合格祈願の御守り
放課後帰りの私は、病室の扉を開ける。
室内は大きめの窓が少しだけ開いていて、そこから風が吹き込んでくる。カーテンがゆらゆらと揺れるのに合わせ、髪も靡く。
机の上には、いつしか私が持ってきていたマリーゴールドの花が、花瓶に一輪挿さっている。
そんな室内には、いつものように本を読んでいる彼が居た。
「…今日もお見舞いに来てくれたの?」
ベッドに座っている彼は本を閉じ、私に向けてそう尋ねた。私は「うん」と言って、こくりと頷く。
「いつもありがとね。でも、君ももう中学三年生…受験生でしょ?僕のお見舞いに時間を使ってる暇も惜しいんじゃ…」
その問いに、私は返す。
「確かに、そうだけど…私は心配で…」
私は目的語の無い、曖昧な回答をした。
そんな私に、彼は意地悪をする。
「へえ〜…そんなに受験が心配なんだ?」
「…違うって、分かって言ってるでしょ」
私は少しだけ、顔が熱くなるのを感じながら彼を睨む。
私は〝彼が〟心配だと言ったつもりだったのに…彼は分かっていて、わざと訊いてきたのだ。本当に、悪い性格をしている。
「あはは、ごめんって。でも、受験が心配なのには変わりないでしょ?君、結構名門校行こうとしてるし…不安が無いって言ったら、嘘になるんじゃない?」
「…まあ、そうなんだけど…」
現在は11月下旬…私は私立の名門校に入学希望を出していて、入学試験まで三ヶ月を切っていた。
勉学に力を入れているとはいえ、挑むのは名門校の入学試験なのだ。不安はあるに決まっている。
「…さて。そんな君を応援する為に…君に少し、渡したい物があるんだよ」
「え…?」
突然、彼が言い出した事に、私は少し驚くとともに、心が躍った。
彼からのプレゼント、彼からの応援。想像するだけで頬が緩み、気持ち悪い笑みを浮かべそうになる。
「…なんだと思う?」
彼は答えを待つ私を焦らし、尋ねてくる。私は頬を膨らませながら。
「そういうの良いから…早く、出して…」
そう、言った。
「せっかちだな〜、君は」
彼は楽しそうな声音で言いながら、懐からある物を取り出した。私はその名前を認識するまで観察する。
「…御守り?」
それは、〝合格祈願〟と刺繍がなされていた御守りだった。ただ、少々歪な形をしているので、恐らく。
「そう、ただの僕が作った御守り。君の不安を全部消し飛ばして、無事に大学に合格して、君がずっと言っていた夢を叶えて、って。少し欲張りだけど、そんな御守りだよ」
そういう彼の表情は、儚げだった。
「正直、僕は君の入試結果を聞くまで生きていられるか分からない…自分でも分かる。僕はもう長くないんだ」
「……」
私は喉元や目頭から出そうになる何かをぐっと堪え、彼の言葉の続きを待つ。
「本当にごめんね。それでも、僕は君を応援してるから。だから…受け取って欲しい」
彼は私へとその御守りを差し出してきた。
「…ありがとう」
私は落とさないようにそれを受けとった。御守りは彼の指に挟まっていたけど、それは簡単に引っ張り出す事が出来た。
「…それじゃあ、こんなしんみりとした空気は嫌だし…君の話を聞かせてくれる?」
「…!うん…!」
彼のその言葉で、私は安心した。いつもの彼だったから、というのもあるけど、それ以上に、彼が私を見てくれていると感じるから。
「今日の小テストの事なんだけど、私が──」
この時、随分と長く短い時間を、彼の会話で使っていた。彼と毎日話すのはとても楽しく、ずっと一緒に居たいとすら思ってしまう。
叶うならば、私は彼と…とまで。
そこまで長い付き合いじゃなかったけど、私にとって彼の存在はそこまで大きくなっていた。
だからこそ、いつまでも彼の傍に居続けたい。今でも、そう思っているのだ。
今日も、私は放課後帰りに彼の病室に足を運ぶ。
「また来てくれたの?」
今日も変わらず、本を読んでいた。そんな彼に、私は告げる。
「…試験、合格したよ」
そんな報告を。
「そうなの…?おめでとう…!」
そんな言葉だけで、私の心は激しく動く。
「…貴方の、御守りのお陰…これがあったから、頑張れた…」
「そっか…役に立ったんだ…」
彼はいつものように、儚い笑みを零す。
数秒黙り込んで…そして。
「…良かったよ。〝最期に〟その報告が聞けて」
「…………えっ…」
その言葉は、私の表情を歪ませるには十分過ぎた。
「なんで…なんでそんな事言うの?」
私は今まで背けてきた事実を、この期に及んで否定する。
「もっと生きてよ、もっと私と話してよ…なんで」
みっともなく言う私に、彼は突き付ける。
「…確かに、もっと君と話していたかった…けど、もう分かってるでしょ?君自身が、〝忘れつつある〟って事」
「やめて…」
嘆き訴える私を無視して、彼は続ける。
「君はもう…〝僕の大部分を忘れてる〟。だから、これで終わりなんだよ」
…やめて…やめろ。そう、自分自身に暗示をかける。
「…だからさ──」
「やめてっ!!」
生まれて初めてかもしれない。こんなに大きな声を出して、拒絶するのは。
だけどそれだけに留まらず、私は叫ぶ。
「なんで現実を突き付けてくるの!?なんで目を背けさせてくれないの!?私だって分かってる!でも受け入れられないものは受け入れられないんだよ!私はそこまで強い人間じゃない!」
向ける先の無い言葉が一帯に反響する。それでも私は抑え切れない気持ちを全て吐き出す。
「私は〝彼〟が好きなんだよ!意地悪だけど、優しくて面倒見が良くて、学校で嫌な事があった時に慰めてくれる…そんな〝彼〟が、どうしようもないくらいに好きなんだよ!なのにっ…!そんなのって、無いよ…!なんで、居なくなっちゃうの…!」
…それから数分くらいは、嘆いて、喚いて、駁していたのだろう。喉が千切れる程に痛く、息切れも激しかった。
今までの私が見せてこなかった弱い部分を、〝彼〟を模った存在にとはいえ見せてしまった。それがとても辛い事だった。
「…ありがとう」
だけど〝ソレ〟は、全てを吐き終えた私にそう言ってくれた。
「君がこの二年間、僕の事でずっと悩んでいたのは分かる。夭折してしまった僕を、どれだけ悼んでくれたかは分かる」
私が、私に向けた言葉を放ってくる。
「それでも、もう。僕に妄執するのは、君には無理なんだ。何より、僕がして欲しくない」
「でもっ…!」
言い返そうとする私の身体に。
目の前の存在はそっと、腕を回してくれた。
「えっ…?」
そこに居ない筈なのに、ただの夢である筈なのに。
私を抱き締める腕は、私よりも高い体温が宿っているような気がして…私は涙が止まらなくなった。
「大丈夫…大丈夫だから。君はこれから先、苦しい事、辛い事…それらが待ち受けているだろうけど…それでも」
私を抱き締める力が強くなったような気がして、そして。
「──僕は、君を見守ってるから」
「っ…!」
その言葉の直後。
身体を覆う温かさが、段々と消えていく。
「約束、だよ…?ちゃんと見守っててね…?」
私は触れられない存在を抱き締め返した。目を閉じ、静かに泣く。
そんな情けない私に。
「うん、約束。僕は、いつまでも、君の傍に居るから」
その言葉は…その最期の言葉だけは。
──本物の〝彼〟の言葉だったような…そんな気がした。
閉じていた目を開く。
…その病院も病室も、既に機能していなかった。
二年と少し前に、彼にあげた一輪のマリーゴールドもなくなり、今は花瓶しか残っていなかった。
薄暗い部屋だった。窓の硝子は所々が割れていて、そこから風が吹き込んでくる。引き裂かれたカーテンがほんの少しゆらゆらと揺れるのに合わせ、髪も靡く。
ただ…病床に彼は居なかった。いつものように本を読んでいる姿も無い。
「この病院は、彼が亡くなってから直ぐに閉院したんだっけ…」
すっかり忘れていたその事実を思い出し、哀愁を感じる。
此処は、彼との思い出の場所だったから。此処でしか、彼と思い出を作れなかったから。
それが失くなってしまったのは、寂しかった。
「…ありがとね、御守り」
私はあの時、〝偶然見つけた〟不器用な刺繍がされている御守りを懐から出して、大事に握る。
「貴方がこれをくれたお陰で私、勉強頑張れたよ。これのお陰で、私は今も夢へと進めてるよ」
私は俯き、彼の顔を思い出そうとする。
だけど時が経ち過ぎたのか、はっきりとは思い出せずに居た。
(…でも、それで良い)
私の気持ちが伝われば、私の思いが彼に届けば、それで良い。
だから私は、彼に届くように伝えるのだ。未練を晴らす為に、後悔を晴らす為に。私が、これから始まる高校生活を、彼に見ていてもらえるように。
「ずっとずっと、ありがとう…」
涙が出て上手く紡げない言葉を。
「貴方はもう居ないけど…」
心の中でも否定したい、幻想であって欲しい言葉を。
「それでも、貴方と過ごした日々は、本当に楽しくて…」
もう戻れない過去を振り返る言葉を。
「いつも一緒に居たいって…そう思えた…」
もう二度と叶わない、泡沫の夢を願う言葉を。
「とっても恥ずかしいけど…言うね?」
今までずっと、言えなかった言葉を。
「──貴方の事がどうしようもないくらい、大好きだよ…これからもずっと、見守っててね…?」
満面の笑みで、そう伝えた。




