お詫びは身体・・・・・・じゃなくて、パン屋のお手伝いで!
エディッタちゃんに魔法を使ってみろと脅さ……催促されて使ってみた。
結果。部屋の中が水浸しになった。
「どうしてくれるのチェレスっ!」
「知るかぁっ!」
結局、隣のパン屋から飛んできたエディッタの両親も加わって総出で家の掃除をすることになった。
「今日は空の日だから六の鐘から売れ時だったのに、五の鐘も鳴る前に店仕舞いなんて」
「わざとじゃないって何度も言ってるじゃない。それに私に魔法を使えって言ったのはエディッタちゃんでしょ!」
「誰がただの水魔法であんな量の水を出すと思うの!?」
そう、結果から言えばチェレスティーナは魔法が使える部類の人間で、エディッタとは比べ物にならない量の水を出した。……いささか出し過ぎた。
水桶は瞬きする間に限界を迎え、水流は全く勢いを殺さず部屋全体に行き渡り、テーブルと椅子はぷかぷか浮かぶし、暖炉に残っていた煤は水に溶けてそれを黒く汚した。チェレスティーナとエディッタも地に足をついていられず、なるべく壁に張り付くようにして水流に抗う始末であった。
「外にいきなり水が流れ出した時には目を疑ったよ。何事かと思って出てみればうちから水が流れ出ているんだからね。うっかり心臓が止まるところだったよ」
エディッタの母親のパオラが言うには、ここから流れ出た水が川のようになって道を歩いている人たちを押し流していたらしい。幸い最も威力の弱い水魔法だったお陰でそれほどの距離を流されたわけではなかったようだが、それにしても迷惑な話である。
まさかそこまで迷惑かけてたなんて……巡時代(と呼ぶことにした)では極力人の迷惑にならないようにしてたし、チェレスティーナになってからもそうしようと思ってたのに、現実は上手くいかないなぁ。
―――この時チェレスティーナは知らなかった。巡時代に悪目立ちせずいられたのはそのポテンシャルがどこを取っても平均的で伸びしろがなかったからであり、チェレスティーナの身体に入った今ではそんなものは全く何の安心材料にもならないことを。これからはそんな暢気なことを願っていられる人生ではないということを。
……知らないというのは幸せだ。本当に。
「まあ、あれだ。嬢ちゃんにこんなことはあまり言いたくないが、家がこんなことになった上に稼ぎ時の前に店仕舞いってのは、まあかなり痛手なんだな。といっても金を払えとも言えないし、どうするかな……」
エディッタの父親のエラルドがそう言って悩み始める。
確かに今回の件で最も損益を被ったのはエディッタたち家族である。元々古くなっていたところに水流の勢いが加わったテーブルは脚が一本折れていたし、床もどろどろだし、暖炉用の薪も駄目になってしまった。パン屋の方も早めに店仕舞いしてしまったので売り上げがかなり減ったらしい。
しかしチェレスティーナは一文無しであった。
エディッタが発見した時には既に持ち物は何もなかったようなので追い剝ぎか何かに盗られたのだろう。そして今の服装は下着で、生地はいいものを使っているとエディッタが言っていたが、ものがものなので売るわけにもいかない。そもそもぼろぼろのどろどろで売れる状態ではなくなってしまっている。
つまりお金を払おうにも払えない。何かを売ろうにも売るものがない。
そういう時はどうするのか、幸いチェレスティーナは知っていた。
「それじゃあ身体で払います!」
「「「人聞きの悪いことを言うなあっ!」」」
エディッタ、パオラ、エラルドの三人にこんこんと女の身体の価値とこの世界での年端のいかない少女の扱いを説かれた結果、ふた廻り(二週間の意)隣のパン屋で売り子をすることで勘弁してもらえることになった。
しかも一文無しでは生きていけないだろうと、ふた廻り目からは給金も払ってくれるらしい。なんともお人好しな家族である。
「チェレスもこれから大変だと思うけど、私がちゃんとここの常識を教えてあげるからね!」
小さい胸を張って言われたので、さっきのは日本でもそれなりに当たり前の認識だということは黙っておいた。
常識。どこの国でもどこの世界でも、そこに溶け込んで生きていくには必須のもの。巡時代に周りに擬態して目立たないように生きてきた自分であれば、常識を覚えて『郷に入っては郷に従え』を実践できるようになるのもそう難しくない、とチェレスティーナは信じていた。
え、さっきの水魔法はどう考えても常識の域を超えてる?
……ま、まあ大丈夫だって。エディッタちゃんと比べてって話だし、意外と中央に行ったら平均レベルかもだし。
ちなみにベッドは家族共用だった。ちゃんと端っこに陣取って、エディッタちゃんの隣であることを確認して寝た。起きたらエラルドさんが覆いかぶさってた。なんで!?
気を取り直して朝ごはん、と思ったらここのパン硬すぎるよ! エディッタちゃんがおすすめの食べ方としてスープに浸して見せてくれたけど、こんな味の薄い野菜スープに浸したら美味しいも何もないでしょ!
え? オリーブ油をかけると脂質が摂れる? ってあんまりおいしくない! バターは高いから家では使えないの? くぅっ、残念過ぎるっ!
……チェレスティーナがここの常識に馴染むのは少し、いや割と、いやかなり、大変な道のりになりそうであった。
今日は星の日で休日なのでお客さんの入りがいいらしい。休日ならば家で食事を作る時間があるのであまり売れないのかと思ったら、このパン屋は割と高級志向で休日にこそ買い求めるお客さんが多いのだとか。
「チェレス、あの人がフロリア商会の料理人ね。あの人自体は下っ端も下っ端、ほぼ入りたてみたいなものだけど、フロリア商会の一族は舌が肥えてるってことで有名だから、わざわざうちのパンを買いに来てくれてるの。上手くやればチップもくれるよ」
エディッタがとても料理人とは思えないほど痩せている割にはそれなりの身なりをしている男性を示した。流石に料理人の買い出しに馬車は出せないのか歩きである。店に入ると、さまざまな種類をほんの少しずつ陳列してあるパンをじっくりと見始める。
しばらく経つとちらりとエディッタの方を見やった。エディッタと違ってきちんとした身なりをしていないからか、隣にいるチェレスティーナには目もくれない。さすがに下着姿は駄目だと三者三様に止められエディッタのお古を貸してもらったのだが、つぎの当たった服ではお眼鏡にかなわなかったらしい。
「じゃあチェレス、見ててね」
そう囁いてエディッタは料理人の方に素早く移動する。完璧な営業スマイルで一言二言交わしたあと、奥からずらりとパンの載った天板を持ってきた。陳列棚にはないものがある。
「こちらが焼き立てのものです。白パンには蜂蜜が練りこんでありますので少々お値段は張りますが、きっとフロリア商会の皆さまにお喜びいただけるかと。新作ですのでまだこの町のどなたも召し上がったことのないお品ですよ」
新作である蜂蜜白パンを勧めた後もいくつかパンを紹介するが、料理人の心は蜂蜜白パンに決まったようだ。いつも買っているらしい丸パンと新作の蜂蜜白パンをたくさん購入し、エディッタに硬貨を握らせて去っていった。
「と、こんな感じ。分かった、チェレス?」
「エディッタちゃん、敬語使えたんだねぇ」
「もっと他に見るとこがあるでしょ……ってそんなこともないか。普通の小売りとか職人がやってるお店では敬語なんか使わないしね。でもうちは別だよ」
エディッタの家のパン屋は高級志向で特に大きい商会に贔屓にされている店のため、行儀作法や言葉遣いは接客で最も大事なことなのだ。むしろそれがきちんと出来ているからこそ贔屓にしてもらっている面もある。
「うちの父さんはほら、無駄に凝り性だから庶民向けのパンなんか退屈で作りたくないの。だからいっそのこと上級市民向けのパン屋を開いてやろうって思ったらしくて。作法とか身につけるの本当に大変だったみたいだよ」
「へえ……エディッタちゃんも大変だったの?」
「私はそんなでもなかったかなぁ。生まれた時からお店があったし、そこで接客してる父さんと母さんの様子も見てたしね。それにチップがもらえるのが割とやる気になるんだ」
そう言ってエディッタは先ほどもらった小銀貨一枚をエプロンのポケットに入れた。
「あれ、小銀貨もらったの? 意外と太っ腹だね」
いくら接客がちゃんとしていたからといってたかが子供にほいほいやる金額ではない。
フロリア商会に売ったことで解禁となった蜂蜜白パンを陳列棚に並べながらエディッタに聞いてみる。
「……チェレスさあ、今並べてる蜂蜜白パンがひとついくらか知ってる?」
「え? 朝教えてもらったばっかりだよ、流石に覚えてるよ。えっとね、確か小銀貨3枚……小銀貨3枚!?」
「覚えはしても理解はしてなかったんだね……」
有り得ない。小銀貨3枚ということはつまり日本円換算でおよそ3000円ということだ。たかがパンに? 日本のロールパンくらいの大きさしかないこのパンが3000円?
いや待って、さっきの料理人の人、このパンいくつ買ってった? 10個くらいだっけ……ってことは中銀貨3枚分ってこと!? たかがパンに!? そんなにフロリア商会の人たちグルメなの!?
確かに蜂蜜白パンがそれくらいで、それをいくつも買えるほどの人なら小銀貨一枚を子供にチップにあげてもダメージは少ないだろう。いや、依然として金額は大きいけれど。
考えられない金銭感覚に目を回していると、やっぱりねという風にエディッタがため息をついた。それほど気を回す必要のない庶民の客を捌きながら説明してくれる。
「あのね、あの蜂蜜白パンってあの値段でもほんとは赤字なの」
「赤字!?」
「そう。チェレスが前いたところじゃ違うかもしれないけど―――って覚えてないんだっけ。まあいいや、とりあえずうちの国では蜂蜜がすごく高価なの。ひとさじで小銀貨とも中銀貨とも言われてるくらいなんだから」
高い。高すぎる。巡時代にひと瓶500円のアカシア蜂蜜をおやつ代わりに舐めたこともあったが(それなりに美味しい)この世界ではそれすら贅沢の類に入ってしまうらしい。
まあ養蜂とかないなら仕方ないかもなぁ……。
「それと、そもそもいつも使ってる小麦じゃ白パンにならなくて、もっと高いやつを使わなくちゃいけないの。それもここの町の近くの村じゃどこも作ってないから仕方なく遠いところから運んでこなくちゃいけなくて。『ゆそうひ』が嵩むって父さんが言ってたよ」
通常のパンの材料もそこそこのものを揃えている上に上質な蜂蜜と小麦を使っているなら、小銀貨3枚では確かに赤字である。というか普通のパンももしかしたら赤字か黒字ぎりぎりなのではないだろうか。
「チェレス、正解。うちのパンってどれもすごくいいものを使って丁寧に作ってるのに、父さんは材料費以上の代金を取ろうとしないんだよ。赤字の時も多いしさ。母さんも父さんがそういう方針なら、ってそれに従ってるし。私も別に不満はないけど、お昼のあとに採集に行かなきゃいけないのは面倒なんだよねぇ」
「採集?」
パンの材料を採集しに行くのかと思ったら、なんと山菜や木の実を採ってきて家族用の食事にするらしい。朝食べた野菜スープに入っていた葉っぱの切れ端のようなものもエディッタが採ってきたのだという。
「い、市場とかに行くことはないの?」
「山で採れないやつが食べたい時はそうすることもあるけど、めったにないよ。豚はご近所さんと一緒に放し飼いにてあるやつを狩るからお肉には困らないしね。家用の小麦が足りない時は粟で増量してお粥にしたりとか、まあいろいろ工夫してるわけ」
巡時代に比べると涙ぐましすぎる努力を凝らした食生活である。パンが主食のこの世界では、お粥は病人や孤児に食べさせる粗末な食事という認識だ。それを日常的に食べることも厭わないエディッタたち家族は、まさに生活の中心がお店なのだろう。
そのあともいくつか重要な商会や裕福な顧客を教えられながら業務をこなし、穏便にとはいかないまでも先日の魔法騒ぎに勝る騒ぎは起こさずに一日を終えた。
エディッタのパン屋で働き始めて数日後、少し異色の客が訪れた。
背中ほどもある銀髪、握りこぶしほどの綺麗な宝石のついたリボンで留めてあるローブ、大きく重そうなブーツ。今までに見たことのない種類の人間である。
「あ、クラリッサさん! 久しぶり、遠征依頼はどうだった?」
「あら、エディッタ。元気そうで何よりね。遠征はやっぱり金策に時間を取られるけどそこそこ楽しかったわ」
なんとエディッタは彼女と知り合いらしい。敬語を使わず親しそうに言葉を交わしている。
「そうだ、クラリッサさん。この子、期間限定でうちで働くことになったの。チェレスティーナだよ」
ぼうっと二人を眺めていたらいつの間にか紹介されていた。失礼がないようにお辞儀をしようかとも思ったが、日本のお辞儀がここでも通用するとは考えにくい。
……可能性があるとしたらカーテシーかな?
ふとそう思ったチェレスティーナがぎこちない動きで昔テレビで見たっきりのカーテシーをすると、クラリッサは少し驚いたような顔をした。
「お行儀のいいお嬢さんね。私はクラリッサ、魔術師をやってるわ。この間まで遠征依頼を受けて南の方まで行ってたんだけど、戻ってきたの。よろしくね」
「はい、よろしくお願いします。……あの、つかぬ事をお伺いしますが、魔術師って何ですか?」
魔術師。非常に心躍る職業である。エディッタの家をめちゃめちゃにしてしまったことで忌まわしき記憶に入りかけていたが、そういえばチェレスティーナは魔法が使えた。どの程度なのかはまだ分からないが、この先魔術師として生計を立てていくことも不可能ではないかもしれない。
チェレスティーナはいずれここを出て行かなくてはならない。エディッタたちの厚意でしばらく泊まらせてくれるかもしれないが、この前の話からしてもこのお店にもう一人売り子を雇うのは無理だと思う。もうそろそろ自立の目途を立てておきたいところである。
「チェレスちゃん、魔術師に興味があるの? いいわ、教えてあげる」
クラリッサが説明してくれたところによると、魔術師には二種類あるらしい。
ひとつめは冒険者として各地を巡る魔術師。どこにも雇われず、冒険者ギルドを通して依頼を受注し生計を立てる。マルファンテ領のような田舎では多いらしく、クラリッサもこちらだ。安定しているとは言い難いが、政治に深い関わりを持たなくてもいいところが魅力だ。
ふたつめは権力者に長期的に雇われる魔術師。商業ギルドを通して雇用契約を結び、決められた業務をこなすことで安定した給与を得られる。中央に特に多く、数多くの魔術師がこちらを選ぶらしい。中央には卒業後中央で雇われることを前提に魔術師を養成する学校もあるという。
貴族はまた別の特殊な魔術師になるらしいが、チェレスティーナやクラリッサには関係のない話なので割愛した。
「でもどっちにしろ魔力量が多くて、更に滑らかでないと話にならないわ。魔力効率は上げられないこともないけど効果が微妙だし、生まれつきの部分が大きいわね。チェレスちゃんはどれくらい魔法が使えるの?」
「えっと……水魔法を使って出た水は、このお店一杯分くらい?」
過少申告してみると、クラリッサは眉にしわを寄せてこちらを覗き込んできた。
……ちょっと少なすぎたのかな。
「ほ、ほんとは外にも流れ出ちゃって大変なことになりました」
今度こそしっかりと申告したはずなのだが、クラリッサの眉間は全くその丘陵を崩そうとしない。
心配になったのかエディッタが補足してくれた。
「クラリッサさん、チェレスは初級水魔法でそれくらいの水を出したのよ」
とうとうクラリッサに頬を掴まれてしまった。意味が分からない。そんなに才能がないのだろうか。
「あのぅ、少なすぎましたか……?」
「少なすぎたかですって!? チェレスちゃんあなた、常識ってものを知りなさいよ!」
そして何故か怒られ始めた。ばんばんと陳列棚を叩くので周りの客が驚いている。
営業妨害は見過ごせないエディッタがクラリッサとチェレスティーナを外に誘導し、何故かチェレスに常識を教えてあげて、とお願いしていた。なんだか問題児扱いだな、私。
「いい、チェレスちゃん。私は魔法学校こそ卒業してないけどそこそこの魔術師なの。ギルドではCランクに分類されてて、ひとりで遠征にも行けるくらいのね」
「は、はい。分かりました」
「じゃあそんな私が水魔法を使ってみるわね」
念を押されて訳も分からず頷くと、クラリッサが前方に右腕を伸ばし、掌を上に向けて詠唱を始めた。
「水の神よ、ここに出でて我らに恵みを与えたまえ!」
みるみるうちに掌に水球が形成される。緻密に魔力を練りながら通しているようで、水球は徐々に大きくなり、クラリッサの顔くらいの大きさになると成長を止めた。
「いい、チェレスちゃん。これが初級水魔法での私の限界。Cランク魔術師の私の限界よ」
青ざめた顔でクラリッサが何度も繰り返して言うと、チェレスティーナもだんだん理解してきた。
……私の魔力、多すぎるんだ。