、バスタオルをとればよろしいのでしょう……?」
「おおッ……!」
錦綺と早苗が、声を上げた。
バスタオルをほどいた麟子の肌にも、くっきりと日焼けの跡ができていた。
「これは御見事。夏の勲章とは、まさに至言。勝殿の肉体美を引き立たせてござる」
「七十点てェところだねェ。勝サン、せっかくいい身体してるんだ、学校水着なのがもったいないねェ」
「いったいどういう会話ですの!」
麟子は真っ赤になりながら、両手で胸と下を隠す。
弥生が、すっくと立ち上がり、扇子の代わりに金箔張りの桶を麟子に差し向けて言った。
「分隊がどれだけ楽しい休日を過ごせるかも伍長と伍長補の力量。来週は負けなくてよ」
「こんなことで張り合う気はありませんわ!」
そこに今度は第三分隊の四人が入って来た。
「ちょー、また一番風呂、逃がしてるしー」
「だから私は東場で終わろうと言った。我々が実際に《倶楽部》を出たのは、その二十五分後」
言い合っているのは、伍長の高杉春風と、伍長補の井上香である。
「だってー、東四局の親を安目で流されてー、南入しないなんてあり得ないしー」
「箱下の人が言うことではない」
春風は長い黒髪のところどころに細い三つ編みを作った手の込んだ髪型で、香は普通の三つ編みおさげ。
二人とも三つ編みの先はお揃いのように赤いゴムで留めているが、共通項はそのくらいだ。
ぱっちりとした眼の春風と、涼やかな眼をした香は、いずれも美形ながら類型は違う。
口調も気の抜けたような春風と、ばっさり切り捨てる物言いの香では対照的である。
春風は、口を尖らせて、
「箱ったってー、あれは事故でしょー? 航子ちゃんの緑一色四暗刻發単騎待ちとかあり得なくないー?」
「あれが事故なら脇見運転やわ」
第三分隊のもう一人、桂小桜がツッコミを入れる。
「航子、あからさまに萬子と筒子切りまくってたやん? 索子と役牌は要注意やろ」
小桜は三つ編みの髪を頭の左右でお団子にして、やはり赤いゴムで留めている。
第一期生では陽子に次いで小柄だが、出るべきところは出たメリハリのある体つきである。
「あからさまでしたか? それはすいません」
分隊の四人目、坪井航子が、にこにこしながら言った。笑顔が似合い、胸は大きい。
言葉で謝りながらも笑顔を絶やさないところは慇懃無礼ともいえる。
髪は一本にまとめた横三つ編みにして、これまた赤いゴムで留めている。
三つ編みと赤い髪留めゴムは、第三分隊のお約束。団結の象徴なのである。
続いて理代子が入って来て、早苗が、ぱっと笑顔になった。
「坂本サァン、遅いですよォ、何してたんですかァ?」
「分隊監事殿に戻りの報告だよ。きょうは許可を受けて出かけていたからね、途中から皆と一緒だったけど」
理代子は苦笑いで答える。
「ついでに叔母に電話して、良子を無事電車に乗せたことを知らせておいた」
「健康診断については、いかがでござったか?」
錦綺が訊ねて、理代子は苦笑いのまま、
「春に女学校で測定したら一・〇で、去年の一・二より落ちたそうだ。本人は大丈夫と言ってるそうだけど」
「それは気がかりが残りましたなあ。これ以上、視力を落とさぬためにも、やはり某考案の訓練法を……」
「いざというときは頼むかもしれないけど、もう少し様子を見ることにするよ」
「でも、手を打つには早いほうがよいのではなくて?」
弥生が言って、理代子は首を振り、
「視力の低下は良子自身もわかっているだろう。それで普段からの生活を見直すのは本人の責任だよ」
「可愛がってるはずの妹分に、ずいぶんと厳しいじゃァないですかァ?」
眼を丸くして意外そうに言う早苗に、理代子は微笑み、
「自分を律することができないようでは海軍将校は務まらないさ。それとなく手紙で忠告はしておくよ」