80話
五千の涼州兵が、陣形も無く、横に広がって押し寄せてくる。
流石に、馬の扱いは優れており、歩兵も騎馬に遅れず、連携を保っていた。
兵の一人一人は、精鋭だ。
しかし、それだけである。戦は、個の戦いではない。
徐晃は左手を上げる。
白波の賊兵らは瞬時に隊形を変化。
中央に歩兵が固まり、両翼に少数の騎馬が控える。
まずは、左翼が飛び出した。
敵の右翼に浅く切り込んでは離脱、その後すぐに、もう片翼が飛び出しては、敵の左翼に肉薄する。
まるでコバエの様に、鬱陶しく飛び回る部隊であった。
ただ、所詮はコバエである。このまま放っておいても問題は無い。
しかし敵将は、その両翼に増援を送った。
「突撃」
大斧が天に掲げられる。
歩兵は一斉に突撃を開始し、両翼に意識を向けきった中央を、一瞬にして食い破る。
中でも徐晃の働きは凄まじく、ひとたび斧を振るえば、辺りの敵兵は皆、草木の如く両断された。
血の嵐が、中央で巻き上がる様な鮮烈さである。
中央の兵力を割いても、敵主力より兵力は倍以上ある。
その慢心を、徐晃は見逃さなかった。
確かに兵力では問題ない。しかし、本当の目的は兵を割かせることでは無く、意識を両翼へ向けさせること。
不意の一撃は、何よりも重い一撃になる。そこで、勝機を掴む。
涼州兵は死体を荒野に晒して、散り散りとなった。
被害はそれほど大きくないが、今回の目的は撃退する事にある。
逃げる兵を追う事も無く、徐晃は静かに、退却を命じた。
☆
「しかし、良かったのですかな?」
「どういうことだ?」
「いや、私が本来口を出すべきではないのですが、ちと、過激なようにも思えたので」
華佗は、俺の骨や筋肉の具合を触診しながら、ふと、口を開いた。
こういった会話も、治療の一つである。それに、華佗であったら信頼できた。
俺も自然と、それに答える。
「あの六人の族長達を、その場で処刑したことか」
「長安へ連行し、処遇を預けてもよろしかったのではと。これでは、殿下一人に恨みが集中しましょう」
「統治に肝要なのは『恐怖』だ。涼州の者達は皆、朝廷を舐めきっていた。だからこそこの場で処刑を即断し、その意識を変えなければならなかった。怨恨なんか、気にしてられるか」
「彼らが死んでも、その子が、親が、復讐の機会を狙いましょう。それが恐ろしいのです」
「だから、裏では密かに張済へ指示を出してる。あの族長らの支配域を制圧し、その一族を捕らえろと。その者達までは殺さんが、長安で処遇を決めてもらう」
「その抜かりの無さは、まるで……いや、失言でしたな」
華佗は俺の体に触れていた手を放して、なにやらさらさらと竹簡にしたためている。
「とりあえずこれで、長安へ帰還、という事で良いのですかな?」
「あぁ。豪族らのまとめ役は、あの剛直な族長に命じた。あれは裏表のない人間だ。統治に矛盾がなければ、歯向かいはしない。陛下が認めた、鍾繇の腕の見せ所だな」
あの族長は、名を「閻行」と言った。
韓遂軍の実質的なナンバー2であり、勇猛果敢な猛将だ。
郿城の戦いの際は、どうやら留守を任せられていたらしく、韓遂と行動を共にしていなかったとか。
史実ではなんと、あの「馬超」を一騎打ちの末、馬から叩き落し、首を刎ねる一歩手前まで迫る働きを見せている。
性格は裏表がなく、嘘を吐くのが苦手な、実直な男であった。
別に、韓遂に忠義を尽くしていたというよりは、一族の為、故郷の為に戦う男であり、だからこそ俺も安心して豪族らのまとめ役を任せられた。
「ふむ、殿下の体の事ですが」
「うん?」
「戦に身を置いている殿下は、異常なほどに『気』に満ちておられます。確かに日ごろよりも怪我の治りが早いですが、これは、麻薬と同じです。いつか、戦がなければ、生きていけない体になりましょう。ご自重くださいませ」
「怖いこと言うな」
「麻薬は薬にもなりますが、往々にして毒です」
竹簡にしたため終えると、薬箱から漢方の粉末を数種取り出し、文机に置く。
いつものやつかな?
「就寝前に、白湯と共にお飲みください。気を落ち着かせる薬です」
「うーい」
「それと、筋肉が張っております。ほぐしておいた方が良いかと。特に右肩。骨折の痛みを、筋肉が誤魔化そうとしている為、変な癖がついております。こちらで侍女を呼んでおきましょう」
そう言って、華佗はさっさと幕舎を後にした。
確かに、気温も夜になると一気に冷え込む。体が強張っている様な気もする。
ぐらぐらと、沸いた水を器に移して、湯気を眺める。
漢方は苦手だが、白湯の良さが分かってきた今日この頃。おじいちゃんかな?
「殿下。華佗様より、奉仕を仰せつかりました。よろしくお願いします」
現れたのは、昨晩の女だった。
今はまだ、幕舎は火の明かりがあり、その姿が良く見える。
少しふくよかな体をした、妖艶な女性だった。
「失礼します」
その女性は横になっている俺の側に近づき、まずは背をほぐし始めた。
「そういえば、名を、聞いてなかった」
「董景と申します。父は、董承に御座います」
「あぁ、だからか。なんだか見たことあると思ったんだ」
「あの父に似ていると言われるのは、少し、複雑ではありますね。ふふっ」
指は背から肩に上がっていく。
正直に言って、これはお店のレベルだぞ。
気を抜けば一瞬で、眠ってしまいそうな心地良さがある。
「殿下には、感謝しております。奴隷の身分に過ぎなかった一族が、今や朝廷の重臣の地位にまで上り、神の如く、奉っております」
「そうか? あの董承が、そんなことするとはなぁ、とても想像できん」
「父を、良く分かっておいでですね。殿下の仰る通り、父はあのままです。殿下を奉っているというのは、私の、個人的な話ですよ?」
ふと振り向けば、董景の顔は赤く染まっていた。
明かりがあるから、今は、良く見える。
思わずその腕を掴み、引き寄せていた。
その体は寝台に倒れ込み、豊かな胸が、俺に乗る。
「で、殿下? まだ、その、終わってないですよ?」
「俺の子が欲しいと、昨日、言ってたな」
「はい……せめて、明かりを、消してくださいませんか?」
「…………」
「あれ、殿下?」
「……ぐぅ」
「うっそ、こ、この気持ちのやり場を、どうすれば、ぐぬぬぬ」
見てみれば、漢方も、白湯も飲み干した後である。
劉協は、掴んだ腕を、離そうとはしてくれない。
「チッ、あのジジィめ、余計な真似を……」
董景は、寝台の明かりを吹き消した。