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番の巫女短編シリーズ

番の巫女2~突然伴侶と言われても困るんですが/やっぱりムカつくのでもう一度殴りますね~

後半部分を描くつもりが何故か前半部分の殴り合いが生まれました。

まぁ殴り合いがなければ発生しなかったシチュエーションなので致し方ないです。


『番の巫女~突然伴侶と言われても困るんですが/ムカつくのでとりあえず殴りますね~』

https://ncode.syosetu.com/n0209ii/

の後日譚ですので、未読の方は先にそちらをお読みください。単品では話が分かりづらいと思います。








 まだ春の空気も初々しい、そんな頃。

 平民リオ・マーベリックが第三王子妃となった――そんな噂が社交界に流れてから一週間が経過した。そんな時期の話である。



 怒りを抑えたミルスの声が、静かに武錬場に響く。


「なぁリオ、もう一度だけ確認していいか?」


 あくまでも冷静なリオの声が、ミルスに応える。


「あら、なにかしら? 貴方と私の仲ですもの。遠慮はいらないわよ?」


「この結果は、お前の実力を全て出し切った結果だと胸を張って言える――それで間違いないな?」


「ええ勿論よ? 創竜神様に誓って言えるわ」



 今、ミルスの眼前に広がる光景――それは、第二王子妃ファラに組み敷かれた第三王子妃リオの姿だった。

 既に三度の勝負を行い、全てが同じ結果になっていた。


 ミルスの隣で観戦していたエルミナが、静かに意見を述べる。


「ファラはこれでも、組打術はそれなりの腕前です。さすがに男の兵士たちには腕力や体格で負けますが、王宮内の同性には負けないだけの実力があります。この結果は妥当と言えるでしょう」


 ミルスが目を瞑って、片手で頭を抑えた――つまり、エルミナの目から見ても”リオが手を抜いたわけではない”と判断したのだ。


 エルミナが感心したように頷きながら言葉を続ける。


「この身体能力と技術で私とファラを相手にあそこまで渡り合った。その事実には舌を巻くばかりですね」



 成竜の儀に敗北したエルミナには竜将の資格がない――竜将の証を持たないエルミナと、そのつがいのファラを相手にいくら拳を交えようと、それは成竜の儀とは見做されない。

 それを利用してミルスとリオは、二人を相手に対ヤンク王子用の調整を行っている最中だった。


 一週間を静養に充てたリオは、体調が充分に万全と言えた。

 同じく王宮魔導士から治療を受けつつ静養を行っていたエルミナとファラも、体調は万全だ。

 互いが創竜神の加護を受けない状態――そんな条件下ではあるが、一度はエルミナとファラを同時に相手にして一人で互角の勝負を見せたリオが、まさかファラ一人相手に全く歯が立たないとは、ミルスは思っていなかったのだろう。


「だから言ったじゃない! 私は普通の十五歳の女の子なのよ! 訓練を受けた十七歳のファラを相手に勝てる訳がないのよ?」


 不満を口にしながら立ち上がるリオが、武錬用の訓練着の裾を叩いている。


 エルミナも困ったように笑いながら、リオの言葉を肯定する。


「今日の動きを見る限り、どこをどう見ても素人のそれです。喧嘩慣れはしているみたいですが、あくまでも子供同士の喧嘩水準。訓練を積んだ者に通用する動きではありません」


「それはそうよ。私が十二歳の頃までに培った喧嘩殺法ですもの。子供同士の喧嘩水準の動きしかできないのは当たり前ね。初等教育の頃は近くの子供たちの中で一番強かったけれど、その程度の実力しかないわ。中等教育になってからは喧嘩も控えていたし、腕が鈍っていても不思議ではないの」


 

 ミルスは頭を抱えながらエルミナに尋ねる。


「じゃあ、そんなリオがどうやったらエルミナ兄上とあそこまで渡り合えたっていうんだ? 兄上だって苦手とはいえ、組打術の訓練自体は積んでいるだろ?」


「それだけ創竜神の加護が強かった、としか考えられませんね。加護の強さだけで言えば、国内でも指折りでしょう。ヤンク兄上のつがいの巫女、アレミアも屈指の加護を持ちますが、それすら上回るかもしれません」


「エルミナ兄上がそう言うのであれば、おそらくそうなんだろうなぁ……はぁ」


 ミルスが大きな溜息をついた。



 ミルスとリオに打ち負かされて以来、エルミナはすっかり毒気が抜けていた。

 今ではかつての心優しい穏やかなエルミナ――成竜の儀に参加する前のエルミナ本来の姿に戻っていた。

 この一週間の間にミルスとエルミナは仲直りを果たし、昔の様にエルミナを敬愛できるようになった事をミルスは密かに喜んでいるようだった。



 リオがそんな自然体のエルミナを眺めて呟く。


「エルミナ王子って、本来はこんな人だったのね。第一印象は最悪だったけど、今じゃ好感度がかなり高いわ。憑き物が落ちるってこういう事を言うのね」


 ファラが優しく微笑みながらリオに応える。


「エルミナ様は元々、心穏やかな方なんです。側室の息子という重圧の下で、成竜の儀に勝とうと必死になるあまり、御自分を見失っておられた。そんなエルミナ様を救って頂いたご恩は決して忘れません」


「ああ、それでヤンク王子とエルミナ王子が同い年なのね」


 納得したようにリオが手を叩いた。

 正室と側室の子供であれば、同い年というのは不思議ではない。

 側室であるエルミナの母親は身体が余り丈夫ではないらしく、一週間前の夜会では姿を見せることはなかった。リオは未だ、その姿を見たことはない。



 エルミナは自嘲の笑みを静かに浮かべていた。


「己を見失ったなど、言い訳にはなりません。この二年間、ヤンク兄上やミルス、なによりファラには償いきれないほどの事をしてきました。そんな私に出来る事なら、いくらでも手を貸します――ですが、今のリオさんとミルスではヤンク兄上とつがいのアレミアには勝ち筋が見えません。どうしましょうかね……」


 エルミナの分析では、創竜神の加護の強さは五分かややリオが有利、それ以外は全てヤンクとアレミアが有利だと出ていた。

 このまま勝負を仕掛けても、ヤンク一人すら抑え込むことはできないだろうという見立てだ。


「ヤンク兄上とアレミアは三年間で絆も強く結ばれています。そんな二人に、出会って一週間しか経っていないミルスとリオさんでは、絆の強さでも勝てません。勝負をする以上は、きちんと勝ちの目を見い出してから仕掛けるべきでしょう。勝ち筋すら見えない状態で勝負に挑むのは、ただの蛮勇。褒められた行為ではありません」


 そんなエルミナの言葉に、ミルスは不満げだ。


「そうは言うが、積み上げた時間の長さを覆す事などできない。この差は気合で埋めるさ」


「そうよ! このリオ・マーベリックが付いてるのよ? 真剣勝負でそう簡単に負ける訳がないわ!」


 頼もしい言葉を吐いた弟夫婦に、エルミナが白い眼を注いだ。


「一週間経過しても、未だにウェラウルム王家を名乗らない妻、夜は恥ずかしがって別室で寝る夫。こんな状態で、三年以上仲睦まじく絆を育んだヤンク兄上夫婦に勝てると、本気で思ってるんですか? 兄上たちの絆は篤く結ばれていますよ?」


 ぐうの音も出ない正論に、ミルスとリオが黙り込んだ。



 リオとしては、本心では雄々しい姿を取り戻したミルスを夫と認めるのはやぶさかではない……のだが、今更どの面下げて”リオ・ウェラウルムよ!”と名乗っていいのか分からないのだ。タイミングを逃したといえばそれまでなのだが、夜になると別室に逃げ込むように去っていくミルスを見ると、自分が妻として認められていない気がして、気後れしてしまっていた。

 初日に”手を出す相手くらいは選ぶ”と面と向かって言われてしまったのも、心理的障害として大きいと言えた。

 リオから”私はミルスの妻だ”と宣言しても、ミルスから拒絶されてしまったら女の面子は形無しだ。


 ミルスはミルスで、リオから夫として認められるまでは今の距離を縮める気にもなれないようで、膠着状態が続いていた。



 二人の心理を的確に把握したエルミナが、腕を組んで思案を続けている。

 実力で負けている以上、気持ちでも負けていたら勝ちの目はない。ここを二人には乗り越えてもらわなければならないのだ。

 リオの土壇場での爆発力は目を瞠るものがある。気持ち次第では良い勝負にもつれ込む可能性が充分あると見ていた。


 そんなエルミナに、ファラが傍に寄って耳打ちをした。

 耳を傾けたエルミナが、両腕を組んだまま天を仰ぎ、唸っている。


「うーん……荒療治、という奴でしょうかね。ファラの言う事も一理あります。手を打ってみますか」


 エルミナの言葉に、ミルスとリオは首を傾げつつ、その日の訓練は終了となった。





****


 ――王宮のサロン。

 数年ぶりに穏やかな顔で、エルミナとファラ、そしてヤンクとアレミアがテーブルを囲んでいた。


 ファラもアレミアも、十七歳としては落ち着いた雰囲気を持つ大人びた少女だった。

 夫同士が仲直りをした今、ファラとアレミアも同い年の義姉妹として、穏やかな友情を育みつつあった。


 エルミナが己の考えをヤンクに述べ、意見を求めた。


 ヤンクがそれに応える。


「なるほどな。弟夫婦がそんな事になっていたか。これは、兄として一肌脱がねばなるまい」


 アレミアが静かに意見を述べる。


「ですが、少し危ない橋になりますよ? 大丈夫でしょうか」


 エルミナが困ったように頭を掻く。


「私だけで済ませられれば一番良かったんですが、竜将の証を失った私では、もう力不足です。あとはもう、ヤンク兄上に頼らざるを得ません」


 ファラが微笑みながら意見を述べる。


「リオさんは逞しい方です。きっと大丈夫ですよ」


 ヤンクが大笑いをしながらそれに応える。


「はははは! あれは逞しいを超えた何かだ。お転婆すぎて、どこに跳ねて行くかわからん。それが怖い所だな」


 エルミナが微笑んで話を纏める。


「――では、賛同して頂けるということでよろしいですか?」


 ヤンクとアレミアが静かに頷いた。


 エルミナが満足げに頷き、ファラと共に席を立った。


「あとはお任せします。ミルスの扱いは、ヤンク兄上が一番ご存じのはずだ」



 サロンから立ち去るエルミナの後姿を見ながら、ヤンクが呟く。


「――あんな穏やかなエルミナを、また見ることが出来るとはな」


 アレミアが頷いた。


「懐かしいですね。三年前を思い出します。ですが穏やかな笑顔の下で、考える事は相変わらずあくどい気がしますけどね」


「ははは! 人はそう簡単には変われん。なに、今回の悪巧みぐらいなら乗ってやっても構わんだろう」





****


 ――翌朝。


 侍女に起こされて、リオがベッドから上体を起こす。

 本当はとっくに目覚めては居たのだが、王子妃を起こすのも侍女の仕事だから寝ていて欲しいと言われしまい、しかたなく布団の中で寝たふりをする毎日だ。

 リオの身体は依然として平民としての生活リズムのままだ。寝て居ろと言われても、自然と目が覚めてしまうのは防げない。


 侍女たちに世話をされるがままに顔を洗い、制服に着替え、髪を整えてもらう。

 だいぶ慣れてきたが、やはり他人に世話をされるというのは落ち着かなかった。


 朝食の席について、ようやくミルスと顔を合わせる。

 各王子や国王は、それぞれ別の建物を割り当てられ、それぞれの食堂で別々に食事を取るらしい。

 つまり、この食卓に居るのはリオとミルスのみである。二人の間に子供が生まれれば、その子供はこの食卓に加わる事になるだろう。


 ――この夫は、いつになったら同じ部屋で寝るのかしら。


 密かに溜息をつきながら、リオは静かに朝食を口に運んでいく。


 己の性的魅力の無さなど、ミルスに言われるまでもなく分かっている。

 同級生と比べても慎ましい体つきなのだ。劣等感も持っている。

 だがさすがに前と後ろの区別ぐらいはつくぞ、と密かに憤ってみたりもした。


 慎ましいと言っても学級内で下位に甘んじる程度で、十五歳なりに女らしい体つきではあるのだ。

 いつかは夫に自分の魅力を認めてもらう日が来るのだろうか、と思うこともある。

 だがミルスから妻として見られる事を思うと、やはりどこか気恥ずかしさが残った。


 一週間を過ぎる中で、ミルスを夫として認めつつある自分に、この時リオはまだ気が付いていなかった。



 朝食を食べ終わり、ミルスと共に席を立つ。

 無言で馬車に向かい、いつものようにミルスの手を取って馬車に乗り込んだ。



 いつものように馬車の中は静寂に包まれている。

 ミルスもリオも、互いに不要な会話をしないからだ。

 互いが別々の窓の外を眺め、流れる景色をただ瞳に映していた。


 そしてふと、リオがあることに気が付いた――いつもと景色が違う。


「――ねぇ、ミルス。いつもと道が違うわ」


 ミルスの目が険しくなり、窓の外を確認した後、御者に叫ぶ。


「おい! 道が違う! どういうことだ!」


 御者は振り返る事もなく、馬を走らせていく。


 リオが眉をひそめてミルスに尋ねる。


「どういうこと? こんなことはよくあるの?」


「いや、そんな事はない――御者はいつもの使用人だし、周囲にはいつも通り騎兵も随行している。だが道が違うのは確かだ」


 険しい顔のままミルスが応えた。



 馬車はやがて、王宮と街の間にある小高い丘で停車した。


 リオが周囲の気配を探るが、騎兵たちが静かに立ち止まっている気配がするだけだった。

 御者は何も言わずに、背中を向けたままだ。


「降りろ、ということかしら」


「……降りてみよう」


 先にミルスが降り、辺りの安全を目で確認してからリオの手を取って馬車から降ろした。


 二人が周囲を確認すると、そこは丘の中でも開けた場所だった。


「――待っていましたよ」


 馬車の反対側、死角になっている位置から声が聞こえた。

 ミルスとリオが慌てて馬車を回り込むと、そこにはエルミナとファラの姿があった。


 険しい顔でミルスがエルミナに尋ねる。


「これはなんの悪ふざけなんだ?」


 にこやかな笑みでエルミナが応える。


「ミルスたちに、絆の大切さを理解してもらおうと思いまして――ちょっとした野外授業です」


 エルミナが手で合図をすると共に、馬車と騎兵たちが遠くに下がっていった。

 その場に残るのはミルスとリオ、そしてエルミナとファラだけだ。


 ミルスが不敵な笑みで尋ねる。


「わざわざこんな場を設けたんだ。本気でやって構わない――そういうことだな?」


 エルミナは穏やかな表情で頷き、魔力を練り始める。


「油断をすると死にますよ――では始めましょう!」


 エルミナの巨大な魔力の槍が、ミルスとリオに襲い掛かった。





****


 エルミナの魔力の槍が大地を抉る――ミルスはそれを飛び退いて避け、間合いを詰めようと駆け出していく。


 竜将の証を失ったエルミナの魔力は、以前と比べると格段に落ちている。

 今のエルミナならば、ミルス一人で充分に勝てる相手だろう。


 リオは祈りながらファラに向かって駆け出し、加護の乗った拳を放っていく。

 ファラも加護で身体能力を底上げし、なんとかリオを捌いていくが、竜の巫女としての実力は圧倒的にリオに分があるようだった。

 身体能力と技術の差を加護の力で覆す――相手こそ違うが、ここまでは前回の戦いと同じ流れだ。


 リオには違和感があった。

 ”油断すると死ぬ”と言い放っておきながら、エルミナには殺気がないのだ。

 ミルスの足止めに徹し、懐に入れないように立ち回っている。


 ファラも攻撃を捌くばかりで、攻めてくる気配がなかった。守備に徹したファラを攻め落とすだけの技術は、リオにはない。攻めあぐね、時間ばかりが過ぎて行く。


 エルミナが汗をかきながら、楽しそうに声を上げる。


「やはり今の私たちではミルスたちの相手は荷が重そうだ――そろそろ出てきてくださいよ!」


 その声とともに、ミルスの身体がエルミナの魔力の暴風で吹き飛ばされた。ただ相手を吹き飛ばすだけの魔導術式だったが、踏ん張り切れずにミルスが地面を転がっていく。


「ミルス?!」


 リオの注意がミルスに向かった隙を突いて、ファラの双掌打がリオの胸を叩いた。

 そのままリオの身体も弾き飛ばされ、地面に転がっていく。

 慌てて体勢を立て直し、顔を上げたリオの眼前にはエルミナとファラの姿があった。


「あなたの相手は私たちです」


「――そしてミルス。お前の相手は私たちだ」


 吹き飛んだミルスの前には、ヤンクとアレミアの姿があった。





****


 ミルスの頬を冷たい汗が伝う。


「こんなところで成竜の儀を始める――そういうことか?」


 ヤンクがニヤリと笑う。


「私とお前がやりあうんだ。拳を交え始めれば、結果としてはそうなるな。大怪我をしない様に気を付けておけ」


 睨み合うヤンクとミルスを横目に、リオは内心焦っていた。

 ヤンク王子はミルス一人でかなう相手ではない。自分と力を合わせても勝ち目があるか分からない。そこにヤンク王子のつがいのアレミアまでが揃っている。早く駆け付けなければならない――だというのに、自分の前にはエルミナとファラが立ち塞がって、動くことを許してくれそうになかった。


「エルミナ王子……何を考えているの?」


 エルミナは魔力を練り上げた槍を構えながら微笑んで応える。


「この状況、貴方たちはどこまで覆せますか?」


「――私たちを試す、そういうこと? 竜将の証を持ってやっと互角のエルミナ王子とファラさんが、証を失った状態で私を抑え切れるのかしら?」


 エルミナが楽しそうな笑顔で応える。


「貴方に本当のつがいの意味を教えてあげましょう。今回は簡単に勝てると思わない方が身のためですよ」


 リオの口角が上がる。


「――上等!」


 リオは全力で加護を祈り、瞳に金色を宿してエルミナに向かって殴りかかっていく。

 エルミナの放つ槍をかわし、懐まで間合いを詰めて拳を振り抜く――その拳が、横から延びてきたファラの手によって絡めとられ、リオの姿勢が大きく崩された。


「――?!」


 姿勢が崩され、身動きが出来なくなった瞬間にエルミナが放つ拳が腹に埋まる。

 立て続けにファラが再び双掌打でリオの身体を弾き飛ばし、そのまま地面を転がされていった。

 リオの胃から朝食がせりあがってきて耐え切れず吐き出した。


「リオ?!」


 ミルスの叫び声がリオの耳に届くが、胃の中を吐き出しきるまで動くことが出来なかった。


「――だから言ったでしょう? 簡単に勝てると思わない方が身のためだと」





 ゆっくりとリオに近づいていくエルミナとファラを前に、リオは立ち上がるのがやっとのようだった。


 そんなリオを気にかけ、すぐに駆け付けたいミルスだったが、目の前のヤンクとアレミアが動くことを許さない。

 隙を見せれば自分も同じ目にあう――それが分かってしまい、動けないのだ。

 久しぶりに対峙するヤンク王子という強烈な圧――二年前と比べても桁違いに感じていた。その傍らではアレミアが、静かな圧を加えてくる。

 リオを助けに走り、背中を見せればその瞬間で終わる予感があった。

 リオを助け出すには、一人で目の前の二人を打ち負かす必要がある。だが格の違う二人を正面から一人で相手にしても、やはり一瞬で終わる予感があった。


 横目でリオの危機を見ながら何もできない歯がゆさで、強く唇を噛み締め血が流れる。


「どうしたミルス。そのまま妻を見殺しにするのか? それとも無謀にも挑みかかって成竜の儀の中で敗れるか? お前はどちらを選ぶ?」


 苦悩するミルスは、金縛りにあったように指一つ動かせないままでいた。





****


 リオは胃の中を空にしてようやく立ち上がり、口を制服の袖で拭う。


「……なによ、証を持ってない方が強いじゃない」


「これが本来のつがいの在り方です。以前の私は、ファラの力をそこまで信頼していなかった。独りよがりだったという事です。そんな私を打倒した程度でのぼせ上られては困ると思いまして。改めてつがいの恐ろしさを思い知って頂く。それも本日の目的の一つです」


 一人で勝てる相手じゃない――あれほど見事な連携を即興でやってのける二人が相手だ。前回とは比較にならない手強さだろう。

 だがリオは背中に流れる冷や汗を誤魔化しつつ、不敵に笑ってみせた。


「本当は、前回袋叩きにされた事を根に持って仕返ししたい、とか思ってるんじゃないの?」


 エルミナがとても楽しそうな笑顔になって応える。


「――ばれましたか? それも少しあります。二人がかりで殴られましたからね。今度はこちらの番です」


 ファラが小さく吹き出し、クスクスと笑った。


「エルミナ様、やっぱり少し性格が悪くなったんじゃありません?」


「そうでしょうか?」


 圧に飲まれかかっているリオの眼前で、和やかな会話を繰り広げるエルミナとファラ――付け込む隙を見せてはくれなかった。


 リオは小さく深呼吸をして、覚悟を決める。


 ――これは強敵だ。一人で相手にすることはできない。かといってミルスの前に居るヤンク王子とアレミアも、ミルスが動くことを許してはくれないだろう。あちらで動きがあれば、成竜の儀が成立してしまう。ミルス一人では万に一つも勝ち目がない。成竜の儀が成立する前に、なんとかこの状況を一人で打破してミルスと合流しなければならない。


 リオの目が厳しくエルミナとファラを睨む。

 目を開いたまま、創竜神に強く加護を祈った。


 ――創竜神様、目の前の二人を叩き伏せるだけの加護を!


 リオの身体が白く眩く輝き、瞳が燃えるような金色で染まった。

 エルミナの口角が上がる。ファラの目が厳しくなり、口が引き締められる。


 次の瞬間、リオの鋭い拳がエルミナの顔面に向かって放たれていた。





****


「――嘘」


 リオの口が呟いていた。


 間違いなく、ファラが反応できない速度で拳を振り抜いていた。

 だがその拳は、紫色の魔力障壁によってエルミナの眼前で受け止められていた。


 ――魔力障壁の色が違う。ファラの張った障壁じゃない!


 リオの、そしてミルスの目がアレミアに注がれる――アレミアは静かに祈りを捧げていた。


 エルミナが楽しそうに解説を始める。


「安心してください。これはまだ成竜の儀として成立していません。竜将候補にも、そのつがいの巫女にも危害が加えられてませんから。ちょっとしたルールの穴を突いています。簡単に言えば、成竜の儀の外側で、私たちはアレミアの防御支援を受けながらリオさんと戦えるんです。三対一ですね」


 リオが剣呑な笑顔になって応える。


「二対一でも分が悪いのに、更に一人増えて三対一じゃ、私に勝ち目なんてないじゃない――本当に性格が悪いわね」


「リオさんの爆発力は身をもって味わって知っていますから、これぐらいの保険は仕込んでおきますよ――さぁミルス、どうしますか? そのまま指をくわえてリオさんがボロ雑巾にされるのを見てますか? それとも、負けると分かっていながら成竜の儀を始めますか?」


 ミルスが俯いたまま押し黙った。


 リオは剣呑な笑みのまま、声を張り上げる。


「ミルス! 貴方はそこで見ていて! 私が必ずこの二人を叩きのめす!」





 ヤンクが静かな声でミルスに尋ねる。


「どうするんだ? ミルス。お前の選択を見せてみろ」


 ミルスが俯いている横で、リオは死力を尽くしてエルミナとファラを相手に戦いを繰り広げている。

 限界まで身体能力を上げる事でファラを出し抜くことはできているが、全ての攻撃はことごとくアレミアが受け止めていた。そうして生まれた隙を、エルミナとファラが容赦なく突いて行く。

 何度叩き伏せられても立ち上がるリオだったが、ついに加護の力も尽き始め、瞳から金色が去りつつあった。


 リオはファラに地面に叩き伏せられた後、よたよたと立ち上がり、その目がエルミナとファラを厳しく睨んだ。

 一息つき、汚れた顔でリオが凄惨な笑みを浮かべた。


「――上等。女の底力、見せてやろうじゃない」


 更なる加護のを求めたリオの身体が、再び眩く輝き始める。

 リオの放った渾身の拳が、今度こそ確実にエルミナの顔面を捕えていた。





****


 吹き飛んでいくエルミナの姿を、リオは呆然と眺めていた。


 ――アレミアの魔力障壁の手ごたえがなかった?!


 慌ててアレミアに視線を移すと、ミルスがアレミアに殴りかかっていた。その拳はアレミアが障壁で防いでいるが、さすがに自分とエルミナ二人分の障壁を咄嗟に張ることはできないようだった。


 ミルスが叫ぶ。


「リオ! アレミアは俺がなんとかする! その間に二人を叩きのめせ!」


「……その注文、承ったわ」


 再びリオが動き出し、ファラと体術で勝負を始める。

 エルミナは既に殴られて意識を失っているようで、起き上がってくる気配はない。


 だが力尽きかけたリオと万全のファラでは、リオが圧倒的に分が悪い。

 リオも必死に食い下がるが、訓練と同じように力をいなされ、叩き伏せられ、それでも起き上がってはファラに挑みかかった。


 ミルスも果敢にアレミアに攻撃を繰り返すが、全ての打撃をアレミアは防ぎ切って見せた。

 強い加護の力だけではなく、体術でもファラに近い水準の技術をアレミアは持っていた。これをミルス一人で打ち崩すのは難しいと言えた。


 ヤンクは黙ってミルスとリオの姿を見守っている。


 ついに加護の力が切れたリオの拳が空を切り、ファラによって地面に叩き伏せられた。

 まだ起き上がろうとするリオだったが、その途中でリオは意識を失い倒れた。


「リオ?!」


 余所見をしたミルスに対して、ヤンクが放った拳が腹にめり込んだ。


「まぁ、及第点ってとこかな」


 ヤンクは呟いた後、ミルスの後頭部にさらに拳を殴りつけ、ミルスを昏倒させた。





****


 リオが目覚めると、王宮の私室のベッドだった。

 治癒が施されたらしく、身体に傷跡らしいものや痛みは残っていない。


 普段は空いているはずのベッドに誰かが寝ているのに気が付き、横を見る――隣のベッドではミルスが寝かされていた。応急処置はされているようだが、まだ意識は戻っていないようだった。


「あら、目が覚めた?」


 ファラの声が聞こえ、リオが慌ててベッドの上に立ち上がり身構えた。


「あはは! もう訓練はお終いよ。落ち着いて寝ていて頂戴。貴方は無理をし過ぎて治癒が追い付かなかったから、今日は安静にしていてね」


 ベッドサイドに座るファラが、優しい微笑みでリオを見上げていた。


 憮然としたリオがファラに尋ねる。


「ミルスの怪我はどうして癒してないの?」


「ミルスは成竜の儀の中で負傷したことになるから、ミルスを癒せるのは貴方だけよ。でもあなたも加護の力を使い過ぎてるから、今日は止めておきなさい」


「……エルミナ王子はどうなったの?」


「エルミナ様はあなたに思いっきり殴られたから、あの人も今日は安静にしてるわ。王宮魔導士に癒せるだけは癒して貰ったから、明日には元気になっているはずよ――あの怪我も、今日の悪ふざけの責任を取った、といったところかしらね」


 リオはベッドに潜り込みなおし、大きな溜息をつきながら枕に倒れ込んだ。


「――はぁ。ほんと、とんでもない性悪王子ね。どこが温厚で心優しいのか分からなくなったわ。あれに付き合えるファラさんも大概よ? ――でもあの一撃で借りは返した、ということにしておいてあげる」


 ファラが嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。そうしてもらえると助かるわ」


 ファラが果物を切り分けた皿をリオに差し出した。

 リオは大人しく、果物を口に放り込む――朝食を全て吐き出したのだ。時間も午後、それなりに空腹を覚えていた。


 ファラが優しい声で尋ねてくる。


「どう? 今日の訓練で何か掴めた?」


 リオは応えず、黙って果物を口に運んでいる。


「……そう。それなら、今日思った事をあとでミルスと話し合ってみるといいわ」


 リオが果物の皿を空にしたのを見届けると、ファラは「また明日ね」と言って部屋を去っていった。


 リオは少しの間思案し、傍に居る侍従に告げた。


「少しの間、人払いをして貰えますか?」


「畏まりました」


 使用人たちが全員、部屋から出ていき、部屋の扉が閉まった。





****


 ――その日の夜。


 ようやくミルスの意識が覚醒した。そうして気が付く――何か柔らかいものに頭を乗せている気がする。

 ゆっくりと目を開けて行く――見慣れた自分の私室、そのベッドの上だ。最近は使っていなかったせいか、ベッドの感触に違和感を感じていた。

 頭が枕以外の柔らかいものに乗せられている、そんな感触だ。

 そして頭上から、誰かの視線を感じていた。


 さらに目を開けて、頭上を見上げた。


「気が付いた?」


 覗き込んでいたのはリオだった。

 そこでようやく、ミルスは自分がリオに膝枕されているのだと気が付いた。


 慌てて起き上がろうと腹部に力を入れた瞬間、ヤンクに殴られた傷が痛み顔が歪んだ。


「ミルスの傷は今日は癒せないわ。大人しく寝ていて」


 リオに頭を押さえつけられ、諦めてミルスは身体から力を抜いた。

 状況が理解できず混乱する頭を、必死で巡らしていく。

 記憶を手繰り寄せ、ようやく現状を理解した。


「おれはヤンク兄上に伸されたのか……お前の傷は大丈夫なのか?」


「私の傷は成竜の儀の外の傷よ。王宮魔導士に治癒して貰ったから、もうなんともないわ。でも加護の力は使い過ぎて、今日はもう使えそうにないかな」


「……そこまでは理解できるんだが、なんで俺はリオに膝枕されているんだ? それがさっぱり理解できない」


「なぜかしら。なんとなくそんな気分だったのよ――それに、私たちは形だけでも夫婦なんだから、膝枕をしてもおかしくはないでしょう? ……それとも、嫌だった? それならすぐにどくけど」


 ミルスが慌てて否定する。


「嫌じゃない! 決して嫌な訳があるか! だがその……重たくはないか」


 リオがミルスを覗き込みながら微笑む。


「今日のエルミナ王子とファラさんを相手にした時のキツさを思えば、この程度はなんてことない重さね――でも、ごめんね。色気のない膝枕で」


 ミルスが照れ臭そうに頬を染める。


「色気がない訳があるか。充分柔らかい。ヤンク兄上にやられた傷がなければ、思わず手を出しそうな状況だ」


 リオが驚いたように口を開けた。


「あら……”手を出す相手くらいは選びたい”んじゃなかったの?」


「……選んだ結果がお前、というのじゃ不満か?」


「……不満とは、思わないかな。でも、”前も後ろも分からない”んじゃなかった?」


「お前の前と後ろくらい、いくら俺でも見分けは付く――その、あの時は言い過ぎた。すまなかった」


「別にいいわ。気にしてないから――嘘。本当はずっと気にしてた。ずっと怒ってた。でも間違いだったと認めたのだから、許してあげる」


 時計が静かに時を刻む音が、二人の耳に聞こえてきていた。

 ゆっくり十秒――


「……今日も腑抜けた姿をお前の目に晒した。すまん。これじゃ、いつまでたってもお前に夫として認めてもらう事はできそうにないな」


「あら、今日も腑抜けていたの? 気が付かなかったけど」


「お前がエルミナ兄上とファラに叩きのめされているのを、指をくわえて黙って見ている事しかできなかった」


「ヤンク王子とアレミアさんに睨まれていたんだもの。迂闊に動けないのは仕方ないわ。私の方こそ、あなたからの注文を受けておきながら、それを果たしきれなかった。恥ずかしい限りよ」


 ミルスの目に、悔恨の色が滲む。


「……俺がもっと早く、アレミアを抑えるように動いていれば、お前はファラにも勝てていたはずだ。俺が動くのが遅すぎたんだ」


 リオは静かな微笑みを浮かべて応える。


「そうね、確かに遅かった。でも、あなたはヤンク王子とアレミアさん、二人を相手に負ける事を覚悟してまでアレミアさんを食い止めると宣言した。まともに考えたら、蛮勇もいいところよ。よく決断できたわね」


「お前があれ以上痛めつけられる姿を見て居たくなかった。あの時、あの場で出来る事を必死に考えて出した結論だ。蛮勇と言われようと、あの決断自体に後悔はない」


「形だけの妻を守る為に、勝ち目のない戦いを挑んだというの?」


「夫と認めない男の為に、お前だって必死に戦ったじゃないか」


 わずかな沈黙が部屋を支配した。


「……その発言、まだ気にしていたのね。もう私の目の前に、かつての腑抜けた男は居ないわ。今の貴方なら、私の夫の資格があると認めてあげてもいいわよ?」


「……だがお前はまだ、”リオ・マーベリック”なんだろ?」


「そうね……私にはまだ、”リオ・ウェラウルム”と名乗るだけの勇気も資格も覚悟もないわね」


「資格など、俺がお前を妻として認めた時点で満たしている。それで充分だろ?」


 リオが目を瞠った。円らな赤い瞳が、零れんばかりに見開かれている。


「……いつの間に認めていたの? 私はずっと、妻として認められていないと思っていたのだけど。認めていないから、別の部屋で寝てるんじゃないの?」


「……同じ部屋で寝ていたら、自分を抑えきれないと思ったからだ。お前に夫と認めてもらう前に、手を出すわけにはいかないだろう?」


 リオの赤い瞳が瞬き、頬が赤く染まる。


「……んー、そうね。さすがにまだ、あなたに身体を許す勇気は、私にはないかな。でも、同じ部屋で寝てくれないのは寂しいと思ってるの」


 ミルスの胸中で、愛おしさが膨らんでいた。目の前の愛らしい少女が妻なのだと、声を上げて自慢したい気分だった。

 抱き締めたい衝動があったが、傷ついた身体がそれを許してくれなかった。

 だがこれほど痛めつけられていなければ、こうしてリオが近くに来ることもなかっただろうという事も理解していた。


 複雑な表情になったミルスの顔を見て、リオが小首を傾げた。


「どうしたの? 難しい顔をしてるわよ?」


「ヤンク兄上にやられた傷がなければ、今すぐ手を出していたのに、と悔しがっているところだ。だがやられていなければ、こんな状況にもならなかったと思うと、感謝する思いもある」


「そんなに、身体を動かせないくらい傷が痛いの?」


「兄上は加減をしてくれなかったからな。腹も頭も痛くてしょうがない。癒してもらわなければ、数日は後を引きずるだろう。これじゃあ今日は、満足に手を出す事なんてできやしないさ」


 リオはしばらく頬を染めたまま思案をしていた。

 不意にリオが、膝枕からミルスの頭を下ろした。

 ミルスが慌てて声を上げる。


「待て! 手を出すってのは冗談だ! だからまだ膝枕は――」


 次の瞬間、リオはミルスと同じ布団に潜り込み、その胸の中にミルスの頭を抱き締めていた。


「――膝枕と今の状態、どちらがいいのかしら。聞いてみてもいい?」


「……今のままがいい」


「そう? じゃあ今夜はこのまま寝てあげる」


「くそ……兄上、やっぱり恨みます。これじゃあ生殺しだ。せめてリオの顔を間近で見てもいいか」


「それは駄目ね。今の私の顔なんて、それこそ見せる勇気がないもの。大人しく抱きしめられていて?」


「……明日もこうして寝てくれないか」


「それも駄目ね。明日は貴方の傷を癒してあげる。そうなったら手を出されてしまうもの。言ったでしょう? 私は貴方に身体を許す勇気なんて、まだないの。これは私を信じてくれた貴方への、今日だけのご褒美よ」


「……信じるのが遅くなって済まなかった」


「最後は私を信じてくれた。それだけで充分よ――ねぇ、明日は同じ部屋で寝てくれる?」


「……手を出さないで居られる自信がない。それでも構わないか?」


「そう――それじゃあ、寂しいけれどまた別の部屋で寝てもらうしかないわね。今日だけ、今夜だけは普通の夫婦らしく、一つのベッドで眠りに落ちましょう」


「こんな生殺しの状態で眠れる訳、ないだろうが。ああやはり恨みます兄上」


「ふふ……また同じベッドで眠りたくなったら、ヤンク王子にお願いして、ミルスを痛めつけてもらう事にするわ」


「リオ、お前嗜虐趣味でもあるのか?」


「そんなものは持ち合わせてないわよ。でも同じ部屋で眠りながら身の安全を保つには、それしか手がないじゃない? 恨むなら、自分の自制心の弱さを恨むことね」



 こうして妻は夫の体温を胸に、夫は妻の匂いに包まれつつ時間が過ぎ、部屋にはいつのまにか二つの寝息が聞こえてくるようになった。

 柱時計はただ静かに、夜の時を刻んでいた。





****


 ――日が昇り、うっすらと朝日が部屋に差し込んでいた。


 先に目を覚ましたリオが、時計に目を向ける――六時前だ。

 そっとミルスから距離を取ろうとして、両腕で抱き着かれている事に気が付き、つい頬が緩む。


「……いつのまに腕を回されていたのかしら。動けないほど痛めつけられていても、これだけの元気が残っていたのね」


 小声で呟いた後、そっと腕を外し、ベッドから降りた。

 何故だかこの腕を外すのがとても名残惜しいと感じたが、その想いよりも羞恥が勝った。

 昨晩、この形だけの夫は、自分を妻として、女として見ていると告げた。

 そんな男にこうまで抱き着かれているのが、無性に照れ臭くて堪らなかったのだ。


 一人でそっと制服に着替え、再びベッドの傍らに立ち、神の癒しの加護を強く祈る。

 寝ているミルスの身体が白く輝き、その光は朝の冷たい空気の中に静かに溶けて消えた。


 再びベッドから離れ、一人で化粧台の前に腰を下ろす。

 髪を静かに櫛梳くしけずり、姿を整え終わった自分の姿を見つめた。

 そこにはまだ十五歳の、一人の少女の姿が映っている。

 もうすぐ中等教育を終え、じきに高等教育がはじまる――そんな幼い少女の姿だ。

 一週間前から形だけは、一人の男の妻として在る、そんな少女の姿でもあった。


 この年齢で夫を迎える事になるとは夢にも思って居なかった。

 一か月前に愛する両親が自分の元から去ってしまい、その気持ちの整理がつかぬまま突如として夫が出来、心が慌ただしいまま、何も整理が付いていない。

 一つだけわかるのは、心にぽっかりと空いていた大きな穴が、いつのまにか埋まりつつある――そんな実感だけだった。


 鏡の中に居る自分に、小さな声で語りかける。


「ねぇ、あなたはまだ”リオ・マーベリック”なのかしら。それとも、もう”リオ・ウェラウルム”なのかしら」


 鏡の中の自分に問われたが、その問いに応える事はまだ、自分にはできそうもなかった。

 宝石箱から母の形見のペンダントを取り出し、静かに胸に下げた。

 母はこのペンダントを、どのような気持ちで身に着けていたのだろうか。いつかはその気持ちを理解できる日が来るのだろうか。


「ねぇお母さん、私はミルスをどう思っているのかしら……自分で自分がわからないの」


 形だけの夫なのだろうか。それとも正しく自分の夫として認めているのだろうか。一人の男として自分はミルスを見ているのだろうか――


 ペンダントは何も応えてはくれない。だがその輝きが胸にあるだけで、愛しい父と母が傍に居てくれるような気がした。

 もしかしたら母は同じように、この輝きを胸にしている間、父を傍に感じていたのかもしれない――そう思えた。


 ――まだ、自分には答えを出すことが出来ないのかな。


 小さく溜息をついた後、再びペンダントを宝石箱の中に大切にしまい込んだ。

 静かに部屋の扉を開け、外に控えていた使用人に声をかける――王族の部屋の外には、常に使用人と兵士が控えていると教えられた。この生活にも、まだ慣れそうにはない。


「ミルスはまだ寝ているわ。彼の傷はもう癒したから、起きたらそう伝えて――もう人払いは解いて構わないわ」


 そう伝えた後、部屋の外へ足を向ける。


「リオ殿下、どちらへ行かれるのですか?」


 使用人に問われ、少し思案してから応える。


「……庭を散歩して来るわ。その後はサロンで朝食までの時間を潰します」


 使用人が恭しく頭を下げ、控えていた別の使用人と兵士が一人ずつ、傍に付き従った――部屋の外では、基本的に一人にさせてくれないらしい。王族なのだから、身辺に人が居て当たり前なのだという。


 ――この生活にも、いつかは慣れるのかしら。


 リオは小さく溜息をついた後、使用人たちを伴って静かに庭に向かって歩き出した。





****


 リオが庭の散策を終えてサロンに辿り着くと、そこには制服姿のアレミアとファラが先に来て居て、静かにカップを傾けていた。


 驚いて目を瞠っていたリオに気が付いたファラが、優しく微笑みながら声をかける。


「おはようリオさん。待って居たのよ」


 リオは躊躇いながらソファに腰を下ろし、紅茶が給仕される様子を眺めていた。


「……ファラさん、待っていたって、どいうことかしら」


「なんとなく、貴方ならこの時間にサロンに来るような気がしていたの――それで、ちゃんと話し合えたの?」


「そうね。ミルスとはそれなりに、距離を縮められたような気がするわ。でもこの関係をなんと呼ぶのか、その答えが自分の中にはまだみつからないみたい」


 アレミアが静かに微笑んでリオに尋ねる。


「あら、あなたとミルスは夫婦なのよ? その関係は夫婦で構わないのではなくて?」


 リオが弱々しい微笑みを浮かべてカップに手を伸ばす。


「一週間前に出会って間もない男から突然”既に俺たちは夫婦だ、拒否権もない”なんて言われて、直ぐに納得なんてできないわ。両親が居なくなった事の心の整理もつかないうちから、色んな事が起こり過ぎて、私の心の中は何一つ整理がついてないの」


 言い終わり、静かに紅茶を口に含む――鼻腔を朝摘みの茶葉の香がくすぐっていく。


 アレミアが微笑ましそうに語りかけてくる。


「朝だからかしら? あれほど我の強いリオさんに、こんな弱い一面があるだなんて、早起きはしてみるものね」


 ファラも含み笑いを隠さずにそれに同意する。


「ふふ……本当ね。新しい義娘として迎えてくれた陛下を前にして”私はリオ・マーベリックよ”と啖呵を切って見せた、あのリオさんと同一人物とは思えないわね」


 リオはあの時の事を思い返し、わずかに頬を染めた。

 一国の王を前に”あんたの息子を夫とは認めていない”と公然と言い放ったのだ。礼儀も何も知らない平民の小娘だから出来た事とはいえ、それを笑って流してくれた陛下の度量に感謝するしかなかった。


「陛下には、いつかお詫びをしないといけないわね」


「心配しなくても大丈夫よ。陛下は一国の王であると同時に、あなたの義父でもあるんだもの。あなたの事情も理解しているし、心の整理が付くまで待ってくださる度量は持ってらっしゃるわ」


 アレミアもそっと言葉を添える。


「私たちも、新しい義妹としてあなたを歓迎しているのよ? 困ったことや悩みがあれば、いつでも気兼ねなく相談してくれて構わないわ」


 義妹と言われ、リオは心が温かくなったような気がしていた。

 目の前にいるこの二人は、自分の義姉なのだという実感が、ようやく少しだけ感じられたのだ。


「……ファラさんとアレミアさんは、つがいに選ばれた時に心の整理をどうつけたんですか?」


 ファラが静かな声で応える。


「私たちは巫女探しの儀で選ばれたの。その儀式に参加する時点で、つがいとして選ばれても構わないという覚悟が出来ていたのよ。そこがリオさんとは違う所ね。あなたはあの日、突然創竜神様からつがいとして認められてしまった。知識も覚悟もないうちにつがいとして認められたあなたが混乱してしまうのは、仕方がないわ」


 躊躇いがちにリオが切り出す。


「……実際につがいとして選ばれてから、ヤンク王子やエルミナ王子に対して戸惑ったり幻滅したりはしませんでしたか?」


 アレミアが優しい笑みを浮かべながら応える。


「ヤンク様は見た目通り、表も裏もない方だったわ。だから戸惑うことも幻滅する事もなかった。私はその事に関しては恵まれていたわね」


 ファラが苦笑を浮かべながら応える。


「私は、己を見失っていくエルミナ様を妻として支えることが出来なかった。その事を恥じることはあるわね。でも、きっといつかは立ち直ってくださると、固く信じても居たの。だから幻滅まではしていないと思うわ――リオさんは、戸惑ったり幻滅したりしているの?」


「……最初は”なんだこの腑抜けた男は”と思っていたのは確かね。だから夫と認めることが出来なかった。でも今は、夫として認めても構わない――そう思ってる自分が居るみたい。そんな自分に戸惑っているとは言えるかしら。それに昨晩、ミルスから私の事を妻として認めていると言われたわ。そのことも、私はまだ戸惑って整理できていないみたい」


 ファラが優しい眼差しでリオを見つめた。


「自分が女として見られる事に、まだ慣れていないのかしら?」


「有り体に言えばそうなりますかね――というか、私の年齢でそれに慣れていたら、逆に怖くありませんか?」


「ふふふ……確かにそうかもね。女として見られることも、男として見る事も慣れてない。それで戸惑うのは仕方ないわね」


「……ファラさんとアレミアさんが女として見られ始めたときは、どうしたんですか? それはいつ頃でした?」


 ファラが嬉しそうな笑顔で応える。


「あら、それを聞いちゃう? そうねぇ、例えば私は――」


 早朝から中々ディープで赤裸々な話題が語られ、リオは顔を真っ赤にして真剣に耳を傾けていた。





****


 ――朝食の席。


 リオが食堂に入ってくると、既にミルスが先に席に着いていた。


 それを確認したリオが先に声をかける。


「おはようミルス。まだ痛い所はある?」


「おはようリオ。すっかり治ったよ。だが、起きたときに既に居なくなっていたから、かなり寂しい思いはしたな」


 苦笑をしながらリオが席に着く。


「あれほど動けないとアピールしていたのに、ちゃっかり両腕で抱き着いてくる人から早く逃げたかっただけよ」


「やはりバレていたか。あそこまで腕を動かすのも相当きつかったんだがなぁ」



 朝食を口に運びながら、明るい会話が食堂に響いていた。

 その空気が新鮮で、自然とリオとミルスの顔が綻んでいく。


「ミルス殿下、僭越ながら申し上げます。そろそろ出立しませんと学院に間に合わなくなります」


 控えていた侍従の言葉で、ミルスが時計に目を向ける。


「おっと、うっかり時間を忘れてしまったな――さぁリオ、行こうか」


 リオが明るい笑顔で頷き、立ち上がる。

 そのまま時折会話を交えながら馬車に乗り込み、車内でも会話が続いていた。



「――なんだか不思議ね。昨日までとすっかり世界が変わってしまったかのよう」


 ぽつりと漏らしたリオの言葉に、ミルスが笑顔を向ける。


「俺もそう感じるよ。少なくとも今、俺の目の前に居るのが”リオ・ウェラウルム”だという実感がある。だからかもしれないな」


 リオが目を瞠ってミルスを見つめた。


「……私はそう名乗っても構わないのかしら」


「……お前がまだマーベリックでありたいというなら、俺にはそれを止める権利はない」


 少し寂し気な笑顔に変わったミルスがそう告げた。


 リオは静かに首を横に振った。


「ありたいと思っている訳じゃないの。まだウェラウルム王家を名乗る自信がないだけよ」


「では、何の問題もない。お前はリオ・ウェラウルム第三王子妃。正真正銘、俺の妻だ。自信がないだなんて、リオらしくない。いつものお前のまま、ウェラウルムを名乗れば良い」


「……私らしく、か。そうね、確かにこんな態度、私らしくなかったわね。あなたの妻として、今日から胸を張って王家を名乗る事にするわ」


 ミルスに再び輝かんばかりの笑顔が戻る。


「――どうだ? お前には、目の前の男が夫である実感はあるか?」


 リオが赤い瞳を瞬かせ、ミルスの瞳を見つめた。

 そして微笑みを乗せて応える。


「私はリオ・ウェラウルム。貴方の妻よ? ならば貴方は我が夫。そこに一抹の不安もないわ」








短編3部作になっちゃいました。


『番の巫女3~伴侶としては慣れてきました/嫉妬って怖いんですね~』

https://ncode.syosetu.com/n2528ii/


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