81話
昨晩の事を全く覚えていない。
起きたら、隣には董景が寝息を立てていたのだ。
別に酒で記憶が飛んでるわけでもないし、うん、たぶん、ヤッてはない。
たぶん。きっと。お願い。
あの董承の事だ、董景を俺の側室に入れるため、あわよくば既成事実を作ってしまおうと考えていたのだろう。
今の俺は皇太子の身分にして、軍部の象徴的存在になっている。
劉弁に子が出来て、心変わりするまでは、実質的な「漢」の中枢たる存在としての地位は揺らがない。
「ハニートラップはなぁ、俺の弱点なのかもしれんなぁ」
御車に揺られ、ふと、そんなことを考えていた。
「殿下」
楊奉の声である。
「どうした?」
「何やら、至急、殿下にお取次ぎ願いたいという者が」
「誰?」
「それが、良く分からないのです。二十くらいの若い青年で、とにかく殿下に会わせろと。取り押さえようとしましたが、これがめっぽう強く、徐晃ですらお手上げだというものですから」
「徐晃でも無理な奴とかいんの?」
「一度、お会いになってはいかがですか? 中々の武人ですし、野に放っておくのは勿体ないかと」
「行軍をいったん止めて、連れてきてくれ」
「ハッ」
連れてこられたのは、劉弁より少し歳が上くらいの、凛々しい顔をした青年だった。
くたびれた胡服に、ぼろきれのような布を羽織っているだけの格好。
伸びた髪は、後ろでまとめているらしい。
青年は俺の前に姿を現しても、跪く様子もなく、猟犬のような目で俺を睨みつけるばかり。
「お前が、劉協か。董卓を倒し、李傕を討った」
「礼儀知らずだな。親に、口の利き方を教えてもらわなかったのか? それとも田舎者は大人ですら、礼儀の一つも知らないのか?」
「なるほど、噂通り、皇族らしからぬ子供だ。本来ならお前と戦いたかったが、手負いのガキを叩いても面白くはない。一番強い奴を出せ、それで我慢してやる」
こいつは中々の狂人かも知れぬぅ。
こっちの挑発に乗るどころか、逆に挑発してきやがった。
しかも、考えてものをいうタイプじゃない。素がこれなのだ。
「名を名乗れ、用件を言え。いくら馬鹿でも、それくらいは出来るだろ?」
「強い奴を倒している、他に用はない。お前を倒した次は、呂布か曹操を倒す。名は、弱い奴に教えるつもりはない」
どうして涼州の人間ってこんなに血の気が多いの?
馬鹿なの? 俺が言うのもなんだけど。
「徐晃、お前は無理なのか?」
「……一騎打ちは、不得手です。そもそも、戦では愚の骨頂ですので、意味がありません」
「耳が痛い指摘だな」
「殿下、私が相手をします」
前に進み出たのは楊奉である。
見るからに、どうにも不機嫌らしい。
「お前が相手か、まぁ良い。長棒を寄越せ、相手してやる」
「私が勝てば、お前には地を舐め、涙を流し、殿下に詫びてもらうぞ」
「好きにしろ」
一種の娯楽なのか、賊上がりの兵士達は二人を取り囲んで、やんややんやと騒ぎ立てる。
楊奉は彼らの頭領でもあり、面目もあった。
「心配だなぁ……」
ここでもし楊奉が負けることあらば、兵士の士気に大きく関わる。
場合によっては、本当に楊奉を一兵卒にまで落とさないといけなくなるかもしれない。
「徐晃、どちらが勝つ? あの男は、相当強いのだろう?」
「……強いです。しかし、我らが頭領も、強い。強くなければ、賊の頭領など務まりません」
二人とも馬には乗らず、地に足を付け、長棒を構える。
じりじりと間合いを寄せ、同時に、地を蹴った。
空気を切り裂く音が絶え間なく響き、骨が砕ける様な勢いで、長棒がぶつかり合う。
青年の動きは、武術というよりは、野生の動きに近い。
猫の様なしなやかさで飛び跳ね、楊奉を狩らんと、鋭い牙を剥いた。
対する楊奉も、武術の様に洗練された動きではない。あれは、喧嘩である。
ただ、無駄の多い動きであろうと、動作の一つ一つが異様に素早く、あまりに力強い。
青年が楊奉の喉元を切り裂かんとする一撃ならば、楊奉のそれは、青年の頭蓋を叩き割らんとする一撃。
いつしか、あれほど騒いでいた兵士達も言葉を忘れ、食い入る様に戦いを見守っていた。
どれ程の時間が経っただろうか。
たぶん、それ程長い時間ではなかったが、何百という連撃の応酬が繰り返されていたのは確かだ。
同時に、互いの長棒が砕け散り、連撃が止む。
「そこまでだ!」
俺が止めに入らなければ、今度は二人とも、素手で取っ組み合いを始めていただろう。
「……所詮、官軍の将だと、侮っていた。非礼を詫びよう」
青年は素直に、楊奉へ頭を下げる。
そのあっさりとした態度に毒気を抜かれたのか、楊奉も明るく微笑んだ。
「武芸では、逸材だ。しかしこの長棒に刃が付いていたとしたら、君は、きっと殿下には勝てないだろう。そして呂布には、足元にも及ばない」
「天下は広い。俺はまだ、弱い」
青年は汗を拭い、衣服を整える。
「殿下、再び見えるときは、是非お手合わせを願いたい。それまでには、礼儀とやらを学んでおこう」
「その武芸の腕を逃がすには惜しい。俺と共に来い、天下の戦場に連れて行ってやる」
「いや、遠慮しておく。戦にはあまり興味はない。最強こそが、俺の心を焦がすのだ」
「名を聞かせろ」
「馬超。父上に、よろしく伝えてくれ」
指笛を鳴らすと、颯爽と栗毛の馬が駆け付け、馬超は瞬く間にそれに飛び乗る。
そしてすぐに、見えなくなった。
「長安へ戻るか」
少し急げば、今日中には何とか戻れそうだった。