プロローグ
少年は生まれた瞬間から孤独だった。
漁師の父は息子の誕生を待たずに海難事故で帰らぬ人となった。一人残された母も、もともと病弱だったこともあり、出産後の衰弱から回復できずにこの世を去った。
両親の死―――。少年の生い立ちは、不遇という言葉で片づけられないほど過酷なものだった。そして生まれた時から天涯孤独、両親の顔も知らない、名前もない。そんな子供に周囲はあまりにも冷たかった。
少年が生まれたのは、貧しい漁村。誰もが自分たちが食べていくだけで精いっぱいのこの場所で、他人の赤ん坊の世話など誰もしたがらなかった。少年の両親の友人だった者でさえ、手のひらを反すように少年から遠ざかっていった。唯一、少年を取り上げた産婆だけが同情心から面倒をみていたが、その産婆も少年が三つになる頃には病で亡くなった。
育ての親の死―――。親類もいない少年にとって、それは本当の地獄の始まりだった。
産婆が亡くなった後、月初めの村の集会ではその月に少年の世話をする者がくじ引きで決められるようになった。はずれくじを引いた者は一様に顔をひきつらせ、世話らしい世話など一切せずに次の集会を心待ちにした。まだ幼い少年は村の家々をたらい回しにされ、行く先々で腐った生ゴミのように煙たがられた。名前を呼ぶ者は誰もいない。「おい」「おまえ」「こいつ」が少年の名前だった。ただ一人「坊や」と呼んでくれた産婆は、もういない。食事も愛情も満足に与えられず、言葉も常識も満足に覚えられない状況が何年も続いた。
なんとか仕事が出来る歳になると、今度は奴隷のようにこき使われた。とは言っても非力な子供に満足な仕事が出来るはずもなく、不手際や失敗を理由に折檻される日々。仕事の報酬は家畜も食べないような残飯だった。そんな少年を憐れむ者は皆無で、外を歩けば親無し、みなしご、穀潰しと罵られた。理由もなく石を投げられることなど日常茶飯事であった。
そんな酷く辛い毎日のなかで少年が思い出すのは、唯一優しかった産婆の顔だった。だがその産婆は少年の存在が重荷となって病死したのだと、そう村の大人から言われてからは思い出すことも無くなった。自分が殺したようなものなのに、自分が慰めの道具として使っていいわけはないと思ったからだった。本当の親も、育ての親もいない。心の拠り所など何も無くなった少年は、ただ暗い絶望に堕ちていくだけだった。
そして六歳の誕生日、少年は大人たちに海へと連れ出された。そして沖に着くなり、今にも底が抜けそうなボロボロの木桶に乗せられた。少年の身長よりも少し長い楕円形の木桶は、小舟に見えないこともない。
木桶の中で少年が訳も分からないで立っていると、一人の大人が心底面倒くさそうに説明をした。
曰く、最近不漁が続いていること。
曰く、海神様の機嫌が悪いのが原因だということ。
曰く、村の総意で生贄を出すことになったこと。
曰く、その生贄に少年が選ばれたこと。
曰く、生贄は名誉なことだということ。
その説明を聞いて少年は困惑した。なぜなら不漁など今に始まったことではないし、海神様など聞いたこともなかったからだ。加えて、村の総意だというのに自分は一切この話を聞いていない。嫌われているとはいえ、自分も村の一員なのになぜ―――ここで少年は気づいた。
自分は村の一員ですらなかったのだ、と。
本当に誰からも必要とされていない、むしろ邪魔者。
海神様も生贄も、ただの方便。
自分は口減らしのために捨てられるのだ。
そう気づいてしまえば、やる気のない説明と下卑た笑みを浮かべる周りの大人が、少年の予想を肯定していた。そう、これは生贄という名の厄介払いでしかないと。
少年は何も喋れなかった。何を話せばいいのかも分からなかった。その大きな瞳に涙を溜めて、にやける大人たちを見つめることしか出来なかった。大人たちは少年を入れた木桶を海に浮かべると、「刺激的な誕生日だろ?」「海神様によろしくな」などと競うように心無い言葉を浴びせた。そしてそのまま、まるで余興でも楽しむように笑いながら村へと帰って行った。
ひとり大海原に置き去りにされた少年は、木桶の中でうずくまっていた。櫂もなく、一人海に置き去りにされては陸に戻ることもできない。海流も無く、陸も見えず、助けなどない絶望的な状況。すでに精気も無くボロ布のような格好の少年は、遠目にはもう人間に見えなかった。少年に残された未来は良くて餓死、悪くて魔物の餌。もし何かの奇跡で村に帰れたとしても、必要としてくれる人は誰もいないのだ。
少年は希望を捨てた。
それから三日目の夜、少年に限界が近づいていた。雨も降らず水も飲めないのでは、大人でも四日と生きられない。目を閉じればすぐそこにあるのは、死。もはや嘆くことも、恨むこともしなかった。あるのは“なぜ生まれてきたのか”という疑問だけ。生まれたことで母親を死なせ、産婆の重荷にしかならなかった自分の死を、皆が望んでいる。皆の期待に応え、父親と同じ海で死ぬ―――これが自分の運命なのかもしれない、そう思った。自分の生は何の意味も無かった。だが死ぬことで村の皆が喜ぶなら、自分の死には意味がある。堂々巡りの思考のすえ、少年は死を受け入れていた。
少年がぎりぎり横になれる大きさの木桶は、まるで棺桶のようだった。仰向けになると満点の星空がある。銀砂をぶちまけたような夜空は、素晴らしいの一言だった。こんなにしっかりと星を見たことはなかった、そう思う少年の瞳に力は無い。死が近い。
そのとき“それ”は現れた。
星の海の中を淡い光を放ちながら泳ぐ巨大な鯨。
天空をゆったりと進む姿からは威厳と貫禄が満ち溢れていた。
今まで見たどんなものよりも大きく、荘厳で神秘的。
その人智を超えた存在感に恐怖を抱く者もいるだろう。
しかし少年の心に恐れは無かった。ただ純粋に、きれいだと感じた。初めて目にする空飛ぶ鯨は死を目前に脳が見せた幻か、それとも自分を迎えにきた死の遣いか。だが、こんなにきれいな死神なら連れていかれるのも悪くない。
最後の力を振り絞って、少年は右手を天に伸ばした。
そしてかすれる声で鯨の姿をした死神に語りかける。
「……死神、さん……ぼくを…つれてって」
その一言を最後に、少年は意識を手放した。
死神と呼ばれた鯨が木桶に近づいてくる。
それに気づく者は誰もいなかった。
更新はマイペースですが、よろしければお付き合いください。