84話
あの日から、蔡文姫との仲はすっかり良好になっていた。
というか、蔡文姫の機嫌がすこぶる良いだけで、正直言うと、俺はあまり気が気でない。
「あの、またですか、なんですか」
呆れた顔を浮かべるのは、翠幻である。
おい、その目は止めろ。可哀想な人間を見る目だぞそれは!
「見てしまったんだ……頼む、蔡文姫の部屋にある竹簡を全て燃やしてくれ」
「意図はあえて聞きませんが、まず無理です。どうしてもというなら、奥方様を消さないといけませんが」
コイツが言うとほんとに洒落にならないから怖い。
「な、何で無理なんだ」
「一度読んだ書物の内容は一言一句違えずに記憶し、先の李傕の襲撃で破損した書物も全て、自らの手で復元してしまうほどの御方です。竹簡が一つでも紛失すればすぐに気づかれます。それに、内容が全て奥方様の頭に入っている以上、燃やしたところで意味は無いです」
「うぐぎぎ……お前の言う通りだ。この件は、気にしないでくれ」
「御意」
翠幻はふわりと姿を消す。
俺があの日、目にした竹簡には、それはもう目を疑うような内容ばかりがずらずらと。
あれは小説というか、官能小説というか、なんというか、エロ漫画の中でもだいぶニッチな層に向けた内容になっていた。
クズで暴虐で、だけど一つまみの優しさがあるDV男が、一人の女性をボコボコにしながら、いや、もういい、思い出すだけで怖くなる。
そんで、DV男のモデルは明らかに俺で、主人公の女性は蔡文姫だ。
え、あれは蔡文姫の願望なの? よく分からんのだが、だいぶ拗らせてるのだけは分かった。
世界最古の長編小説が、こんな内容であっていいわけない。
源氏物語にどんな影響を与えてしまうのか、考えただけで恐ろしや。
「うん……もっと、優しくしよう」
今の俺に出来るのは、彼女にストレスを与えない事だけだ。
傷は小さい方が良い。まぁ、もう致命傷だけど。
さて、しかし今日も今日とて特に用事は無い。
蔡文姫は、蔡家でなにやら用事があるらしく朝から不在である。
朝廷に顔を出そうものなら遠回しに追い出されるし。
楊奉と徐晃は、続々と集まってくる白波賊の編成や対処に追われて忙しいとか。
「まぁ、戦略を組み立てないといけないときには、嫌でも声をかけてくるだろ」
また以前の様に腕が動かせるようになるまで、リハビリでもするか。
そう思い、長く使い続けて、すっかり傷だらけとなった木刀を握る。
そういえば、曹操はどうしてるのだろうか。
呂布と兗州を巡って争ってる最中だとかは聞いてるが。
恐らく今、曹操の軍師についているのは、荀彧、程昱、郭嘉が主なところだろう。
荀彧は荀攸の叔父だ。そう考えれば、ここの繋がりで色々と交渉は持ち込めるかもしれないな。
とはいえ、相手は曹操。こちらの思惑通りに動いてくれる相手ではないのは、百も承知。
俺らが戦っている間、曹操もまた戦ってきた。
中国史きってのあの天才は、今、何を見据えているのやら。
この剣は、アイツに今なら、届くだろうか。
もう、六年が経っていた。
「ふぅ……あー、まだ体が重い」
「殿下、お水で御座います」
「あぁ、ありがと」
長い間、怠けていたからかどうにもぎこちない。
別に痛みは全くないんだが。うーん。
あれ?
「殿下のその首の龍を、初めて見たような気がします。これが、英雄の証ですか」
「何で、ここに居るの? 董景さん?」
「殿下の側室である私が居ては、おかしいですか?」
「普通は俺が呼ばないと、入ってこれないんだけど……まぁ、いいや」
まーた董承が、衛兵に何か変な命令出してんな、これ。
一回ちゃんと怒ろう。うん。
「そう言えば殿下、先日、蔡夫人様と一晩を共になさったとか。初めての事だと、噂になっておりましたよ? まぁ、噂というか、夫人が一人で嬉しそうに言い回っていたんですが」
「えぇ……」
蔡文姫もちゃんと怒った方が良いな。
てか、なんで俺の身辺はこんなのばっかなんだ!
「殿下は私を側室になされてから、一度も私の下へ足をお運びになりませんが、何か至らぬことがありましたか?」
「べ、別にそういうのじゃなくて、何と言うか、まぁ、正室を優先したというか」
「なら、もう大丈夫ですよね? 私は、順番は守れますので」
董景は、蔡文姫とは真逆とも呼べる女性であった。
歳は変わらないのに、大人の余裕があり、色香も強い。
そして、決してこっちの重荷にならない様に立ち振る舞う。
その一歩引いた感じが、俺からすれば少し寂しく感じるのだが、多分それすらも彼女の手の内なのだろう。
「董承の野心なら、十分に理解しているが、お前までがそれに付き合う事は無いだろう。無理はしなくていい」
「あら、私が無理をしている様に見えますか?」
「見えないから余計に勘繰るんだよ」
「殿下は、鈍いのですね……私は無理を言って、殿下の側室を、父に希望したのですよ? 父上は、当初は殿下ではなく、陛下の側室に、いや、正室にねじ込もうと考えておいででした」
たしかに、考えてみればそうだ。
俺の皇太子の身分は、これから先も安泰というわけではない。
劉弁に男児が生まれれば、この地位は間違いなく揺れる。
だとすれば、董景を後宮に入れたかったはずだ。
「じゃあ、どうして俺に」
「女は、英雄を嗅ぎ分ける鼻を持ってます。特に、下賤から成りあがった身分である私は、それが敏感です。そして、殿下しかいないと、貴方の子が欲しいと、強く思いました」
そう言うと、董景は自らの肌着を脱ぎ、その背中の肌を晒した。
暗い中では気づかなかった、その肌。
痣や傷跡が複数、背中の一面に広がっていた。
「私は、元は奴隷です。兵に虐げられ、小さな頃は力仕事までやらされていました。幸い、父の武功でそれほど酷い扱いは受けませんでしたが、それでも、傷は残っています」
「だから、涼州では、明るい場所で脱ごうとはしなかったのか」
「はい。嫌いになりましたか? 醜い女だと、思いましたか?」
「いや」
「殿下なら、そう言うと思ったので、私も本心を打ち明けられました」
董景は妖しく微笑み、衣服を直す。
彼女の傷跡を前に、なぜか、綺麗だとも思った。勿論、口には出さないが。
これが、彼女の芯の強さの証なのだろうと。
「正室の地位も、愛情の深さも、全ての一番は夫人にお譲りします。しかし、殿下の子を産むことだけは、譲るつもりはありませんので」
「な、なんでそんな」
「最も幸せな事だからです。愛する人との子供というのは」
愛人と別れられない、家庭持ちの中年男性の気持ちが、今、何となくわかった気がした。
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それでは、また次回!