73話
自分の体が、冷えて、動かなくなっていくのを感じる。
なぜ、どうして。
私に、意志を、託してくださったのでは、なかったのですか?
董卓様。
……そうか、そうだったのか。
あぁ、本当に、あの御方は、この小僧に、負けたのだ。
もう、声は、聞こえない。
李傕はゆっくりと、瞼を閉じた。
☆
「武器を下ろせ! 今なら、命だけは助けるぞ」
蔡邕を抱えていた数人の兵士は、駆け付けた楊奉の指揮する衛兵に囲まれていた。
皆、顔を見合わせ、蔡邕の縄を解き、その場にひれ伏した。
「お許しください。我らはただ、李傕将軍の命に従ったまでで、決して自ら背くつもりはなかったのです!」
「ふん、涼州兵は忠誠が薄いと聞くが、その通りだな。こやつらを捕らえよ、獄にぶち込んでおけ」
兵は取り押さえられ、連行される。
楊奉は急ぎ、蔡邕の下へ駆け寄った。
「蔡邕様、ご無事ですか!?」
「あぁ、殿下に、救われたよ」
憔悴している蔡邕が見つめる先、血にまみれ、李傕に突き刺した剣を抜いている劉協の姿が、そこにはあった。
「殿下ッ、蔡夫人!!」
「ははっ、遅かったな、楊奉。敵将は俺が討ったぞ」
「申し訳御座いません。殿下の警護を任じられておりながら、この始末。処罰を賜りたく思っております」
「え……いやぁ、俺が勝手に飛び出したんだし、罰と言われても。別にそのままでいいよ」
「いいえ、駄目です」
「え、あれ、蔡文姫? どしたの? 怖いなぁ、その笑顔」
「私と父上の命など、殿下の御身に比べれば些細なもの。それに殿下のご気性を分かりながら、危地に赴かせたその責任は極めて重いものです。罰は受けて然るべきでしょう」
「えぇ……」
「殿下も、反省してください? 貴方の代わりに、楊奉将軍が罰を受けるのですよ? 自分の立場を理解していますか?」
「ぐぬぬ」
先ほどまでの戦に飢えた表情が、蔡文姫の前でたちどころにしぼんでいく。
今現在、劉協を面と向かって制御できるのは、この夫人、ただ一人ではないだろうか。
思わず、楊奉も背筋が冷える思いをした。
「じ、じゃあ、えっと……将軍格から、一つ格下げして、校尉に……」
「正しく、処罰も出来ないのですか? それで軍を率いれるのですか?」
「ひぃ……その、笑顔を止めてくれ」
「お父様。正しき裁量は、どうなりましょうか?」
「え、あ、うーむ……一兵卒にまで落とし、棒叩きを五十。それと、殿下の馬の世話じゃな」
「うーん、じゃあ八十で」
「「「え」」」
「棒叩きは八十にしましょう。どうですか? 殿下」
「ご、ごめん、楊奉」
「い、いえ、謹んでお受けします。殿下にもしもの事があれば、死罪も同然なので、むしろ、温情をかけて下さり感謝いたします」
今後、一生、この少女には逆らうまい。
楊奉は天に誓った。
☆
「あぁ……郭汜よ」
徐栄は、寂しく、そう呟く。
後方からは火の手が上がり、徐栄の軍は前後左右を、郭汜と韓遂の軍に囲まれていた。
馬に乗り、郭汜が前に出てくる。
「徐栄よ! すぐに武器を捨てよ! 降伏するなら、将の地位を確約するぞ!」
「これは、何かの間違いであろう」
「間違いだと? 俺は董卓様に命を捧げた! 今こそ、その敵を討つのだ。もう既に李傕が長安を掌握している頃であろう。共に、再び董卓様の秩序を取り戻そうではないか、将軍」
「私がそのように主君を軽く替えるような、浅ましい軍人だと思うか」
「これは裏切りではない。董卓様への忠義を貫く機会だ。さぁ、どうする。二度は言わんぞ」
「違う……私は、董卓様から、主君を変えたのだ。せめて、涼州の兵達を救わんと、お前の様な不器用な武骨者を、生かさんと。裏切り者として生きる道を、選んだのだ」
「何が言いたい」
「もう、戻れんよ。ここで主君を変えれば、もう、私は人間ですらなくなる。それこそ、董卓様の死を踏みにじってしまう」
「死を選ぶというのか。惜しいかな、その将器」
「もう、董卓様は死んだ。幻影を追うのは止めよ。時代は、変わったのだ」
「黙って聞けば貴様ッ……二度と、口を開けなくしてやる! まだ、董卓様は死んでおらん!!」
郭汜が兵に突撃を命じようとした瞬間、徐栄が左腕を上げた。
銅鑼が鳴り、喚声に囲まれ、地が揺れる。
「こ、これは……韓遂との約定では、更なる伏兵は聞いておらんぞ!?」
「全て分かっていた。お前と李傕が何を企んでいるのかも、韓遂の謀略も、全て。お前は今まで、あの軍師の何を見てきた」
靡く「徐」の旗が掲げられ、郭汜の軍を包囲する。
形勢の不利を見た韓遂の兵馬は、即座に逃げ出してしまう。
「賈詡、か。そうか、あいつが……ならば、もう逃げ場はないのだろう」
「お前が裏切ると聞いた時、私は信じたくなかった。お前の軍人としての愚直さが、昔から私は羨ましかった。最後までお前を生かそうと、賈詡殿に掛け合った」
「俺は、将軍の思いを全て、裏切ってしまったという事か」
「降伏せよ」
「聞けぬ話だ」
「であろうな。お前は、そういう人間だ」
「俺は最後まで、董卓様を追い続けるぞ。己が力一つで、この天下を塗りつぶされようとされた、あの英雄だけが我が主だ」
「かかってこい。この手で、葬ってやる。それが私の、果たすべき責任だ」
「俺に勝てると? 笑止。叩き伏せてやる」
雄たけびを上げ、槍を掲げ、郭汜は一騎で飛び出る。
徐栄もそれに応えるように前に進み、槍を強く握りしめた。