最終話
肌寒く、固い土が続く荒野。
馬が食んだ後の野草が踏み固められていた。
それでも道は広く長く続き、ちらほらと人の営みを感じる光が、遠くに見える。
「お体が冷えます。幕舎へお戻りください、陛下」
「止めろ止めろ。俺はもう皇帝じゃないし、そもそも似合わん」
若い兵士の言葉に、老人は心底嫌そうな顔で首を振った。
体中に残る数多の戦傷が、陛下、そう呼ばれる老人の戦歴を物語る。
「知ってるか? 小僧。この涼州は、昔は戦の絶えない土地であった。人というより、獣が生きる、弱肉強食の土地であった」
「存じております。そして、陛下が乱を治め、この地が天下統一への足掛かりとなったことも」
「天下、ねぇ」
老人は鼻で笑い、空を見上げる。
既に日は沈み、数多の星々が輝いていた。
☆
「殿下、ご報告が」
「翠幻か。同席は荀攸だけだ、気にするな」
「我が軍に加担するはずであった豪族の中で、韓遂に人質を取られた者が複数。張済殿は対応なさいましたが、韓遂の方が上手でした」
「なっ……殿下、これでは身辺に敵を置くようなことに」
「先手を打たれたな。まぁ、ここはアイツの庭だ、無理もない」
荀攸は慌てて身を乗り出すが、劉協がそれを抑えた。
上の人間が狼狽えれば、それは不思議と下にまで伝わってしまう。
「どこの部族が人質を取られたのか、それはもういい。予定は変えない、このまま進軍する。翠幻、お前にはもうひとつ聞きたい」
「なんなりと」
「人質の奪還は可能か」
「まず、不可能です」
「殺す事は」
目を開き、荀攸は息を飲む。
翠幻は顔色一つ変えず、そのまま頷いた。
「全員を殺してくれ。一つだけで良いから、首も持って帰ってこい。これで、我が軍は強固になる」
「御意」
「よろしいのですか、殿下。私は、賛同いたしかねます。人道的な話ではなく、単純に、殿下の歩まれる道は、あまりにも人の恨みを背負い過ぎる」
「天下を志すのだ。人一倍の怨嗟を受ける覚悟など、既に出来ている。覚悟が無ければ、董卓を押し倒してまで、自分の足で立とうとは思わない」
翠幻はそのまま闇に消える。
もう、動き出した時は止まらないのだ。
既に、陣は敷き終わった。
敵は両翼、中央前衛に騎馬を配置する、匈奴の力を前面に押し出した形だ。
総勢は四万と聞いていたが、それよりも多く見えるな。これも、馬超の名声の成せる力か。
こちらは小さく魚鱗の形に固まり、前面には丸太で組んだ馬止の柵を並べる。
騎馬はあくまで後方に置き、勝負所を見て、全てを投入するようにした。
「おぉ、閻行よ、よくぞ、よくぞ来てくれた! 天はこの戦で、我が軍に一騎当千の猛将を与えたもうた!!」
「殿下……あまりに、勿体なきお言葉。この閻行を始め涼州豪族一同、総力を挙げて殿下にお味方し、憎き韓遂を討ち果たす所存で御座います!」
閻行を始めとした豪族が到着するや否や、俺は着の身のまま幕舎を飛び出し、彼らの肩を握った。
皆が皆、涙を流し、その瞳には抑えがたいほどの怒りを漲らせている。
彼らは、韓遂に人質を取られた者達だ。
妻や子供、親族、そういった者達を人質に取られ、そして、俺が殺した。
戻ってきた首を見ては血の涙を流し、彼らはひたすらに韓遂の首を取るべく怒りに身を染め、この軍に加わってくれた。
そしてそんな者達を焚きつけ、再び死地へ投じようとしているのが、俺だ。
勝つためなら、いくらだってこの魂を悪魔に売ってやる。
「誇り高き漢王朝の将兵よ! 我が友よ! 共に血を流さん、共に命を捨てん! 必ず勝たせてやる、俺に付いて来い!!」
大いに沸きあがる喚声。
それは荒野を埋め尽くし、天を穿つ。
機は熟した。
その熱量に促されるままに、たまらず先に動いたのは敵の方だった。
「荀攸、敵が動いたぞ」
「後は全てお任せください。殿下は勝機のみを見定めて頂ければ結構です。まずは、馬騰殿のお手並みを拝見します」
正面の馬止の柵を嫌い、両翼の匈奴騎馬兵は左右に大きく広がって包み込み、こちらに雨の様な矢を放つ。
馬騰が手を挙げる。
兵は一斉に盾を構え弓矢を防ぎ、今度はこちらから四方八方に撃ち返す。
その動きに隙は無く、兵はよく訓練され、馬騰の息子達の指揮にも一切の淀みがない。
「こちらの弓矢は、以前、殿下より教えて頂いた鏃を用いています。匈奴が相手です、出し惜しみはしますまい」
刺さった矢は根元が折れて、鏃が肉に残ったまま、抜くことは出来ない。
しかも先は錆に覆われ、死ぬ事は無いが、患部は壊死するような痛みに襲われる仕組みだ。
毒で即死させないのは、撃たれた兵を担いで逃げる兵も含めて、一本の矢で二人を無力化出来るから。
この武田軍のやり方を忌み嫌った徳川家康は、配下に矢の付け根を緩める事を禁じたとか。
馬が暴れ、匈奴兵はその場にバタバタと倒れていく。
このままだと無駄な犠牲が増えると思ったのか、匈奴兵は左右より一斉に突撃を開始した。
左右には柵を敷いていない。
ただ、これも荀攸の策の一つであった。
「長槍、前に!!」
馬騰の指示で盾隊が下がり、五メートルにもなろうかという長槍が前面に押し出され、突撃を開始。
これでもかというほど密集された槍先に次々と騎馬隊が突き刺さり、衝撃は相殺される。
馬の足が止まる。
それを見て、歩兵が一気に溢れ出し、匈奴兵に殺到した。
長槍というよりは、これは「パイク」と呼ばれる対騎兵の槍の一種である。
先をどんどん鋭く尖らせた形をした棒であり、これを密集させるだけで騎兵の突撃を相殺できる。
前々から、匈奴兵に対抗するべく、必死に俺の記憶をフル回転させて作った、ヨーロッパで使用されていた部隊である。
「荀攸、勝機が見えた。全軍の指揮は、お前と馬騰に預ける。最初が上手くいったからとて、匈奴は強い。気を抜くな」
「御意。徐晃! 殿下をお守りせよ」
「ハッ」
真赤の衣を羽織り、馬に跨る。
敵の方も同じだ。白銀の鎧を身に纏った馬超の姿が、ハッキリと見える。
涼州豪族と、白波賊の騎馬兵が俺の後ろに控えていた。
前方の歩兵が割れる。
正面に、道が出来る。
「────突撃!!」
互いの両大将が、同時に飛び出した。
敵は両翼に戦力を割いている。正面の兵力は、こちらが上。
「閻行! お前は衝突後、涼州部隊で敵本陣を叩け! 徐晃! 突貫部隊を前に出せ!!」
決して後退する事のない勇猛な兵が前面へ躍り出て、閻行は後方へと下がる。
馬超も決して逃げる事は無く、速度を増し、雄たけびを上げた。
騎馬が、衝突した。
骨が砕ける音が響き、兵士達はその衝撃で宙を舞う。
徐晃が大斧を振るった。
前面の敵が一掃され、嵐の様な血飛沫が躍る。
ぶつかり合いはこちらが押し込まれた形であったが、徐晃はそれを一人で押しとどめ、五分にまで持ち直す。
剣を抜く。
前を向け。
進め。
もう、頭の中には何も浮かばない。
ただ目の前の敵を斬る。
その想いだけが全身を染める。
「俺と戦え! 劉協!!」
「殿下の元へは行かせん」
ついに、馬超が前に出た。
白銀の鎧を朱に染め、鋭くも美しい槍の矛先が光る。
対するのは巨岩を思わせる勇将、徐晃。
ぬらりと血塗られた大斧は、ただ、目の前の敵を屠る為に存在するかのような狂気を孕む。
斧が轟音を上げ、馬超に迫る。
しかしその刃は、届かない。
馬超側近の部隊長らが、複数人がかりで徐晃の行く手を阻む。
「お前を相手してる時間はないんだよ」
「貴様ッ」
馬超は単騎、徐晃の横をすり抜けた。
もう、二人の間には何も、邪魔するものは存在しない。
俺が笑い、馬超も笑う。
この馬超の姿に、呂布を重ねろ。
過去を乗り越えろ。
剣を、力強く握った。
矛先が俺の心臓を捉える。
まるで閃光の如く、槍が突き出される。
それでも俺は止まることなく、むしろ、一気に前に出た。
槍先は俺の肩を穿ち、鎧ごと貫く。
剣を振るう。
思わず、馬超は槍を手放し、馬ごとその場に倒れ込む。
幸い、肩は動く。肉が少し抉られただけだ。
馬超もすぐに立ち直り、剣を抜く。白銀の鎧はボロボロに破れていたが、無傷に近い。
「これが戦か! 群雄が、お前が、想い焦がれる意味が良く分かる!!」
「俺に降れ! 馬超! 共に天下を駆けようじゃないか!!」
「ハハハッ!! 今まさに死合ってる相手に、やっぱりアンタは狂ってるよ! 俺に勝てたら、考えてやる!」
再び馳せ違い、甲高い剣の音が響く。
馬超は首を翻し、俺の後ろに馬を付ける。
そしてやがて並び、駆けながら剣を振るう。
自然と周囲の兵は、この一騎打ちの邪魔をするまいと、広く空間を開けていた。
混雑し、怒号の飛び交う戦場の中心で、ぽっかりと穴の開いた静寂な荒野。
両軍の兵士が見守る。
自分の大将が、負ける訳がないと。
うちの大将こそが、本物の英雄なのだと。
赤き衣が引き裂かれ、背に一閃が刻まれる。
銀の甲冑が跳ね上げられ、眉間に深く傷が走る。
「くっそ、古傷をまた……」
「まだまだ、終われないよな!? こんなに楽しいのは初めてだ!!」
「お前も十分に狂ってるよ」
とは言え、俺も、馬超も息は上がっている。
馬の疲労も激しい。
これで最後だ。
お互いに語らずとも、それは感じ取っていた。
再び馬が駆け出す。
手綱を手放し、両手で剣を握る。
ブチブチと全身の筋肉が悲鳴を上げる。
獣の様な雄叫びが喉を焼く。
「「────ドオオオラアアアァアァ!!!!」」
克ち合う剣。
全力を込めて、馬は馳せ違い、駆け続ける。
勢いそのままに宙へ放り出され、剣を折ったのは、馬超であった。
白銀の鎧も引き裂かれ、馬超は高く空を舞い、地面に叩きつけられる。
「まだ、戦うか。馬超」
「はぁ、はぁ……勘弁してくれ。降参だ」
白く輝く「馬」の旗が、下ろされる。
高く天に掲げられるのは、赤き龍が象られた「漢」の一文字。
「勝鬨を挙げろ!!」
勝敗は決した。
こちらの本軍に襲い掛かる匈奴兵の足は止まる。
閻行が襲い掛かっていた韓遂本軍も、その勝鬨と共に、一気に崩れる。
「伝令です! 閻行将軍が、敵将、韓遂を捕らえました!!」
「俺に降るかを問え。断れば、その場で斬れ」
「ハッ」
戦は、終わった。
後に閻行より届けられた韓遂の首は、陣中に晒された後、手厚く葬られたという。
劉協の覇道は、ここに一歩目が踏み出された。
続く匈奴との戦も、勢いを増す官軍が尽く打倒し、劉協は西涼に確固たる地盤を築く事に成功。
この地で育てられた西涼騎馬兵はその後、天下で猛威を振るう事になるが、それはまだ少し後の話。
☆
空は広い。
目に見える場所だけが、天下ではあるまい。
しかし、それは口に出さない。
若き兵士は、不思議そうに首を傾げる。
「多くの群雄がこの中華を駆け抜け、乱世を燃やし、そして……俺が生き残った。この寒々とした大地を踏みしめると、また、この熱き血潮が疼きだす」
老人は手を空に伸ばした。
「まだ、星は掴めんなぁ」
「はい?」
「天が俺を選んだ。ならば、まだ、歩みを止める訳にはいかんじゃろうて」
もっと、もっと高く、それこそあの星空を掴み取れる程に。
まだまだ、龍は高く昇れるはずなのだ。
「俺の天下取りは、こんなところで終わりはせん。ヘヘッ、まだまだ道は半ばじゃ」
荒野を踏みしめる。
数多の兵が眠るこの大地に、いつか自分も眠る日が来るまで。
この歩みは、止まらない。
季漢史を記した蔡皇后はこう綴る。
光文帝「劉弁」は、拡大する領土の全てに目をやり、あまねく治め、後世に残る治世を築き、天下を平定した後に劉協へと皇位を譲った。
狂武帝「劉協」は、その類稀な軍才と、驚異的な武威でもって、常に戦場に身を置き続け、ついに天下をその手でもって平定するに至った。
董卓により一度は滅びかけた「漢」が再興できたのも、この二人の皇帝の力によるところが大きい、と。
光文帝より譲られた帝位を、狂武帝はすぐに光文帝の長子へ譲ると、反対する重臣らを無視し、再び戦場へ戻った。
老いてもなお先陣に立って戦場を駆け、異民族を平定し、外国にまで進出。
その武力は天下を轟かせ、漢王朝は歴史上でも類稀な、広大な領土を獲得した。
これにより漢は数百年にも渡り、強大国としての地位を揺ぎ無いものとする事となった、と。
ご愛読ありがとうございました。
自分の作家人生で初めてでした。これほど多くの方々に物語を読んでもらえたのは。
言葉では言い尽くせない程の、感謝の気持ちでいっぱいです。
今現在、「三国志」についての新作を作っている最中です。
発表までは今しばらくお待ちいただけると幸いです。
再び相まみえること叶いましたら、是非ともよろしくお願い致します。
本当に最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
重ねて、読者の皆様にお礼申し上げます。
面白かったら是非とも、ブクマ、高評価、作者のお気に入り登録、どうぞよろしくお願いします!
それではまた。