偽旗作戦とヒミコ
見捨てられた國のヒミコ 20X0(8) Ⅽ.アイザック
「スサノオ」と名乗ったロボットを前にヒミコは途方に暮れた。どう関われば良いのか見当がつかない。それを見越したように兄タケルから通信が届いた。急いでイヤホン型のインカムを耳につけて訴えた。
「ロボットが出て来たけど、どう扱えばいいの? トリセツは無いのかしら。」ヒミコの言葉にどこか棘があった。兄が以前のように丁寧に説明をしてくれないのが不満だった。
「スサノオは完全に自立したAIロボットだ。必要な事は彼自身が説明するだろう。上手にコミュニケーションを取っておくれ。」
「どこが最強なのか見当も付かないわ。」
タケルはそれ以上説明するつもりは無いようだった。
「僕は少し眠らなければならない。…とてつもなく忙しくなるよ。明日チャーター機でエンジニアが来るのは知っていると思うけど、まずは電気溶解炉を備えた製鉄所の建設から始める。作業用の重機も製造しなくては。」
ヒミコには初耳だった。
「そんな計画があったの。でも新潟の難民たちの保護が急務となっているわ。両方を同時にやるとなったら大変よ。」
「ヒミコ、迫害を受けて難民となったロシア人に同情するけど、僕たちにはもっと重要なものがある。世界では企業連合と各国の間で深刻な対立が生れている。その為に僕らはどんな鋼材も輸入できなくなった。ジパング島では食料の輸入すら困難らしい。」
ヒミコは良く理解できない世界情勢を突然に突き付けられて考えが追い付かずにいると、タケルが眼の覚めるような言葉を口にした。
「僕たちは役割を果たさなければいけない。ヒミコ、日本を再建しよう。」
「日本の再建!」ヒミコは思わず叫んだ。
「お兄ちゃん、大賛成よ。」
「でもとりあえず取り掛かっている仕事を片付けてくれ。難民を保護しながら新潟から武装集団を追い払う必要がある。敷島さんは日本の領土を占拠している外国の政府に交渉に応じるように求めている。日本政府は不法に居留する外国人のいかなる行為も容認しない方針で、新潟でもそれを示したいと言われた。」
ヒミコは驚きと興奮で胸が高鳴った。武装勢力を追い払うことも大切だが、産業を復活して人々の希望に満ちた生活を実現する、そのために大きな役割を果たす自分の姿を咄嗟に思い描いた。新鮮な活力が沸き上がり、じっとしていられない気分になった。
「日本の再建。私、ずっと望み続けて来たわ。いよいよ始まるのね。」
「僕らの取り組みは多くの面に亘る。設備や機械の製造。そして農業と漁業の回復も急務だ。なにしろ食料が不足するからね。…ヒミコ、少し眠らせておくれ。その後いっぱい話し合おう。」
「私のアイディアが役に立ったら嬉しいわ。お休みお兄ちゃん。」
ヒミコは今も地元に残って農業や漁業を行っている人々の経験や考えが貴重なものになる筈だと考えた。
兄との通話を終えて、ヒミコは改めてロボット「スサノオ」と向き合った。知りたい事は直接に聞けと兄は言ったが、とりあえず衣類を身に着けさせようと思った。
「付いて来て。」
居住区を足早に過ぎる。人目に付きたくない気がしたがそれは意味のない事だと自分ながら滑稽に感じた。裸のスサノオは結局ロボットなのだから。それでも自室のクローゼットで男にも違和感のない衣類を探した。けれど女物しかないのは当然だった。
「とりあえずこれを着て。」
上下の赤いジャージを探し出した。数年前にアスカが届けてくれたものだ。気兼ねなく動けるでしょうと言葉が添えられていた。
「これは仮の服だからね。着た後は暫くこの部屋に一人で待ってて。それからコミュニケーションをしましょう。あなたについて知りたい事が沢山あるわ。」
スサノオはジャージを興味深そうに手に取り、黙って頷いた。
ヒミコは時計を確かめた。ドローンが新潟市庁舎に着こうとしている。マニエルを呼び出した。着地はリモートが確実だ。現地には着陸誘導の赤外線装置が置かれていない。
「マニエルさん。ドローンを確認してください。このまま駐車場に降下しますが障害はありませんか。」
短い間のあとマニエルが応じた。「大丈夫です着陸してください。」
ヒミコは速度と地面との距離を睨みながら高度を下げる。操縦には自信があった。
着地と同時に赤い十字の印がルーフやドアに描かれた車両が走り寄る。スタッフが忙しく働き怪我人の二人を乗せた。
「看護に一人が同乗します。そちらに着く間、輸液を続けるためです。神に祈ります。ヒミコさん二人を助けてください。」
マニエルが唸りを上げるローターの回転音に負けまいと叫んだ。
「最善を尽くします。」ヒミコもつられて大声で応えた。
十分な高度になって自動操縦に切り替え、ヒミコはコクピットとの通話を試みた。
「マユミさん、聞こえますか。」
「聞こえます。」弱々しい声だった。
「怪我はどうですか。」
「多分、深刻です…。」
どちらの怪我を指しているのか分からなかった。
「マユミさんの怪我は?」
「辛いです。」
ヒミコは一瞬絶句した。ドクターは危険な状態にあり、マユミは片足を失うのを恐れているのか。
「こちらの受け入れ態勢は整っています。あと少しの辛抱です。マユミさん、頑張って。」
ドローンが沿岸から内陸に向かうにつれ、眼下に向けられたカメラが沢山の人々が歩く姿を捉えた。旧国道に列をなして進んでいる。ヒミコはロシア人が避難を始めたのを知った。
国連のUNHCR本部と新潟事務所は難民の避難と沿岸からの撤退を決めた。ネオソビエトの駆逐艦が二十時間後には新潟沖に到達する見込みだった。何が起きるか予断を許さない。UNHCRは「至急に」退避するよう難民に呼びかけている。
ヒミコにはアスカからの通達と指示があった。難民の大部分は徒歩で旧四十九号線を辿っていわきを目指すという。その距離は約二百三十キロ。歩き詰めでも六日以上を要する。支援を必要とするのが明らかだった。
アスカの計画はおおよそ次のようなものだった。新潟県内の阿賀町と県境を越えた西会津でいったん足止めして食料と水などを配り検疫をすませる。そこから車両でいわきへ輸送する。使用可能な車は国連の物資輸送に使った大型トラック十台、分室のマイクロバス二台。これでピストン輸送を行う。
「問題は…沢山あるけど、マン・パワーが足らないわ。まずドライバーを基地で確保してください。検疫の為に保健師さんと、確か山下さんが看護師の経験者だったわよね、松浦さんと山下さんを必要な機材と共に派遣してください。当面の食料についてはロシア人が彼ら自身で用意していると推測できますが水は準備した方が良いでしょう。
ヒミコさんは念のため警備ロボと装甲車で西会津に赴いて不測の事態に備えてください。ドローンについても要請に応えられるよう指示しておいてください。」
ヒミコは真っ先に村田と連絡を取り輸送用ドライバーの編成を依頼した。次いで松浦に検疫の出動を告げると、松浦から山辺地区に届ける薬品が準備できたと知らされた。
ヒミコは自治会長の大林に電話を入れた。新潟の危険な状況を伝え、いわきに移住するよう改めて勧めたが彼の考えは変わらなかった。
「ネオソビエト政府と反対勢力の問題は私たちと直接の関係は無いですよ。山辺にはロシア人が居ない。」
ヒミコは彼の言葉を受け入れるしかなかった。
「しばらくは用心してください。」
依頼された薬品と猟銃用スラッグ弾を届ける為に小型のドローンを飛ばした。
ヒミコはアスカのプランが有効だと感じたが心細くもあった。国連の新潟事務所が輸送支援にどのように加われるか今のところ不明だ。NGOなどの関係者は自身たちの撤退で精いっぱいだろう。そうなると日本側の人員のみでやり遂げねばならない。内閣府分室が十五人、科学基地に二十七人が在籍している。そのうち動けるのは幾人か。僅かな人数で五千人の避難民に対応しなければならない。
松浦の準備が整うのを待ってヒミコは装甲車に乗り込んだ。クルーはアースボーイと隊長、いつものメンバーだ。村田から車両班が一時間後に出発すると通知を貰った。流れは順調だ。ヒミコは満足だったが発車の間際になって思わず「あっ。」と声を上げた。スサノオを忘れていた。
「忘れ物?」とすかさずアースボーイが聞く。
「アースボーイ!」ヒミコがロボットを指した。
「あなたの後輩を紹介してあげるから待ってなさい。」
ヒミコは迷いながらもスサノオを装甲車に乗せようと決めた。スサノオとは兄の言うコミュニケーションをとる暇がなかった。だから彼については何も知らない。つまり連れて行く理由はなかったのだが、自分の部屋に放置するのも気が進まなかったのだ。
スサノオを見たアースボーイは頭の小さな光を点滅させただけで音声は無かった。
「紹介するわ、スサノオよ。」
それから操縦席に固定された卵の形のロボットを指した。
「彼はアースボーイ。AI搭載モデルとして十年以上活躍しているわ。つまり先輩という訳ね。」
スサノオは微笑したように見えたが挨拶は無かった。アースボーイも無言だ。
ヒミコは双方に視線を走らせ、小さく両手を広げて言った。
「早速打ち解けてくれて嬉しいわ。さあ、旅を始めましょう。」背後の隔壁に向って告げた。「隊長、発車するわよ。」
「了解した。」
隔壁の小さな穴が集まったスピーカーから不愛想な応答があった。
ヒミコは救急車を改造した大型のバンが追随しているのを確かめた。松浦と山下夫人が乗っている。しかし二人以外にスタッフはいない。検疫の体制を整える準備が必要だった。ヒミコにはアイディアがあった。MSF(国境なき医師団)の力を借りるつもりだった。MSFも撤退を準備している。急いでマニエルに協力を依頼し、快諾を得た。
次いで国分寺陸尉に日本側の輸送支援の計画を伝えた。行動の歩調を合わせたかった。国分寺は「なるほど。」と言った後で自身の予定を述べた。
「我々は国連新潟事務所の退避を確認後、最後尾の位置を保って阿賀方面へ撤退する。避難行動がまとまりを失って無秩序なものになる可能性があるが、とにかく我々が殿の予定だ。」
「シンガリ? 一番最後の意味ね。荒川さんは?」
「荒川分隊は阿賀に向けて出発するところだ。」
「私も出発したばかり。目的地は少し違うけど荒川さんが先着するのが確実ね。」
ヒミコは隊員たちの無事を願っていると告げて通信を終えた。
ハナエは出エジプト記のように避難民が列をなすだろうと予想したアンナの言葉を伝えたが、まさにその事態を迎えている。アンナは彼らへの攻撃を恐れていたらしいが、ネオソビエト当局による攻撃があった場合、真っ先に標的となるのは最後尾の国分寺隊の可能性が高い。しかしそれは独裁政権が名目としているテロリスト集団への武力行使からかけ離れてしまう筈だ。
「アースボーイ、新潟にまた攻撃があるかしら。私は半信半疑なんだけど。」
ロボットの頭部の小さな光が点滅した。
「攻撃は必ずあると予想される。治安組織がニセハタ作戦を始めた以上、それがすぐに中止される理由は無い。一方で攻撃が小規模なもので終わる可能性もある。」
「どういう事?」
「今回の作戦は、当局が国内の反政府勢力にいつでも強硬な手段を取る意思があると示すとともに、国外に脱出して東ヨーロッパ諸国に滞在する十万人のロシア人への強力な牽制を意図したものと受け取れる。だとすると世界の関心と注目を得れば目的は達成されるわけ。それで十分という考え方もある。」
「そう願いたいけど。」
「念を押すけど小規模ではあっても攻撃は必ずあるよ。」
ヒミコは一瞬アースボーイの言葉に混乱した。もう既に国連の関係事務所を攻撃して世界の耳目を集めている。それが目的だと言ったばかりだ。
「初めの武力行使が偶発的なものでないとはっきり示す必要があるからね。」
ヒミコの願いは虚しいものになりそうだ。
「駆逐艦がこちらに向っているけど、ミサイルを使用するつもりかしら。それはどんなミサイルなんだろう。」
「難民キャンプは点在する空き家を利用している。密集してはいないので砲撃を選ぶかも知れない。小型の艦対地ミサイルが使われるとしたら予想されるタイプは飛行距離二百キロ程度、速度は音速以下、弾頭に榴弾が用いられるかも。」
「二百キロ!」ヒミコは驚愕した。もしそれが新潟沖から発射されれば阿賀や西会津を越えて会津若松まで到達する能力を持っているからだ。
「それは迎撃できるわよね。」
「不可能ではない。というのは飯豊山麓に中、長距離の対空ミサイルが配備されている。しかし今回の場合では巡航ミサイルを撃墜するより艦船の発射能力を無力化する方が効率的で簡単だ。」
つまり駆逐艦を直接攻撃する手段があるというのだ。それは対艦ミサイルの使用を指すとヒミコは理解した。
「でも私はそれを命令できる立場にないわ。飛んできたミサイルを撃ち落とすのと外国の艦船を攻撃するのは訳が違う。」
アースボーイはなにも言わない。コクピットを沈黙が占めるなか装甲車は時々車内を大きく揺らしながら走り続けた。
一度ヒミコを捉えた不安はいつまでも去らない。新潟の内陸にあたる阿賀にまでミサイル攻撃があるだろうか。新潟中心部からの距離は約五十キロ。そこに国外亡命を目指す避難民の群れが発見されれば攻撃目標となる可能性は残る。
ヒミコは迷いを捨てた。輸送支援の計画を一部変える必要があるとアスカに伝えた。
「中継ポイントに決めた阿賀町は危険だわ。西会津を最初の中継地として検疫もそこで行うことにしましょう。」
「かなり強行軍となるけど大丈夫かしら。」
「休憩を取るのは彼らの自由だしその判断に任せます。ただ私たちは阿賀を中継地に指定しないということです。」
アスカは注意深く応えた。「そうね…。犠牲者を増やす可能性は避けなくちゃね。」
ヒミコは迎撃システムについても触れた。
「駆逐艦のミサイルが沿岸部を越えて県境や西会津まで届くと判断したら飯豊の基地を使用して迎撃します。無人機を発見した場合も同じです。」
「それは我が国を防衛するための当然な…行為だわ。」
アスカの語尾が震えた。
「そうならない事を願っています。」とヒミコは言い添えた。
三時間後、装甲車と松浦のバンが西会津に到着した。松浦が車を停めたのは市の郊外、旧国道四十九号線に面した建物の駐車場だった。「心臓内科クリニック」の看板が残されている。建物は無人で放置されていたらしく、古びているが外観はしっかりしていた。
あらかじめ場所を決めていたようで、松浦は着いてすぐに準備にかかった。山下夫人と二人で掃除を始める。玄関と窓、さらに二階の窓を開け放ちせっせと箒を使う。すぐに松浦が大きな箒を見つけたらしく盛んに埃を掃き出した。やがて二階の窓から赤十字が標された白い布が垂れ下げられた。ヒミコが駐車場の掃除を手伝っていると次に松浦は赤十字の旗を道路沿いに立てる。その手際の良さにヒミコは思わず声を上げた。
「松浦さん、なんだかすごく慣れてるみたい。」
松浦は微笑んだ。
「震災の時もこうやって急ごしらえの検疫所を作ったからね。」
「えっ、あの大震災のとき?」
「ギュウギュウ詰めの避難船に感染症の患者を乗せるわけにはいかないから。」
震災直後の混乱の中で松浦が活躍したのだと知ってヒミコは目頭が熱くなった。
「松浦さんはその後もずうっと日本に?」
少し遠い眼をした。「一度フィリピンに渡ったわ。両親と、妹弟たちが避難していた。私は四十代直前で妹弟のなかでいちばん年が上だったから家族をサポートするつもりだった。でもすぐここに帰って来たの。」
「何故?」
「アスカさんに懇願されたの、あなたしかいないってね。」
今度は小さく声に出して笑った。
「科学基地の勤務だった。でも後悔はしていないわ。ドクター・タケルは私の誇りだった。そしてヒミコもね。日本人ここにあり、と感じたわ。」
ヒミコは松浦に歩み寄るとその体に両腕をまわして言った。
「あなたこそ日本人の誇りだわ。」
松浦は一瞬困ったような顔を見せたがすぐに微笑んだ。
「有難うヒミコ、嬉しいわ。」
山下夫人が旗竿を手に道路端にやって来た。掲げられたのは日の丸の旗だった。夫人は折からの風ではためく国旗を満足げに見上げて二人を振り向いた。
「どう、良い考えでしょう。身が引き締まる思いがするわ。しっかりやりましょう。」
思いがけず目の当たりにした日章旗は感動的だった。二人は大いに頷いた。
「ところで日の丸はいつ準備したの?」ヒミコの疑問だった。
「村田さんが出発の間際に渡してくれたの。攻撃を避けるために車の屋根とドアに付けなさいって。竿はここの物干しのを使わせてもらったわ。ステンレス製で丈夫そうだから。」
夫人は急に不安そうな眼で二人を見た。
「村田さんが怒るんじゃないかしら。小さな日の丸は車に付けるつもりだけど…。数が足らなくなったわ。」
二人が揃って首を振った。
「村田さんは怒ったりしないわ。心配しないで。」松浦が言い添えた。
一時間後、先頭のトラックが到着した。すぐ後ろに電源車が続いている。ヒミコは村田の抜かりの無い仕事ぶりに満足した。その村田が車から飛び降りてヒミコに声を掛けた。
「お客さんたちはまだのようだな。」
ヒミコの答えを待たずにクリニックに足を運ぶ。
「これは良いや。検疫所と中継地にぴったりだ。問題はトイレだな。水はある程度用意したが、果たして使えるかな。」
首都直下型の大地震が起きたとき、東京から遠く離れた西会津でも震度六が計測されている。下水道のネットワークがダメージを受けただろうとは容易に想像できた。
「問題はダメージがどの程度か。完全に潰れていなければ使える可能性がある。阿賀野川を利用した処理場まで細々とでも流れれば短期的にはいけるだろう。」
「一度流してみましょうか。」と山下夫人が提案した。
「そうだな。試してみなくては。」
ヒミコはその結果に強い興味を抱いたが、連絡を取るべき相手が複数いた。
まず荒川陸曹長が阿賀に着くころだった。中継ポイントを西会津に変更したことを伝えた。
「西会津?」荒川は意外そうに問い返した。
「そう、西会津がより安全と考えられるわ。」
「しかし阿賀で避難民の護衛に当たれとの命令を受けている。我々はここに留まる。心配するな。しっかりした建造物を見た。それが攻撃あった場合の遮蔽物に使える。」
「阿賀に着いたのね。避難民の様子はどう?」
「途中で追い越してきた。彼らが着くまでまだ二時間はかかるだろう。いま午後の四時。明け方のミサイル攻撃から十一時間経つわけだが、彼らは五十キロの道のりを歩き続けている。そしてここから西会津までさらに二十キロある。過酷という他ない。ヒミコ、何か手立ては無いのか。」
「西会津でトラックとマイクロバスを準備している。検疫後いわきへ輸送支援する計画だ。」
「トラックをこちら迄よこしてくれ。でないと悲惨な事態も生まれかねない。」
ヒミコは瞬時に決断した。
「分かった。車両全てをそちらに向かわせる。」
「それが良いと思うぞ。それから話は変わるがヒミコに貰った装甲車が実に性能が良い。助かってる。」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。私もそこへ行こうかな。」
「トラックと装甲車か…。ヒミコは動かない方が良い。人流とトラックを優先しろ。一本道で渋滞が起これば難民たちがパニック状態になる恐れがある。」
「うん分かった。では気を付けて任務を遂行してください。」
ヒミコは国連事務所のカミヤに電話した。撤退の状況を知りたかったのだがサンドバギーで走っている最中という。
「沿岸部を避難のアナウンスで回っている。新潟事務所のスケジュールはオコト・アミン氏に聞いてくれ。」とカミヤは言った。
そのアミン氏の計画は簡潔なものだった。
「新潟事務所は十時間後、未明の二時に退避を始めます。これはNGOの各団体に通知してありますので取り残される人はいないでしょう。」
国連新潟事務所は移動手段としての車両をいくつか保有している。かといって狭い一本道で徒歩の避難民の集団と共に進むのは簡単な事ではない。車も歩く速さを余儀なくされたら西会津までかなりの時間を要するだろう。ネオソビエトのミサイル駆逐艦が日本海を南下して迫っている。ウラジオストクから新潟までの距離はおよそ八百キロ。経済速度でも二十時間で到達する。
「アミンさん、予定より二時間早く退避できませんか。それでも危険なタイミングになります。」
「分かりました、そうしましょう。時間が重要な意味を持つのですね。」
ヒミコは次いで国境なき医師団のマニエルに電話した。彼は「たった今出発するところだ。」と報せた。
「車六台に医療の器材を詰め込んだ。とりあえず西会津を目指す。ところで、アントニオとマユミの治療に取り組んでもらって感謝しています。ドローンに搭乗したチームの看護師から報告がありました。彼女は希望が持てると感じているようです。」
ヒミコは怪我人を乗せたドローンが国立病院に到着したことしか知らないが、その後何の連絡も無いのは良い兆候だと考えていたので改めてほっとした。
「道路は混雑が予想されます。多分こちらに着くのは深夜になるでしょう。気を付けて。」
「そちらで検疫を手伝えば良いのですね。」
「お願いします。その後はいわきの国立病院へ移動されるのを希望します。というのも難民の方々が国外へ亡命を願ってもそれがすぐに実現するとは限りません。五千人の人々を一旦は留置くことになりますので皆さんの力を借りて健康の維持と病気の治療に取り組みたいと思います。」
「分かりました、それが我々の目的です。」
ヒミコは村田を探した。輸送支援のトラックは県境を越え阿賀まで進んでもらうことになる。ところが村田と連絡が繋がらない。クリニックには次々と後続のトラックが到着する。ヒミコは焦った。
村田の車へ走るとやはりそこに彼の姿があった。大きなタイヤの側で誰かと話している。
「村田さん、電話に出て。」
声を掛けたヒミコの足が止まった。そこにハナエがいたからだ。
「ハナエさん、いったいどうしてここに?」
村田が遮るように言った。「悪い。インカムは運転席だ。」
ヒミコは村田の言葉を無視してハナエに質した。
「村田さんに頼んで乗せてもらったのね。一体なぜ。」
ハナエは拳を胸の前で握りしめた。
「私はアンナを探すわ。」ヒミコを説得するつもりだった。
「私は彼女を見つけなければいけないの。阿賀に、もしかするともっと先に行くつもり。」
ヒミコはハナエが友人の身を案じていると理解していたが、行動に飛躍があるようにも感じた。
「ハナエさん、あなたに出来ることがあるかしら。アンナさんは自分の意思を貫く人だわ。ご両親を迎えるまで新潟を離れないつもりなら考えは変わらないと思う。」
ヒミコは赤いセーターに身を包んで美術品のような猟銃を抱えたアンナの姿を思い浮かべた。
「考えは変わるわ。」ハナエが言った。
「ヒミコに初めて会った時の私は絶対に新潟を離れないつもりでいたわ。でも今の考えはそうじゃないのだから。」
「ハナエさん、もう止めましょう。」ヒミコは議論する気が無かった。
「あなたの言葉が正しいとしても、新潟に入れば危険だけが増えることになる。此処でアンナを待ってください。もしアンナが来なかったら私が探しに行きます。」
ハナエが突然ヒミコの手を取った。
「アンナをここに連れて来たのは私なのよ。」
ハナエの両の眼から涙が流れ落ちた。つまり彼女は責任を感じているのだ。それでもヒミコの意思は動かない。
「この先へは行かないで。」小声で伝えてハナエの背を優しく擦った。
県境を越えて阿賀に至った村田は、遥か遠くの夕闇に小さな明かりがうごめくのを見た。
「来たぞ。」
村田の声に、装甲車の投光器が路上を照らした。やがて多くの人々が明かりの中に姿を現す。五十キロの道のりを歩いた者たちだ。
荒川が拡声器で呼びかける。内容は簡潔だ。希望者はトラックに乗ることが出来る、と。ホロのついた大型トラックに小さなタラップが掛けられていた。荷台に座席は無い。物資運搬に使用した緩衝材のシートが敷かれ、少しの毛布が積んである。
人々は疲れ果てていた。タラップを両の手足を使って這うように上る。自衛隊員の一人が村田に尋ねた。
「何人乗れますか。」
「五十人ほどだ。」
村田は続けた。「西会津で検疫がある。それからいわき迄運ぶ。片道三時間、往復で六時間はかかる。マイクロバス二台を残しておくのでここから西会津へ移動する助けに使ってくれ。」
村田のトラックが出発する。クラクションが鳴り響いた。道路に避難民が溢れていたのだ。彼らは残されたトラックへよじ登った。中には疲労のあまり路上で座り込む者も少なくなかった。
荒川が拡声器を手に道路際に現れた。「トラックの進路を開けてください。さもないと行動が困難になってしまいます。冷静に。大型トラック十台が用意されています。」
ヒミコに村田から連絡が来た。三十分後に西会津に到着するという。トラックは短い間隔で約五百人を運ぶ見込みだと伝えられた。
「ヒミコも検疫を手伝ってください。」と松浦が申し出た。
「どうすればいいの?」
松浦はサーマルカメラを手渡した。体表の赤外線を検知して温度を色で可視化する装置だ。
「これを持ってトラックに上り、一人ひとり顔を映します。発熱していれば赤い光の点滅とロシア語でそれを報せてくれます。結果が分かるまで約三秒です。これを山下さんと二人で行ってください。」
「熱のある人がいたら?」
「トラックを降りてもらい、インフルエンザとコロナウイルスの検査をします。十分程度で判明します。陽性の場合、抗ウイルス薬を投与して一時間ほど様子を見ます。この他に体調不良を訴える人も車を降りてもらった方が良いでしょう。」
ヒミコは松浦の説明に逐一頷き、手中のカメラを見詰めた。
「電源を入れて私の顔を映してみて。」
ヒミコがレンズを向けるとカメラと一体のモニター画面に緑色の線で囲われた松浦の顔が映った。「体温は正常です。」と音声が告げる。「便利ね。」ヒミコは訳も無く笑顔になった。
あたりが完全に暗くなった午後六時過ぎ、トラックのヘッドライトが見えた。
「さあ頑張りましょう。」と山下夫人が力強い声を上げた。彼女は東京の大病院で働いた当時を思い出すのか活気に満ちていた。
棒状のライトを手にしたハナエが道路に走り出た。彼女の誘導で村田のトラックがクリニックの駐車場に入る。ライトが日の丸と赤十字の旗を照らした。
ヒミコは駐車場に停まった大型車に登り、幌に包まれた荷台に足を踏み入れた。人々の姿がようやく見える暗がりの中へ山下夫人が続いた。彼女はヒミコが漠然と考えた方法とは違う行動に出た。自動翻訳機能のあるスピーカーを使って避難民に呼びかけたのだ。
「熱がある人はいませんか。体調が悪い人はいませんか。」
一人が手を上げた。「熱があると思います。頭がフラフラする。」
山下夫人はその人物に近づきサーマルカメラを向けた。すぐに結果が出る。「体温は正常です。」本人が安堵したように微笑んだ。
「他に熱のある方は?」誰も申し出ない。
「体調が悪い方、気分が悪い人はいませんか。」
夫人は暫く返事を待って影のように見える人々を見渡した。
ヒミコはなるほどと納得した。少々乱暴だがこれなら早い。五百人が運ばれて来るのだ。スピード重視ということだろう。
トラックを降りて夫人が言った。
「六月だから、インフルエンザはほぼ無いでしょう。全員の体温を調べる必要は無いわ。発熱が確認された場合は検査しますけど。」
入れ替わるようにハナエがトラックに近寄った。
「アンナ、いたら返事して!」と大声で呼びかけた。
「アンナ・ウラジミール・ポポフ!いないの?」応えはない。
ハナエは押し黙って暗い道路に戻っていく。村田が運転席の窓からヒミコに告げた。「六時間後に戻る。後は頼んだぞ。」
ヒミコは手を上げてそれに答えた。
「もし熱が無くても体調の悪い人がいたら?」随分と簡単に終わったのでヒミコは不安も感じて山下夫人に尋ねた。
「その時は持病を聞くわ。気を付けなければならないのが高血圧と心不全よ。その病気のある人はトラックを降りてもらい、松浦さんに任せる。特に心臓病は投薬の種類と量がすごくデリケートなの。それ以外の病気となるとここで出来ることは無いわ。」
ハナエが赤色のライトを振っている。
「ほら次が来たわよ。」と夫人が告げた。
トラックは矢継ぎ早に到着した。二人は別れて作業することに。それでなければ捌けない。
何とか手順を終え最後尾のトラックを送り出した。ホッとする間も無く遠くに小さなライトが見えた。マイクロバスだった。乗っていたのは十数人。すぐにもう一台が続く。ドライバーは分室の職員だった。避難者を全員降ろすと「阿賀を往復する予定です。」と言い残して夜道を出発した。
ヒミコ達は建物の内部、クリニックの待合室に皆を案内した。長椅子がそのまま残されていたので都合が良かった。しかしすぐ満席になることが予想された。あとは僅かな病室、最終的には通路などで夜を過ごす事態になる。
「なるようになるわ。」ヒミコが口にすると山下夫人が「しかたが無いね…。」と応じた。
六時間後、深夜零時を過ぎた頃、トラックが西会津に戻って来た。既に避難者がクリニックから駐車場にまであふれ出ている。電源車の照らす明かりの中に五百人以上が数えられた。
「もう乗せて良いのか。」村田が聞いた。
「良いわ。もう阿賀に行く必要は無いから。」
ヒミコはふと気づいた。「村田さん、着いたら交代して寝なきゃ。」
「大丈夫。」村田が運転席を顎で差すともう一人のドライバーが軽く手を上げた。
「これから交代して貰って運転席の後ろで仮眠をとる。ヒミコ達も休まないとな。」
「安心して、もうすぐ国境なき医師団のメンバーが着くと思う。そうすれば替わって貰える。」
投光器が一部分の闇を切り裂く中、疲れ果てた人々を乗せてトラックが再び出発した。
その全てを見送ってヒミコは溜息を吐いた。ようやく千人ほどの輸送に目途がついたばかりだ。難民の数は正確に把握されていないが五千人を超えるといわれている。次にトラック隊が戻るのは六時間後、朝の七時。残された四千人の輸送には八往復しなければならず、所要時間は四十八時間だ。二昼夜つまり明後日の午前七時が最終ミッションとなる。
けれどこれは計算上そうなるだけであって、果たしてこの輸送支援を無事に終えられるかヒミコにはさっぱり分からなかった。問題はネオソビエトの駆逐艦がいつ新潟沖に到着するか、攻撃があるとしてその内容、規模はどのようなものかが事態を左右する。犠牲者を出さなくて済むか、あるいは悲惨な状況に直面するか。そのどちらも可能性があった。
ヒミコは迷いの只中にあった。もし攻撃が西会津に及べばミサイルを迎撃し無人機を撃ち落とす。ただし駆逐艦への直接攻撃は敷島総理か兄タケルの許可を得なければならない。これはアスカとの間で意思決定されている。決めかねているのは攻撃が難民に対するもので新潟沿岸部に限られた場合だ。
ロシア人の中には沿岸部から避難せずに留まる者がいるという。それには事情があるのだろうが、ヒミコには無謀としか思えなかった。攻撃がはじまれば彼等は逃げまどい、砂丘に身を隠すしかない。ハナエによればアンナは覚悟のうえで両親が新潟に到着するのを待っているのだ。
ヒミコはアンナが沿岸から動けずにいて砲撃や無人機の攻撃に晒されるのを怖れた。自分がただ傍観する間に彼女がその命を奪われたら? ヒミコは考えるのをやめた。心の中に小さな泡が無数に生まれるのを感じたからだ。彼女はそれが沸騰する直前のおのれの感情と知っていた。自重するのよ、と言い聞かせたが心の騒めきは消えない。ヒミコは考えが対艦ミサイルの使用に行きつくのを不安と怖れの中で自覚した。
ヒミコはイヤホン型のインカムを付けた。「アースボーイ、こちらに向っているネオソビエトの駆逐艦をチェックして。今どのあたりか報せて。」
ヒミコの装甲車がクリニックから四十九号線を挟んだ空き地に停まっている。アースボーイはその中だ。
「駆逐艦は佐渡島の北三百六十キロにある。夜になって速度を落としたようだ。現在の速度で進めば佐渡島に九時間後に到達、さらに一時間後に新潟沖十キロ以内まで迫ると考えられる。艦砲の有効射程距離が十五キロならば十時間後に沿岸部の大部分が射程に入る。もし艦対地ミサイルを使用する場合はその射程距離に入るのが三時間早まる。最短で六時間後だ。」
沿岸の僅かな人数にミサイルを使用するのは疑問が残る。砲撃が現実的だ。それが可能になるのは十時間後。明日の午前十時頃だ。当初の想定よりかなり遅れる。ヒミコはほんの少し気が軽くなった。カミヤに電話した。
「もう退避を始めたんでしょ。今どの辺?」
「阿賀野川の河口を渡った。これから大砂丘を迂回して内陸に向かう。UNの車両六台、サンドバギー二台だ。後方に自衛隊員が護衛で付いている。」
「ネオソビエトの駆逐艦は明日午前十時に新潟沖に到着する見込みです。そちらの移動はスムーズですか。」
カミヤの声が弾んだ。
「その時間までには全員が県境を越えられそうだ。」
ヒミコは安堵した。最悪の事態は避けられそうだ。
次いで国分寺に駆逐艦の到達時刻を告げた。彼もまた安心を覚えたようだ。
「こちらの撤収はスムーズに運んでいる。一安心てところだな。」
「徒歩の隊員もいるの?」
「いや全員が輸送用トラック一台に乗ることが出来ている。」
ヒミコは胸を撫で下ろした。自衛隊員とはいえ過酷な移動になるのではと心配したからだ。
「ただ…。」と国分寺は言った。
「国連事務所の呼びかけに関わらず少数のロシア人が沿岸部に居残るようだ。自殺行為としか思えんが自分も途中で一人を見かけた。なんだか任務を放棄して撤退するような、妙な気分だ。」
「…その人の無事を祈りましょう。それしか出来ないわ。」
ヒミコは胸中でアンナに問いかけた。
「もうそこには居ない筈よ。アンナ、そうでしょう?」
MSF(国境なき医師団)のメンバーと検疫の役割を交代して貰うとヒミコは装甲車に戻った。少しでも眠りたかった。ネオソビエトの駆逐艦がミサイル攻撃を選択した場合、それが沿岸部に届くのが明朝六時。内陸の阿賀や西会津を狙えるのがその五十分後。砲撃ならば十時で範囲は沿岸部に限定される。それを見極めなければならない。今は僅かでも眠る必要があった。
装甲車に戻ってヒミコは一瞬ギョッとした。又もスサノオをすっかり忘れていたからだ。彼は行儀よくシートに腰を下ろしていた。赤いジャージの短い袖と裾から手足が突き出ている。
「スサノオ、変わりはないかしら?」
意味も無く尋ねると眼だけが動いてヒミコを捉え、無言で頷いた。
「そう、分かったわ…。」
ヒミコは改めてスサノオの露出した肌に眼をやった。よく見ると人のそれとは違う光沢が感じられた。表面がコーティングされているようだ。それは金属のようでもあり高分子樹脂のようにも見えた。
ヒミコはその構造を説明して貰ってもたぶん理解出来ないと考えて視線をアースボーイに向けた。
「私は少し眠るわ。駆逐艦の監視を続けて。朝の六時頃にミサイルが発射されるかも知れない。着弾する地点は新潟沿岸でしょう。七時以降に発射されるミサイルは西会津まで到達する可能性があるので全て迎撃する、準備して。県境を越えて飛来した無人機は撃墜するように。」
「了解した。」アースボーイの小さな光が点滅した。
ヒミコは眠った。そして夢を見た。朝五時に目覚めたとき、それがどのようなものだったか想い描けなかった。胸苦しいモヤの中の記憶だけが残されている。
スッキリしない気分で装甲車の扉を開くと、朝の光の中に群衆がひしめいていた。駐車場と道路、空き地にも人が溢れている。ヒミコは地面に飛び降りた。もうすぐトラックが到着する時間だが、これでは人波に遮られて近づけない。クリニックの手前で方向を転換出来る場所を探す必要があった。
ヒミコが人々の中に分け入るとハナエの大きな声が聞こえた。
「アンナ、アンナ・ウラジミール・ポポフ! 返事をして。」
スピーカーを掴んだハナエは眼を真っ赤にしていた。寝ていないのだろう。ヒミコはハナエの手を取った。
「ハナエさん、トラックが来るんだけどこのままでは彼らを乗せるのが難しい。私が適当な場所を見つけるのでそれまでここを動かないで貰いたいの。どんどん先に進んじゃうとトラックも人も動けなくなってしまうわ。」
ヒミコは左右の拳を胸の前でぶつけてみせた。「群衆とトラック十台が一本道で動けなくなったら大変。」
ハナエはボンヤリした表情で聞いていたが直ぐにその意味に気付いたようだった。スピーカーを持ち上げて辺りに呼びかけた。
「私はハナエ。ミハイル・ドミトリー・クズネツォフの妻です。日本政府の輸送トラックが来ます。道を遮るとトラックが方向を変えられず困ったことになります。今は移動しないでください。協力を願います。」
ハナエは周りを見渡して言った。「ミハイルも私たちも、独裁者がどんな汚い手を使っても決して負けない。敗北するのは彼らです。」
周囲から賛意と拍手が聞こえた。ハナエは繰り返した。
「今は動かないでください。その場にいてください。」
ヒミコがハナエの腕を掴んで装甲車へ歩んだ。
「アンナが、アンナがいないの。」ハナエが悲しそうに訴えた。ヒミコはただ頷いて装甲車のコクピットにハナエを押し上げた。
「アースボーイ、彼女を寝かせてあげて。」
ヒミコは村田に連絡した。人々が溢れている状況を報せねばならない。
「村田さん、いまどこ?」
「三十分後には着く。」
「こちらは駐車場も道路も避難者だらけよ。その辺りでトラックの待機と方向転換、離合など可能な場所を見つけて。でないと輸送支援は立ち往生しちゃうわ。」
「突然だな…。まあ何とかするよ。」
「有難う。」
ヒミコは四十九号線を新潟方向へ歩いた。避難民と逆方向に進むにつれて人影が疎らになる。予想した通りUNHCRの車列はそこにあった。ヒミコが高く腕を伸ばすとすぐに一台の車が停まった。
「ヒミコさん、ありがとうございます。」
オコト・アミン氏だった。
「困難なミッションを成し遂げました。あなたに感謝します。」
「こちらこそあなた方の努力に敬意を表します。」ヒミコは大人びた言い方を身に付けたようだった。しかしその口を塞ぐ人間ではなかった。
「ところであなたはアンナをご存知かしら。彼女は沿岸に残っているのでしょうか。」
国連の保護官は無言でヒミコを見詰めた。それからゆっくり首を振って応えた。
「カミヤ氏によると彼女は説得に耳を貸さなかったようです。」
「カミヤさんは結局アンナを見捨てたの?」
「違う、と思います。」アミンは掌を胸の前で小刻みに振った。
「彼女はもし自分がここを去れば、両親は殺されてしまうと言ったそうです。だから残ると。カミヤさんは彼女の決心が変わらないと受け止めました。」
アンナの決意は変わらない、それはヒミコがハナエに向って口にしたことだった。
「彼女の無事を祈りましょう。」とアミンが言った。それもまたヒミコが国分寺陸尉に伝えた言葉と同じだった。ヒミコは悄然とうなだれた。唇が震えた。絶望に追い込まれたハナエの心を知らされたように思えた。
午前六時、ヒミコはアースボーイに尋ねた。
「駆逐艦の位置は?」
「佐渡島の北、約百五十キロ。ミサイルは発射されていない。」
「了解。ハナエさんはどうしてる?」
「眠っている。」
「そのままにしてあげて。」
次にヒミコは国分寺に連絡した。「いまどこ?」
「阿賀の付近だ。」
「ネオソビエトの駆逐艦は佐渡島の北、百五十キロ。阿賀は一時間後にミサイルの射程に入るわ。…荒川さんは?」
「陸曹長と小隊のトラックは先発した。そろそろ県境にさしかかる頃だ。」
「国分寺さんも早めに移動してください。」
「うむ。もう少し様子を見る。遅れて避難する人間がいないとも限らない。」それから調子をあらためた。
「ヒミコ有難う。この車は古くて衛星通信もセンサーもろくに付いていない。情報をありがとよ。」
それが国分寺と交わした最後の言葉になった。
ヒミコはクリニックに戻った。何か手伝うことはないかと松浦を探したがその姿が見えない。山下夫人もいない。階段に身を横たえた者を気遣いながら二階に上がった。病室の壁に身を持たせた避難者の一人がパンを手に寝息を立てていた。食べるつもりでも疲れが勝ったのだろう。二人の姿はない。
ヒミコは松浦がバンの中だと悟った。赤十字の標された車に向った。松浦は運転席に、山下夫人は後部室の長椅子で眠っている。ヒミコはそっと車を離れた。
午前十時、駆逐艦による砲撃が始まったとアースボーイが報せた。目標が沿岸部の建物に限られているという。ヒミコはMSFの関係者とコミュニケーションを取っていたのだが急いで装甲車に戻った。
「砲撃の映像がある?」
ディスプレーにそれが映し出された。新潟市沿岸の建物に次々と砲弾が炸裂し黒煙が上がる。ヒミコはそれを見詰めた。無意識のうちにアンナが潜んでいたフェリーの建物がそこに映っていないか探した。けれど衛星からの画像では詳しくは分からない。
砲撃は執拗に続いた。眉を顰めていたヒミコだったが、画面に小さなバグのような物を見つけた。
「何かある。」
アースボーイが画面を操作する。一部を拡大した。
「無人機が映っている。」
「無人機? いったい何処の?」
「少し待って。こちらで調べる。」アースボーイが応える。
ヒミコは首を傾げた。砲撃に無人機を加える意味が理解できない。
「識別信号は無い。ネオソビエトの無人機と思われる。これは多分プロパガンダ用の映像を撮影するためのものだ。」
「なるほど。」ヒミコは納得した。ネオソビエト政府がウラジオストクのテロ事件に厳しく反撃したと印象付ける映像を世界に配信するのだろう。同時にそれは独裁政権に反対する者たちにテロリスト集団の烙印を押すことになる。
ヒミコはコクピットの後部に眼をやった。ハナエが死んだように眠りこけている。彼女の夫、ミハイルは何処に潜み、この状況をどう受け止めているのか。
駆逐艦の砲撃は海岸線に点在する建物の多くを破壊した。黒煙と炎がいたる所で立ち上っている。
「砲撃はひとまず終わったようだ。」とアースボーイが告げた。
「駆逐艦はゆっくり移動して佐渡島へ向かっている。」
「佐渡島は何の為に?」
「水の補給かな。その後、新潟沿岸に留まるかウラジオストクの軍港を目指すのか今は分からない。」
アスカから悲鳴に似た連絡が入った。千人の避難民に対応が追い付かないのだ。その数はこの後も増え続ける。
「UNHCRのスタッフを早くこちらへ向かわせてください。人手が全然足らないし、亡命の希望にどう対処するかスペックにも迷ってしまう。とにかく彼らが最優先で移動できるようにしてください。」
ヒミコがカミヤに尋ねたところ西会津から先でも車両が支障なく通れるという。
「いわきへ急いでください。アスカさんが困っています。」と告げるとカミヤは「スタッフの一部を先着させればよかったな。」とこぼしたがヒミコにとっては今更の話だった。
「サンドバギーの小型車とバギーバイクを置いていく。砂丘に出かけるときは使ってくれ。」とカミヤが言い足した。
ヒミコは装甲車を降りて松浦の車に向った。彼女は車外にいて腰を曲げたり首を左右に動かしていた。たった今目覚めたようだ。
「大丈夫?」と声を掛けてヒミコが言った。「私、お腹が空いた。何かあると嬉しいけど。」
松浦は微笑した。「あるわよ。」
後部のドアを開くと車体の壁に沿って長椅子が取り付けられている。これは搬送時にはベッドにもなる物だ。車内には薬品の保管庫、診療器具や装備品を詰めた箱が幾つも並べられていた。ドアの音で山下夫人がその長椅子で身を起こした。
「おはよう。」挨拶を交わす。夫人の声がしゃがれていた。
松浦はヒミコらを長椅子に座らせて大きなバッグを取り出した。向かい合ってそれを開ける。ヒミコが歓声を上げた。バッグにはゼリー飲料のスパウトパウチが詰まっていた。
「ご飯もあるのよ。」
怪訝な表情を見せたヒミコに松浦が説明した。
「水も火も要らないの。フィリピンに移転した日本の会社が製造してる非常食よ。食べてみる?」
「食べる!」二人揃って声を上げた。
袋を開けるとしっとりとした柔らかな白米が入っていた。パウチの開け口に小袋がついている。ふりかけだった。
「梅干しの味がする。」
「こちらは鮭よ。」
三人は無心で口に運んだ。胃に食物が入る、それだけで幸せな気分になった。
ヒミコは松浦に袋を借りてパウチを詰めた。ハナエに届けるつもりだった。それを肩に車を降りるとアースボーイから緊急の通信があった。
「西北西から無人機が時速六百キロで接近している。識別信号なし。撃墜する。」
「了解した。」
装甲車のルーフが開いて迎撃用小型ミサイルの発射装置がせり出す。次の瞬間、白煙を噴き出してミサイルが発射された。ミサイルの長さは七十センチ、重さは四・五キロ。射程距離は短いが固形燃料を用いたロケットエンジンを推進力とし、正確無比な追尾装置を搭載している。発射されたらターゲットを確実に破壊する。
「西北西?」無人機は意外な方向から迫っている。駆逐艦が無人機を発射したのか。だとすれば最短距離で狙うだろう。飛んでくる方角が違う。ヒミコは追い詰められた気分で考えた。無人機を使用する別の者がいる。それは上越を拠点とする武装集団なのか。これまで彼らによる無人機の攻撃が無かった。つまりニセ旗作戦を睨んでごく最近に供与されたと考えるのが妥当なのか。
その西北西の空で爆発が起きた。ヒミコやクリニックに集まる人々が音の方向を見上げると黒煙が大きく広がって、小さな破片が幾つも煙の尾を引いて落ちていく。人々にどよめきが生れた。
ヒミコは装甲車に駆け寄りコクピットに飛び乗った。ハナエが眼を覚まし起き上がろうともがいた。
「無人機を迎撃したのね。」ヒミコがアースボーイに質した。
「迎撃は成功したよ。」
「他には見えない?」
「レーダーは他の無人機を捉えていない。」
ヒミコはひとまず安堵して、抱えた袋をハナエに手渡した。
「これを食べて。松浦さんからよ。」と言い添えた。
ヒミコは直ぐ外に出て「無人機を迎撃した。」と周りの避難民に伝えた。この爆発で人々がパニックに陥らないか心配したがそれは無かった。ヒミコは周囲の落ち着いた反応に何処か納得できるものがあった。彼らは独裁政権に抗う者たちなのだ。
激しかった動悸が徐々に治まるヒミコに、荒川から衝撃的な連絡が届いた。国分寺陸尉の装甲車と通信が途絶したというのだ。ヒミコはコクピットに取って返し、衛星の画像を調べた。車両のGPS信号が拾えないため阿賀地域を分割した映像を総当たりで拡大する。
車両の位置情報が消えていることがヒミコを不安にし、その悪い予感は的中した。四十九号線に面した学校跡の出入り口に黒く焦げた車両の残骸が見えた。これまでの映像には無かったものだ。
「荒川さん、道路に接した学校の跡地があったでしょう。そこに壊れた車両が映っているわ。画像を拡大してもハッキリしない。」
「わかった。そこを中心に調べる。」
「気をつけてね。」
簡単なやり取りは表面上で、ヒミコは胸が潰れそうな感情に襲われていた。車両の残骸は国分寺陸尉の装甲車と強く疑われた。五時間前に言葉を交わしたばかりだ。ヒミコは両手で顔を覆った。
心の奥で黒焦げの車両が国分寺隊と無関係だと思いたかった。その可能性は否定できない。阿賀に向けてミサイルが発射されていればアースボーイのレーダーが感知したはずだからだ。しかし国分寺との連絡が途絶した事実がある。
ヒミコには分かっていることがある。荒川隊は国分寺隊を除けば避難民の最後尾に近い県境に位置している。阿賀から十キロの距離だ。捜索の結果は二十分後に明らかになるのだ。
「国分寺さん、無事が確認出来ないの?」
ハナエが緊張した声を上げた。
「通信が出来ていないの。」
ヒミコの返答にハナエは黙り込んだ。しかしすぐに「カミヤさんが何処か知らない?」と尋ねた。眼に決意のようなものが浮かんでいた。
「カミヤさんはいわき方面に向かったわ。一時間ほど前よ。」
ハナエがドアから飛び降りた。カミヤの去った方角へ走って行く。ヒミコは彼女の心中が推測できた。新潟へ行くつもりなのだ。
ヒミコが路上に仁王立ちになって待ち受けると、けたたましい音を響かせてバギーカーが近づいて来た。三人が乗れる大型バギーだ。排気量は千CCくらいか。フロントガラスと太いロールバー、覆いの無いオープンタイプだ。
「そこを退いて。」車上からハナエが苛立たしそうに叫んだ。ヒミコは動かない。
「アンナを探すわ。」
ヒミコが口を開いた。「私も一緒に行く。だから少し待って。」
意外そうな面持ちのハナエに、ヒミコは防弾着とヘルメットを手渡し、自身もそれを手早く身に着けた。
「これは最低限の装備よ。」
言いながらヒミコはハナエが正しく身に着けているか手で揺すぶってチェックした。
「私が運転するわ。」ヒミコが宣言してハンドルの前に座った。ダッシュボードにゴーグルが幾つか収められているのを確認する。ハナエが受け取った袋がそのまま積まれていた。ヒミコはファスナーを下ろしパウチと水が入っているのを確かめた。
ハナエはヒミコの胸に下げられた大型拳銃に視線を注いだ。
「私に拳銃は無いの?」
「ハナエさん。」ヒミコは見詰めた。
「危険を感じたら私たちは逃げるのよ。とにかく逃げる。母親だということを忘れないで。」
ハナエは無言で頷いた。
バギーカーが峠を下っていく。新潟に入ったのだ。バギーは固い路面には向かない。タイヤが音を立て車体が揺れる。ヒミコは緊張が高まるのを感じていた。やがて映像にあった学校の跡地に着くだろう。ヒミコの脳裏に細い眼をした国分寺の顔が浮かんだ。思い過ごしであって欲しいと改めて強く願った。
「誰か来る。」突然ハナエが叫んだ。
「えっ?」
「後ろよ、私たちを追って来たみたい。」
振り向くと、バギーバイクが追走してくる。目を凝らしたヒミコが呻くように呟いた。
「スサノオだわ…。いったいどうして。」
バギーカーの隣に側車付きのバイクが並んで停止した。
「一体何の御用かしら。」ヒミコが問いかけた。
「僕はヒミコを守る為に来た。」
「あら有難う、でもどうやって?」
つんつるてんの赤いジャージ姿のスサノオは武器らしいものを一切持っていない。
「僕の能力を使って君たちを守る。」
「能力?」
ヒミコは後悔した。スサノオに意地悪く接する必要は何処にもないのだ。彼について説明をしてくれなかったのは兄タケルで、スサノオに責任があるわけでは無かった。
「御免なさい。あなたの事も、その能力の事もドクター・タケルから説明されていないの。私は何も知らないでいるわ。」
スサノオは静かな声で言った。
「言葉で説明するのは難しい。その時になれば分かるよ。安心して良い。」
「そう…。いいわ、従いて来て。」
安心する気になれないヒミコだった。
荒川隊の装甲車は遠くから目に付いた。路上に数人の隊員の姿がある。ヒミコの心臓が激しく胸を叩いた。彼らは学校の敷地を向いて整列していた。車両の残骸が視野に飛び込む。残された一部からでも偵察用装甲車と視ることが出来た。
バギーカーを飛び降りたヒミコに荒川が告げた。「国分寺陸尉の装甲車だ。隊員五名の死亡が確認された。遺体の収容が今は出来ない。」
荒川は腕を伸ばし、掌を開いて小さな数枚の金属片をヒミコに見せた。黒く変色している。
「陸尉殿と隊員の認識票だ。」短く説明して体の向きを変え、整列する隊員に号令した。
「国分寺陸尉殿並びに隊員四名の冥福を祈る。敬礼!」
その場の全員が直立し敬礼した。
やや間をおいて荒川が彼の疑問を口にした。「車両の周囲に着弾の跡がない。ピンポイントで狙われたとすればホーミングミサイルが使用されたと思われるが偵察用装甲車一台にそんな仰々しい物を使うだろうか。そうは思えん。」
ヒミコが無意識に車両に歩み寄ろうとした。国分寺が中に閉じ込められているのだと考えると悲しかった。
「止めておけ。」と荒川が制止した。
「装甲が破られたんだ。一瞬で数千度の炎に襲われる。見るな。」
ヒミコの両足がその場に凍り付いた。
荒川が車両に向って合掌した。暫く頭を垂れていたがふと気付いて訊いた。
「何処へ行くのか。」
「沿岸の方へ行く。人を探しに。」アンナの潜伏場所は国分寺が知っていたと思われたが彼はもういない。
「我々はここの捜索を続ける。俺は装甲車が携行型の無反動対戦車誘導弾でやられたと推理している。とすれば近くに歩兵隊の痕跡がある筈だ。必ず見つけてやる。弔い合戦だ。」
「気を付けてね。」
「ヒミコもな。探す場所は決まってるんだろう? そこに居なければすぐに取って返せ。長居は無用だぞ。」
ヒミコは黙って頷いた。
阿賀から一時間、川沿いの旧国道は砂の中に消えていた。バギーが真価を発揮する時だ。二台は砂煙を上げてばく進した。やがて行く手を巨大な砂丘が阻む。それを迂回するために北東へ進路を取って一キロほど進むと砂丘に挟まれた谷が現れる。そこから日本海を目指すのだ。だが目的地は何処なのか?
ハナエがしきりに電話をいじっている。繋がる様子がない。ハナエはヒミコに悲し気に首を振った。たとえアンナの所在が分かっても彼女は説得に耳を貸さないだろう、とヒミコは考えていた。ハナエが諦め子供たちの許へ帰ることになればそれでいい。ヒミコの本心だった。
砂の谷は風の通り道となっていた。飄々と耳に鳴り砂を煙のように走らせる。ヒミコたちはゴーグルを着けタオルやハンカチで口と鼻を覆った。人間の息苦しさに関係なくバギーは快調に駆ける。
谷を抜ける辺りでヒミコが突然、車を停めた。遠くの砂の斜面に何かを見つけたのだ。バギーの向きを変え、砂丘の裾を東に走らせる。ヒミコが前方を指差した。砂の中から小豆色の布が垂れさがり、頂上から吹き降ろす風にはためいていた。
ヒミコが車を飛び降りた。数歩進んで立ち止まる。足元に黒い箱のようなものが落ちていた。折からの風が箱の上の白い砂を吹き飛ばすと黒い表紙が捲れ、それに続くページがパラパラと目の前で動いた。聖書だ。
「ああ…。」ヒミコの口から呻き声が漏れた。
ヒミコは布が見える場所に駆け寄り、砂を両手で掻き分けた。埋もれていたのは老人の遺体だった。
「おじいさん! クーニン…!」
ヒミコは老人の顔から優しく砂を払った。「いったい何があったの?」独り言のように問いかけた。
ハナエが近づいて言った。「知り合いなの?病気だったのかしら。」
ヒミコは小豆色の衣服を確かめた。胸を開くと黒い血が砂の塊を作っている。払いのけると弾痕が明らかになった。
「おじいさんは殺されたのよ!」
ヒミコの感情は激しく乱れた。いったい誰が何のために老人を射殺したのか。スサノオが黒い聖書を拾い上げて言った。「彼の為に祈ろう…。」
その直後、悲鳴に似た叫びと凄まじい喊声が頭上に響いた。驚いて見上げると砂丘の稜線に数十台のバギーバイクが並んでいた。息を呑んだ次の瞬間、一斉に駆け下りて来る。呆然としたヒミコは慌ててバギーカーへ走った。その行く手を一人の男が塞いだ。男はバイクの上で自動小銃を振り上げ、いきなり空に向けて乱射した。思わず悲鳴を上げたヒミコとハナエはその場にしゃがみ込んでしまった。
バイクの集団がヒミコ達を取り囲んだ。奇声と馬鹿笑いの中、数人が小銃を掴んだ手を天に突き上げた。ヒミコは震えながら彼らを見渡した。まとまりのない雑多な服装をしている。革のベストからむき出しの腕を派手なタトゥーで埋めた者、軍人のような迷彩服姿の者、ゴーグルとマスクの隙間から傷だらけの顔を覘かせた男は下着に短パンだ。Tシャツとジーンズのありふれた格好の者でも、凶悪で暴力的な空気を発散している。
ちぐはぐな印象は他にもあった。カッターシャツの胸をだらしなく開いた男のパンツに、ヨーロッパブランドのベルトがきっちりと着けられている。崩れた格好をしながら何処か会社員か公務員のような几帳面な性格が覗えた。ヒミコはその瞬間に理解した。つまりこのグループはネオソビエトの公安関係者と国を追われた犯罪者、あるいは公安と取引した服役犯で成り立っているのではないか? 長らく新潟に居座る武装集団の正体を見た思いだった。
一人の男がヒミコの考えを断ち切る衝撃の行動に出た。いきなり拳銃を撃ったのだ。銃弾はスサノオに命中し赤いジャージを引き裂いた。その場に倒れ込むスサノオ。ヒミコは驚愕の余り頭が真っ白になった。
発砲した男が乱杭歯を見せて笑い、カッターシャツの人物を伺い見た。カッターシャツが無表情に頷くと、男は再びスサノオに銃口を向け、立て続けに数発を撃ち込んだ。
「止めてっ!」ヒミコが全身を震わせて叫んだ。
「慌てるな、まだお前たちは殺さねえ。」
乱杭歯は興奮と欲情に眼をぎらつかせて言った。
「たっぷり楽しませて貰うぜ。そうだろう、みんな。」
男たちは騒がしく奇声を上げ卑猥な言葉を叫んだ。「殺すのは俺だ。」遠くから声が聞こえた。すかさず誰かが「インポ野郎はすっこんでな。」と投げ返した。下卑た笑いが沸き起こった。
ヒミコは胸の拳銃に手を伸ばした。乱杭歯とカッターシャツを道連れにしてやると悲愴な決意を抱いた。
「おい!」乱杭歯が野太い声を浴びせた。
「死にたいか?」銃口をピタリとヒミコに向けていた。
「公安の犬め!」ハナエが突然わきから叫んだ。
「おやおや、死にたい奴が増えたぞ。」
乱杭歯は砂に唾を吐いて言った。
「お前たちが生きていようが死んでいようが俺たちは楽しませて貰うぜ。…たっぷりとな。」
悔し涙がヒミコの頬を伝った。拳銃に手を伸ばした。ここで死ぬのだろうと絶望の中で悟った。
その時、誰かがヒミコと男たちの間に立ちはだかった。赤いジャージの背が眼に入った。
「スサノオ?」ヒミコは声にならない問いを投げた。
乱杭歯は信じられない様子で赤い服の若者を見詰めた。確実に殺した筈だった。蒼い眼をいっぱいに見開いて首を大きく傾けた。
(つづく)




