表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無解決探偵って需要ありますか?  作者: わゆ
【4章】According to
21/21

According to 4-3

「それでは――」

 いつもふざけた表情の多い匁流君が真剣さを帯びた視線を私へ向けて語り出す。エアコンの稼働音が少しずつ闇に溶けてロウソクの灯火の淡さに滲む。


 ヒメちゃんに習って俺もネットから拾った話です。

 突然ですが記憶について考えたことはありますか。


 人間の記憶とはそもそもなんでしょうか――物体ですか?液体ですか?気体ですか?概念ですか?空想ですか?両の手で掴めますか?浮いていますか?地面に転がっていますか?質量の有無は?みなさんは記憶を記憶であると言い切れますか?


 記憶とは――自己を形成する為の過去の経験や情報を蓄積させる機能であり、その積み上げた膨大な情報量はその人の性格や人間性にも大きく影響を与えています。それはつまり、記憶があるから自分自身を認識出来て自覚することにも繋がります。昨日の夕飯を思い出せなかったり、先週遊んだ友達とのことがやけに脳に焼き付いていたり、嫌なことばかりいつまでも覚えていたり、遠い昔の霞んだ思い出はなんとなく美化されて覚えていたり――その一つ一つが自分を構築する重要な要素で、忘れていることすらその人の今を作り出す大切なピースになっています。覚えていることも忘れていることも全てが全てその人の存在証明でもあり、翌朝目覚めたら無意識に自己だと理解して当たり前のように日々を送ることが出来るのです。


 記憶の定義としては、自己の経験が保存され後になって意識や行為の中に想起される現象などとされています。その過程は、外界からの刺激を脳が情報として受け取り神経細胞であるニューロンがシナプスを介して繋がったネットワークで伝達され、海馬や側頭葉が関与して定着します。つまりは、目、耳、鼻、皮膚などの感覚器から取り込んだ情報を脳が保持し意識や行為に再生する一連の機能を指しており、人間が生まれ持って得た情報の保存処理機能です。有名な3要素としては、記銘(覚えること)、保持(貯蔵)、想起(思い出すこと)になりますが、そこに忘却(忘れること)を追加することで記憶のサイクルが回ります。


 質量はなく目には見えず触れられもしない実体のない定義上の産物ですが、ある程度の高度な知性を有する生物には必ず存在する脳の機能であり、その優劣が人間社会において特に意味を持っています。十全に発揮出来れば成果を上げやすくその逆も然り――記憶の使い方の得手不得手はとても大切な能力の格差となります。


 記憶には時間的分類があり、数秒程度の短期的なものは感覚記憶、数分程度は短期記憶、一ヶ月程度は中期記憶、それ以上は長期記憶となり、長いものほど忘れずに記憶に残っています。中長期記憶の容量は殆ど際限はないにも関わらず感覚短期記憶には容量の限度があると言う学者もおり、心理学者のミラーが発見したマジカル・ナンバー7現象は、ランダムな数字や単語を用いた暗記問題でその暗記率がおおよそ5〜9つが平均になるという現象です。その真偽は不明ですが、短期的な記憶には個人差はあまり出ないということであり、つまりはどれだけ中長期記憶に情報を蓄えるかが個人差になるということでもあります。


 では、短期記憶をどうやって長期的な記憶へと変換すれば良いのか――脳にある海馬という部位で短期記憶は一度保存されます。そこから相応しいと判断された情報だけが長期記憶として保存されていきます。謂わば海馬は記憶の門番の役割を担っています。生物として不可欠なものほど優先的に長期記憶へ変換されていくのが基本的な流れですが、学校の勉強や仕事の手法などは一定期間内に復習を繰り返すことで長期記憶へと変換されていきます。その逆で一定期間内に定期的な復習をしない場合は脳が重要な記憶ではないと判断し優先的に忘れていきます――エビングハウスの忘却曲線という実験をご存知でしょうか?こちらは記憶の忘却についての実験なのですが、人は情報を覚えた瞬間から忘れ始め20分後には覚えたことの約4割忘れているという結果が出ています。ただ、体系立てて覚える学問やストーリー性がある情報であれば記憶保持率の低下はより緩やかになるという結果も出ています。一夜漬けで記憶がなかなか定着しないのは覚えた瞬間から忘れていくのが理由です。また、大学の研究では、授業を受けたその次の日までになにも復習しなかったら学んだことの約50〜80%が失われるというデータも出ており、どちらの研究実験においても一定期間内での復習が記憶の定着には重要であると言わざるを得ません。この研究では、授業を受けた24時間以内に10分の復習、1週間後に5分の復習、1ヶ月以内に5分前後の復習することにより、当初覚えた授業の内容が長期記憶になっていくようです。


 長期記憶にもいくつか種類があり、年号や用語、英単語などの知識として覚える意味記憶、自己の経験と結び付けて覚えるエピソード記憶、運動や所作など反復練習により身体に覚え込ませる手続き記憶などがあります。基本的には手続き記憶が一番忘れにくいと言われており、意味記憶は長期記憶に分類されていますが定期的な復習を行わないと忘れやすい特徴があり、なんでもかんでも覚えたら永久的に記憶の中に収納され続ける訳ではないのが分かったと思います。


 そんな中、世界には特別な記憶の機能や能力を有した人間も存在しています。まずはフォトグラフィック・メモリー(写真記憶)――言葉の通り、写真を撮るように瞬時に物事を映像として記憶する能力です。記憶のプロセスである記銘、保持、想起の段階を介さずに過去の情報を脳内で鮮明に見ることが可能です。幼少期の一部でそれに似た能力を有することがありますが、その殆どは成長するにつれ失われていきます。人口としては数万人に1人の確率と言われているレアな能力です。次はより稀少性のある完全記憶能力――超記憶症候群(ハイパーサイメスティック・シンドローム)と呼ばれ、過去の情報を一瞬にして詳細まで鮮明に記憶します。人生の殆どを記憶して即座に思い出せるこの能力は、世界で約80名ほどしかいないと言われている稀有なものです。有名なこの2つの能力ですが、健常者よりもサヴァン症候群を始めとした障害を抱えた者に発現されるケースが多いのが特徴で、現在も因果関係の研究が行われています。


 研究の余地が多分に含まれている記憶やそれにまつわる特殊な技能ですが、もしも科学的に再現して運用出来るとしたらどうでしょう――完全な記憶を自由に扱える権利を手に入れたら、あなたは誰になるのでしょうか。


 世界ではBCI(ブレイン・コンピューター・インターフェイス)への投資や研究が日々行われています。こちらはHBIやBMIなどと呼ばれることもありますが、総じて脳と信号を繋げる役割を持った機器であり体に装着するインターフェイスを指しています。電極やセンサーを頭部に直接埋め込み脳の活動状態を詳細に計測出来るが利用者への負担も多い侵襲式、磁気や光を使って脳内の信号や活動状況を外部から計測可能で負担を減らせるものの詳細さには欠ける非侵襲式の2方式に現状分けられています。どちらも手足の不自由や外部とのコミュニケーションが厳しい傷病者に対して1970年代から研究が進められていて、視線だけでパソコンを操作したり、思考のみで義手であるロボットアームを動かしたりと進歩を続けており、昨今では侵襲式のBCIへ無線でデータの送信をすることにも成功しています。


 BCIは思考そのものを読み取るのではなく、神経組織を流れる電気信号や血流などの活動パターンを読み取り判断している為、活動パターンの分析と学習を繰り返して具体的な操作に翻訳する必要があるのですが、AIを組み込むことで飛躍的な成果をもたらすことが出来ています。例えば、脳の活動パターンから思考している言葉(フレーズ)を翻訳することにも成功しています。このようにAI技術を活用しながら日々発展しているBCIですが、現在では記憶領域に紐付けた研究が盛んに進められています。


 考えたことはありませんか――先生の書いた黒板の内容や教科書を一度見ただけで完璧に覚えたい、ふっかつのじゅもんをメモに書き間違えてプレイデータを紛失させたくない、忘れ物をなくしたい、人の顔と名前を瞬時に覚えたい、言った言わないの水掛け論を避けたい、大事や話を聞いただけで一言一句覚えておきたいなど……日々の生活や仕事で当然のように溢れている一時的でも長期的でも記憶に留めておきたいアレコレ。これらをスマホや他の外部機器やツールを使用せずに自由に保存や書き換えが出来たら……パソコンに新しいフォルダを作成してファイルを自由に出し入れするようなことが人間の脳でも出来たらどれだけ楽だろうと。ほんの一握りの稀有な能力者だけではなく、万人が平等に完全な記憶を手に入れられたら――そんな夢物語のような技術を本気で実現させるべく世界では既に動き出しています。


 その方法とは――"記憶のデータ化"と"クラウド同期及びその運用"。言葉の通り、記憶を全てデータ化することにより可視化してクラウドという膨大なネットワークの海で保管する。人々はメモ書きや脳だけで記憶するという不安定で非効率な旧時代的な手法を終えて、いつでも可視化されたデータとなった記憶を閲覧して自由に想起が可能となる世界。そして――その先に広がる双方間での記憶の送受信による意思や情報共有。人類の叡智は人間という生物の限界を超えた新しい世界を創造していく――従来の生活は一変するでしょう。


 社会が劇変されれば現在の立法・行政・司法の在り方も大きな変更を余儀なくされ経済も新しく生まれ変わります。また、医療分野では認知症や記憶喪失を含めた記憶障害への克服が容易になり治療範囲が大幅に広がり、教育分野では学習指導要領から全てが覆り学校や塾の存在意義が崩壊します。記憶分野での個人間の優劣はなくなり、年齢や性別問わず社会進出や社会貢献の可能性が広がる世界へ突入します。もう少しミクロな分野で言えば、個人間のコミュニケーション方法も大幅に変わり、専門的な技術や知識の伝達や継承は先人のデータを自身の脳へとインストールするだけで解決され、今までは個人の才能や努力量に依存されてきたものが世界中の人々の膨大な記憶データからダウンロード出来れば人間関係の構築がよりスムーズになります。Aさんの数年前の記憶の一端をダウンロードして仕事に役立てたり、Bさんへ自身の記憶をシェアして救援したり、必要に応じて記憶データの共有や送受信を可能にすることにより、格差がなくなり明るい未来を全人類一緒になって歩むことが出来るはずです。


 現在では、とあるSNSサービスの利用者の投稿内容をビッグデータに集約してマーケティングに転換させて満足度を高めたり、潜在意識へ語りかけて行動指針を示したり、動画メディアやネット検索において独学では届かない情報が簡単に取得出来るようになったりと、外部ツールを活用することにより世界中の人々の知識や情報を得ることが可能になっています。これがBCIを装着することにより体の一部として順応していき手足等の不自由がない人々でもトランスヒューマニズムに近い体験を得ることが出来ます。情報の処理が追い付かなければ搭載されているAIが自身に合う形で日々学習していくので、より的確で理想的なサポートを受けることも可能です。


 知りたい情報も得たい技能もアレもコレも瞬時に脳へとインプットされる世界では、今までただの理想で違う世界の人物と諦めていた存在だけが持ち得た思想・知識・理論を自身が有することが可能で、平等で格差のない社会が誕生します。なりたい人物像に手が届く――個性という差別的な区別や言い訳のない素敵な世界が広がるでしょう。

 

 "記憶のシェアリングサービス"が全世界へと拡張された新たな社会はすぐ近くまできています。近代の貨幣経済から評価経済を経て、そして――誰でも天才になれる電脳共生社会へ。

 

 実用化に向けて躍進している企業は既にいくつか存在しており、その中でも業界では名の知れた研究者たちがとある目的の為に起業しています。その目的とは――"人類のバックアップ"。写真や映像メディアではなく、対象者の存在そのものを"永遠の存在記録"としてクラウドへ同期して、AI搭載のヒト型ロボットやそれに類する機器へ移植させること。


 その企業は着実に成果を上げ続けて会社の規模や利益も比例して増大していた矢先、突然廃業となり技術の一部や人材は散り散りになってしまいました。それは何故か……根幹設計や理論を有していた代表夫婦が殺されてしまったからです。


 その夫婦がいないことには研究が進まず立ち行かなくなり様々な事業や研究が頓挫してしまったそうです。それを傍から見ていた複数社で支援という名の略奪合戦が始まり完全に崩壊したというお話。


 最後に付け加えると、志半ばでこの世を去った二人の記憶や思想の断片が、今日もどこかで誰かによって話されているでしょう……なんとも皮肉な話です。

 

 ――あなたは完全な記憶で誰になりたいですか?

次話は16日7:00に投稿予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ